奇跡講座ダイアリー

復習Ⅱおわり-レッスン61~80

2017-03-23

レッスン61~80を復習する「復習Ⅱ」が修了。

ここでは、初めて「赦し」という概念が出てきて、それが「私の機能(はたらき)」なのだということが示される。

また「不満」ということがどれだけ機能と逆行するものであり、ACIMの意図する神の救済計画への攻撃であるか。

だから、不満を「奇跡」と入れ替えるべき。そうすることができれば問題と思うものは存在しないのだと。

復習Ⅱのレッスン61~80の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編より』)。短いシンプルな文言が多くくりかえすうちに、復習Ⅱの元(英語)の主題概念は覚えた。英語圏の方とコミュニケーションする機会があったら唱えることができるけど、相手がACIMに親しんでる人じゃないと「なんじゃ、そりゃ」ってなりそう。。。

  日本語  英語
61私は世の光である。61I am the light of the world.
62赦しは、世の光としての私の機能である。62Forgiveness is my function as the light of the world.
63世の光は、私の赦しを通じて、すべての心に平安をもたらす。63The light of the world brings peace to every mind through my forgiveness.
64私が自分の機能を忘れずにいられますように。64Let me not forget my function.
65私の機能は、神が私に与えたものだけである。65My only function is the one God gave me.
66私の幸せと私の機能はひとつのものである。66My happiness and my function are one.
67 愛が私を、愛と同じに創造した。67 Love created me like itself. 
68愛は不満を抱かない。68Love holds no grievances.
69私の不満が、私の中の 世の光 を隠している。69My grievances hide the light of the world in me.
70私の救済は私の中から訪れる。70My salvation comes from me.
71神による救済計画だけがうまくいく。71Only God's plan for salvation will work.
72不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。72Holding grievances is an attack on God's plan for salvation.
73 私は光が訪れることを意志する。73 I will there be light. 
74 神の意志のほかに意志はない。74 There is no will but God's. 
75 光は訪れている。75 The light has come. 
76 私は、ただ神の法則のもとにある。76 I am under no laws but God's. 
77 私には奇跡を受け取る資格がある。77 I am entitled to miracles. 
78 奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。78 Let miracles replace all grievances. 
79 問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。79 Let me recognize the problem so it can be solved. 
80 私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。80 Let me recognize my problems have been solved. 

レッスン90-レッスン79、80の復習

2017-03-21

冷たい雨が降り続いている。“催花雨”というらしい。花芽が吹くには雨が必要だそうで、花に早く咲けと促す雨なのだとか。繊細で美しいな。昔の季節感は今よりもっと味わい深いものだったのかも。

気づけば、今年の冬は一度もエアコンをつけなかった。乾燥するし電気代も高いしと。もっぱら電気ストーブを連れて居住スペースと仕事部屋を移動していたら、不自由も感じなかった。しかし、今日は真冬みたいな寒さ。足元で電気ストーブが頑張ってる。

レッスン79:問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。

このレッスン79、これまで何度もくりかえし目にしてきて、やっと肚に入った気がした。

問題=不満

解決法=奇跡

、という見方。

不満がなぜよくないか。

それは、不満が自ら創りあげたものでどれだけリアルに感じようと実際にはないものだから。

それにかかずらうのは無意味だし、無益だ。

せっかくの奇跡の機会を奪っているから。

 

この世で自分の身に降りかかる不都合なことすべてを、

じつは「起こっていない」と見抜くのはむずかしいけど、

ついその理不尽さを嘆いたり、

正義をたてて怒ったりするけど、

問題とは不満、

解決法とは奇跡、

そして奇跡とは、真実を見通すこと。

だから、不満を赦し、それを入れ替わる奇跡を受け入れることが、自分を幸せにする。

ゲンジツで不都合なことに巻き込まれると、すぐに「問題とは何か」を忘れてしまうけど、このことをなるたけ覚えていられる時間を長くしたい。

リアルに感じられるように起っているけれど、問題は実際はない。私たちのものの見方の誤りでそう感じているだけで実際にはない。

問題が起こった、と思ったら、それを赦すこと。現実ではないと見抜きそれにまつわる感情をゆるめ弔うこと。

幻想に大きい、小さいはないと言うけれど、自分にとってインパクトがあることが起こっても、この原則を覚えて実行できたらいいと思う。

レッスン80:私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。

大畑学さんのWorkbook精読には「簡単に言えば、実相的には問題はどこにも存在しない。問題を抱えた時点で、あなたは幻想を抱いている、ということである。」と解説があった。

たしかに。。ゲンジツに問題があるように見えても、本人はまったくそれが問題ではなく動じず幸せのままでいるということも、理屈の上ではありうる。

今回ワークをやった際に「困ったことは起らない」というフレーズを思い出した。日本一の納税額(お金持ち)で有名になった斎藤一人さんの最初の本『変な人の書いた成功法則』にあったのだ。

昔すごい考え方の人もいるものだと感心し、それから何か困ったことが出会いそうな局面で「困ったことは起らない…困ったことは起らない…」と念仏みたいに唱えている。

この言葉は一元性の世界観に基づいているわけではないけれど、こう唱えるだけでもネガティブに流されがちな姿勢が正される。

レッスン61~80の復習Ⅱでは「不満」や「問題」がいかに光の道に反したものか、手を替え品を替えくりかえし説かれた。

不満・問題⇒幻想を見ている

⇒だから、それを赦す

不満を常に奇跡と入れ替えるということ。

よくポジティブシンキングというけれど、これがほんとうのポジティブシンキングなのかもしれないな。

二元性の光と影の光だけを見ようとするポジティブシンキングではなくて。

これは、ひとり家で穏やかにワークをしている時は「わかった」と思うけど、外に出て出会いがしらに猛スピードの自転車にぶつかりそうになった時には、すでに忘れている。

とにかく不満の芽を育てないようにしよう。赦そう。

なるたけ覚えているように、しよう。

レッスン89-レッスン77、78の復習

2017-03-20

「人生で二番目に大切なもの」と今朝の夢

世間では三連休の三日目。予定なし。春めいてきた。

昨夜のテレビで、ネットで話題になっている珍問答?、として、15日国会での麻生太郎財務相と山本太郎参議院議員とのやりとりを放送していた。

山本太郎議員が「人間が生きる上で、一番必要なものは何か。私は空気だと思います」と言った上で続けて「麻生大臣、人間が生きる上で、二番目に大切なもの。何だと思われますか?」と質問。麻生さんは、初め戸惑いながらも、

「私はこの種のわけのわからん質問が来たときには答えるのはひとつ。」

「人間が生きていくうえで大事なことは、朝、希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝とともに眠る。この気持ちだと思ってます」と答えた。その回答が、「かっこいい」とか「太郎対決の格のちがい」とか言われているのだとか。

私も、ふむ。たしかに、と思って、メモした。

メモするとき、「働き」は勤労だけの意味よりもっと広く「それぞれの人がそれぞれの役割を果たす」みたいな意味がいいとひらがなにした。

朝、希望を持って目覚め、

昼は懸命にはたらき、

夜は感謝とともに眠ること。

シンプルだけど、なんかいい。すごくいいんじゃないだろうか。

これは、山本議員が麻生大臣から二番として「水」の回答を引き出して「水道の民営化」の話につなげたかった質問だったとキャスターの人が解説していた。

そのせいなのか、今朝「貯水施設」の夢を見た。東京都に水を供給する、東京近郊の県内の貯水施設に仕事で行っているらしい。帰り際の雑談で「こういう施設も最近は都内に置くべきだという話がありますからね~」とかいう職員さんの話を聞いている私。

その後、その施設の管理人のおじさん(60代位の男性)と、その飼い犬がそっくりで、「(犬が)メガネをしたらホントそっくりですね」と私が言い、笑っている。

夢は概してヘンだけど。へんな夢。

でも、ふと「水」のことって知らないな、と気になった。水事情ってどうなってるのかな。あたりまえのように思っていたけど、家の水って蛇口まで毎日どこからどう伝わって蛇口に来ているんだろうか、と。

レッスン77:私には奇跡を受け取る資格がある。

3月9日にやった。

奇跡とはいわゆる超常現象のことではない。

不満や問題の向こう側にある、実相的な真実が具現化すること。

「実相的な真実の具現化(大畑学さんの精読版の表現)」のことをイエスが「奇跡」という名で呼んだのは、おもしろいと思う。

このコースのタイトル自体が「奇跡講座」だ。粗くいうと「(ヴィジョンを開いて)真実を見ろ」ということかな。。

レッスン77の文言は、私にはとくに訴えかけてくるものがある。

私には奇跡を受け取る資格がある。」と唱えると、何かが溶けていくような気がする。

愛は不満を抱かない。(l68)」とか、「私の不満が、私の中にある世の光を隠している。(l69)」とかの方がわかりやすい気もする。一方で「私には奇跡を受け取る資格がある」は“正気”を思い出せる気がする。

私(私たち)は、罪悪感の着ぐるみなのかな。

炎天下でも、それと知らず汗だくで着ぐるんでいる、そのぬいぐるみ。

「あんたは今ぬいぐるみを着ていて、それは脱いでもいいんだよ」と教えられたような。

でも脱いじゃうことは経験ないよ…

罪悪感は恥という感情とも深くつながっているんだろう。

この主題概念は、理由はわからないけど、私をダイレクトに癒してくれる。

誰でもより真実を思い出させる主題概念があるというけど、私の場合はこれがそうかな。たくさんの主題概念の中でも心に直接響くものだと思う。

それは資格だったか。

そしてそれがあるのか。

ありがとうございます。感謝します。

レッスン78:奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。

午後のワークは気が急いて上滑りしてしまう感じがあった。その日のうちに提出すればいいという仕事でも昼一番から追われている気がして集中しにくくなる。必要以上に焦るのは私の良くない習い性だ。

「奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。」というのは、誘惑に屈しないように、ということかもしれない。

崩れた姿勢を不満という杖で支えてバランスをとっているようなところがあるかも。

仮想悪や仮想敵を作って不満やグチを言い合う。具体的な相手がいなくても、社会とか、時代とか、政治とか、タレントの噂とか。

つい抑えていた不満やグチを出すと、一時は軽くなった気分になるけど、それは幻想の世にブーメランを投げただけのこと。またしばらくしたら、自分の所に戻ってくる。それは堅い。

そうではなく赦して、1つずつ終わらせていくしかない。

少しずつ。少しずつクリアに視る術を身につけていくしかない。

レッスン88-レッスン75、76の復習

2017-03-17

ワークをやった日と、それをダイアリーにする日とのかい離がまだ続いている。これは、3月7日と8日。もう10日位前にやったワークなんだなぁ。

3月11日には6年前の大震災当時を思い出し、気持ちがぐるぐるしてしまったけど、これもまたこの世で「神との分離」を再現しているのだ、これもまた他のことと同じ、赦すべきことなんだ、とあらためて思う。

「経済って何だろう」と、この世の経済のしくみに疑問…、のようなことを書いたけどそういえば、私は趣味でささやかに株式投資をしていて、その金融資本主義に便乗していた一人だった(^_^;)リーマンショック前に初めてその損失まだあり。儲けも出したいが、まず元に戻したい、と思ってちまちまやっている。会社の動き、世の中の動きと株価が複雑に絡んで動くの、よくわからないながらも、刺激的でおもしろい。

そして、これからも成長しそうでいいな、と思う株を先週末買っていた。ネット通販、公共料金のクレジットカード決済代行の会社だ。それが買った翌日に「不正アクセスと個人情報の流出」があったとニュースが…。ストップ安に~。あわあわ…。次の日、これからどうなるか見当がつかず、売り注文を出して外出した。

…で、売れてた。13.7万円の損確定。あわあわ…。

もちろん、これも幻想!!

気分を左右されることじゃない、と知ってる。もとい。

私って、、、。何やってんだか(>_<)

レッスン75:光は訪れている。

私がこの世で幻想ではなく、実相を生きるとはどういうことなんだろう。

ワークをしていて時々浮かんでくることは、「故郷に拠点を置く」ことだ。

これが聖霊に勧められていることかどうかわからない。けど、なんとな~く、高齢になった母の元にいた方がいいんじゃないか、と思う。

一方で少し抵抗も感じる。

家意識が強い北陸の故郷では、独り身で子どももいない私は肩身が狭い気がする。何らの「成果」もなく…、とも思ってしまう。どんな「成果」であれば許容されるというのだろう。

「故郷に拠点をもつ」…私の世界が広がることかもしれない。

その場合、どうやって生計を立てるのか。

親とはいえ、性格やリズムがまったくちがう今、一つ屋根の下で住む覚悟ももてないでいる。ただ、ワークをしていると、漠然とそうした方がいいのかな、と感じる。

それともう一つ感じるのは、私は「圧倒的に言葉が少ない」ということ。

ACIMは、究極的には「God is(神はある)」だ。だけど、それをそう説明するだけでは何ら意味はなさない。

これをこのゲンジツの世で表すには、いろいろな知識や言葉も必要かな、と感じる。ACIMを仏教と比較したら、とか、今の私にはまったく説明できないし。

歴史も、経済も、一般常識的なことも、ここ数年何でも「幻想だから」とやりすごし過ぎた感があるから、勉強したい、と思った。その方法として、放送大学とかもいいかな、などと思った。この春は間に合わないけど、また考えてみよう。

レッスン76:私はただ神の法則のもとにある。

むか~し、占いに興味があり、初めてタロットを買った日、裏返したたくさんのカードから「自分のカードを選ぼう」と無作為に一枚取った。

それは「星(スター)」というカードで、そのシンボルは“水を運ぶ人”、“チャネルの役割”。手にした水がめから水を浴びるような女性の絵がやわらかくて美しくて、それから自分のテーマも“水を運ぶ人”だ、と思うようになった。

当時、そのココロもいろいろ考えた。水は生命力や癒しや深層の感情を表わしていて、そうしたものを目の前の人に“運ぶ”ことを天命としたいのかなと考えた(大げさだけど)。

数年前ACIMと出会い、ACIMについて“水を運ぶ人”になりたいと思った。

でも、そうならば、そのはたらきに、もっともっと意識的になって、変えることがたくさんあるんだろうな。今の私はエゴの執着の元にある気がする。

『神の使者』に、

学び始めの頃は、「何かを捨てよ」と言われている気がする。が、ただそれらが無価値だと認識されるだけである、みたいなくだりがあったけど、

今も、何かを手放せと言われている気がする。そして、それを認めることに怯えというか、居心地の悪さを感じる。

東京ひとり暮らし、地位もお金もなく楽な立場ではあるけど、ふと思うと、その気楽な立場に執着があるんだな~

ACIMの勉強を始めて今年で5年目になるのか…短い長いのかわからない。濃いか薄いかもよくわからない。

完全に私を守ってくれる神の法則を大事なものと思いつつ、未だに怯えのようなものを感じている私。

一生こうしてこわいのかな。

ACIMを学んでいるというお題目を掲げつつ、神から逃げている?

6年目の3.11

2017-03-12

6年前のあのとき

昨日は東日本大震災から6年目の日だった。あの時のことを思い出した。

2011年3月11日午後2時26分に1回目の地震発生。午後3時15分に2回目の揺れ。その後大津波、そして原発事故。

私は東京の錦糸町で占い鑑定の契約仕事の日だったが、一緒に仕事をしていた先輩とすぐにお客を帰して店を閉めて、いっしょにバスに乗って、時間はいつもの4倍位かかったが、無事帰宅することができた。

最初は何が起こったのかわからなかった。

翌日テレビで大津波に飲み込まれていく建物や車を見た。行方不明の方の数が増えていった。こんなことが実際に起こるのか…と、ただ茫然としていた。企業CMが消え、くりかえしくりかえし流されるACのCMが不気味だった。

あのとき、日本人が戦後信じて頑張って積み重ねてきた産業信仰みたいなものが、一気に崩れた気がした。ガーンと頭を殴られたようなショックがあった。述べ95万人もの復興ボランティアが駆けつけた。日本全体で「もっと便利に、もっと豊かに」という生き方そのものを見なおそうと、気持ちをひとつにした。今ではそれも薄れてきている。

亡くなった方、

その家族の方々。

今も復興途上で辛抱を続けている方。

人生が大きく変わってたいへんな思いで日々を生きている人。

ものすごいことだった、とても悲しいことだった、と改めて思う。

この現実を赦すとは?

ACIMを学び、厳しい現実もエゴが見せている幻影だと知った。

現実のできごとに対する感受性が鈍化している自分がいる。そしてそれに罪悪感を感じている自分も。

でも一方で、これもまた赦すべきことだ、と思いなおしたりしている。

こうした厳しく恐ろしい現実に直面したとき、どうしたらよいかわからなくなる。

心の中では、常に赦すということ。

では、ここにいる私の行動は?

この世はすべて幻想なのだから無頓着でいいということとはちがうだろう。

『神の使者』を読みACIMのワークを始めてから、乱暴な例えかもしれないけれど、この世をロールプレーゲームのようなものと見ている。

ここにいる自分はゲームの中の主人功として生きている、そして実はそのゲームをしているもう一人の自分がいる、という見方だ。ゲームの中のことは幻想だから、それに囚われず、今も神と離れていない真理に目覚めること。それが真に生きるといういことだ、と学んだ。

だからといって、どんなことがあっても、ゲームの中のこと…と割り切っていいものだろうか。

「赦す」ことを意識している私は、ただ共感力の乏しいドライな人間になっただけではないか、とも思う。

コストって? 経済って? 発展って?

あのとき、津波で原子力発電が停電した事態について、専門家がテレビに呼ばれ、ずっと「万が一メルトダウンしたら、大変なこと」と言い続けていたが、結果的にはメルトダウンはすでに起きていた。

1ヶ月後、事後の甚大さはチェルノブイリ事故と同じ「レベル7」に引き上げられ、後々チェルノブイリをはるかに超える放射性物質が出てしまったこともわかってきた。今もどう収束できるのか見えていない。

あの時命がけで陣頭指揮を取って日本を守った福島第一原発の吉田所長は2年後に亡くなった。震災とは別だけど、私の父も旅立った。6年の変化は大きい。

原子力はCO2を出さずクリーンで低コストなエネルギーだと聞いていたけど、コストとは何だろう。

どこまでがコストなのかな。お金で換算できることと、できないこと。

経済とは何で、

発展とは何で、

豊かさとは何なんだろう。

こう思いを巡らせる私は、実在しない現実に巻き込まれているのだろうか。

これこそが私が赦すべき現実なんだろうか。

東日本大震災を赦す、とは?

たぶん、そうなんだろう。。。

では、「ゲーム」の中の小さな私の生き方は?

何かと闘ったりはしないとしても、このうつろう現実のなかで、どう生きたらいいんだろう。

やはり目の前の人、出会う人、縁ある人を、赦し、愛する、ということかな?

じゃあ、それができているかな?

ACIMを自分なりに学び、浸透させようとしているけど、独学で勘ちがいしてベクトルをまちがえたりしていないかな?

ただ社会に無関心になり、事なかれご都合主義を助長させているだけではだめだよね。

東日本大震災を赦す、とは、ここに体を持って在る私がどう動くことだろう。

あの震災直後ありえないことに直面して、ACIMと出会う前だったけど、一瞬“正気”に戻った気がした。

ACIMを少しだけど学んだ私は、

東日本大震災のぜんぶをどう赦すのか。

赦した私は、どう考え、どう動くのだろう。

レッスン87-レッスン73、74の復習

2017-03-11

私にとって土曜日は街の空気が緩んで、逆にマイペースで仕事に向かる日。フリーランスは暦は関係ないとはいえ、街の雰囲気で私のリズムもなぜか影響受けるのだ。

急ぎ目の仕事があるから、やるど~と思っていたけど、気づいたら1時間以上、インターネットで春のシャツブラウスを見てた。あれやこれやディテール見たり、サイズを確認したり、良さげなもの同士を比べてみたり。ネットショッピングにも体力がいる。

新しいワークもやりたいところだけど、それはやめといて、月曜のワークのダイアリーの更新を。

レッスン73:私は光が現れることを意志する。

ワークから感じたことは。

「問題がない(実在しない)ことに対する不安を手放せ」

ということ。

私たち(というか私)は、自分の心や時間を「解決すべきこと」で埋めるのに忙しい。

そして問題と見えるものがあるときは、

鼻先にニンジンをぶら下げられた馬よろしく、ニンジンを得ようと、(ACIMの)光を避けてしまう。そして、それが解決済みとなると、光に目を向けるのではなく新たな問題で心や時間を満たそうとする。そして、それが人生だと思っている。

「ただ、いまの瞬間にこそ、光を意識せよ」そう言われた気がした。

私たち(私)は、自分の心の不安と均衡させるべく、外での問題を見つける。

そういえば、今朝の田舎の母からの電話があった。かつての店だったところを借りてくれているテナントさんが、次の契約はせずに店を出ることになった、という。空き店舗のままでは税金が払えない、売ってしまいたいが売れるか不安だ、と言っていた。どうしよう、私に新テナントさんや買主さんを見つける力があるとは思えない。

そう、問題というのはいつだって起る。というかあるものだ。

問題には、不満や課題、夢といったものも含まれるだろう。

○○だったら、私は幸せなのに。

○○だったら、私は光に満たされるのに。

そうではなくて、

誰の心にも光はすでにある。

それを意志を持って見ること。。。なんだろう。

今日光を導き手としよう。

レッスン74:神の意志のほかに意志はない。

こうは思いきれない自分がいて、こう唱えると逆に少し不安を感じる。

不安を感じているのは私のエゴだろう。

この世のゲンジツの中で自分の安全が脅かされていると感じたときに、このことを思い出し、正しく判断できるだろうか。

どんなときでも幻想を幻想と通りすぎて、闘う者にならずに生きることができるかな。

神の意志のほかに意志はない。」と言われた時に、自分の考えや好きなものや居心地がよいと感じたものなどを手放すように迫られている気がしてしまう。

ACIMのどこかの文章で「単にそれは無価値なものだと認識されるだけだが、最初のうちはそれがわからない」というような文言があった気がするけど、そんな感じが、まだまだある。

だから聖霊の声をもっと聴きたいと思う一方で、今の自分に不都合なことを聴いてしまったら(どうしよう)、と思うような自分もいる。

えらい遠い道のりだな。こりゃ。。

レッスン86-レッスン71、72の復習

2017-03-10

3月10日お昼。外はよい天気。

ワークは少しずつ進んでいて今朝はレッスン90をやった。でもダイアリーブログは少し滞っていて、ワークとブログにちょっとした差ができている。本当はなるたけ近いほうがその時のままの気持ちで書けてよさそうだけど。ダイアリー、追いつかなきゃ。

レッスン71:神による救済計画だけがうまくいく。

本ワークをやったのは先週土曜日だった。

そこで感じたことは、

神による救済計画だけがうまくいく。

…のならば、今みたいに、自分の余力、余時間があればACIMを入れるといった感じじゃなくて、生活全体をACIMを軸として組み立て直すこともできるのではないか。

…と。

いつも「気力体力が乏しくて」とか「生活費をもっと稼がなくちゃ」と言っているけど、それば、私の生き方の結果そうなっていることで、いわば「不満」だ。

もっとACIMを中心にストイックというか意志的になれるのではないか。

ふとしたきっかけで、去年から市川海老蔵さんのブログを見始めた。これまでテレビで見ていた印象と異なって、歌舞伎役者という使命を果たすべく毎日のトレーニングや食事その他すべてが組み立てられているように見受けられた。

特異な立場の方だし、そもそもものすごく体力気力に満ちた人だと思う。また持って生まれた性格なのか育ちなのか、大勢の人の中でも自分のペースでいるのがとても上手い人みたいだ。

私とはタイプが別!スペックがちがいすぎる…と思ってしまうけど、少なくともライフテーマを生きるための習慣づくりは見習えるのではないか。

そして、小刻みで忙しそうなスケジュールの中でも気を抜くところは抜いて、自分のスタンス、リズムを調整し続けているという点では、お手本にすべきでは?

舞台なんてあったら、どんなに小さなものでは私ならば半月も前からキンチョーでコチコチになっていそうだけど。

たぶん、キンチョーのなさというのも、無意識での自己肯定感、罪悪感の少なさと関係がある気がする。

私も、もっとACIMのトレーニングを進めていけば、あがり症や過緊張も緩み、疲れにくくもなるのかもしれない。

とりとめのなく書いたけど、要するに

自分の生活のなかのACIM関係の時間を、ちょこっとずつでも意識的に増やそう、ということかな。

レッスン72:不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。

私は、実に“ストライクゾーン”が狭く、不満が多い人間だ。不満を人に言うことは少ないけど、実際そう。

フリーランスで仕事をしていることも、ひとり暮らしをしていることも、突き詰めればわがままな性格で自分の好きなようにやりたいからだ(かといって、実際好きにできたり、また結果的にそれがプラスになったりするとは限らないが…(^_^;))

エゴが見せてくれる「不満」は、巧妙で、

保つべき秩序やマナーだったり、完璧主義だったり、憎むべき社会悪だったり、寂しさだったり、加齢や悪天候へのつぶやきだったり、将来計画だったり…

いろんな形でやってくる。

意識的にならなければ…。

私の心から出る9割が何らかの「不満」だ。

こうだったらいいのに、とか、あと少しこうしてくれたら、とか。

ということは、私は日頃から、神の救済計画を攻撃しているということだ。

「不満」は、「理想」とセットになって、この世で市民権を得ている気がする。

不満を見つけることはビジネスチャンスにもつながる。その不満をつぶして、またひとつ豊かに…

そういう思考も自分の中にあって、つい不満にフォーカスしてしまう。

不満があったから、人間社会というのが発達してきた。だけど、出始めの頃は「すごい」と喜んでいた新機能は、すぐに「あたりまえ」になり、そのうち新しい優れものが出てきて「不十分」となる。そのくりかえしだ。

豊かで便利になったんだよな。そのおかげで。

ィコール幸せ、でないにせよ。

不満は「あたりまえ」と思う気持ちから発しているのかな。

あたりまえでなく、有り難し…

あたまでっかちか。わたし…

レッスン85-レッスン69、70の復習

2017-03-06

6、7年前、週に何度かショッピングセンター内で手相鑑定の仕事をしていた。まだACIMと出会う前のことだ。

今日はその時一緒に店に出ていた女性と数年ぶりにランチをご一緒した。その方は今も週3回位占いの仕事をなさっているとのこと。ボランティア精神あふれた人間味のあるベテラン鑑定士さんだ。

この数年間の人生の変化や共通の知人の話などをして、楽しい時間を過ごした。占いではお客さんの重い話を聴くことも多かったけど諸々含めて楽しい仕事だったと、当時を懐かしく思い出した。

今となってはACIMの考え方がベースとなっているから、手相や暦から、「あなたの運はこうですよ」という仕事はできなくなってしまったように感じている。

「この世はリアリティがあるけど、実は幻想なの、あなたが出会う人や出来事を赦すこと。それこそが大事なんですよ」と伝えることは、占いには当たらないだろう。そういうアドバイスを求める人が、世の中にどれくらいいるだろうか。

レッスン69:私の不満が、私の中の世の光を隠している。

私がワークをする時には、ACIMのホームページで該当するワークを英語で聴いて、日本語訳を読んで、大畑学さんの精読版の解説を読んで…というパターンが多い。

大畑学さんの精読版は、英語の訳や解釈もあるしACIMの本質もわかりやすく説明されていて、サブテキストとして重宝している。

その大畑さんの精読版に、「不満とは、直面している自体の責任を外部世界に向かって投射し、怒りの中に自己の責任を回避する行為である」との説明があった。

的を射た説明だな、と思った。

「不満=責任回避行為である」とスパッと言い切っていて、腑に落ちた。

一方で、学び方が浅いのか、自分のゲンジツの状況が不都合な場合の対処は未だによくわかっていない。

例えば、自分が店を経営していたとして店内で万引きをしている人を見つけたら…、

もちろん、それは「不満」ではないよね?

かたちの上では社会規範に則って、警察に通報するなどの行動をしつつ、

一方、心のなかでは、赦すということなのかな。

その辺りの具体的な対応がよくわかっていない。

実際にそんなことがあったら、赦すことを忘れ憤ってしまいそうだけど。

ニュースやワイドショーなどで毎日取り上げられている実際の事件でも、孫がおじいちゃんを殺害するなど残酷なものが目にとまり、被害者に同情し加害者には、なんてひどい愚かな…、と思うけど、これもACIMを学ぶ者としては、赦す、しかないんだろうな。

どう解釈・対応してよいかむずかしく感じることが多いけど、まずは、自分自身の目前のことから…

前よりは、少しは不満が減ったか。。少しずつ、少しずつ。

それでよしとしよう。

レッスン70:私の救済は私の中から訪れる。

自分にはどんなふうに見えても、

自分の救済も、また罪悪感も、自分の中にのみあるのだということを思い出そう。

社会的に酷いことが起こっているように見えるとき、

こう捉えることは無慈悲でクールすぎるように思えることもあるけど。

私の心の中のスタンスとしては、この立場をとることにしよう、思い出せたときには。

そして、しばしば、思い出せるようにしたい。

レッスン84-レッスン67、68の復習

2017-03-04

3月に入ってもこれまでけっこう寒い日が続いていたけど、今日は日差しが暖かく春らしい日だった。

薬が安いので時々利用している巣鴨のドラッグストアに行こうと思ったら、地蔵通りは「4の付く縁日の日」ですごい混み合っていた。私はただ目的地へ。

どことなく、いよいよ動植物の活動期に入った気がする。

レッスン67:愛が私を、愛と同じに創造した。

Love created me like itself.

この67は、ワークの主題概念のなかでも好きな文言だ。短くて強くて力を与えてくれる気がするから。

ワークをしてすぐに感じたことは、

もっと自信をもて。

ここにぶれずに立て。

だった。

愛が私を愛と同じに創造したところ、

そこにちゃんと立てたら、私の行動は変わるんじゃないか。

エゴに塀を築き内向きに護りを固めようとするのではなく、

溢れる泉なる愛を、愛が枯渇してしまったと勘ちがいしているところへと運ぼうとするのではないか。

そう感じた。

内なる聖霊は私に伝える(私がそう感じたこと)には、

「あなたの面倒は私がちゃんとみる。

あなたが死守しようとしているエゴは幻だ、

幸せを愛に背を向けるな。」

……、まず一歩は、緩めることかな、いろいろと?

と感じた。ふと50半ばにして未だ中二病か、と自分ツッコミが浮かんだけど、これは…

レッスン68:愛は不平不満を抱かない。

これも短くて、核心をついている文言だ。

とくに私は小さい頃から、親に不満や反抗心を抱いていて、表面的には周りに合わせつつも、本心は隠して自分の内に籠るような子どもだった。不平不満がどこか習い性のようになっているのだ。(当時の親を超える歳になり、いろいろな人生経験を経てようやく感謝できるようになってきたけれど)

不平不満がそんなにも良くない、自分にダメージをもたらすものだとはACIMを学ぶまで思っていなかったけど、

A.不満を抱く… ・自分の源が神(愛)であることを否定。

         ・憎悪の夢のほうにチューニングが合っている。

B.満足・感謝… ・自分の源が神(愛)であることを肯定

         ・実相をみる準備ができている。

 となるから、Bを選ぶべきなのだ。

不平不満を抱いている自分はエゴに立った自分で、本質ではない。

心の姿勢のテーマで、

姿勢は無意識的なクセだから、これを正していくしかないんだろう。そして無意識だから、気づいたらその都度、ってことかな。何度も。

               *

自分がやっいること、このワークやそのやり方や、それを稚拙ながらブログにしていること、まったく無意味なことを…とも思うけど、

復習になっているような気もするから、今年の活動期も続けたいなと思ってる。

「この世界の片隅に」 観てきた

2017-03-02

昨日は「映画の日」、「この世界の片隅に」を遅ればせながら観てきた。よく観るブログとかでも「観てきた、よかった」と紹介されていて、気になっていたのだ。

ひとことで、「すごくよかった!」

戦争の映画が苦手で観られない方だけど、これは別物。そこに生きていた人の日々の暮らしを、少女、北條すずを通して見せてくれて、まるで自分がその場に入ったかのような感じだった。

戦争って50代の私ですら、遠いことのように感じているけれど、約70年前の日本でのできごと。おじいさん、おばあちゃんの時代。父母が子どもだった時代。長い歴史のなかではごく最近のことだ。

そこで、北條すずさんとその声を演じるのんさんの、ほっこり感と、広島から呉に乞われてお嫁に行って、そこでの生活になじんでいく日常感。そこに徐々に入り込んでくる戦争の非日常性と残酷さが、対比されて見えて、やるせない気持ちになった。途中でツーっと涙が頬をつたった。70年という近い過去に現にその人たちは生きていたんだ。

そして今私たちは、物があふれる世の中に暮らし、ネットの出現で世界ともつながっている。この変化の鮮やかさよ。それがいいか悪いかはわからない。でも70年という時間の短さとその変化の激しさと。なんかすごい。

そして、私たちが「あたりまえ」と思って享受している、この豊かさは、改めてあたりまえではないんだと思った。先人の努力によってここまで来られたんだし、今も平穏さと豊かさを支えている人がいてこそ。

映画では戦争という悲惨さとは別に、戦況が激しくなるまでの田舎の自然豊かさや人と人とのぬくもり感や時間のゆったり感に、今では失われたような豊かさも感じた。何だか懐かしいような気もした。

変化。時間や場面の切り取り方によっても変わるけど。変化。

ACIMでいえば、すべては幻想だけど。今私たちが目にしている変化。

まずは自分の心を平穏に保つところから。

この映画、母に見せたいな、とも思った。いろんな思いが巡るのではないかな。

もっと長くやってほしい、日本のもっと多くの人とも共有したいし、世界の人とも共有したい、そう思った。

レッスン83-レッスン65、66の復習

2017-03-01

早くも今日から3月。でも、けっこう寒い。

昨日ひとりでやっている会社の申告書を出して税金も(定額の7万円だけだけど)払ってきて、一服。いつもこれが苦手で一年のうちで2月~3月にかけてが憂鬱。今年もようやく終えた。

非常に緩慢に進んでいる私のACIMの勉強とワーク。もっと頑張ってもいいはずなんだけどなぁ。。自分の余力と生活の隙間がある時しかできてない。やめてしまわないことが目標、とは志ひくすぎだけど(^_^;)

おとといレッスン83をやった。

レッスン64:私の機能(はたらき)は、私が神に与えたものだけである。

このワークから私が感じたことは、

私は「出し惜しみ」しているかも、

ということだった。ワークからメッセージを傾聴しようと目をつむるや否や、「出し惜しみしているかも」と浮かんできた。

ACIMに対し?

その他の様々なことに関しても?

年を重ねた生きる智恵なのか、40代後半から衰えを感じている気力体力を温存しようと、どこかに「余」をもたせておきたいというのが、ここ数年のスタンスになっている。

これは今の私がゲンジツに生きるのに必要だと思っていたけど、すべてに内向きな護り傾向になっているのかもしれない。

(「まもり」とキーボードを押したら、「護り」と出て、あれ「守り」とどう違うのかな?とネットで見てみると、

「守る」は 大切なものとして持ち続けること。
(例) 宝を守る 約束を守る 伝統を守る 沈黙を守る 見守る
「護る」は 攻められることがないように持ち続けること。
(例) 国を護る 辺境を護る 身を護る 銃後の護り(角川書店 漢字用法辞典)

と。私のは「護る」か、やはり)

そして、それが「出し惜しみ」という姿勢になっているのかも、と思い当たった。

おそらくその心の奥には、不安感、恐怖がある。

とにかく物事を円滑に進めるためには、エネルギーを消費しつくして枯渇してしまわないように…と思っているけど、ここ数年、疲れやすくて気力体力不足を感じているのは、恐怖に基づいた考え方の「結果」なのかな、と感じた。

私は、

疲れやすい→(だから)省エネモードで→(その結果)出し惜しみ… していることがあるかも、と思ったけど、それは逆で、

不安・恐れの気持ち(の投影)→内向きにガード→疲れ… という因果があるのかもしれない。

日常生活のあり方のクセなのか、いつも不必要に緊張し体に力が入っていて、だからこそ疲れている、ということがあるかもな~とふと思った。

この世のゲンジツにまったくネガティブに引きずられないということは、なかなか現段階の私にはむずかしい。

私は表面的には、穏やか、やさしい、と言われることが多いけれど、心の奥では、ずっとファイティングポーズで生きているのかもしれない。無意識で身につけたクセかもしれないが、それを意識して緩めるときなのかもしれない。そう感じた。

レッスン65:私の幸せと私の機能(はたらき)はひとつのものである。

この文言、わかる、うん、わかるような。え、でもよくわからないような。わかるんだけど… という感じ。

ACIMの究極の教え「God is(神はある。それ以外はない)」を信じれば、私たちが奈落の底に落ちることはない、セイフティネットがある、ということだ。

それは原初からある。

この世でどんなに明るく楽しくやっていても、ふと顔を出すやるせない不安や恐怖感というのが誰にでもあるのではないか。

それは自作自演のドッキリだった。

それを思い出すということ。

自分の機能(はたらき)を思い出し、全うしてこそ、同じところにある幸せが見えるんだ。

自分が適用した(採用した)見方・考え方が自分の世界を創る。つまり世界観がゲンジツになる。

恐怖の論理は恐怖を強める。

愛=神を強めれば、愛が=神が強まる。

そしていずれ愛=神しかない…とわかるのかも。

私は頭ではACIMの考えがすばらしいと思っているけど、肚落ちがいまひとつなのかもしれない。おそらく、それは圧倒的に実践とくりかえしが足りないからなんだろうな~と思った。

筋トレだ、たぶん、要領は。くりかえし、毎日、そして負荷をかけていく。

といっても筋トレしたことないけど。たぶん。

ACIMは体をエゴに基づくものとして重きを置いていないけど、春だからか、ふと筋トレしてみたく、今、なった。話がずれてきているかな。

レッスン82-レッスン63、64の復習

2017-02-25

先週の土曜日、レッスン82をやった。

今日はあれから一週間か…。外は日差しが出て青空にぽっかり雲が浮いている。寒さが少し緩んでいる。あ、そうだ、昨日からプレミアムフライデーというのがスタートしたらしい。私には無縁の制度でぴんと来ないけど。

この一週間は、経営計画やマニュアルづくりをお手伝いしている企業さんの研修に参加したり、商業活性化プロジェクトに携わっている商店街のバス視察旅行に参加したり、友人宅に行ったりと、私にしては外交的な一週間だった。土曜日、窓から外を見て、ふと我に返る。

レッスン82のダイアリーから…だ。

レッスン63:世の光は私の赦しを通して、すべての心に平安をもたらす。

レッスン61~63には、「私たちは世の光であり、赦しが世の光としての機能であり、世の光である私は赦しを通してすべての心に平安をもたらす」のだと説かれている。

赦しは、私を通して世の光が表現されるための手段であり、結果として癒されるもの。どうも赦しというのは手段のようだ。

何の?

私たちがしている勘ちがい「神からの分離」を取りなすための。

究極的には、この宇宙という幻想から覚める

宇宙を終わらせるための。

宇宙が消えるのなら当然自分も消える。いや消えるのは自我の方だ、そもそもなかったのだから。

それに本能的に強い恐れを感じる。それは私だけではないだろう。

ACIMがさほどは広がらないわけだ。

エゴをどんどん追及してエゴゲームに勝つことがこの社会での“成功”だと認められているように感じる。

資本主義が進むにつれ勝負はつきやすく、その度合いもグローバルに広がりやすく格差が大きくなるようなしくみにいる。

このゲームでの勝ちに執着できない人や勝てなかった…と思う人にとっては、ACIMは少しは受け入れやすく理解しやすいものだろうか。

誰かが他にいるわけじゃない、勝つ相手も負ける相手もいない。

私が私を赦すのだ。この現世を使って。

私の今関わっている仕事は、基本的に企業やお店の経営のお手伝いだから、いかにお客を集め売上や利益を上げるのかが重要になる。そのためにはどうしたらいいのか、この世に立った視点と、この世はすべて幻想なのだからと取りなす自分の視点がある。

いつものことだけど、ゲームの主人公とゲームプレイヤー、二人の自分がいる。

きっとACIMを学んでいる他の方々も、この世での自分の役目を行いつつ自分のACIM道を進めているんだろうな。

今週はけっこうこのゲンジツの世にどっぷりだったから見え方はゲームの主人公よりだった。それもまた楽し。

レッスン64:私が自分の機能(はたらき)を忘れずにいられますように。

ACIMワークを一巡させていたこの2、3年を振り返ってみると、赦しを実行するというよりは、ともかくワークを進めることと、この世を幻想とみなし執着しないことに重きを置いてきた気がする。

その結果、何を見てもしても「どうせ幻想なんだから」と斜に構えたような現実逃避的な感覚が強くなり、仕事も建前的な感じが強くなった気がしていた。こだわらないのはいいのか、良くないのか。少しずつ周りのみんなと話が合わなくなり、それを口にしないので、口数が減った。

人から見たら、まっとうな変人だ。若い時からそうだけど、ますます…(^_^;) 50代にもなると、人から変人をツッコまれることもなくなり楽ではあるけど。

それが最近は前より、現実に興味が湧いてきた。赦すことさえ覚えていれば、この世をどんどん楽しんでいいんじゃないかと。たぶん、私は赦しがうまくできないのを自覚して、その機会からも逃げていたような気がする。とにかくワークをまず一回終わらせたいと先を急ぐ気持ちもあった。本末転倒なんだけど。

外は春の兆し。この世のゲンジツのあれやこれやも楽しんでもっと人生謳歌したいな、と思うようになってきた。

これはACIMからの距離で測ったら、離れたのかな、そうではないのかな?

このレッスン64のワーク「私が自分の機能を忘れずにいられますように」だけで、一項目になっているところはおもしろい。それだけ忘れやすいということなんだろうと思う。

歩いていて、後ろから猛スピードで自転車が自分の脇をすり抜けていく。怖い…。乱暴な運転だな。たかだか、そんなことですら、私は私の機能を忘れてしまう。

赦すべき機会が訪れたら、そして自分の機能を覚えていたら&思い出したら、赦す。それだけなんだよな。実にシンプルだ。

赦しには大きいも小さいもないって言うけど、今、自分に来る全部を赦せる自信はない。でも、私がなるたけ忘れずにいられますように。

レッスン81-レッスン61、62の復習

2017-02-17

昼。今日の関東はぽかぽか陽気だ。19℃位まで気温が上がるとか。風がすごく強くて洗濯物が飛んでいきそう。花粉症の私にとっては、いよいよ花粉の季節到来だ。薬を飲んだりしたことはなくほとんど放置…だけど、今年はどうだろう。すでに耳かゆいような。

二回目の復習の時が来た。しばらくワークにブランクがあるから、ここにきてまた復習できるのはありがたい。

レッスン61~80まで2つずつ、一日の前半はそのうちの1つの主題概念に、後半はもう一方の主題概念に捧げる、とある。中心となるワークは、主題概念を理解したうえで静かに心からの声を聴くことだ。

ワークブックには、「あなたを待っているメセージがある。自分は必ずそれを受け取る、という自信をもちなさい」とある。

レッスン61:私は世の光である。

私がこのワークで感じたこと…

主題概念を読んだ後心の声を聴いた時すぐに浮かんだことは、「私が世の光ならば、ワークの影に隠れているのではなく、照らす機能(はたらき)があるのではないか」ということだった。当然聖霊さんと二人三脚で。

受け取ったメッセージは、

私はフリーランスで経済的に不安定なことや、気力体力不足を感じ毎日の生活を回すのがやっとだと心配しているけど、

実はシンプルなんだ、

何も心配せず、自分のACIMプロジェクト(ワークやテキストやその他)を感じたままに続けさえすればいい。あとは周りに感謝をするだけ。

それだけで、光が照らす道が開ける…と。

その他諸々必要なことは都度与えられる…と。

難しさがあるとすれば、それを信じてエゴを明け渡すことができるかどうかだけだと。

いかにもACIM的なメッセージのように思える。そして、同様のメッセージを繰り返しいただいている気も。

ワークによって、「自分が世の光と知ったのなら、世の光らしくふるまいなさい」とも言われた気もした。

でもねぇ、、もう一方の自分からツッコミが入る。

しかし「いえいえ、私なんか」というのは、謙遜ではなく自己卑下。裏返せば傲慢なんだ、とメッセージの続きが…。

 

傍からみると、すべて暇人の妄想と見えるかもしれないけど…。

ともかく、自分なりのペースで、日常生活とワークを続けていこう。

レッスン62:赦しは、世の光としての私の機能(はたらき)である。

「赦し」というのは、ACIMワークの中心的概念だ。

ワークをして、やはり、赦しを徹底することが大事、と感じた。

そして赦しが必要な兆候としての自分の「不満」の気配にも敏感でいること。

今週日曜に年上の友人の絵の個展で買った小さな絵のタイトルは「クジャクの嘆き」だった。作者である友人は、絵の中のクジャクが世の中のいろんなことをみんなが当たり前だと思っていることを嘆いているのだって、説明してくれた。

「ほんと、当たり前のことなんてないのよ。私たちこの世に自分で作っているものなんて、何にもないんだから。与えられているのは当たり前じゃないのよ」と。

たしかにな~、私は毎日ご飯を食べているけど、一回も自分で釣ったことないし、お米も作ったことない、野菜も。服もそうだ、コンタクトだって。そう考えるといろんなことがありがたく感じてきた。道も作ったことなければ、テレビも。もちろんスマホも。

そう考えると、少しでもお返しするには、自分に与えられた仕事や役割をちゃんとやることを通してしかないよな。

実際には、寒いってことだけでイラだつ私だ。

すべては当たり前でないってことを忘れないこと。そして私に来たしごとをしっかりやること。都度感謝して、それを表すことなんだな。

どれも得意とは言えないかもしれないけど。

レッスン80-私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。

2017-02-13

レッスン80-私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。

これは、1つ前のレッスン79「問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。」の続き。

私たちには、1つの問題しかない。それが「分離問題」―神から自分から離れてしまったと勘ちがいしていること。そして、それは勘ちがいなのだから、それに気づきさえすれば、問題と思っているものはそもそも存在しないのだ、とわかる。

レッスン80に書かれているとおり、

One problem, one solution.  (1つの問題と1つの解決法があるだけ)

なのだ。

そうは言っても、私たちはエゴのものの見方が定着しているから、「問題がない」って言われても…あるじゃん、となる。ものの見方を変え習得するには、長い訓練の積み重ねが必要だ。

「私の問題はすでに解決されている」と自分に繰り返し、ものの見方を変えようとする訓練が、このワークだ。

解決法は問題に内在している。あなたには答えが与えられており、あなたはそれを受け入れた。あなたは救われている。

この考えを受け入れられれば、心には平安が訪れるはず。自由で心安らかなのを感じることもワークに含まれる。

つまり、私たちが問題だと思っていることは、「自作自演」であり、まちがった自分であるエゴが、自ら問題を作りだし、それに悩み苦しんでいるにすぎない、ということになる。

これは、この世の考え方とは真逆だし、かなり奇想天外なことだと思う。

でも、私はACIMの考え方を信じて受け入れようと思う。

私たちは、今ここで、幸せであってもいい。平安であってもいい。

問題はたった一つであり、すでに解決済み。それを何度もくり返し、言い聞かせよう。

ワークをやって感じたこと

昨日の午前、このワークをやったとき、私の心に浮かんだことは、

私は、ひとり暮らし&基本ひとりで家でやる仕事…で、ひとりでいすぎていて、「さみしい」と感じている、ということだった。さみしいと思う一方で、ひとりでいるのを好むのだ。

⇒なぜひとりでいすぎるのか。

⇒ヒトに対してキンチョーしてしまう、その結果すぐ疲れてしまう。

⇒おそらく根底にヒトに対する恐怖感みたいなものがあるんだろうなぁ。

⇒それはOne problem、つまり、神から自ら離れてしまった罪の意識とそのことを罰せられるだろうという恐怖の再現ビデオみたいなものが、私の場合はそういうかたち(人への恐れ)で出ているんだろうな

⇒でも、それはそもそも勘ちがい

one solution、それに気づきさえすれば、すでに解決済み。

⇒恐れることはない、平穏でいていい、平穏であるべきだ。

という一連の思いの流れだった。

元々内向的だったが、ACIMの勉強を始めてから、ACIMにしたがって物事を見るように訓練していたら、ますます浮世離れしてワークや勉強の影に隠れるようになってしまった気がしている。

赦しの機会は人と触れ合ってこそ得られるものだし、愛は分かち合うものだし、これでは本末転倒だろうとも思う。けど、この2、3年位はそうだった。

友人の天使画展で刺激を受けた

昨日午後には、「天使画展」という絵の個展に行ってきた。もう10年以上前に、あるスピリチュアル系のセミナーでご一緒だった素敵なちょこっと年上のお姉さんで、その後もおつきあいさせていただいていたが、この数年はお目にかかる機会がなかった。

神楽坂のギャラリーには、ほっこりする天使の絵や、動物の絵があった。今回は「天使」がテーマだけど、「曼荼羅絵」の個展もしたりするらしい。

私は2つの点で、大いに刺激を受けた。

内に持っているものじゃないと出せない。こんなたくさんの美しい絵が描けるなんてすごいクリエイティビティだな~、素晴らしいな、というのが1つつ。

もう1つは、それをこうして「現実的に」世の中に発表する=さらす、ということができている点。趣味で楽しむのももちろんいいけど、自分の絵に自分で価格を付けて、ギャラリーを借りて、お知らせを出して…とそういう手続きを踏んで、自己表現されていることが、すごいな~、と。

たまたまお一人でおられた時だったので、いろいろおしゃべりできた。私にとっては、その時の彼女がそのまんま天使のようで、癒され、背中を押された気がした。

「あなたも、勇気出せるでしょ?」と。

1つ絵を買った。クジャクの絵。


「あたりまえのことをあたりまえを思う風潮に嘆いている」らしいけど、なんかかわいい。

もうすぐ母の誕生日だから、チョコと一緒に送ることにした。

人と比較することではないけど、前をいくお姉さん的存在がいてくれるのはありがたく、頼もしい。感謝。

レッスン79-問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。

2017-02-11

ワークを再開。レッスン79-問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。

2ヶ月のブランクを経て、ACIMワークを再開した。一昨日のこと。

やれやれ。小さな一歩。

レッスン79は、昨年の12月にワークをしていたもの。そこから再び、はじめの一歩、だ。

私たちはこの世で自分にとって特別な、様々な問題を抱えているかに見えるけど、ACIMレッスン79は、それは間違いで、「分離という問題が事実上ただ一つの問題であり、それはすでに解決されている。」という。

なぜなら、分離は勘ちがいであり、私たちは今も神とともに在るから。そして、ただ分離した結果乗じたエゴが実際には存在していない問題をあるかのごとく見せているだけだから。そこを理解して、正しく見れば、そもそも問題などありはしない、のだ。

しかし、私たちは、そうとは認識していないので、次々と現れるかに見える、表面上の問題に立ち向かうことに忙しく、根本は一向に変わらない。問題は未解決のまま。たとえ答えが与えられても、その妥当性がわからないから解決できない。

そして、問題がたくさんあるように見える「この複雑さはすべて、問題を認識しないことによって、それが解決されないようにするための必死の試みにほかならない」という。

レッスン79では、聖霊に「問題は何なのかを尋ね、答えを待つ。」「それから、その解決法を求める。

改めて、自分の表面上の問題を超えて、それを生み出している本質の構造を理解することによって、問題はすでに解決済のはずだとの理解に近づくことが、このワークの目的だ。

もちろん、すぐには問題を手放せるわけではないが、「必要なことは、あなたが自分の問題だと思っているものの実在性について、いくらかでも疑ってみることだけである。」と、ある。

エゴが怯えている?

私の場合は、50代フリーランスで経済的にとても不安定なことや、いずれ来るだろう高齢の母の健康上の問題や別れに、恐怖を感じていた。これは、この世でこの体で生きている私の意識が「問題」だと感じていることだ。

レッスン79のワークをしてみて感じたのは、私のエゴが怯えている、ということだった。これが今の私の「問題」なのか…?

ワークとして心の内面に意識を向けたら、エゴの怖れ、について、以下のような思いが流れるように出てきた。

エゴは、自分と思って認識しているものが溶けていくような不安感を持っている。

エゴの言い分は、私のACIM行動について、エゴの管理下でのみ行われるべきものだと。エゴが態勢を整えて、それがある程度頑丈だと感じられる時だけ、許可される、と。

私がなかなかワークを再開できなかったのは、こうしたエゴの邪魔があったのかな(すごく言い訳っぽいけど)?

つまり私は、ACIM勉強しているつもりだったけど、聖霊の導きより、エゴに依拠しているということだな~

ワークから得た解決方法

そして、その解決方法は?と心に尋ねてみたら、「エゴの態勢が崩れ、『やりたくない』『近づけない』と思う時こそ、聖霊の声を聴くための瞑想ワークや、ACIMワークをすること」という答えが返ってきた。

ACIMをちゃんとやるのだ、と過度にマネジメントしようとしないこと、とも。

エゴは聖霊の影響が強くなって、コントロール力を失うこと、自分が溶けていくことを恐れ、内向きにガードを固めている、ようだ。その地位を確固たるものにするために、「問題」を信じることをおすすめしているそうだ。

「世界とは刺激である」…これはエゴの見方。

「世界とは平穏・平和である」…これは聖霊の見方。

どちらを選ぶのも自由だけど、問題山積と頭を抱えなくてもいい、平穏だと認識してもいいのだ。選んだ世界に「私の」をつけてみる。

…私の世界は平穏・平和である。

今日のワークの行くべきところに行けたのかどうかわからないけど、久しぶりのワークで出てきたのは、こんな感じだった。

そして、「図書館で予約していてようやく到着した本が役に立つかも?」ってインスピレーションを得た。ほんとかな、どうかな?

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