奇跡講座ダイアリー

お皿を回す

2017-02-08

旧暦のお正月の節分も過ぎた。気持ちのいい冬晴れで、散歩コースにも梅が咲いてた。

私は北陸の育ちで冬の空はモノトーンに近いから、初めて東京の冬の青空を見た時はびっくりした。

それはもう、30年以上も昔のことだけど、東京の冬の青空を見上げて、すごいな、と思うのは、毎度のことだ。

        *   *   *

ACIMのことはすっかり止まっていた。くり返し『神の使者』を読んでいただけ。

自分にとって“大事なこと”と言いながら、まったく手を付けられなくて、、、「ちゃんと態勢を整えてから」と訳のわからない理屈で先延ばしして、今になってしまった。

ワークを再開しても続けられるか自信ない。それをブログにできるかは、さらに自信ない。そして、どういうふうにブログにまとめたらいいのかも、、わからないまんまだ。そう思うと、近づくのが怖かった。誰かに期待されているわけでもないのに、気負いすぎなのかな。。。

これも「エゴ」なんだろうな、と思いながらも、遠ざけていた。

みんなそれぞれ、自分なりのいろんな「プロジェクト」を並行させて生きている。仕事で、会社で、家庭で、地域住民として、家族として、趣味で、遊びで、、。それらいろんなプロジェクトを並行してやるのは、私の中では「皿回し」のイメージに近い。あの大道芸細いみたいな、細い棒でいくつものお皿を回すやつ。私はあんまりたくさんのお皿を同時に 回せなくて、お皿を回し始めても、しばしば落っことしてしまう。

でも、まあ、自分のプロジェクトなのだから、またぼちぼちACIMのお皿をまた回したいと思う。また、ちゃりん、と落っことしてしまうかもしれないけど。

そうそう、テキストも昨日から読み始めた。仕切り直したくって、また最初から。。全部理解できるわけじゃないけど、やはり、素晴らしい!と思う。

ACIMのワークやテキストから離れていると、すぐACIMのものの見方や考え方を忘れてしまう。

「ちゃんと態勢を整えてから」ACIMプロジェクトのお皿を回したい、と思う。でも、、それだと脆弱ですぐ止まってしまう。どんな時でも、歯磨きの習慣のように、ほんの少しでも毎日テキストを読んだり、ワークしたり、ブログに気づいたこと書いたり、、、できるようになるべきだよな。そうしたいな、と思っている。

実践はむずかしい、やっぱり

2017-01-18

赦すことのむずかしさ

『奇跡講座(ACIM)』の根幹は、「赦すこと」だろう。それは、一般に私たちが使っている「許す」とはまったく異なる。

この世はそもそも非現実。自分の「神から離れた」という勘ちがいからもたらされた無意識の怖れや罪悪感を投影して見ているに過ぎない。出来事や引き起こした人は、自分の怖れや罪悪感が呼びこんだものであり、その非現実性をわかってゆるす、ゆるめる、手放す。

これが、ACIMでいうところの「赦す」だ(私の理解によれば、たぶん)。

赦すことによって、自分の勘ちがいが取りなされ、真実を見る目がより開かれる。

こういったことは、3年位勉強してきたから、概念としてはわかっているつもり。

しかーし!

実際に、自分のゲンジツに「不都合」がひとたび起こると、たちまち難しくなる。

私たちはこの世、仮初めの姿である「私」を通して、ACIMを学ぶばかりだ。だから、ゲームキャラクターとしてロームプレイゲームの中を進みながら、一方で、難しい局面に面しても「これはゲームだから」と俯瞰して「ゲームをしている人」の視点を持つ必要がある。

平穏な時はACIMの考えはわかった、と思う。だけど、ひとたび、些細なことであっても、何かゲンジツに不都合なことがあると、たちまち学んだことがわからなくなってしまう。概念を思い出したとしても、では、このゲンジツでどうふるまうのが本当なんだろう、とわからなくなってしまうのだ。

たとえば、この世が非現実だからといって、病気になっても放置する、ということではないだろう。

これは極端な例かもしれないけど、ゲームキャラの私にとって赦すとは、この場合、どうしたらいいのか、と思うことが多い。

渦中にいると「赦し」を忘れる

去年秋からいただいた仕事でも、またわからなくなってしまっていた。

あるヒアリングの仕事でお会いしたことからあるコンサルタントの先生に声をかけていただき、「ある3月までのプロジェクトがあるのだけど(このヒアリング報告書みたいに)月1回報告書をまとめてくれない?」と言われた。初めての方から仕事を依頼されるのは、ありがたいことだ。

ヒアリング報告書と同程度のものを月1回であれば全然問題ない、と思ってありがたくお受けした。月1回程度のことであれば、金額もいくらでも、と思い「お任せします」とお答えした。

実際始まってみると「この日も参加して」「この日も」と指示があり参加することに。いったい自分の仕事の範囲がどこまでで、いつまでに、なにを、どのように、がわからず、不安が膨らんできた。

また、実際どのようなものを求められているのかもちゃんと理解できていなかったが、自分なりに求められているものを作るのに、前回の報告書の4、5倍も時間がかかってしまった。こんなに時間をかけて、いったいいくらになるのだろう。

そもそも私は交渉事が苦手。こうしたことは昨年末までにすっきりさせたいと思いながら、面と向かって話し合う機会が持てず、年を越してしまった。メールでそれとなく伝えたつもりなのだけど、伝わっているのかいないのかスルー…。

「これは、リアルじゃないのだから、こうしたことに不安を抱える私はACIMの教えに反しているのかも。確かめたりしないでこのまま進むべきでは?」

「いやいや、ビジネス上でのやりとりなんだから、何を、いつまでに、いくらかを聞くのはあたりまえのこと。それを確認しない方が、この世のゲームではおかしいのでは?」

自分の中で問答をしながら、こじらせてしまったらしい。とにかく、新年最初に会った時には、切り出すぞ、と考えると、夜も眠れなくなってしまっていた。

そして、切り出した。

伝え方がヘタだったかもしれないけど、確かめたいこと(仕事の範囲、納期、金額等)を明らかにしてもらえた。そして、ほっとできた。

しかし、一方で、「プロなのに、こんな細かい指示までしなくてはいけないの?」と驚いた、とも。若干傷ついた。相手の方も同様に傷ついたもしれない。

「行動」と「心の姿勢」

『神の使者』を再読中である。ついこの前、アサンディッド・マスターのアーテンとパーサが、著者ゲイリーに「愛には不平不満はいっさいない」というレッスン68の教えを強調していた部分を読んだ。「不平不満を捨てようという意欲は、あなたのほんとうの生命にとって大切なのよ」とパーサ。

私が抱いて訴えたことは、不平不満なんだろうか。確かに、進め方に不満ではあったことは事実なんだけど。

…こう考えている時点で、ゲンジツに巻き込まれて見えなくなってしまっているということなんだろう。不平不満は原因ではなく、結果として起こっていることだ。

すべては投影して自分が映し出していることなのだから。

一方、ACIMの考えに沿った場合、この世でどういう行動をとるのが正解なのか、実はよくわかっていない。

『神の使者』のアーテンとパーサの2回目の訪問時には、アーテンが「われわれが関心をもっているのは、きみたちの行動と見えるものではなくて心の姿勢なんだ。」と言っている。

少し冷静に物事を見ることができるようになった今、行動の正否をふりかえるより赦すという心の姿勢を確かめたほうがよいのか。

正直言って、心には未だ微かなざわざわ感がある。

でもやはり、相手の方には、鏡となってくれて私自身を赦す機会を与えてもらったこと、感謝したい。

2017-『神の使者』 再読中

2017-01-14

お正月気分も抜け、東京のまちも日常のせっかち気味なリズムが戻ってきている。

この週末は、日本列島に「この冬一番の最強寒波が到来」しているらしい、冷える。北陸には大雪警報が出ている。私は毛布地のスカート(腰巻)を履き、「逆に、籠って仕事をするにはいい気候かも」とパソコンに向かっている。窓からは澄んだ青空が見える。

もう「お正月」が昔のことのように感じられるけど、去年から今年にかけての年末年始、丸一週間帰省。母と石川県の粟津温泉へ一泊旅行にも出かけた。パートナーや子どもがいない私にとって、肉親への愛(ACIMでは「特別の愛」と言われるものだと思うけど)は、母に向かってしまう。

かと言って、相性がいいというわけではなく、田舎では朝から夜まで一日中、ずっと話しかけてきて質問をしてくる母に、半日もするとヘロヘロになってしまう(ひとり暮らしで人と話すことが極端に少ないから、会話に応えることに3時間位で疲れる)。思考がまとまらず自分の考え事がまったくできなくなる。

この状態を、私は「脳ジャック(ハイジャックの脳版)」と呼んでいる。

東京に戻って脳ジャックの状態を解かれて、だんだん「それまでの自分」を思い出すのが、いつものパターン。こんな不器用なのは私だけなのかもしれない。

例によって、ACIMからも離れてしまい、、、年始に戻った一人の部屋で、「あれ、何だったんだっけ?」「私はだれ?」という始末だ。

いつも、ACIMから離れたと思った際に、戻っていくツールというか、プロセスというか、、、が、私にACIMを紹介してくれた本、『神の使者』だ。

で、今週になって『神の使者』の何度目かの再読を始めている。分厚い本なので最後まで読み終わらないこともあるけれども、この本を読んで感覚を思い出してワークに戻っていくのが常だ。私とACIMをつないでくれる存在なのだ。

まだ、アーテンとパーサの3回目の訪問のところを読んでいるところだけれど、ようやく、またワークを再開できそうな位に、自分と環境が整ってきた。本当は、どこにいて、どんな環境であろうとも、ワークができる自分になることが課題なんだろうと思う。

去年のメモを見て、2016年5月23日にワークブックをレッスン1から再スタートしたこと、12月16日レッスン79までやったことを思い出した。

時間と心にゆとりがある時しか、ACIMの勉強ができていないことに、「私にとって使命に近い大事なことと思っていたつもりだけど、単に趣味みたいなものなのかな」と、自虐気味に感じたりもした。

まあ、ともかく止めて離れてしまわないようにだけはしたい。

今年は、負荷がかかってもACIMのワークと勉強をこつこつと続けられるようにしたい。しよう。

あけましておめでとうございます

2017-01-02

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

    *    *    *

見ている方がいるとも思えないけど、新年のごあいさつを。

想定以上に変化が大きいご時世、無事今年も故郷で母と新年が迎えられたことに、感謝!

穏やかで健やか、穏やかな年になりますように。

 

昨年はACIMワークを再度始められたことが、自分の中での「今年のできごと」だったけど、

それが12月には「中断してしまった」のも、また「できごと」。

中断したまま年越しした。

今回の帰省ではACIMのテキストもワークブックも、『神の使者』も持参しなかった。

東京に戻ってから、また、ぼちぼち再回転していこう、と思う。

クリスマス*コワイ

2016-12-19

クリスマス攻め !?

クリスマスイブの週を迎え、街の花屋さんは鮮やかなポインセチアに囲まれている。冬の赤って、若さや生命力を感じていいな、と思う。

一方でお店などで鳴るクリスマスソングや過剰な演出は実は苦手…。

近くの定食のお店は、ハロウィンが終わった直後からクリスマスソングがかかり、そのリンリンは今や盛りと大きく鳴り響いている。最近は近所のスーパーでさえ、レジの人がサンタの格好をしたりしている。

私はこうした街のクリスマス演出を密かに「クリスマス攻め」と呼んでいる。

こうした世を拗ねた呼び方をしているのは…、そう。クリスマス、ひとりだから。24日も25日も予定なし(>_<)

鳴り響くクリスマスソングや演出に「クリスマス、あなたはどう過ごしますか。もちろん、愛する人とパーティをしたりプレゼント交換しますよね」と煽られ、攻められているように感じてしまう。

いいえ、なんにも。ひとりです。

だから、クリスマスがコワイのだ。

クリスマスとの距離感がわからない

日本人にとってクリスマスというのは、西洋のお祭りであり、一種の“リトマス試験紙”みたいな気がする。家族であったり恋人であったり仲間であったり、自分にとってもっとも大事な人と幸せを確認するのだ。

とくにクリスマスイブの晩はもっとも大事な人と過ごす。それこそが今年の幸せ。そんなイメージ。

いつもは誰にも気を使うこともなく、好き勝手に楽ちんにやっている、独り者にとって、冬というのはなかなかシビアな季節だ。クリスマス、お正月、バレンタインなど、ぬくもりや愛を拠りどころとするイベントが目白押し。独り身には寒さが沁みる季節である。

もちろん、こういう気持ちは自由・楽ちんさを享受している私にとって「支払うべきコスト」とも言える。大変なことや面倒くさいこととセットで愛やぬくもりがあるのだから。

そして、私はすでに50代も半ばのおんな。世間のコマーシャリズムの権化みたいになっているクリスマスから“卒業”して、平生のままでいいのではないかと思う。でも、やっぱりチキンくらいはあった方がいい?いちごが乗ったケーキくらいは食べるべき?と、これまでの刷り込みに心が揺らぐ。

そう、クリスマスと自分との距離感がわからない。

定まらない感じが気持ち悪くもあり、さみしくもあり…。

クリスマスってなあに?

…とぐるぐる。

幼稚といえば幼稚だけど(^_^;)

さみしいのは、神と分離した世界を見ているから

そもそもクリスマスとはイエス・キリストのこの世への誕生を祝う儀式。そう原点に戻れば、まったく私と関係ないとは言えない。ACIMはキリストの声を口述筆記したもの。関係ないどころか、大ありだ。テキストにもクリスマスについて記述された項目があった。

…とすれば、大いにお祝いすべきだ。

でも、ACIMには「この世への誕生を祝う」という概念があったっけ?

そう考えると、またわからなくなってしまう。

ただ、わかるのは、私が「さみしい」と思うのは、「まちがい」だということ。

最近やったレッスン76には、「…別の肉体があなたの傍にいない限り、自分は孤独だと、本気で思っている。このようなことを考えるのは狂気である。…」と書かれている。

さみしいのは私がパートナーや家族もなくひとりだからではなく、神と分離した世界を見ていて、その世界にいるからだ。分離した世界というメガネで見て、その内なる世界をこの世に投影している。

そして、それは勘ちがいだ。神さま、聖霊と私は昔も今もひとつだ。

ここまで考えてくると、クリスマスは聖霊や神さまと心ひとつに厳かに過ごすべきなのかな、と思えてくる。

そして、それはさみしいことではないのだろう。

私は、ゆるゆるとだけど何年かACIMを学んできたつもりだけど、体感理解度は、この程度。

私が自身を赦し世の中を赦すレベルに応じて、世の中もちがって見えるのだろう。

今年の、私は、来たるクリスマスに身構えた、というおはなし。そして、おはなしはまだつづく。

レッスン78-奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。

2016-12-12

レッスン78-奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。

自分が下す決断はすべて、不満と奇跡のどちらかを選ぶ決断だということが、まだあなたには明らかではないかもしれない。」という文言からレッスン78は始まる。

どんな不満もその向こうにある奇跡を遮る。視点が不満にフォーカスされることによって、その向こうにある奇跡は見えなくなってしまう。奇跡の世界の住人となるためには、この不満のシールドを超えた見方を身につける必要がある。レッスン78はこのためのワークだ。

日常的に抱く不満がそんなに大ごとだとは、正直ACIMを学ぶまでは認識していなかった。ACIM一度目のワークをしている時「もう不満は言わない」という本を読み、やはり不満は止めようと決意したことがあった。この本では「ブレスレットを手にはめて、不平不満を言わないように21日間頑張ってみる」という実践を提唱していてブレスレットも買った。けど、21日間数える、というのが、できず、そのうちに忘れてしまっていた。

気づくと、奇跡か不満かの二者択一では、常に不満を選んでいる気がする。奇跡か不満かというより、心理状態によっては不満しかないという時さえある。

自分の不満はつい「正当」だと思いがちだけど、ACIMでは、幻想を見ているから不満が見えるのだという。その見方をを逆にして神なる真実を見るトレーニングをする。

ACIMの日常的な実践はこの自分の不満とどう関わるかということに、集約されるのかもしれない。もし、不満を抱かずにすべてを見通せる見方を身についていれば、学習はかなり進んでいると言えそうだ。それくらい「不満」というのは手ごわいものでもある。

日頃抱く不満の多くは、人が関わることだ。しかも大きな不満は近しい人に感じていることが多い。

レッスン78では不満の対象としてきた人をひとり選び、そうした不満を退けてその人を見てみる。

不満を抱く人は、嫌いな人とは限らず、「あなたが自分ではその人を愛していると思っているのに、そのあなたを怒らせた人」や「友人と読んではいるが、時には気むずかしく、扱いにくく思える人」なども例に挙げられている。

不満を抱く相手は、自分の救済者

その人は、私たちの救済者だと、ACIMは言う。

不満を持つその人の中に、神の子を見られるようになることによって、自分の内なる神を感じられるようになる。つまり、不満を抱く相手は、神の国に私たちを手を引いて導いてくれる、導き手その人だということだ。

ひとりの人を選び、まずはその人を今自分が感じているままに見る。欠点や厄介な状況や、自分に与えた傷とともにその人を見る。その後、そうした表面的なことを超えて、その人を見る。

そして、聖霊に対して次のように頼む。

この人の中にいる私の救済者を、私に見せてください。あなたはこの人を聖なる光へと導いてくれるよう私が頼むべき相手と定めました。私がその光の中にいるこの人とつながることができますように。」

そして、不満を超えたところにあるその人の中の光を、自分の心の中でみせてもらえるように求める。

ワーク、私の場合

私がワークの対象として選んだのは、結婚していた相手、元夫だ。彼とは若い頃短い結婚の後、20年経って偶然再会…。それから、また恋愛感情を抱くようになったが、いろいろあって会わなくなりもうすぐ2年になる。傷つけたし傷つけられもした。

会ってない今不満を持っているわけではないけど、こういうワークをするとなると思い出す。たぶん前回のワークの時も、彼を対象にしたのではなかったかな。過去の傷が疼く、というより、正直言って、まだ未練があるのだ。それはこの幻想の世のさらに幻想かもしれないけど。

彼を思い描きながら、「この人の中にいる私の救済者を、私に見せてください」と聖霊に頼むのは、最初はやはり抵抗がある。でも、それができたら、少しまたすっきりした。まだまだ完璧に「赦す」(感情を手放す)ことはできないかもしれないけど。

私が彼にざわつくのは、わかりにくい言い方かもしれないけど、彼に私の「罪」を投影して見ていて、その「罪悪感」が刺激されるからだと思う。

それは今世のことではないかもしれない。人間、この(仮初めの)ゲンジツの世では、ある時は男だったり、ある時は女だったりするという。そうやって何回も何回も輪廻をくりかえしているという(もちろんそれも幻想だけど)。

私、前世で男だった時、女の人に悪いことしたのかな?また女の時は、女の身ゆえに辛いことがあったのかな?仏教にも詳しいカルチャーの心理学講座の先生には「色情因縁」というのだと言われた。(これ、すごい字面だ)

うまく言えないけど、そういうことを思わせるイメージが自分の中にある。

不満を人に投影するのではなく自分に投影した場合は、病気など体に不具合が出るのかもしれない。

ものの見方の転換は頭では理解できる。人の話を聞いても、わりと客観的に判断できる。でも、こと自分のこととなると、つい感情に振り回されわけがわからなくなってしまう。

「21日間、不平不満を言わない」チャレンジも、もう一回トライしてみようかな。どうにか21日間数える工夫ができたら、できそうな気もしている。「不満を言わない、感じない」それはACIM実践の要だから、常に忘れないように、したい。

レッスン77-私には奇跡を受け取る資格がある。

2016-12-08

東京の冬の空

12月初旬の昼。空が青く澄んでいる。この空は冬の空だ。

高3の頃、初めて受験で冬の東京の空を見て、びっくりしたことを思い出した。私の故郷の北陸では、冬は雪が降るし晴れの日も、どんよりと薄グレーの空だった。

冬にこんなにお日さまが出て、ピカピカした光が届くなんて、なるほど「表日本」というわけだ。すごいな~、と思った記憶がある。

それから、東京は冬が最高、と思っている。

一方で、春が来る喜びはぼんやりとしている。北陸は冬に寒かった分、春の訪れとその気配が最高なのだ。東京の冬、北陸の春は日本の四季でもとくに好きだ。…気づいたら、窓から外を見て、とりとめないことを書いてた。

レッスン77-私には奇跡を受け取る資格がある。

さて、ようやく一昨日と昨日、久しぶりにワークをした。

レッスン77-私には奇跡を受け取る資格がある。

ACIMでいう「奇跡」とは、奇跡的なことが起った時に用いる、あのマジカルなパワーのようなものではない。幻想から目覚めた時おのずと現れる世界、ものの見方のようなもの。

と言っても、私自身わかったような、わからないようなで、奇跡を定義づけしたりできるほどには理解できてない。

わからないから、やっているのか。わからないのに、やっているのか。わからないけど、わかっているから、やっているのか。ようわからんが。

この長い方のワークでは、私には奇跡を受け取る資格があると、自信をもって自分自身に教えることから始める。…(中略)そして、

自分の要請は聞きいれられたという確信が訪れるのを静かに待つ

(中略)あなたは自分が求めている確信を受け取るであろう。

これを行うとき、あなたは実際には何を何を求めているわけでもない。否定しようのない事実を述べているだけである。

と心強い。

短いワークでは、「私には奇跡を受け取る資格がある」と頻繁に言い、この事実を思い出す。

あなたは自分に頼って奇跡を見つけようとしてはいないのだから、あなたがそれを求めるときにはいつでも充分にそれを受け取る資格がある。

と説明がある。この文言も「深い」と思う。

ただ 在ることに 自信をもて

一昨日のワークで、「私には奇跡を受け取る資格がある」と言い、要請が聞きいれられたという確信を待つ、その短い瞑想ワークをして感じたのは(このワークの本題と合っているのかずれているのかわからないけど)、

「自信をもて」ということだった。

何かしらから

「自信をもて」と言われた気がしたのだ。

~あなた(私のこと)は、パソコンに向かって猫背になって、いろんなものをはじいている。

自信をもて。

ただ(あなたが)在ることに 自信をもて。~

こう言われた気がした。

今の私の場合はそこから、なのかな?

ここまで書いて、ふと思い出したのは、昨晩のこと。

仕事でお世話になっている方とともに、元大手広告代理店の方々で作った会社の設立3周年パーティに伺った。同行した方以外は初対面で、皆さん、女性はキラキラして有能で美しく男性は立派なビジネスパーソンに見えた。気後れしてしまった。

もともと人見知り。世のトレンドも知らないし気のきいた話もできなくて、とにかく口角を微妙に上げて話される人に相槌をして…敵意のないことをアピールすることに専心してた。

その時「私って、だめだな。とても一般の会社とかではやってけない」と思ったのだった。

とくに、一人でいる時には、自信がないとも思ってないけど、人前では社会に迎合しがちになってしまう性質は子どもの頃から。

○○ができるから自信が持てる。○○がいいから自信が持てる。○○を持っているから自信が持てる。

私が持ってきた「自信」というのは、そういう社会的ツールみたいなものだったかもしれない、と改めて思う。

ああいう時、レッスン77を思い出し奇跡を求めればよかったのだ、とも、今思いついた。奇跡を求めることが習慣化したらいい。

ワークに合っているかどうかわからないけど、以上はレッスン77を巡って、思った雑感。

ただ自分が在ることに常に自信をもてるようになったら、それはすごいなぁ、とも思う。

レッスン76-私は、ただ神の法則のもとにある。

2016-12-05

レッスン76-私は、ただ神の法則のもとにある。

レッスン76は11月の終わり、母が東京に来る前にやっていた。

読み返すと、このワークもまた難しかったことを思い出した。

というのは、主題概念は「私は、ただ神の法則のもとにある。」だけど、私たちは産まれてからずっと、「神以外の法則」を学んできたように思うから。

ACIMワークブックの中でもレッスン76の説明は圧巻だと思う。

あなたは、山積みにした紙切れの束と大量の円形の金属がない限り餓死してしまうと、本気で思っている。小さな粒状の固体や、鋭い針で血管に注ぎ込まれる液体が、病気や死を寄せつけずにいられると、本気で思っている。別の肉体があなたの傍にいない限り、自分は孤独だと、本気で思っている。

このようなことを考えるのは狂気である。

いやいや、ほとんどの人はこう考えている。お金のテーマ、健康のテーマ、愛のテーマは私たちの3大関心事と言えるかもしれない。それが狂気であって、私たちの人生に影響力を持たない、とは、ACIMのワークであってもなかなかすんなりとは納得しづらい。

レッスン76のワークでは、「これまで私たちが従わなければならないと信じてきたさまざまな種類の『法則』をさっと振り返る」ことから始まる。

それはたとえば、栄養や免疫や医学の『法則』、そして肉体を保護するための数限りない方法についての『法則』が含まれるだろう。さらに考えてみなさい。あなたは友情の『法則』や、「よい」人間関係と互恵の『法則』も信じている。…

たしかに…

50も半ばとなると今や友だちとの話は健康話やエイジングケアが中心だ。どんなサプリ飲んでいるのか、とか、このメーカーのオイルがいい、とか。あるいは週に何回ジムに行ってどんな運動をしているかなどなど。

もちろん、これらに効果があると思って、それを期待してやっている。

青魚を食べる、動物性の油脂を控える、甘いものを食べ過ぎない、1日8,000歩は歩くべき。温活して体を冷やさない…

健康のことだけでもたくさんあって、、、

でも、、これらはまったく無意味なんだろうか。それとも私のACIMの理解の仕方がまちがっている?

肉体の苦しみは心がかぶる仮面?

私は、ただ神の法則のもとにある。

こう唱えると、やはり心がざわざわしてしまう。

このワークの説明では、こうも言っている。

肉体が苦しむ理由はただ1つ、心が心自体の犠牲になっていることを心に気づかせないためである。肉体の苦しみは、真に苦しんでいるものは何なのかを隠すために心がかぶる仮面である。心は自分が自分の的であることや、自分で自分を攻撃していて、自分が死にたいと思っていることを理解したくない。この事実から逃れるためのものである肉体を救おうとしているのが、あなたの「法則」である。…」

この説明も、すごい。とくに一行目。「肉体が苦しむ理由はただ1つ、心が心自体の犠牲になっていることを心に気づかせないためである。

こんなことはなかなか言えない。でも、もしそうであれば、私たちはまったく苦しむ必要はない。ACIMの教えどおりに、見方を変え、罪悪感を手放し赦しさえすれば、おのずと欠くことない世界、神の世界に住むことができる。

もちろん、その見方を変えるというのが、そうはたやすくないのだけど…

ワークから感じたこと

私がこのワークをやって感じたこと(聖霊さんからのアドバイス?)は、このワークのテーマに直接関係なさそうだけど、2つあった。

1つは「感情を向けるベクトル(矢印)の方向がまちがっている」ということだった。その矢印には2つあって、

1つは、もつ感情の中身の方向性…ネガティブな方向ではなく、赦し感謝しを、ということかな。

もう1つは、感情を向ける先(対象)。

つい仕事などで、たまにだけど、クライアントさんの欲求に対応するかたちで末端の私に理不尽なことが求められている、と感じることがあり、直接かかわる人に一瞬ネガティブな感情を抱いてしまうことがある。けど、それはまちがっている。ただただ、この状況をくれた聖霊に感謝あるのみ、と。

そのようなことを言われた気がした。そう、いろんな状況によく「困った」と思うけど、それは赦すべきことか、感謝すべきことしかない。巻き込まれてネガティブになるのは的外れだ。

それともう一つ。私は「自分で判断してはならない」という「服従」を刷り込まれている、と言われた気がした。

私に今与えられている選択はせいぜい「反応」なのだと。

その「法」=呪縛も解くべき。こう告げられた気がした。

これらが聖霊からのメッセージなのか、たんに私の直感的なものなのか、その辺りもまだ(勉強して何年も経つけど)、私にはよくわからない。

けど、こうした感じたことは実際役に立つことが多いからメモを残している。

今月、どれだけ進められるかわからないけど、また、次のレッスン77からリスタートしたい。

『コンビニ人間』

2016-12-04

でろりんとした週末

母が帰り、金曜の夜、仕事の納品を何とか終えて、でろりんと気が抜けていた。後で気がついたけど、新しいパンプスで長い距離歩いたためか、腰痛になっていたみたいだ。

なんか動けてないな~とごろごろしていたけど、よくよくわが身を振り返ってみたら、腰と右足に圧迫されたような鈍痛があった。身体の歪んみが原因なのか、痛みは一枚皮の身体のあちこちに動いていく。

母に整体院を紹介して治療を受けさせたけど、整体院に行って体を整えるべきは、私の方かもしれない。

やっと土曜の夕方少し動けそうと思い、外に出て、ブックオフに行って、本を買った。

『コンビニ人間』。第155回芥川賞の本らしい。

文芸作品には疎いけど、先月『アメトーーク』の「読書芸人」の回で紹介されていて、又吉、若林、光浦さんの3人がお勧め本として挙げていた。まったりを過ごしたい晩秋の週末(もう冬?)に読むのはいいんじゃないか、と思ったのだ。

『コンビニ人間』を読んだ

主人公古倉恵子は大学1年の18歳の頃から、ずーっと18年間同じコンビニでバイトをしている30代半ばの独身女性。子どもの頃からいわゆる「空気が読めない子」というか、もっと「変わった子」で、両親をハラハラさせている。

幼稚園の頃、公園で死んでいた小鳥を「焼き鳥にして食べよう」と言って、周りの目を気にした母親に強引にお墓を作って埋められ花を供えられた。その時の心情描写が、おもしろい。

「皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。『綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ』などと言っている光景が頭がおかしいように見えた」とある。こんなんじゃ、周りはやっぱり困ったかもしれない。

こうした類のことが何度もあって、親が学校に呼び出され、カウンセリングを受けさせられたりした。親を心配させまいとした主人公は、周りの人としゃべることを止めてしまった。

それはそれで人とまったく接しないわけだから、親を心配させることとなり、自分を「治さねば」と思っていた恵子が18歳で初めてバイトを試みた先が、コンビニ。

コンビニには、挨拶の仕方から身だしなみ、仕事の段取りなど数多くの細かいマニュアルがある。そのとおりにふるまうことによって、初めて「普通」の人間になれた、周りにおかしく思われずに済んだと感じる主人公。その後、その生き方を18年も続ける。お話は彼女が勤務しているコンビニを舞台に進んでいく。

狩りができる男と、男の子どもを産める女!?

私が反応したのは、お話の本筋とはずれるのかもしれないけど、コンビニの店長の「人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に属するのが義務なんだよ」という言葉だ。

また35歳のダメ新人店員の白羽さんの「若くて可愛い村一番の娘は、力が強くて狩りが上手い男のものになっていく。強い遺伝子が残っていって、残り物は残り物同士で慰め合う道しか残されていない。現代社会なんてものは幻想で、僕たちは縄文時代と大して変わらない世界に生きているんだ。」というセリフ。

現代社会とは言いながら所詮は縄文時代のムラと同じ。狩りができる男とその男の子どもが産める女だけに価値があり、それ以外はムラのお荷物、という考えに、そっか~、確かに表面的には口に出さなくても、そういうのが本音での社会通念なのかもしれない、と感じた。

もちろん賛成しているわけではないしそれが正しいと思っているわけでもないけど、いろんなものを取っ払った根っこの社会通念はそうかもしれない。稼ぐか、繁殖するか…究極はムラの存続と繁栄なのだから。。。

結婚していれば、それに対して貢献意欲があると見なされ、まぁ子どもがいなくても「可」にはなる。年老いて貢献できなくとも子どもを育てた「実績」があれば「可」。小池都知事みたく女性で結婚もしておらず子どももいなくても、あれだけの仕事をして社会的立場があれば、それも「可」、というか「優」か…。

そうやっていくと、私は…。

このモノサシに自分を当てはめていわけではないけど…。

ダメ店員、白羽氏はまた主人公に対して、こうも言っている。

「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでいるわけでもなく、それどころか社員でもない、アルバイト。はっきりいて、ムラからしたらお荷物でしかない、人間の屑ですよ」

この言葉が私をある種「正気」にさせた。本の中で36歳の主人公がそうなら50半ばの私はもっともっとそう?しかも、毎日きちんと職場に通っている恵子はえらい。私には職場すらない。私が、「フリーランス」といいつつ、専門性もなく隙間家具のように社会にいられたのは、いくつか幸運もあって経済的に困窮しつつもかろうじて最終的な破たんをしなかったからだけ。それは正直、奇跡だ、と思えたのだ。

この世のゲンジツの社会通念とACIMの世界観とはまったくちがう。そして、ACIMの世界観から見た自分とこの世のゲンジツの社会通念から見た自分もまったくちがって見える。

私は人との交流も極めて少なくて人目を気にするということもなかったけど、『コンビニ人間』を読んで、一般社会通念から見た自分のポジションを教えられた気がした。こんなことは誰もわざわざ教えてくれない。無自覚で、まったり本でも読もうかと思ったけど、まったりするどころか目覚めさせられたのだった。

「免罪符」としてACIMを必要としたのか

そして、ACIMの世界観が必要だったのは、こうしたゲンジツからの逃避の意味もあったのかもしれない、と思った。この世が幻想ならば、「真っ当」であろうとそうでなかろうと、「可」だろうが「不可」だろうが、意味はないのだから。

本当のところは、どう世界を捉えていいのかわからない。

母が来るしばらく前から、またACIMから離れてしまっていて、少し離れると自分がいる世界と自分の立ち位置がわからなくなってしまう。

ACIMはこの世のゲンジツのムラのルールから外れてしまっている私の、「免罪符」のようなものなんだろうか。

そうしてはいけない、とも思う。

単なる「免罪符」だったら、3年以上もコツコツやらなかったのでは?でも最近はやれてないじゃない?。。。

などと、心の声がぐるぐるする。

ただ、結婚もせず勤めもせず、生きてこられたこと自体が「奇跡」のように思うのも本当だ。ダメ、あるいは社会的に屑だとしても、それを今さら容易に修正できるとも思えない。

なので、この「奇跡」をもうしばらく様子見しようかと思っている。

母との東京旅

2016-11-30

東京に、母が来た

三泊四日で東京に遊びに来ていた母が昨日帰った。

東京駅から新幹線で見送り、帰り道で見上げた空がとても青く澄んでいた。ひとり自宅へ戻る道、さみしいのか、幸せだったのか、切ないのか…最後のお別れというわけではないのに、胸がいっぱいになった。

母は齢80歳。とはいえ感覚的には70歳前半くらいかもしれない。好奇心旺盛で身体もまだ元気。

到着日には、東京国際フォーラムにファンだという徳永英明さんのデビュー30周年コンサートに行き(直前にオークションサイトでチケットGet)、翌日には横浜にいる次女(私の妹)のところへ高1になる孫の顔を見に行った。また、外苑前のイチョウ並木や六義園など都内の紅葉スポットを見たり、上野の森美術館や根津美術館へ行ったり、私の近所の整体院で側弯症の治療を行ったり、と盛りだくさんの旅だった。

母は年とともに記憶力が落ちたり、思い違いが多かったりするが、感情豊かで好き嫌いがはっきりしている性格は変わらない。しかも表現がオーバーだ。

妹宅に向かう田園都市線で母だけが座ることができ、私がその前に立っていたら、「あんた、ずっと立っているのかわいそう」と大げさに言い、居たたまれなくなったらしい座っていた若い男性は、ついに私に席を譲ってくれた(すみません(^_^;))

せっかく東京に来たのだから、スカイツリーくらい行きたいかな、と予定に組んでいたのには、「人ん家の屋根を上から見てもつまらんし、わざわざ高いとこに登る必要ない」と却下。

母のその都度の気分で段取りや関心がどんどん変わってその都度iphonで調べて…と私にとっては脳トレみたいな旅…。

六義園(りくぎえん)に行く際には、「その庭の由来を調べて」と言い、「柳沢吉保が5代将軍・徳川綱吉からもらった土地に、自分で設計して作ったらしいよ」と答えると、「柳沢吉保ってドラマで悪い人みたいだけど、どんな人?」と聞かれる。

歴史に疎く大河ドラマも見ない私はちんぷんかんぷん。でも、調べるうちに、元々家禄530石の小姓組番衆だったのに、綱吉に仕えて気に入られたことによって、22万石の甲斐国甲府藩主で大老格にまで大出世、六義園もその気に入られた一環で、もらえた土地に作ったらしいことを知ってびっくり。

家からわりと近く何度も行ったことがある六義園はそんな庭だったか。

母といると勉強になることが多いのだ。

私は何でも「受け流す」が。母は逐一喜んだり怒ったりする。昔は怒られてばかりで怖かった。

今回の旅では、庭園の茶屋があることに甘いものを食べたがり甘えてくる母を新鮮に感じた。鞄から切符や薬ひとつ出すのも手間取り、足も弱くなり、歳とったな~とも感じた。

家族って、いいな

また、私はふだん出不精だが、それは一人で家族や親しい友だちが少ないからなんだな、とも、改めて思った。一人で出かけるにはある種の気合いがいるし、友だちと出掛けるにしても予定を合わせたり意向を確認しながら段取りしたり…そういうエネルギーが私には不足している。結果として出かけないことになってしまう。

けど、こうして秋空の下、母と出掛けた4日間のなんと楽しかったことか!

ACIMとはまったくちがう世界観なのかもしれないけど、素直に楽しかったし、家族っていいな、と思った。

そして、ACIMや聖霊さんのおかげで、暮れに近い慌ただしかったなかでも、こうして貴重な母娘の旅が無事できたことに、感謝!感謝なのだった。

レッスン75-光は訪れている。

2016-11-23

朝の地震

昨日朝5時59分、福島県沖で大きな地震があった。私もふとんからガッと飛び起きた。

やはり思い出すのは5年前の東日本大震災のこと。東京でもかなりの揺れを感じたのだから、福島県や近県の方はさぞかし怖かったことだろうと思う。

ケガをされた方もいたようだけど、津波警報も解除されて大きな被害がなかったこと、よかったと思う。一方で、いつどこで災害が起こるかわからない日本に住んでいるんだ、と改めて感じさせられた。

じつは、二週間前の10日、仕事をいただいている方のオフィスに打ち合わせに伺った際に、その方が「最近、パソコン初め身の回りの電子機器が不穏な動きをして調子わるい、おそらく地磁場の乱れでしょう」とおっしゃていた。

え、単なる故障とかではなくってー?

「いろんな機器が連動してヘンですからね。調べてみたら、23日あたり地震があるそうですよ、ネットでうわさです。電子機器の乱れはおそらくそのせいでしょう。たまさんも気をつけて」と言う。

まさか…とは思っていたけど、これは、そのネットの「予言」が当たったんだろうか。

朝、ぐらりとする揺れにガッと起きた時には、ありゃ~、当たったの~!?と、平時にはないアラームが頭に鳴った気がした。

『神の使者』には、地震もまた、神からの分離の象徴として私たちが見ている現象だと書いてあった(ように記憶している)。けど、やはりだからと言って、平静ではいられない。

あたりまえだけど、そんなことは起ってほしくない。あの悲しみ、絶望、嘆き、怒りを赦すことはなかなかむずかしい。

レッスン75―光は訪れている。

ようやくレッスン75。

私たちの赦しが見せてくれる世界を見つめるというワークだ。

光は訪れている。私は世界を赦した。

こう唱えながら、真の心眼(ヴィジョン)によって見ることができる世界を待つ。

今、あなたは世界をこれまでに見たことのないものとして眺めることができる。それがどのように見えるのか、あなたはまだ知らない。ただそれが見えてくるのを待つだけである。」とある。

私は、どうもこのワークが苦手だった。

「光」で見える世界というのが、どうもわからないから。

3年前もわからなかったし、今回もそう。何度かこのワークをやったけど、今まで見たこともないような見え方はしなかった。

で、私はだめだな、このワーク苦手だな、と思っていたのだけど、レッスン75は、今できることではなくて、赦しを完璧に実践できたら見ることができるものなのだ、可能性を示唆しているのだ、と捉えることにしたら、少し楽になった。

そして、ワーク中に今週末、急遽東京に来ることになった母のことを思い、ふと、こうして穏やかに母娘で旅ができるようになったゲンジツは、

あるいは「私が世界を赦した」結果なのかもしれない、と思った。

母とのこころの旅

大昔、子どもの頃、非常に怖くて暴力的だった母に対して、「大人になって力をつけたら、ぜったい“仕返し”してやる」と誓ったことがある。

なんて幼稚な考えなんだろう、と今は思う。

大人になって20年位経ってから、ようやく反抗心がなくなった。カウンセリングを勉強したり、アートセラピーやカラーセラピーに癒しを求めたりしながら、親子関係を見つめて、自分を見て、気づいて。

それは長い旅だった。

そして近年は少しずつACIMの赦しを実践している。

もちろん完璧に光が得られているわけではないけど、立ちこめていた雲の合間から薄日が差すように、私にも光が届いているのかもしれない、と思った。

ほんの少しずつだけど、私は変わってきているんだろう。

反抗心が消えた今、赦し手放すべきは、母への執着心の方だ。これはまだまだみたいだ。

母子関係は人間関係の基本だから、初っ端からつまづいたことで、ずいぶん人生遠回りした、と思うけど、これもまた自作のシナリオ…

今日は、過去にこだわり続けるのはやめなさい」とレッスン75は言う。

そう、今ここ、なんだよな。

光は訪れている。私は世界を赦した。

光は訪れている。私は世界を赦した。

光は訪れている。私は世界を赦した。

この言葉を忘れないでいたい。

日曜のよる

2016-11-20

今日までの締切だった調べ物のしごとをやり終えて、ポチっと送信した。

修正とかあるかもしれないけど、とりあえず、ほっとした。よかった。

コンビニに行って、アイスクリームでも買ってこようかな。

              *

急だけど、今週末、母が上京することになった。

80歳の母。北陸新幹線にひとりで乗って、やってくる。

夫や子どもがいない私は、50歳をとうに過ぎても、“娘”のまんまだ。

実家にいた子どもの頃は、恐ろしくて、憎んですらいた母だけど、

今は元気でいてくれることがありがたい。

親との関係も、自分が作った、自作自演の映し絵だった。それに気づくのにも永い時が必要だった。

「東京にこうして行けるのも、あと一年くらいかな」と母。

少し切ない気持になる。

ずっと、ずっと元気でいてほしい。

ACIMでは肉親への愛と見ず知らずのだれかへの愛を分け隔てしないが、やはりまだ私にとって、母への思いは特別だ。

「特別な愛」はACIMでいう普遍的な愛とはちがう。

いずれ、この気持ちも赦さなくてはならないのだとわかっているけど、今はまだ執着がある。

週末、晴れたらいいな、と思う。

レッスン74-神の意志のほかに意志はない。

2016-11-15

レッスン74-神の意志のほかに意志はない。

レッスン74は、神の意志の表現である私たちには、神のゴールをおいてはほかにゴールはない、と確認させる。

それはまた、

幻想がなければ、葛藤は不可能である

という確認でもある。

そして、幻想も葛藤もなく、神のゴールだけを意識している者には、実相から平安の感覚がもたらされる。遮断物がなくなってクリアに感じることができるようになるから、あたりまえに在る平安が感じられるようになる。

その平安を経験しようと努めるのが、レッスン74の中心だ。

「神の意志のほかに意志はない」という主題概念によって心の焦点を定めた後、葛藤が浮かぶようなら、

神の意志のほかに意志はない。これらの葛藤する考えは無意味である。

あるいは、特に難しく思えるものについては、

神の意志のほかに意志はない。私はそれを神と共有している。

○○についての葛藤は実在するものではない。

などと自分に向かって言い、心を整えてから平安を感じる瞑想ワークに入る。

負荷がかかるとワークできなくなる…

このワークの中で

もしうまく言っていれば、眠気や気力の減退などではなく、深い喜びの感覚と、鋭敏になった感覚を感じるだろう。と説明がある。

私は何度かワークをしたが、平安には至らなかった。並行して抱えているいくつかの仕事が気になり、目をつむっても、段取りをしていたり、締め切りが気になったりと、ワークをしている時間自体が気になりだして、集中できなかった。かと思えば、眠気を感じてコクン、と首がたれることもあった。

もう、何年もACIMワークをやっているのに(つもり)、シンプルな瞑想ワークさえ身についていないことを確認した。

3年前の第一回目のワークの時はどうだったのかな、とふと思い、昔のノートを見てみたら、この時も似たような状況で、ライターの仕事の締切に追われていた頃で、1つのワークに2週間くらいかかっていた。

どうも私はある一定以上不可がかかると、もうテンパって、ワークが手に付かなくなるみたいだ。

もちろんレッスン74の説明にあるとおり、この葛藤は実在するものではない。が、そうは思えなくなってしまう。

「時間がない(だから)⇒できない」

のではなく、

「私のものの見方が実相ではなく幻想に焦点が合っている(だから)⇒時間がない、という幻想を見ている」

のだ。

そう、要するに、私のエゴの抵抗なのかもしれない。フリーランスがいくつかの仕事を並行してやるのはあたりまえのこと。私の「時間ない」なんて、忙しい人から見たら、スローモーションで動いているかたつむりみたいなものだろうし。つまり相対的で意味ないことなんだ。

しかも仕事があるのは、ありがたいこと!

…このワークから今の自分の立ち位置が確認できたかな、という感じかな。

要するに、忙しくでもヒマでも、文句を言っている、てことかな。

最近、ひとり暮らしの私は、晩ご飯んにひとり鍋ばかり食べている。

あ、去年もそうだっけ?

覗いてみた3年前のノートには、3年若い私がいて、今と状況もけっこうちがっていて、かわいいこと言ってた。変わらない私と変わっていく私かぁ。

幸せとは、ありがたさ、かな

2016-11-13

半年に一度の検査

今日は小春日和の日曜日。まちの空気も少し和んでいる(家の前の道の交通量が少ない)。

一昨日は冷たい雨の一日で、正午の気温が8.9℃と冬のような寒さだった。いよいよコートの出番だ。

私は、前週、“臨時休業”だった病院に行ってきた。

何年か前に検査の結果、医師からある臓器の全摘を進められたけど、ネットでいろいろ調べた結果、私なりには「(現段階では)必要ない」と感じ、先生にその旨お伝えして経過観察を続けている。

半年ごとの検査のみ。原因不明で、痛みや苦痛などの症状もなく、薬を飲んだり治療したりもないから、ふだんは病気ということを忘れている。

だけど検査の結果、何かしらの変化があってやはり手術、ということにならないとも限らない。半年に一度のこの日…、重病で床に伏せっている人などから見たらたわいもない状況なのかもしれないけど、ビビリの私にとってはけっこうキンチョーな日なのだ。

しかし、この病院、すごい人、人、人…。まるでイベント会場で待つ人のような混雑さ。みんな一見元気そう(私もそうだ)。人は見かけではわからないものだなぁと思う。

ACIMでは、病気もまた「自分の罪悪感」の自身の身体への投影とみなす。つまり、病気は私が作ったものだ。これに一喜一憂して病気という幻想をリアルにしてしまうことはACIMの教えに反する。

そもそも神の子が見ている分離という夢を形にしたものが、個々の身体だから、身体に大きな意味を置いてはいけない、と学んだ(気がする)。

そうはいっても、幻想のゲームに参加中の私にとっては、やはり大きな問題。外科手術というのは、それこそ(実際には起っていない)分離の象徴ではないか。それをリアルにはしたくない。

受付してから4時間ほどで自分の診察の番が来た。ドキドキしながら、検査結果を覗きこんでいる先生の前に座る。

…結果としては、大きな変化なし(先生は「誤差の範囲」とおっしゃったが、むしろ、良くなっていると解釈した)、また「半年後に検査」で、経過観察続行ということになった。

幸せは、ありがたさかな、我まさに

ほっとして、そこはかとなく、嬉しさが湧いてきた。

やっぱり私、気にはしないようにしていたものの、不安だったんだ。

よかった。ありがとう。よかった…。聖霊さんに護られているようにも感じた。また半年の自由が与えられたようにも。

トランプ旋風のあおりを受け、わが微々たる株資産は、かなりのダメージ(日経平均と連動せず、大損(^_^;))。だけど、それが何するものぞ。

私は元気だ。病気も自分で治す。

帰り道は、沁みる寒さも心地よく、

「ありがたい、ありがとう、幸せだ、ありがたい、ありがたい、ありがとう、よかった」と心の中で唱えながら、スキップして帰りたいような気分だった。

そう、私は幸せを感じていたのだ。

で…あっと気づいた。

お金払ってなかった!

駅までの道を半分くらい進んで、くるりと向きを変えて、お会計へ。

再びの帰り道、ふと思ったのは、

幸せとは、ありがたいと思えることかな、と。

何かビッグな幸運が訪れることではなくって、

ほこほこと、ありがたさが湧いてくることかな、と。

この喜びは私が身体に重きを置いている証拠なのかもしれない。結果がよくて喜ぶことは、結果が悪くて嘆くことと同じくらいACIMに反したことなんだろう。結果がよかった、というのもまた二元論の幻想。身体などそもそもないのだから。

でも、、、冷え込む夕暮れ、病院から駅へのキラキラとしたショーウィンドウの通りを歩きながら、私は、しみじみとありがたさと幸せを感じていた。

レッスン73-私は光が現れることを意志する。

2016-11-09

久しぶりのワークのダイアリー♪

10月末に英語版と日本語版で読み合わせしたものの、その後ワークがなかなかできていなかった。今もちゃんとはできていないけど、先に進むことにしよう。

レッスン73では、私たちが「神と共有している意志」と、それと対峙する「エゴの願望」を比較し、

私たちの世界の映像は内側にあるものをそのまま映し出すことしかできないと確認し、

私たちが本当に望んでいるのは幸せなのだから、

トラブルや不満を原動力として成り立つ「エゴの無為の願望」ではなく、「神の救済計画」を選ぶのだと確認した上で、

自分の中にある光に、再び到達しようと試みる。

レッスン69で同じように自分の内なる光に到達するワークをした時、光は現れなかったが、トンネルを抜けた先に仏像のヴィジョンが見えて、私はそれを「私なりの光」なのだと解釈していた。

だけど、それはどうもやっぱりちがうみたいだ。

レッスン73で言及している「light(光)」は、比喩的に使っているのではなく、実際に感じる実体としての光なのだ。

そして結果を言えば、レッスン73のワークでも、私はやはりその実体としての光を感じることはできなかった。雑念ばかり湧いてきた。エゴの幻想の世界にすっかり取りこまれていたからかもしれない。

聖霊に「なぜ光が見えないのか、どうしたら見ることができないのか」と尋ねてみたら、

「光が現れることを心から求める気持ちが、圧倒的に足りない」という答えが返ってきた(…ように感じた)。

そうかもしれない。

罪悪感が売り買いされ、不満が膨れ上がる

腑に落ちる、おもしろい、と感じたのは、ワークのこの説明だ。

「(エゴが主導する)この世界を維持するためには不満が不可欠であり、その不満を必要としている自我(エゴ)は、世界の中に多くの人を住まわせる。あなたを攻撃しているように見え、『正義の』裁きを受けるべきと見える人物たちである。彼らは自我(エゴ)が不満を商うために雇い入れる仲介人となる。」という記載。

そして、

罪悪感が売り買いされ、そのたびに不満が膨れ上がる、というこの奇妙な交換取引において、あなたの意志はあなたから失われている。」という説明。

不満をエネルギーとするエゴの世界のカラクリがうまく説明されている、と思う。

自分が「イヤだな」と思うことや人は、エゴの世界の推進力、つまりガソリンだ。神の世界の下では本来はありえない不満や不安、怒りなどを焚きつけてリアルだと思わせ、「それもこれも○○が悪いからだ」と罪悪感の他者への投影を促す。それによってさらに不満というガソリンを蓄える。

これで、自分の心を省みる必要はなくなり、神と私たちが見事に断絶された世界が作られる。

これこそが、エゴの世界の回し車であり、

これこそが、まさに私たちが見ている世の中ではないか。

トランプ第45代大統領誕生!

今日は米国大統領選の開票日。

先ほど開票結果が発表され、

なんと、まさか…のトランプ氏が勝利した!

私は政治のことはよくわからないけど、ワイドショーなどで見た選挙戦では、トランプ氏はACIMのいう“エゴの仲介人”の元締めのように見えていた。

米国の中産階級とブルーワーカーら保守層の不満と不安を焚きつけ、それを自分たちではない「仮想敵」のせいだとし、「古きよきアメリカ」という夢(私から見れば、蜃気楼)に向かうリーダーを買って出たように見える。

トランプさん自身は、自分が描くお話をほんとうに信じているのだろうか。70歳という年齢、このエゴのゲンジツの世で最後の夢に賭けようとしているのか。

ACIMの教えに沿えば、そこからもたらされるのは、より大きな失望とさらなる不安だ。

映し出しているのは私自身

でも、この選挙戦の映像を作り出したのは、他でもない私…。

みんなで見ている映画でもあるが、私が私自身のスクリーンに映し出している映画でもある。

私は、それをどう見るのか。今朝レッスン74のワークの瞑想をするなかでも、トランプ氏が大統領になったら、日本経済がえらいことになる、という雑念が出てきた。

これは、このゲンジツに不満と不安を感じているということ。私もこの不満の売り買いに知らず知らずのうちに参加して、エゴ世界にパワーを差し出しているではないか。

まあ、エライことだとは思うが、それを反応してリアルにすることはないんだ。実相世界に響くことではないのだから。。

私が聖霊と通じ実相を見るか、それをしないか、だけのことなんだ。

答えは、赦すこと。それだけ。

でも、イギリスのEU離脱の時もそう思ったけど、ありえないと思っていたことが起きちゃう映画だ、これ。心して観ねば。

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