レッスン119-レッスン107、108の復習

2017-06-22

法事で故郷へ

先週末父の三回忌で帰省。お寺で美しいお経を聴きながら厳かに法事が行われた。行く前は親戚と顔を合わせるのを億劫に感じていたけれど、法事は個人を偲ぶというより今生きる人をつなぐために、大事な儀式なのかもしれないと思った。

故郷の家では東京とは別の習慣とリズムが刻まれていて、自分が育った地ながら不思議な気分になる。父が病気になってから、意識が故郷にひっぱられ、東京にすっきり着地しにくくなったけれど、父が亡くなり田舎に母ひとりになってからは、その傾向はますます強くなっている。

東京とひとり暮らしの自由さに慣れた私は、気持ちを故郷と母に向けながらも、母が元気なことをいいことに、まだ「では故郷で住もうか」という気にはなれないでいる。

法事の翌日、母と黒部宇奈月のトロッコ電車に乗った。新緑の季節…宇奈月湖(ダム)のエメラルドグリーンが鮮やかで湖面橋の赤がよく映えていた。

よく歌の歌詞なんかで「小さくなった母の背中」といったフレーズがあるけれど、あれは本当だ。私の母はかつてより伸長が10㎝も小さくなって、私と同じくらいになった(元が高かった)。

母が小さくなる分、愛おしさが増す。

ACIMのワークブックを携帯していったけど、まったく開かず、ワークもできなかった。パートタイム学習者にしても、進み具合はスローモー…

レッスン119-レッスン107、108の復習

l107)真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する

 自分が何らかの形で傷つくことがありえると考えるとき、私は間違っている。私は神の子であり、私の自己は神の心の中で安全に休らっている。

l108)与えることと受け取ることは、真理においてはひとつである。

 私は今日、すべてを赦すつもりだ。それにより、自分の中の真理を受け入れる方法を学び、自分の無罪性を認識できるようになりたい。

ワークをして

最近考えているのは、おカネと豊かさの概念を変えること。

私たちは、コストと収入の世界にいると思っているけれど、それは一つのレイヤー(層)で、その下層というか根本には神なる豊かさがあるだけだとしたら、その豊かさを頼ることですべてはまかなわれるのかな、と思う。

収入もコストも、給料も、節約も、物価上昇も、損失もない。ただこの幻想の世界でのできごとだ。本当は神とその豊かさの中にいるのだとすれば、幻想をやる過ごすことさえ完全にできればおのずと豊かさは与えられるのかな、と。

もちろん、そうは言ってもトイレットペーパーやジャムをスーパーの5%割引き日に買うことにしている私。お風呂の残り湯を洗濯に使う私。レジでポイントカードを出す私。そんな簡単には意識を変えられないけれど。

本当に神だけに頼ることができて、自分がこの世の幻想性に惑わされず、エゴの心をやり過ごすことができれば、ただ自分の世界に現れるものやこと、人に、赦しと感謝と愛で対応できたら、とても幸せなのじゃないかと思う。

一方で、ACIMが提唱することが私にはやっぱり無理だぁ~、様々なエゴの執着を捨てられるはずない、と思い、そのことに恐怖を抱いたりもする。

とくに母のことを思う時、ずっと元気でいてほしいと思う。母が老いていくのは嫌だ。これは母のことを愛している、というより、大人になりきれず大人になった自分の甘えと執着だ。母もまたこの世の幻想だと観念的には思うけれど、その幻想にしがみついていたい自分がいる。

アファメーション

中休みしてもいい、ACIMから完全に手を離してしまわないように。また戻ろう。