レッスン33-世界について別の見方がある

2016-07-02

7月に入ってとても蒸し暑い。夏の暑さというものを思い出した。

6月29日、30日と、レッスン33をやりました。

でもブログ更新できなかった。

このブログというのは、私にとって「だれも目にふれないだろう秘密の洞穴」みたくなっている。内気で人見知りの私にはちょうどよいのかもしれない。

だったら、ブログでなくとも自分のノートにでも書けばいいんだけど、それでは面倒になって「書いてまとめる」ということ自体ができない。その気になればだれでも行くことができるけどだれも知らない「秘密の洞穴」があってそこに訪れる…という感覚。それは奇妙かつ、悪くない感じ。ちょっと病んでいるか…

「世界について別の見方がある」

おとといこのお題で瞑想ワークをしていて思ったのは、

「私は、フリーランスの仕事が減って生活に困っている、と思っていたけど、『別の見方』をすれば、「質素なシンプルライフをすることで、からだの贅肉や脂肪を落とすみたく『贅』を削いでいるのかな?」ということ。どうしても必要なものを意識することで、自分の生活の「芯」をしっかり作っているのかな?と。

前に知人宅で羊毛を針でチクチクして羊毛ボールというのを作るワークショップに参加した際、作り方を教えてくれた知人が「最初のボールの芯になるところをしっかり作るんだよ」と教えてくれた。それを思い出したのだ。

こうした考えはACIMの教えに沿ったものかどうかはわからない。そもそも「欠乏」がない世界にいるはずなのに「貧しさ」を映しているのは、私のエゴなんだと思う。だから貧しさもそれについて嘆いたり論評したりしてそれをリアルにするんじゃなくて、本来であれば、ただ手放せばいいんだろう。

だけど、この「贅を削ぐ」という感じや、きわめてシンプルに生きるという感じは、きらいじゃない。

「贅を削ぐ」ことがなんだか豊かにも感じられる。神社で感じるような清涼感というか…。削いだからこそある美しさ、というか。

御託を並べたけど、今日、土曜日は、たまにある「セミナー」の仕事の日だった。それがなんとか「無事」終えられてほっとしている。何日も前からキンチョーして胸が締め付けられるような感じだったから、帰宅後、発泡酒を飲みつつお笑いの録画で気を緩めていた。孤独ではあるけど、そこはかとなく幸せを感じた。

人前で話すのはとてもキンチョーしいの私には負荷がかかることなんだけど、これもきらいじゃないところがあるんだな。

いつか、いつかのいつか、ACIMについてのワークショップとかセミナーもできる日が来たらいいな、と思う。ACIMの世界をちゃんと説明できるかわからないけど、そういうことができたら、いいな。