奇跡講座ダイアリー

レッスン10-私の考えには何の意味もない

2016-06-01

今日の主題概念は、レッスン4の「これらの考えには何の意味もない。それらは、この部屋に見えているものと同様である」をさらに進めたものである。

ワークは、今日の主題概念をゆっくり繰り返すところから始める。次に、

「この概念が、私が今信じているすべてのことから、私を解放してくれる」と付け加える。

そして、約1分間、心の中に浮かんでくる考えを見つけ、それにこの主題概念を当てはめる。それを1日5回。

朝いちばんのワークでは、昨日やりとりした友人の家族の病気がなんとなく気になっていたらしく、内観時にそのことが浮かんできた。

また週末にあるセミナー講師の仕事が緊張しいの私にはどうも気がかりで、それも心に浮かんだ。

そしてこれらを主題概念にあてはめた。

―Aさんの家族の病気についての私の考えには何の意味もない。

―土曜日のセミナーについての私の考えには何の意味もない。

自分が考えていることはふつう「意味がある」「考える価値と必要があることを考えている」と思っているから、このワークにはちょっとした抵抗感を感じる。

ワークブックには、

「あなたが自覚している考えは無意味」⇒「こうした『考え』の存在は、あなたが真に思考していないことを意味する」と書かれている。「そして、これは以前に述べた、あなたの心は本当は空白であるということを、別の言い方で繰り返しているにすぎない」とも。

う~む。考えている(と思っている)⇒しかし真には思考していない⇒心は空白。

考え=自分、と思っているようなところがあるから、それを意味がない、とするのは、かなりむずかしい。

とりあえずは今日のワークも終了。

でもだんだん難易度が上がってくることを知っているから、ワーク、いつまで順調にいくかな。

また、ブログには、今はなんとなくワークの要約めいたことを書いているけど、しばらくすれば、ボリュームと深さがありすぎて、要約しきれなくなるだろう。中途半端な要約に意味があるかどうかもわからないけど。

まあ、とりあえず今は、ブログを書くこととワークをすること対になっていて、私にとっては促進力になっているから、しばらく続けてみようと思っている。

 

レッスン9-私は、何も今あるがままに見ていない

2016-05-31

レッスン9

今日の主題概念は、前の2つから導き出される結果である。

私は過去だけを見ている。(レッスン7)

私の心は過去の考えにとらわれている。(レッスン8)

⇒だから、私は、何も今あるがままに見ていない。(レッスン9)

この主題概念については、現時点では理解は求められていない。ただ、練習することが求められている。

私は、この本を、今あるままに見ていない。

私は、この扇風機を、今あるままに見ていない。

私は、このカレンダーを、今あるままに見ていない。

目についたもの全部を対象としようとはしない一方で、特定の何かを除くことも避けることという注意がある。

iphonのストップウォッチで2分に設定して、4回やった。

主演 兼 監督・脚本家

最近は何か心をかき乱すものがあると、「これは現実ではない。私の一部が見せている幻影にすぎない。これは私自身が見せているのだ」と心の中で唱える。

いらいらしたり不安になったりした際に唱えると、そのゲンジツに巻き込まれずにすむ。

私は大丈夫なのだ。なぜならこれは私が作っているのだから。真の世界には私を脅かすものはありえない。私が不安に思ったりいらだっているのは、私が幻影を見ているからだ。そう言い聞かせる。

私がひとりでいる時には、これはたいがいうまくいく。困った時でも、対象を客観視できるくらい心理的距離感がある時はOKだ。

だけど、病気の家族を憂う友だちから何度もメールを受けて、「私だったら、こうするけど…」と返信してしまった。アドバイスをすることは悪くはないだろうけど、繰り返しの泣き言に「私にどうしろと言うの?」とつい反応してしまったのだ。友人はおそらくただグチを聴いて心を慰めてもらいたかったのだろう。翌日気になり「ごめんね、余計なこと言っちゃったかも」とメールを入れた。

自分だけのことならば、これは現実ではない、と思い出すことは比較的しやすくなってきた。けど、人と関わるとすぐ巻き込まれてしまう。

もちろん友人がとっても悩んでいる時に、「それは現実じゃないんだよ」なんて言ったら、「こいつは何を言っているんだ?」となるだろう。もちろん共感することは大事だけど、それと、私自身が感情的にリアルでないものに反応して、それをリアルすることは別だ。それはエゴのものの見方だ。

厳密にいえば、この世界に、見えるままの「私」もいないし、「友人」もいない。友人もその悩みもまた私の中の「映画」の一部だ。

私は、この映画の主演俳優であり、かつ本映画の監督・脚本家でもある。映画の中の主人公はそれが映画と知らされた。でも物語は進みささやかながらもいろんな出来事に遭遇する。

起こってくることに主人公として対処しながら、ときに、これは映画、映画…、リアルじゃない、私が監督・脚本を描いた結果を中に入り込んで体験しているのだ、と思いだす毎日だ。すべてはゆるすために。

こういう生活している人、他にもいるかな~

独学だから、学び方、まちがったりしているのかな。

 

 

 

レッスン8ー私の心は過去の考えにとらわれている

2016-05-30

今日は昨日より気温が10℃位低くて、肌寒さを感じた日だった。ずっと雨が降っていて、起きた瞬間から疲れていた。そう、私は疲れやすいのだ。更年期ってやつの影響かな。

レッスン8をやった。

この主題概念は、前回の主題概念「私は過去だけを見ている」の続きであり、これまでレッスン1からの概念の続きでもある。

人は自分の想念が外に投影されたものを見ているだけで、その想念は過去の考えにとらわれている。過去はここには存在しない、つまり過去について考えること自体が幻想について考えること=何も真に思考していないのだ、という。

つまり私たちが「考えている」と思っているときでも、真には考えていない。このことを認識するための訓練の第一歩が、このワークだ。

心の中を約1分位目をつぶって探索してから、浮かんできた考えに名前をつけて、

「私は、今週末のセミナーの仕事について考えているようだ。私は法事のための帰省について考えているようだ…」と唱えた後で、

「しかし、私の心は過去の考えにとらわれている」と締めくくった。

数分のワークを4回行った。

なんとなくワークの概要を書いているけど、中盤にさしかかるとワークの内容が濃くボリュームも大きくなるから、この概要を書くということがどれだけ続けられるか、わからない。

とりあえず、形式にこだわらず、ワークとブログを続けることを目標にしようと思う。

レッスン7-私は過去だけを見ている

2016-05-29

5月最後の日曜日。今日も何とかワークを終了。

今日のお題は、「私は過去だけを見ている。」

たとえば、コップひとつを見ている時でも、私たちはコップにまつわる過去の体験や過去学んだ観念を反芻しているにすぎない、という。すべての目にするものは、過去からのつながりで存在し、知らず知らずのうちに過去のフィルターをかけて見ている。

今日のワークでは、目にしたものすべてにランダムに、

このパソコンの中に、私は過去だけを見ている。

この服の中に、私は過去だけを見ている。

この体の中に、私は過去だけを見ている。

と今日のお題を適用する。まだ数分のワークを1日3回なので、ついていけている。

今日の午後は、友人と風月堂の甘味処で落ち合った。

奥まった直線が喫茶室は、美しい和モダンな空間。薄暗く間接照明を活かした作りは洞窟のようで外に面した大きな窓には水が循環して滝のように落ちていた。ほっこり落ち着けるいいところだった。

メニューをう~む、と見て、煎茶とか抹茶にしようかな、と思っていたけど、最後に写真入りのあんみつの誘惑に負けた。

余計なものが入ってない自然なあんこの甘みと黒蜜が絡んだ寒天。おいしかった。

甘いものって理屈抜きにしあわせ気分になれるなぁ。

このあんみつの中に、私は過去だけを見ている。

食べてるときは、そんなこともすっかり忘れてた。

ゲンキンなものだ。しばしこの幻想を楽しもう。

 

レッスン6ー私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである

2016-05-28

「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」

これまでのワーク同様、まず心の中に怒りや恐れ、心配ごと、憂鬱といったかたちで表れる「動揺」とその「原因」と思うものを探索する。

その後、それに主題概念を、

私が      について腹を立てているのは、存在しない何かを見ているからである。

私が      について心配しているのは、存在しない何かを見ているからである。

といったようにあてはめる。

これを1回数回、1日3~4回やる。

今日は、このワークに3回意識を向けるのが、やっとだった。

最初の十数個のワークは、時間もかからず生活への「負荷」も小さい。進むにつれ、次第にワークの内容が深くなりボリュームも大きくなり、ACIMを生活の中心に据えなければならなくなっていく。

今回はもう、やっとこさ、ワークをやっているという感じだ。この先、大丈夫か。

3年前のレッスン6のワークでは

ふと思いついて、2013年6月の初回ワークのレッスン6のメモを見てみた。

「私がおカネを稼げないことを不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」('_')…なんか、今と変わんない。逆に言えば、同じような状態で生き延びていることが奇跡的にも思えてくる。

「私が高齢になった故郷の両親のことについて心配しているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについては、父は昨年亡くなり、状況は3年前とは大きく変わった。父との別れは私が存在しない何かを見ているからにせよ、私には大きな動揺であり出来事だった。それは今も続いている。

「私が今の生活が前進なのかそれとも退化なのか不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについても、今と変わらないというか…「前進」と「退化」が対義語になっていない気がするけど、この感覚そのものは、わかるような気がする。こつこつとACIMのワークをやっていても、それがゲンジツの誰かに役に立つことではないし、おカネにつながることでもないし、人には理解されないだろうし、私は、もしかしたら、現実逃避の言いわけにワークを使っているだけなのではないのか、という気持ちになることがある。

3年前の自分に比べたら、感情的に穏やかになったように思うけど、目に見えて変わったとも思わない。だけど、やっぱり進化している、自分にとっては前進だ、と思っているからこそ、また改めてやろうとしているんだろうな~

他の道はないし、無視して生きることはできないし。

これからもたびたび3年前の私のメモを見返して、変わったところ、変わらないところを見つけたい気がしている。3年ひと昔だな~

 

レッスン6

2016-05-28

「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」

またこれまでのように、心の中に、怒りや恐れ、心配ごと、憂鬱感などとして感じられる「動揺」とその「原因」を探索する。

それから、それらについて今日の主題概念を、

私が、      について腹を立てているのは、存在しない何かを見ているからである。

私が、      について心配しているのは、存在しない何かを見ているからである。

といったふうに、当てはめる。

今日は、このワークに3回意識を向けるのが、やっとだった。

最初の十数個のワークは、時間もかからず生活への「負荷」も小さい。進むにつれ、次第にワークの内容が深くなりボリュームも大きくなり、ACIMを生活の中心に据えなければならなくなっていく。

今回はもう、やっとこさ、ワークをやっているという感じだ。この先、大丈夫か。

3年前のレッスン6では

ふと思いついて、2013年6月の初回ワークのレッスン6のメモを見てみた。

「私がおカネを稼げないことを不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」('_')…なんか、今と変わんない。逆に言えば、同じような状態で生き延びていることが奇跡的にも思えてくる。

「私が高齢になった故郷の両親のことについて心配しているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについては、父は昨年亡くなり、状況は3年前とは大きく変わった。父との別れは私が存在しない何かを見ているからにせよ、私には大きな動揺であり出来事だった。それは今も続いている。

「私が今の生活が前進なのかそれとも退化なのか不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについても、今と変わらないというか…「前進」と「退化」が対義語になっていない気がするけど、この感覚そのものは、わかるような気がする。こつこつとACIMのワークをやっていても、それがゲンジツの誰かに役に立つことではないし、おカネにつながることでもないし、人には理解されないだろうし、私は、もしかしたら、現実逃避の言いわけにワークを使っているだけなのではないのか、という気持ちになることがある。

3年前の自分に比べたら、感情的に穏やかになったように思うけど、目に見えて変わったとも思わない。だけど、やっぱり進化している、自分にとっては前進だ、と思っているからこそ、また改めてやろうとしているんだろうな~

他の道はないし、無視して生きることはできないし。

これからもたびたび3年前の私のメモを見返して、変わったところ、変わらないところを見つけたい気がしている。3年ひと昔だな~

オバマ大統領広島訪問

2016-05-27

オバマ大統領広島訪問のニュース

オバマ大統領が、今日、現職の大統領として初めて広島を訪問、原爆慰霊碑に献花しスピーチをした。高齢の被爆者の方と言葉を交わし、抱き合う様子が映し出され、胸が熱くなった。

オバマ大統領の訪問を喜び感謝しておられた被爆者の方々。1945年8月6日朝の原爆投下の日から71年。その人生はどんなものだっただろう。自分の人生を狂わせた国のリーダーを、憎しみも恨みも昇華して迎えるまでには、想像を絶する思いがあったにちがいない。

ACIMは、この世でのゲンジツすべてが幻でエゴが見せる投影にすぎないという。この世は映画のようなもので、私たちはそもそも実際には存在しない映画の世界のなかに完全に入り込んでいるのだ、エゴが見せる影をリアルだと勘違いして真実が見えなくなっているから、恐怖や怒り、憎しみを感じているが、完全に目を覚ませばそうした感情を感じえないという(私なりに理解したなかでの見解)。

私はACIMの考えを信じているし、そのものの見方を訓練して少しでも身につけたいと思っている。

一方で、映画の中に入り込んでいるわけだから、そのストーリーに大きく動揺し一喜一憂してしまう自分もいる。

ACIMを観念として学ぶのは、受け入れられるかどうかは別として、そう難しいことではない。だけど、自分や家族が何かに巻き添えになって命を落としたり死に瀕した時に、これは幻影なのだから…と赦せるかと言われれば、非常にむずかしい。もっともっと些細なことでさえ、ACIMの基本的な考え方を忘れ、腹を立ててしまう。

今日見た被爆者の方々の姿は、原爆投下側の国のリーダーに対して感情をぶつけるでもなく穏やかで凛として、立派だったな。

私などが言える立場ではないけど、すごく大きく偉大に見えた。

レッスン5

今日はレッスン5をした。

今日の主題概念は

「私は自分が考えているような理由で、動揺しているのではない」

この主題概念を、心の中の恐れ、心配、憂鬱感、不安、怒り、憎しみ、嫉妬といった感情とその源だと思っている事柄に適用する。

―私は、私が考えているような理由で、71年前の原爆投下について悲しみ、動揺しているわけではない―

私は未熟で、まだこの世の出来事の一つひとつに反応してしまうし、「こんな大変な人」「こんなひどいこと」「こんな恐ろしいこと」…について、ACIMの視点でどう言っていいのかわからなくなることも多い。

怒りはいかなる場合でも正当化されない。

これもACIMに教えてもらった大切な考えだ。

今はただ自分に起こることだけを対象として、教えに沿って1つずつ赦すべきことをなるたけ赦していこう、と思う。

今週パニくりながら、やってた仕事は、夕方なんとか納品できた。

メールでの納品だから、先方の確認メールをいただかないと完了とはいえないけど、とりあえずほっとしている。

レッスン4

2016-05-26

「これらの考えには何の意味もない。それはこの部屋に見えているものと同様である」

約1分間心の中をよぎる考えを注視して、上記の主題概念をそれらの考えにあてはめる。その際、その考えの「よい」「わるい」は区別しない、というワーク。

これは、「無意味なものを自分の外側に見て、意味あるものを自分の内側に見ることを学ぶという長期目標における最初の試み」だと記されている。

私は、明日締め切りの仕事がちゃんと納期を守ってしっかり仕上げられるか不安でならない。今週ずっとやっているけど、なかなかまとまらないのだ。

…で、ワークで心の中をよぎる考えを覗いてみたら、

「仕事間に合うか、時間ない…!」「ちゃんとやりたい、わかりやすく、なるたけシンプルで美しく」「明日中に送らなきゃ」が、渦巻いていた。

「仕事のレジュメづくりについてのこれらの考えには何の意味もない、それは私がこの部屋の中に見ているものと同様である」

とワークをした後、やっぱり今の私には意味ある、というか、今は何とかこれをクリアしなくては…と仕事に戻っていった。

今日3回このワークをしたけど、やっぱり今は、仮初めのゲンジツであっても、仕事をクリアすることが大事。

何とか今日中に目処をつけたい。

「しごと」と「仕事」

2016-05-25

私の中には、「仕事」と「しごと」という2つの概念?がある。

「仕事」は文字通り、通常の意味での、大人になって社会で働いておカネをいただく仕事。

もう一つの「しごと」はおカネをいただくかどうかにかかわらず、自分が人生の中で為したいと思うしごと。

この二つは、できれば重なり部分があって、さらにそれが大きければ、素晴らしいと思う。

私は後者のひらがなの「しごと」に対する欲求というか、渇望のようなものがあって、でもそれが何か、よくわからなかった。でも漠然とこころのどこかで探し求めていたようなところがある。夢というのとも少しちがう。しごとは、ある種の使命のような感覚なのかもしれない。もちろん、自分の中だけのことなんだけど。

もしかしたら、そういうことを考え求める人は、少数派なのかな?いい歳をしてそんなこと言っていると、現実社会ではうまく生きていけそうにない(現にうまく生きてない)。

ただ、私も生活しなけばならないから、「仕事」はしてきたし、「仕事」をしながら、「しごと」を探していたような気がする。産業カウンセラーの資格を取ってみたり、カラーセラピーの勉強をしてみたり、手相占いの学校に行ったり…。いつもずっと生涯しごととして続けられるもの、自分が「これだ」と思えるものを手探りで求めてきたけど、しばらく経つと「やっぱりちがうかな」と思い止めてしまってた。

2012年に『神の使者』に出会い、『奇跡講座』に出会ってからは、これが私のしごとなのではないかと思っている。まずは、ワークを「しごと」としてやった。これをやり始めてから自然のなりゆきで「仕事」のほうは減った。時間とエネルギーが『奇跡講座』のほうに向いていたから、それはそれでよし、とした。

その代わり、気づけば 生活が成り立たなくなってきた。

この「問題」をどうするかな?

いずれ、「しごと」と「仕事」は重なりができるかな?

不安はある。本音をいえば、不安というより恐怖だ。

この先、どうやって生きていこう!?

だけど、それは私のこころの幻だとも思っている。

今日は、レッスン3をやった。

とりあえず、進んでいる。よかった。

今日は涼しかった。晩に窓から入る微風もひんやり心地よい。

レッスン2

2016-05-24

昨日スタートしたワークブック2日目。今、目にしているゲンジツの見方の「解体」の続き。

昨日のテーマは、

「このテーブルには何の意味もない」「この手には何の意味もない」「このパソコンには何の意味もない」…

だったが、今日はそれを進め、

「このテーブルに、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」「この本に、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」「この足に、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」と目にしたものすべてにランダムに適用する。

これも、あっという間に終わった。

ワークはだんだん心理的に時間的に負荷がかかるものになっていく。

せっかく始めたのだから、最後までやりたい。あまり頑張りすぎず、だけど、止めてしまうことなく、ぼちぼちいこう。

ワーク2巡目を開始

2016-05-23

レッスン1

なんとかブログを定着させたいと思っているけど、まだまだ…。とにかく今日も書こう。

ACIMのワークブック2巡目を開始した。レッスン1だ。

ACIMの「ワークブック」は1日1課、全部で365のレッスンから構成されている。

「1日に1レッスン以上進もうとしないように」という決まりがあるが、これは初めてワークを行う場合に限られると思う。ワークブックの中で複数のレッスンを復習していることもあるから…。

とは言え、私も基本的には1日に1レッスン進むようにしよう。

メモによると、前回は2013年6月20日からスタートしている。365のレッスン全部を終えたのが、2015年12月3日だったから、2年半位かかったんだ。

今日からまたそのプロセスを始めるかと思うと、心してかからねば、という気持ちになる。

レッスン1こそ、文章も短いしワークもすぐ終わるけど、だんだんボリュームも増え気持ちも向けなければならないし時間もかかるから。

最初の50のレッスンでは世界観を「解体」

ワークの最初の50のレッスンでは、今、目にしている現実(と思っている)世界の世界観の「解体」を行うことになっている。私たちが見ている、触っているもの、経験していると思っていることは、実は、すべて実在しておらず、映画のように幻を映し出しているだけ。現実と思っているモノの見方を解体していくプロセスだ。

ちなみにレッスン1は、「この部屋の中[この路上に、この窓の外に、この場所に]に見えているものには何の意味もない」という主題概念に基づいて、周囲をゆっくり見回して、目に入るもの何にでも、

このテーブルには何の意味もない。

このパソコンには何の意味もない。

この手には何の意味もない。

このペンには何の意味もない。

あの時計には何の意味もない。

あのテレビには何の意味もない。

…と目にするものすべてに、主題概念を当てはめていく。

これを1分位、朝と夜。

あっという間に終わってしまう。

はじめはよいよい、なんだな。気合いが入っているわりにはあっさりしたものだ。

しかし、久しぶりにACIMのワークができて、うれしい。

明日はレッスン2をやろう。

旧古河庭園のバラ

2016-05-22

快晴。

月1度、カラー(色)の小さな勉強会に参加していて、今日は、その勉強会の日。いつもは屋内で実習しているが、今日は、東京の北区にある旧古河庭園に色とりどりのバラを見てきた。もう見頃は過ぎているらしいが、深紅やピンク、オレンジ、薄紫など色とりどりのバラがあでやかで美しかった。多くの人出でにぎわっていて、みんなカメラやスマートフォンで写真をパシャリ。のどかな光景だった。日陰に入った風が心地よかった。

インドカレー屋さんでランチをして、午後2時頃、帰宅。

さて、ACIMのワーク開始…と思って、久~しぶりに『奇跡講座 ワークブック編』を手に取ったが、、、

「最初の三つのレッスンはいずれも、一日に二回、できれば朝と夜に行い…」との指示に、「もう、朝は終わってる…(・・;)」と気持ちが萎えてしまった。

とりあえず明日からにしよう。

こうやって、私の毎日が過ぎていく(^_^;)

Wordpressでの既存テンプレートで作ったこのブログが、イマイチ、自分のニーズに合っていなくて、また操作もわからなくて難航している。

Wordpressの勉強もしなくっちゃなぁ。

気づけば初夏の気配

2016-05-21

■久しぶり…

前回のログインから、はや3ヶ月。季節は5月。暑くも寒くもなく、一年でももっとも過ごしやすい季節だ。風にはかすかに夏の気配を感じる。

奇跡講座ダイアリー…完全に放置してしまってた。

『奇跡講座』を自分の根幹として学んでいこう、ブログをその隔週日誌みたくしこう、と思って1月にスタートしたものの、この有り様だ(なさけない)。

朝の瞑想だけはかろうじて続けているけど、『奇跡講座』の本には触れてもいない。

奇跡講座のワークや勉強を中断してしまった時、私はいつも『神の使者』の再読からスタートする。今回も何度目かの再読を、先週から始めている。私の『神の使者』はマーカーだらけだ。

ブログをずっと続けている人って、えらいな~

私は続けることも苦手だし、こと『奇跡講座』に関しては、なぜかキンチョーしてしまって、学びたい、自己表現したいと思うのに固まってしまっている自分がいる。

これもエゴの仕業なのだろうか。

これは、私にとって大事なこと、ちゃんとしたい、と思うと、逆にどうしていいかわからなくなる。バカみたいだ。

「ちゃんとする」がどういう状態かもわからないけど、この1年、ともかく(放置してしまわず)「ログインすること」「一行でも何か書くこと」を目標をしてみようか。

だれも見ていないだろうブログに対して、キンチョーしている私は、何に対してキンチョーしているんだろうか。

これもまた「赦し」の対象なのか。

■『奇跡講座』ワーク2回目をしよう

『奇跡講座』は私にとって大事な生きる根幹…と感じつつ、この半年近く勉強することができなかった。

去年末まで365のワークをこつこつしていた時は、ワークをすることを通して重ねていけたのに。それが終わったとたん、学ぶべきこと、深めるべきことはたくさんあるだろうに、テキスト、マニュアル等ぜんぜん読めなかった。

もちろん、実際の生活、人生での「赦し」がもっとも大事なんだろうけど。『奇跡講座』や『神の使者』に触れていないと、その物事の見方の感覚も薄まってきそうだ。

…ということで、『奇跡講座』のワーク、2回目をやろう、と思う。ワークをやりながら、またテキストや関連図書も読めたらいいと思うし、英語で原文にもなるたけあたりたいと思う。

それから、『奇跡講座』と何度も書くのはくどい感じがするから、『ACIM(=A Course in Miracle)』と書くようにしようか…。

歯医者さん治療終了

2016-05-21

■またまた一週間

前回のログインからまたまた一週間も経ってしまった。

先週末、もっともキンチョーする類の仕事を無事終えることができた。張り詰めていた気持ちの糸が緩み、まったり幸せ感に浸り、それからようやくまた次のプロジェクトにとりかかるところ。その間たまに瞑想はしたけど、『奇跡講座』の学習はまったくできなかった。結局ワークをしていないと、こうなってしまうのかな。

『奇跡講座』的な世界観もものの見方も、すこし薄れてきているような気がする。こつこつと学びたいが、3月中旬位までやるべきことがいろいろあって、がっつり、『奇跡講座』の世界に入るのはむずかしいかもしれないな~。

■やっぱり怖かった歯医者さん

今日は、一昨年夏から通い始めた歯医者さんの治療の最終日だった。たくさんあった虫歯を抜いたり、詰めものの歯を作って入れたり、インプラントを2本したりして、一年半。長かった。達成感というか解放感というか…ようやく治療終了までこぎつけることができた。よかった。

「歯医者さんに行く」ことは、この10年位毎年、「新年の目標」だった。しかし、トラウマなのか何なのか歯医者さんに強い恐怖心があって、毎年、達成できずじまいだった。毎年「今年のいつか行こう」と思いつつ、気づけば翌年を迎えていた。

それが、一昨年、一大決心をして行くことになったのは、単に虫歯が痛み出して、だんだん我慢できなくなったから。

いろいろネット検索して、通いやすくてよさげな歯医者さんを選んで行った。

開けた口の中でキーンと響きわたる金属音やふいにくる神経の痛みは、やっぱり怖かった。あまりに体を強張らせているため、息もできない。歯医者さんは、「ここは、もう神経がないから、痛くないよ」と削る手を緩めようとしないが、神経のあるなしは知らない、とにもかくにも怖くて怖くて。歯医者さんの診療日は朝から緊張しまくっていた。

また、治療中盤には、歯科衛生士さんが付けてくれたインプラントの仮歯が8回も取れてしまうという“事件”もあって、歯医者さんに対する信頼感が揺らぎ、他の歯医者さんに替えたいとも思った。だけど、なんとか通いきれた。人から見れば、「いい歳をして」ということになると思うけど、理屈じゃない。怖いものは怖い。

■これは現実じゃない、消えろ

『奇跡講座』の観点から言えば、この世で感じる恐怖は現実ではない。われわれが神から分離したと勘ちがいしているために抱く、罪悪感と、いずれ神から離れた罰を受けるだろうという恐怖から来るものだ。それを自分がこの世に投影して見ている。

それはわかっている。だから、歯医者さんの椅子の上でも「これは現実ではないんだ、幻だ、消えろ消えろ」と心のなかで唱え続けていた。けど、やっぱり怖かった。『奇跡講座』のワークをまじめにやっていたつもりだったけど、私は依然世界をまったくの二元性で見ており、ぜんぜん成長できてないんだな~と確認したのだった。

そして、仮歯が何度も取れて、それをつけ直すたびにお金を時間がかかることに腹立たしさを覚えるとともに不安に駆られ、信頼できないと思ったことも、後になれば、神に対する罪悪感が見せたものかな、と思えた。それを無意識で否認しているから、歯医者さんに投影して、その歯医者さんが信じられず怖くなるというー。

何より、仮歯が8回も取れてしまったこと、そのことが、何よりも「分離」の象徴ではないかー。後になって、そう思ったのだった。

こうした考察も、治療が終わった今となっては、懐かしく、かわいくも感じる。

久しぶりに歯科衛生士さんの「磨き残しチェック」を受けたら、前より歯磨きがヘタになっているらしく注意を受けた。

歯医者さんでのできごとを一元性の世界観でふりかえって納得できたところで、恐怖心は一朝一夕には消せそうにない。

もう歯医者さんに厄介にならないに越したことはない、虫歯を作らないようにしなきゃ、歯磨きちゃんとしよう、と気を引き締めるのだった。

ゲンジツでの仕事

2016-02-16

■たまの仕事、講師業

前回、ブログを更新してからもう五日が経ってる。

私は、フリーランスとしてゆるいながら仕事をしていて、たまに「話をする」仕事がある。土曜日がそれで、4時間のセミナー講師の仕事だった。ジャンルは「経営」に入る。

事前準備にかなりの時間をかけ、誠実にやったつもり。

だけど、ふだん人と話さない生活をしているから、「話すことがますますヘタになっている」と感じた。

そして、それ以上に、『奇跡講座』を学び始めてから、この世でのゲンジツをうまく行かせることに余り頓着できなくなってきたから、話が上滑りしているのではないかとも、案じた。

もちろん、ゲンジツ社会のビジネス原則に則って真剣に話をした(そうでないとあやしい人になってしまう)。けれども私の深いレベルの本心は、「この世のゲンジツは自己の想念の投影である」「神から離れたという勘違いがこのゲンジツの幻を見せている」というもの。ビジネスでの競争にいかに勝ち抜きビジネスを成功に導くかとは、かけ離れた世界観だ。

■仕事減、どうやって稼いでいこう

そうしたことから、ワークを初めた2年半くらいまえから、ゲンジツの仕事と私のソリが合わなくなってきている(正確には、もともとぴったりとは合ってないソリの“合わなさ度”が増している)。セミナーでは人生観や考え方をお伝えできる部分もあるから、私なりに「ゆるし」を応用した考えも含めてはいるけど、それを前面に出してはニーズと合わなくなってしまう。

そうこうしているうちに、前からぐうたらだったけど、「仕事をいただきたい」という姿勢がより弱くなった。それと、これまで仕事をくださっていた方々の状況がそれぞれ、定年退職、配置換え、年金が貰える歳になったから仕事は趣味でも等…と変化し、結果的に私が受注する仕事が減ってきた。

いつも、仕事の締め切りに追われては、ワークが中断していたから、これは「困った」というよりは「幸い」として、『奇跡講座』のワークや勉強に費やしてきた。まあ、数ヶ月は生きられそうだから、いっか、って感じだったのだ。

でも、ワークも終わり、気づけば収入になる仕事は激減。ひとり暮らし、フリーランスの私は…、どう考えてもまずい、もう一回ちゃんと稼ぐことを考えなくてはいけない時期に来ている。

しかし、この「不安」もまた「エゴ」によるものなのかな。もっと聖霊のメッセージが受け取れるようになって、安心してそれに従えるよう訓練すべきなんだろうか。

■聖霊のメッセージ

ちなみに、今朝の瞑想中、次回セミナー(このセミナーは2回コース)へのアドバイスを聴いてみたら、受け取ったのは、

「伝えるべき情報や知識の部分、段取りを準備でしっかり抑えておくこと。そうすれば不安感が減り、エゴが前に出る部分も減り、そのスペースを聖霊(ハイアーセルフ)に明け渡せて自然に本質が伝えられるから」というものだった。

先のことはわからないけど、次回のセミナー、しっかりやって受講者の方、主催者の方々に満足してもられるようにしたいと思う。

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