奇跡講座ダイアリー

ACIMレッスン181-私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

2018-03-29

あたらしい展開、あたらしい風…

桜が早くも散り始めていた。

3月も、もう終わり。

新年は1月だけど、4月こそ生きものの新しい一巡のはじまりのような気がしている。やる気に満ちた季節。だけど、だからこそ、諸々焦りも強くなっている。

ワークをしていてふと思ったのは、私は余計なものを抱え込んでしまって重くなってしまったということ。

“あたらしい展開”、“あたらしい風”を呼び入れるために、居住地を変える必要があったのかな…、と。

もちろん、今いるところで新しい展開は可能だけど、私の場合、しがみつきが知らず知らず頑固になってしまっているから、家を引っ越す、くらい根底から変えないと、身動きできなくなっていたのかも。

幸い、引っ越し先は、今の居室の半分くらい。

たくさんいろいろなものを捨てるきっかけとなった。粗大ゴミにも3回くらい申し込んだ。この15年に溜めてしまっていたものの多さと言ったら…!

マンション売却のほうは、内覧4件目の若いご夫婦の方が購入申込みしてくださった。とてもありがたい。

ただ、勤めて間もないこと他で都市銀行の審査が通らなかった。その後、信用金庫に事前審査を申込みしていて、そろそろその結果が出る。

通ればうれしいけど、そう簡単ではないのかもしれない。

 

次のレッスン、181~200がまたひとつのかたまりだ。

ここでは、自分の進歩を阻んでいるものに焦点を合わせて、その防衛を超えていくことに注力する。

レッスン181-私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

進歩を阻んでいるものの一つは、「罪」や「欠けた部分」に焦点を合わせるクセだ。

「知覚には焦点がある。これが、あなたが見るものに一貫性を与える。」(L181-2-1)

「兄弟の罪に焦点を合わせるのはやめなさい。」(L181-2-5)

「彼らの間違いに焦点が置かれるならば、それはあなたの中の罪の証言となる。」(L181-2-7)

自分の罪を投影して他人に見える“罪”をゆるし、自分の無罪性見ることに心する。

そして、過去のことや未来のことを気にかけるのは、今の自分の見方を変えたくないがための、防衛手段のひとつだだから、このワークでは、自分が無垢であることだけに意識を集中させる。

誰かの「罪」が見えたり腹を立てるようなことがあったならば、それは焦点の合わせ方がまちがっているというサインなのだから、その時は、

私が見たいのは、これではない。

私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。」(L181-6-4,5)

と自分に言い聞かせ、焦点を変える。

それができたら、罪と見えていたものはぼやけ罪のない世界に焦点が合う。その世界には、愛だけが映し出される。

怒りや恐怖心より、手放しにくい、罪悪感

思えば、今年に入って、マンションを売る件で何人もの不動産屋さんに会って、「不動産屋さんにだまされないで」と各々言われたのを口を聞いて、身構え、「兄弟たちを信頼する」どころか、「人をうがった目で見る」ということを、意識的にやっていた気がする。

家の外では、所轄内で振り込め詐欺が連続しているらしく、警察車両が「安心・安全パトロール」として「…こうした電話は信用してはいけません」と毎日連呼していく。

こうした風景を見ている私は、内側に「罪」をたくさん持っているんだな~と思う。

自覚できる罪もあれば、自覚すらできていないものもあるだろう。

怒りや恐怖は自覚したら、案外手放そうという方向に持っていきやすいが、罪悪感というのは、もっとその奥にあって、取り除くのが難しいような気がする。

意識の深い層に巣くって、自分を罰するために、自分を悩ますものとして現れる気がする。

もちろん、脚本・演出は自分だ。

「私たちの無罪性は、神の意志にほかならない。」(L181-9-7)のだから、自覚できたものは、都度、拭いさろう。

家の片づけ・大掃除とともに、内なる罪悪感も手放し、軽くする。過去への執着も、軽くする。

復習Ⅴおわり-レッスン151~170

2018-03-28

 レッスン151~170を復習する「復習Ⅴ」がようやく修了しました。復習Ⅴのレッスン151~170の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編』より)。

ふりかえってみたら、レッスン151をやっていたのが、去年の10月2日(秋だ)。復習Ⅴを始めたのが今年の2月1日(冬だ)。

そして、今は3月28日。春。しっかり季節が巡っていた。

朝の散歩コースの桜も満開だ。

復習Ⅴは、各々のレッスンを統一する次のような中心テーマがあった。

神は愛であり、だから私も愛である。」(God is but Love, and therefore so am I.

この短い言葉が腑に落ちて自分とひとつになることが、このコースの最終的なゴールのように思う。

少しずつでも近づいているのか、あるいは迷子になっているのか…。

いつも、そんなこと言ってる。

なんか一生、ACIMワークをぐるぐるくり返すような予感あり…。何回転になるか。

 日本語 英語
151すべてのものごとは神を代弁する声のこだまである。151All things are echoes of the Voice for God.
152決断の力は私にある。152The power of decision is my own.
153防衛しないことの中に、私の安全がある。153In my defenselessness my safety lies.
154私は神の司牧者のひとりである。154I am among the ministers of God.
155私は一歩退いて、神に導いてもらう。155I will step back and let Him lead the way.
156私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。156I walk with God in perfect holiness.
157今、私はキリストの臨在の中へと入っていく。157Into His Presence would I enter now.
158今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。158Today I learn to give as I receive.
159私は自分が受け取った奇跡を与える。159I give the miracles I have received.
160私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。160I am at home. Fear is the stranger here.
161聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。161Give me your blessing, holy Son of God.
162私は、神が創造したままの私である。162I am as God created me.
163死は存在しない。神の子は自由である。163There is no death. The Son of God is free.
164私たちは今、私たちの源である神とひとつである。164Now are we one with Him Who is our Source.
165私の心が、神の想念を拒否しませんように。165Let not my mind deny the Thought of God.
166私には、神の贈り物がゆだねられている。166I am entrusted with the gifts of God.
167一なる生命があり、私はそれを神と共有している。167There is one life, and that I share with God.
168あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。168Your grace is given me. I claim it now.
169恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。169By grace I live. By grace I am released.
170神に残酷さはなく、だから私にもない。170There is no cruelty in God and none in me.

ACIMレッスン180-レッスン169、170の復習

2018-03-26

お花見日和

昨日は暖かい陽気だった。

色彩のサークルの後、同じサークル友だちと都営荒川線(東京さくらトラム)でお花見の名所、北区にある飛鳥山公園に行った。

飛鳥山公園は、8代将軍、徳川吉宗公が享保の改革の一環として飛鳥山に1200本以上の桜を植樹して庶民が飲み食いお花見できる場所としたことから発展したのだとか。

人、人、人…犬。人、人。犬(なぜかワンちゃん連れが多かった)。公園は老若男女で溢れかえっていた。小高い丘も、シートに思い思いの食べ物を乗せたお花見客でびっしり。

江戸時代にも老若男女がお花見を楽しんだ姿を想像すると、かたちを変えながら人の営みが繰り返されているのかな、と感慨深い気がした。

お花見というより、お花見客見、という感じだったけど、日本人の季節行事の(みんなでえいっと飛ぶ)“大縄跳び”に参加できた気がして、なんだかうれしかった。

レッスン180-レッスン169、170の復習

レッスン180は、レッスン169とレッスン170の復習。

L169)恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。

L170)神には残酷さはなく、だから私にもない。

「恩寵」という言葉が、普段なじみがなくて「恩寵とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に最もよく似ている。(L169-1-1)」という説明も漠然としていてよくわからなかったけれど、わからない、はACIMではいつものことなので、さほど問題とは思わない。

神との一体性がもともとの姿で、それを思い出すこと。

一体性とは、簡潔に言うなら、「神、在り」という概念である。(L169-5-1)

私たちは「神、在り」とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-4)

この「神、在り」が好きだ。神はすべてを包含する。そして、それ以外にはない。

そこに安らかさ、究極、を感じる。

クレームの電話を受け、イラッと …  ACIMを思い出し、反省

このワークをしていた頃、マンション管理組合の次の役員の順番の方々にお知らせを出したのだけれど、その行動について古くから住んでいる他の役員の方に、「私に相談もなく…」とクレームのお電話を受けてしまった。

2年前私が役員になった時は、知らせもなくいきなり総会決議に名前が載せられて決まり面喰ってしまった。だから「お知らせ」は良かれと思って出したもので、それについてはこの前の理事会で確認を取ったつもりだった。だけど齟齬があったらしい。

私が引っ越し先を決めて心が逸っていたこと、それを口に出してはいないのだけど、その方が無意識に何かを察してそれに対する抵抗感みたいなものがあるもかも。

その後「役員は引き受けられない」という方も出てきて、なんとか別の方にお願いして引き受けてもらうまですったもんだしてた。

ここで気づいたのは、攻撃されると、私自身もつい受けて立っていらっとしてしまい、ACIMの教えをすっかり忘れてしまう、ということだ。その時は相手は年長者だし、すぐに「すみませんでした」と口に出したものの、内心は穏やかではなかった。

まさにレッスン170「正当防衛で攻撃していると考える時、あなたは、残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。(L170-1-3)」という世界にいた。

翌日、落ち着いてACIMの教えを思い出し、反省した。

「もう私理事会も出ないし、監事もしないから」と言われたその方に、電話をし直して「物事を丁寧に進めなくて、申し訳ありませんでした。」と謝り、「Yさんがおられないと諸々立ちいかないので、ご出席お願いします。」と、思いを伝えた。

そうすると、いらいらしていた気持ちがすっきりして穏やかな気持ちになれた。

攻撃を正当化する→恐れが安全を確保するものとなる→愛を敵とする→残酷さを崇める→残酷さと恐れを神としてしまう

レッスン170の攻撃と恐れに関する考え方のメカニズムは、ささいなことから有事まで、この世の惨状を生む因果を論理的に説明してくれている。

怒りを感じたり、イラッとしたら、それはすでに自分のフォーカスが間違っているということだ。

神に残酷さはなく、私にもない。

落ち着いて頭を冷やし、心を鎮めることだ。

攻撃的なところを内に秘めている私ならばなおのこと。

そして、それが表面に出てきた時こそ、手放すことができるのだから、その舞台に参加してくれた人は、縁があり感謝すべき人なんだ、と確認。

ACIMレッスン179-レッスン167、168の復習

2018-03-23

反社会的勢力ならぬ、反ゲンジツ的勢力!?

先週土曜日、手付金を支払い引っ越し先マンションの契約を済ました。

その際、「重要事項の説明」で、「反社会的勢力の排除に関する事項」というのがあって、売主さんサイドの不動産屋さんが「ここは、見るからに違います(反社会的勢力の構成員とは見えない)から、省きます」と言われた。

「反社会的勢力(暴力団等)」の人には売れない、ということなのかな?

そこで、不思議とぴりっと恐縮してしまった。

もちろん「反社会的勢力」の構成員ではない。

けど、「世界はない」と思っている、「反ゲンジツ勢力構成員」かも('_')!?と。

「反社会的勢力」より「反ゲンジツ勢力」のほうがスケールがでかい気がするし。

世の中に対して悪さをしようという気はもちろんないけど、自分が世間というものに対してかなり「防衛的」だというのを再認識するきっかけではあった。

反社会的勢力の人になると、住まいを買うのも不自由なんだな。あたりまえか。

レッスン179-レッスン167、168の復習

レッスン179は、レッスン167とレッスン168の復習。

L167)一なる 生命いのち があり、それを私は神と共有している。

L168)あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。

これも、もうずいぶん前にやったワークで、タイムラグがあると感覚も変わってきてしまう。なるたけ直後にまとめた方がよさそうだ。

レッスン167で、最も印象にあるのは「死とは一つの想念にすぎず、肉体の死と見なされているものとは無関係である。考えは心の中にある。(L167-3-2,3)」というところ。

「死」とは「神との分離」を象徴する概念で、不安、恐怖、罪悪感、後悔などさまざまな感情で現れる。

そういうものが見えたなら、幻を見ているのだから、それをゆるし手放すだけだ。そうしたものは、自分の心の中にあるものが、この世というスクリーンに映し出されているだけだ。

私たちは時間という夢を見ていて、そこに肉体もあるかのように見ているが、それは夢の中でのこと。

想念はその源を離れないのだから、死はない。

そして、レッスン168では、すでに神の恩寵が授けられている、という。あとは、それを自分のものとするだけだ。

神の恩寵は、あなたがそれを認めるだけであなたのものになる。(L168-2-5)」

神はわが子を愛している。この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい。(L168-4-1,2)」

花粉症という過剰な戦い

このワークをしたある日のメモには、

「この世で、私たちは、必ず負けるゲームをしている。」

=盛者必衰ゲーム

でも、そのゲームを止めてもいい。

帰るところがあるのだから。

「死」を生かす必要はない。

今日のいのちをどれだけ喜べるか。

喜びって、刺激的というより、ゆったりした状態なんだ。

…などと書いている。

そして、私が花粉症がひどいことにもふれて、

戦う必要はないのに、つい戦ってしまう。

自分が罪の意識があって攻撃されているかのように感じるから、戦ってしまうんだ。

花粉は私を襲おうとしているわけじゃないのに、花粉を敵と見なして過剰防衛してひとり相撲をしている。

私は、何でもおばけにしてしまう、と書いている。

今日も、たくさん花粉飛んでそうだな。

ちなみに、ひどい花粉症だけど、お医者さんにもかかっておらず、薬も飲んでいない。

名づけて「野ざらし療法」

花粉に徐々にさらして、からだに花粉が怖いものではないと学習させる…、な~んて。

たんに、ずぼらなだけだった(^_^;)

 

『大家さんと僕』

2018-03-21

ひとつ前の日記で「暖かさが安定してきた」と書いたのは、まちがいだった。寒いよ~。

河口湖では昨晩から雪らしく3㎝くらい積もっているとか。

寒い日の定番だった生姜入り甘酒を久しぶりに飲んだ。おいしい、温まる。

『大家さんと僕』

『大家さんと僕』は、前に友だちが「おもしろかった、貸してあげよっか」と勧めてくれていたのを、図書館で予約していたもの。予約者がいっぱいで、忘れていた頃に番が来た。

お笑いコンビ、カラテカの矢部太郎さんが、今住んでいる部屋の大家さんと自身のエピソードを描いた初マンガ。

矢部さんて、ガリガリでおどおどしている印象しかなかったけど、マンガ上手なんだな~とまずびっくり。絵もかわいいけど、ストーリーの持っていき方が絶妙。すごくヒットもしているらしい。

1階に住む87歳のおばあちゃん大家さんの感覚に戸惑いながら徐々に距離を縮め、お茶してランチして、一緒に旅行にまで行く仲に。

「矢部さん、ほんといい人だなぁ」という著者の人柄と、お歳ながら自分の世界観を持ち力むのではなく自然体でしゃんと生きる大家さんが魅力的だった。

矢部さんが大家さんにお歳を聴いた際には「終戦の時17だったから…」と。大家さんは終戦が基準だ。理想のタイプを聴いた時は「マッカーサー元帥なんか素敵だったわ」「哀愁があって どこか遠くへ 連れてってくれそうで」

その時代と今とのちがいを教訓的ではなく改めて感じさせてくれて、それが新たな気づきももたらしてくれた。

そして、歳を重ねることの豊かさと哀しさ、も感じてしまった。

「87歳の夏は今しかない」

友だちは大家さんのセリフ「矢部さんを見ていると なんで日本が 戦争に負けたか わかる気がするわ」「なんてね」ってところを例に出して、おもしろいと言っていた。

私がいちばん印象に残ったのは、大家さんが初恋の人と70年近く経って再開して、昔の恋心を打ち明けたらお相手の方も大家さんに当時思いがあったらしく、それを大家さんが残念に思い「今と違って 女性からなんて そんな時代じゃなかったから」「もっとスレたかったわ…」と言うところ。

矢部さんが「今からスレても いいんじゃないですか」と言い、

大家さんが「そうね。87歳の夏は今しかないのですものね。」と言う。

この「87歳の夏は今しかないのですものね」が最高に好き。

だれにとっても、目の前の「今しかない」ってかんじを思い出させてくれるところが。

そして、この「恋」のいく先にもまた人生を感じた。

このおばあちゃまは「おカネに困っていない」というところが、お人柄や生活に表れていてそこがひとつの特徴にもなっているけど、おカネの有無にかかわらず、「自分なりにいまを生きる」っていうお手本を見せてもらった、と思った。

そして、出会い、っていうのはあるんだな。いろんなかたちで。それを育てられるかどうかも、自分次第…ってことも、大家さんと矢部さんから学んだ。

ACIMレッスン178-レッスン165、166の復習

2018-03-17

今年もいよいよ活動期へ

すごく暖かい日があったかと思うとまた急に寒い日が続いたりしていたけど、ここに来てようやく暖かさが安定してきた。

動植物が動き出す「活動期」が今年もいよいよやってきたなぁ、と思う。

幼い頃から、一年のうちでは春がいちばん好きだった。

雪国の富山で育ったためか、寒くて空もどんよりした冬が過ぎてふきのとうが芽を出す頃になると、しみじみうれしかったものだ。

東京は冬の空がすばらしい。が、その分、春が来る喜びは薄まる。花粉症なんていう都会人がなるものと思っていたアレルギーになってからはさらに、純粋に春が喜びにくくなってきた。

それでも、この季節になると、ああ、今年も一年が始まると、気分が高揚してくる(4月から新学期、というのが、未だにからだに染みついているのかな)。

レッスン178-レッスン165、166の復習

レッスン178は、レッスン165とレッスン166の復習。

L165)私の心が、神の想念を拒否しませんように。

L166)私には、神の贈り物がゆだねられている。

2月27日~3月4日までレッスン178のワークをやっていた。

そして、このワークをやっているときに、「私はACIMを信じていない、自分が信じているゲンジツからACIMに逃げているだけだ」(参考:転換点ーACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか)と感じた。

でも、細々とだけどACIMの学習を続けてきたのも事実。小さな部分ではあるけれど、ACIMは私の一部になりつつある。

私は少しずつでも変化しているんだろうか。

自分ではわからない。ただ、この世で見せる自分(仮面?)と、ACIMを心にもつ自分(本来の自己?)の間にギャップができていて、そのギャップが大きくなっているのを感じる。それを小さくしたい。

内心では、エゴがそうはさせるものか、と暴れているような気もする。「ACIMの学習をやることは認めた。それはこの与えた庭からはみ出さない範囲でだ。そこを超えたら痛い目に合うよ」と脅かしてくるのだ。

私の心の中での葛藤?

神へ…くりかえし背中を押しつづけるACIM

「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外に、どんな理由があるだろうか」(L165-1-1)

私にはこの世がかなりリアルに見えている。少しでも行動を起こすとそれはさらにリアルに映る。そして、ACIMの学習から少し離れても、それはさらにリアルになる。

「天国を拒否してはならない。求めさえすれば、それは今日あなたのものになる。」(L165-4-1)

「真に欲しながら求めなさい。」(L165-5-1)

「神は例外なく与え、あなたの幸せのためになるものを与えずにおくことはない。けれども、あなたの意志が神の意志とひとつとなっていなければ、神からの贈り物が受け取られることはない。」(L166-1-4,5)

「自由になりたければただ、誰が自分とともに歩んでいるかを認識し、自分の宝庫を開きさえすればよいのである。」(L166-6-3)

ACIMはくりかえし、くりかえし、神への道を説いている。

ACIMのすすめに、恐怖にからだをこわばらせている私

私も、ワークブックに向かっているときは「わかる」と思う。

その一方で、強い不安も感じる。

聖霊に自分をゆだねることへの不安。

エゴが傷つくことへの不安。

ACIMをすばらしいと思っているというのに、恐怖にからだをこわばらせている。進むことも退くこともできずに固まっている。

「あなたがどんなに恐れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。」(L166-11-3)

「その存在は、あなたが貧困という概念に圧迫されるたびに、あなたのもっている贈り物のすべてを指し示す。あなたが自分を孤独でおびえた者として知覚するときには、あなたには旅の同伴者があると語りかける。」(L166-11-4)

私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう

私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう。

コースを歩むとは…?

生身のからだをもった私は、何をして、どうやって稼ぎ、

だれと、どこで暮らし、

何であるのか。

聖霊がせっかく強く呼びかけてくれるのに、手で両耳をふさいだり開けたりしながら「あ~」をエゴの声を張り上げて、ちゃんと聴いてしまわないようにしている。

神の贈り物を受け入れ、キリストの感触を体験することを選択する心がどれほど大きく変容するかを、あなたの幸福によって証ししなさい。これが、今やあなたの使命である。」(L166-15-4,5)

諸々のこと、よくわからないけれど、ここに書かれている「あなたの使命」をきっと私は生きたいんだなぁ。

これが私の真北だ、やっぱり。

あたらしいおうち決まった

2018-03-16

またダイアリーが空いてしまった。

花粉症で夜咳き込んで寝られないのかと思っていたら、熱が出て風邪だったと気づいた。なんのことはない、ストレス耐性が低いんだ、ちょっと負荷がかかると風邪をひいてしまう。

ワークのほうも一週間休んでしまった。

でも、そんなさなかでも、中古マンションサイトに気になる物件を見つけ、日曜日に内覧。そして、即決して購入申込書を書いてきた。

明日は早くも契約日だ。

一件目の内覧で決めてしまっていいのか、売却の目処が立ってから買う方を決めるべきでは…とも思ったけど、ここ1ヶ月サイトを見ていて、自分の希望が100%叶う物件は、相場感からして存在しない、8割方満たせば妥協ラインということがわかった。なので、決めた。

売主さんは6月末まで入居中で7月20日引き渡しとなった。その間に頑張ってここを売ろう。

面積は今の家の2/3、30㎡とかなり狭くなる。交通は都心からやや遠くなる。

一方築年数は今までより16年だけど若くなり、世帯数も少し多めに。日当たりがよい角部屋というのはこれまでと同じだ。

何より安かったのが魅力。東京オリンピック決定後からマンション価格が上がり続け高止まりで、来年あたりは下がると言われているけど、元が安いのだから下がるといってもただが知れている。

マンション管理組合仕事のプレッシャーが軽くなるのがうれしい。

よくよく考えれば、こんな大げさに売買までして引っ越すべきことかどうかわからないけど、なんかさっぱりした気分。

自分のなかにある単純な「リセット願望」なのかもしれない。

ふっと、ここではないどこかへ行きたくなる。エスケープ願望とも言えるか。

いざとなったら、賃貸に出せるような駅近物件を選んだ。

老母が気がかりだけど、すぐに一つ屋根に住む決意ができない私の、中継拠点なのかもしれない。

そういえば、売主さんは50代後半と思しき単身男性で、売却理由は、「母の介後のため田舎に戻るから」だった。

ある仲介業者さんが、「不思議なことに売り手さんと書い手さんには共通点があり、似てる」と言っていたのを思い出した。

このゲンジツの中では、何に導かれどこに行くのかわからないけど、心には細々とでもACIMを持ち続けたいと思う。

この一週間ちょっとワークを離れただけで、自分が怒りっぽくなっているのに気づいた。ACIMワークで少しは心が訓練されたつもりになっていたけど、全然ダメだ。不測の事態が起こり他の人から不意打ちで批判されると、いらだち、ACIMの考え方自体がわからなくなってしまう。

怒りはどんな理由があっても正当化されない。

昨日からワークを再開して、気を鎮めている。

転換点ーACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか

2018-03-07

転換点①-ACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか

先週、ワークブックのレッスン178をやっていた時、ふと感じた。

私は、ACIMを信じてはいない、と。

私は、自分が信じているゲンジツからACIMに逃げているだけだ。ACIMは私にとって、この世という強固なゲンジツからの幻のシェルターの役割を果たしているにすぎないと。

そして、今は別れ道であり、転換の時なのだと感じた。

―ACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか。

今はACIMに生きているのではなくACIMに逃げている、ということだろう。

転換せよ。

心してACIMに生きよ。

そして、ACIMを生きるためには、心して聖霊の声に耳を傾けること。

そう言われた気がした。

転換点②-隠れACIMでいるのか、分かちあうのか

それともう一つ転換のポイントがある、という(感じた)。

それは、本を相手にひとり学ぶ者から、分かちあう者への転換。それが求められていると感じた。

この世での他者は自分の鏡。兄弟姉妹がいてこそ、自分が見えるし、赦しの機会に恵まれもする。

ACIM人格と、この世人格をまったく切り離しては、それこそ、さらに分離の世界に入り込むだけで、万華鏡の模様が細かくなるだけなんだ。

今もACIMの勉強のおかげで、前より不安感が減り心が平和になったとは思っているけれど、隠れキリシタンのごとく、自分の信じるものをひた隠しにしているのでは、真に生きているとは言えない。

分かちあうのは昔から苦手。誰かといる時は、合わせた方が楽、と自己主張をしないから、真っ向から心を分かちあうということをしたことがない。

でも、今年は(来年も?)転換点なんだなぁ、と感じた。

①も②も見る角度がちがうだけで、同じことを求められているのかもしれない。

まいにち、すこしずつ、ACIM生きる度合いを強くして、人ともなるべく分かちあおう。

ゆるやかに、ゆるやかに。なるたけ、だけど。

本の処分に抵抗があるのは、過去への執着か

2018-03-06

いつの間にか増えた本が部屋を狭くしている

売りに出しているマンションの内覧に来られた方が「(図面より)部屋を狭く感じた」とおっしゃっていたと、不動産屋さんから教えてもらった。

内覧の時の基本は、なるたけ部屋を整理してすっきり見せること。

私は物はあまり持っていない方だと思っていたけど…。例外があった。

本だ。

ここに来た時は、本棚2本だったが、今は仕事部屋に5本。壁一面が本棚だ。仕事部屋に入りきらず、廊下にまで置いている。これが部屋を狭くごちゃごちゃした印象にしている大きな要因だと思い当たった。

本棚は弱点と恥部をさらす

内覧で何がいやだって、本棚を見られることが一番恥ずかしい(あ、それと未だに分厚いブラウン管テレビを使っているのを見られること)。

オードリーの若林が前に「アメトーーク」の「読書芸人」の回で、「バカだから本読んでいるのに、何のバカかがバレる、自分の弱点をさらしているようなもの。」と本棚を見せるのを恥ずかしがっていたけど、私も同じ気持ちだ。

本棚には、仕事に関する経営とか経営戦略、マーケティングの本、起業の本の他、株式投資、手相占い、ユング心理学、カウンセリング、カラーセラピー、いわゆる自己啓発やスピリチュアル系の本、HTMLとかCSSとかパソコンに関するもの、健康本、料理本…。

少なければ隠したいけれど、全部は隠しきれない。知らない人だし、面倒だし、といつものまんま。

『100万円を7年間で1億円にする株式投資』なんてタイトルも、恥ずかしい。『クビレがよみがえる「美腰(びこし)」エクササイズ』というのも、なんだかな。『元彼と復縁できる方法』なんてのも、かなりイタイ。『思いが100%かなう』系や『好きをしごとにする』系の本も、もろに弱点をさらしている気がする。

お客さんに天袋を開けられた時には、小倉優子の写真集が出てきて、赤面した(デビューしたての頃のゆうこりんがかわいくて好きだった)。お客様はどこでもかまわず開けるのである。

考えてみれば、これから経営の仕事をまた頑張ってやっていこうという意欲もないし、手相の本もいらない。輪廻やチャクラといったスピリチュアル系の本ももう一度読むとも思えない。ごくわずかな本を除いては、もう今の自分に要らないのかもしれない。

今の私が手元に置きたいのは、『奇跡講座』関連と『神の使者』『アナスタシア』のシリーズくらいかもしれない。

よし、本を処分し、部屋をすっきり見せよう。

本を処分するのって、パワーが要る

ともかく、廊下の本棚だけでも処分しようと、本の買取サービスに引き取り申込みした。

だが、さてどの本から処分しようか。いざ手に取ると、とたんに迷いが出てくる。

ああ、あの頃はこの著者が好きだった、と少し若い自分を思い出す。処分するはずが、ぱらぱらめくりだしたりする。

書類も同様で、前にやった仕事の資料なんてもういらないのに、「あのプロジェクト頑張ったな」などと、気づいたら当時を懐かしんだりしている。

過去や未来に思いをはせるのは、エゴの防衛策

ACIMは、過去にこだわることなく、また未来を心配することなく、今に生きることを重視している。

なぜなら、過去も未来も幻想であって、ここに見えている幻想をどうにかできるのは、今この一瞬しかないから。

過去や未来に思いをはせることは、今にフォーカスすることを避けるためエゴの防衛策のひとつだと言う。

そうなんだ。そうなんだ。

いつかこの世を去るときには、物はもちろん体も持っていけない。

それはわかっているつもり。

でも、もう読まないだろう本を処分するのにさえ、えらい抵抗がある。内向性が強い私は、おそらく本に自分を投影してきたんだろう(即物的な本が多いが)。

頭と心を占めていたこれらの“情報”を手放したら、新しいものが入るスペースができるかな。

荷物を軽くして、私はどこへ行こうとしているのかな。

これは道(course)に沿ったことなのかな。

センチメンタルな気分になるのは、3月だから?

手放すときには、ありがとうって言うと楽になるのかな。

思えば、本に導かれてここにいるんだな。ありがとう。ここにいてくれた本たち。

やっと。そう言えるようになったよ。

ACIMレッスン177-レッスン163、164の復習

2018-03-05

ひな祭りの差し入れ

おととい土曜日は、おひなさまだった。

そんなことはすっかり忘れて、朝東京都のパソコン講習に出かけ夕方に帰ってきた。

ドアノブにレジ袋みたいなものが引っかけてある。何かと中と見たら、ちらし寿司みたいなものと煮物、お漬物が入っていた。

メモはない。だけど、おそらく下の階のおばあちゃまかな、と思い、電話したら、案の定そうだった。

「おひなさまだからね」と。「朝ピンポン押したけど出なかったから、まだ寝てるかと思って置いてった」

寝てはいなかったけど(^_^;) 日本の季節行事をすっかり忘れていた。ありがたい。

ハート型に盛りつけようとしたけど、かえってぐしゃぐしゃになった。数の子の食感がこりこり歯ごたえがいい。奮発して買ってきた大きな牡蠣も蒸し焼きに。ぷりっとしてクリーミィだ。おいしい。

ひとり暮らしの個食ながら、ほっこり、気分も華やいだ。

こんなやさしい心くばりをしてもらえるところなのに、老朽化と管理組合の面倒さを理由にここを去ろうとしている私。それもすごく大きなコストをかけて(仲介手数料や登記料て高い)。

それってほんとうに必要なことなのかな?このままいてもいいんじゃ?いやいや、今が売るラストチャンスだ…

と、頭はまたぐるぐる「マンション売却問題」のほうに向かうのだった。

レッスン177-レッスン163、164の復習

レッスン177は、レッスン163とレッスン164の復習。

L163)死は存在しない。神の子は自由である。

L164)私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

ACIMの死とこの世でいう死

「死」の概念が、私たちのそれとは大きく異なっている。

私たちは、「肉体の死」を死と捉えているが、ACIMは死とは肉体に関することではなく、一つの想念だと捉えている。

その想念とは、「神の不在」「神の欠如」だ。

私たちが今、「自分」だと思っている肉体のかたちをそもそも存在しない…としている。個々の私たち自体が幻想だし。

その上での、死=神の不在。

それが、結果としてあらゆる不安、恐怖、悲しみ、苦しみ、嫉妬、罪悪感、絶望…といった感情に現れているという。

私たちは神のかわりに擬似神を崇拝している。死もまた擬似神だ。

ACIMの中心概念は、

「神はある(それ以外はない)」

幸福、喜び、感謝などに代表される神の質と合わないものを感じているのに気づいたら、ただ赦し、手放すだけ。

なんてシンプルなんだ!

人であろうと、状況であろうと、それを赦し、手放す。

『神の使者』には、コース(ACIM)はシンプルだけど易しいとは言っていないとあるけど、それは本当にそうだと思う。

自分が渦中にいるときに、赦して手放すとは?そこにどういうふうにいたらいいんだろう。まだわからない。

ただ「死はない」というのは強力なメッセージだ。この世の恐怖感の根っこは「死」だと思うから。

「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L63-8-6,7)

私たちが正しくACIMの考えを習得できたとき、肉体の死は恐怖心を伴わないものになっているんだろう。

今回の人生でその境地まで達することができたら、最高だと思う。

ACIMは猫背なおし!?

ACIMというのは姿勢なおしみたいなもんだな。

私は猫背でパソコンを見たりスマホを覗いたりしていて気づくと、背中が丸まり首が出てる。一回矯正ベルトみたいなのを買った気がするけど、あれはどうしたかな?

猫背をなおすには、

あ、猫背だ、と思ったら、首を引いて背筋を伸ばす。

それが習慣になってよい姿勢があたりまえになるまではそのくりかえし。

ACIMも赦しが習慣になって必要なくなるまではそのくりかえし。

春近し。まず背筋から意識しようか。

2月、3月が苦手なわけ

2018-03-02

2月、3月は月天中殺

一年でもっとも苦手な2月が終わった。ふぅ。でも、まだ3月が残っている。

しばらく占い会社の契約占い師(副業)をしていた。「手相」が主で時の運を見るのに「算命学」を用いていた。その時「(1年に2ヶ月ある)月天中殺の時期は運気が低いから気をつけて」とお客さまに言っていた。

それが繰り返されて、自己暗示のようにしみ込んでいる。

虎卯天中殺の私の月天中殺は、2月と3月(ことしは2月4日~ 4月4日まで)。

占いの仕事を辞めた翌年『神の使者』、ACIMと出会い、運気や運勢に対する関心は減っていったけれど、毎年、この季節はやっぱりどんよりしてしまう。

…寒いのもある。

そして、何より会社の確定申告の時期だから!

なさけなさに直面する季節

私はフリーランスの仕事を自分ひとりだけの会社組織にしていて、その確定申告書提出の締切日が2月末なのだ。

書類は自分で「税理士いらず」というソフトを使って作っている。自分で作った会社がいかになさけないことになっているのか、改めて認めざるをえない時期なのだ。

経営の仕事への関心が低くなってさらにジリ貧。赤字続きで儲かっていないのに、法人事業税の7万円を払うのもきつい。

いっそのことやめてしまえばいいと思うけど、そうしたら、この世での自分がだれなのかますますわからなくなりそうで、まだ決めかねている。これもエゴの執着だろうか。

2月末日なんとか申告を済ませ税金も払ってきた。

さてもう一つ、3月15日までに個人の確定申告がある。これを済ませたら、少しは春を迎える気分になるだろう。

オリンピックと奇跡講座と私

2018-02-26

平昌オリンピック閉幕、日本人選手頑張った

きのう平昌冬季オリンピックが終わった。

日本は金4、銀5、銅4、冬季最多の合計13個のメダルを獲得した。

私はすごく関心があったわけではなかったけど、やっぱり日本人選手の活躍をテレビで見ると、単純にうれしくなった。

ライブで羽生結弦選手や宇野昌磨選手のフリーの見事な演技を見てドキドキし、内気そうに見えた宮原知子選手がフリー演技後ガッツポーズした時にはパチパチと拍手した。

女子パシュートは日本人らしい集団の力を見せ、見事金メダル獲得。そのメンバーでもあった高木菜那さんは「高木美帆さんのお姉さん」と呼ばれ続け妹にコンプレックスを持っていたというが、新競技マススタートで優勝、初代女王となった。どんだけ努力してきたんだか。

女子カーリングチームも見事銅メダル。清楚な美人が多くて競技中の真剣な表情がひときわ美しく見えた。瞬間最高視聴率は42%だとか。

みんな、みんな、一言でいうと「すごーい!」だ。メダルに届いた人も届かなかった人も。

このオリンピックに照準を合わせるなら、4年に一度。3年と11ヶ月と何日かはこのために努力していたんだろうか。

私のほうは、寝っ転がってテレビを見て「感動」をもらえるから、気楽なものだだ。だが、選手はどれだけ他のことを捨ててこれだけに絞って懸けたのか。

すごい熱とパワーだ。想像ができない。とにかくすごい。

一方で冷めている自分もいる、歳のせいか

敬意を感じる一方で、冷めている自分もいる。

それは、一つには私がもう結構な年だからなのかもしれない。

ふりかえってみると、人生の前半というか40歳位までは、私も「世の中でどう自分の力をどう発揮するか」「この世界でどう自己実現するか」に関心があった。

それが40歳を超えた頃から価値観が変わった。どういったらいいだろう、人生の時間には限りがあると実感できるようになり、これまで魅力的に映っていたものがそうとは思えなくなった。

それがユングのいう「中年の危機」というものだと、カルチャー講座を受けて知った。

「世の中の自分」ではなく、もっと「本来の自分」を生きたくなったのだ。

人生の前半は、どんどんチャレンジしたらいいと思う。それが楽しいし、ワクワクするし、力もどんどん湧いてくるし、きれいだし。キラキラしているし。

ああ、私は遠いところに来ちゃってるんだな、とキラキラしたチャレンジ精神を客観的に眺めている自分に気づく。

『奇跡講座(ACIM)』と勝負の世界と私

私がどこか冷めているところがある、もう一つは、やはり『奇跡講座(ACIM)』の影響もあるかもしれない。

もしかしたら私の解釈自体まちがっているかもしれないけれど、ACIMは非二元論に基づいていると学んでから、「勝負」に感情をなるたけ近づけないようになった。

「勝負」は「勝」と「負」。二元論の代表的なものともいえる。近年ますます「強」と「弱」、「勝」と負」がはっきりしてきて、世の中で「強」と「勝」をGETするために幼少期から知らずのうちにレースに参加しているようにも見える。

「勝」を求めた瞬間、「負」も引き受けることになる。それはそれでエキサイティングでワクワクするゲームではあるけど、、、これからの私が求めるのとはちがうかな?

ACIMのなかで「すべてを含むものに対極はない」といっていたのは、どのページだっただろう。

ゲームは好きだし、勝つのも気持ちいい。過去には負けず嫌いな自分もいた。今も「うまくやりたい」自分がいる。

でも、落ち着いて穏やかでいるときの私が先を眺めた時、目指したいのは、「勝負」を超えた世界だ。

「勝」も「負」も手放して、あたりまえのように与えられ満たされている世界。頑張らなくても愛され癒され感謝される世界。恐怖と罪悪感を手放した世界。

常識的な方の私は、「ひとり身のおばさんが何言っている、その考えじゃ野垂れ死ぬよ」と言う。

たしかに。

でも、それを確かめてみるのもいいかな、とヤクザな方の本来の私。

問題は、ゲンジツで頑張らないとしても、心の姿勢をACIMの教えどおりに正し「赦すこと」を忘れてはならないことだ。

ついつい、それを忘れ、単なるぐーたらになってしまっているのが、気がかりではある。

レッスン176-レッスン161、162の復習

2018-02-20

メダリストってすごいなぁ、やっぱり

平昌五輪のフィギュアスケート男子は、羽生結弦選手が66年ぶりの連覇を果たし、宇野昌磨選手が銀メダル獲得と、最高の結果を出した(写真撮影:河野匠)。

また、スピードスケート女子500mでも、小平奈緒選手が金メダル!

日本中が感動し、湧いた。1つのことに一心に打ち込むってやっぱりすごい!

感じるのは、オリンピックに出場している選手みんながとっても人格者でもあること。いろいろなプレッシャーにさらされているだろうに、また年齢も若い人が多いのに、皆驚くほど、思いやりや感謝に満ちている。

マンション売却・引っ越しプロジェクト、その後

私事では、マンション売却に関して先週金曜日、一番目の内覧者の方から購入申し込みがあった。近くで飲食店を女性とその息子さんで店の近くで探していたという。

ローンに難あり、と聞いて期待していなかったのだが、地方銀行が引き受けてくれたという。契約日は2月22日に決まり、事前打ち合わせも済み、気持ちは舞い上がった。

こんなにスムーズに決まるとは思わなかった、ラッキー♪

「せめてカーペットを新しくして引き渡してあげよう」とリフォーム屋さんからサンプルをもらったり、ネットで本格的に新居探しを始めたりしていた。

…ところが!

昨日、不動産屋さんより電話があり、契約を延期してほしいとのこと。なんでも買主さんから「手付金(100万円)が用意できない」と連絡あったとのこと。

お母さんの方の老後資金を充てる予定にしていたが、それをやっぱり見直したとか…

そして、今日の昼、再び不動産屋さんから電話があった。

「キャンセルになりました」

最初から買主候補がいなければ平常心でいただろうけど、いったんその気になって舞い上がったのち急降下して、ずっこけてしまった。

いったいどういうこと?

「初めての内覧で即決まるとは、Iさん(不動産営業の方)の日頃の行いのおかげですね」「いやいや、たまさんの日頃の行いですよ」と不動産屋さんとお互いを持ち上げ合っていたけど、おそらくどちらの日頃の行いもよくなかったんだろう。

レッスン176-レッスン161、162の復習

レッスン176は、レッスン161とレッスン162の復習。

L161)聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

L162)私は神が創造したままの私である。

ここで反応したのは、レッスンの中核ではないかもしれないけれど、

「『見る』という行為はすべて、自分の見たいと願うものを自分に見せることを目的としている。『聞く』という行為はすべて、あなたの心が聞きたがっている音を、あなたの心にもたらすだけである。」(L161-2-5,6)という箇所。

とすれば、マンションの申込も、そしてキャンセルも、私が見たくて聞きたかったこと、となる。

この件では前のレッスンのワークでも「(自分から)こじらすな。」というメッセージを感じていた。

私はこじらせたのか。

自分でトラップを仕掛け、それに嵌って喜んでいるんだろうか。

レッスン161の終わりには、「今日の主題概念はあなたにとって、怒りや恐れからの安全な脱出方法である。兄弟を攻撃しそうになったり、彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ず、ただちにこの概念を使うようにしよう。」(L161-12-4,5)とある。

私は買主さんに怒りを感じるゆえんはないが、「彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまうそうになる」ことはあったかもしれない。

私と同年代、50代半ばと思しき買主の男性。どんな仕事をなさっているかは知らないが、他にも借金を持っているという。その上、これからこのマンションに対してローンを組もうとしていることに、強い恐れを感じていたのだ。だいじょうぶなのか、と。

そして、その思いをゲンジツ化してしまった。

自分が映しだすゲンジツ、だから縁は完璧

2月16日にレッスン176のワークをやった際のメモには、感じたこととして、

「よいことがあったときには感謝しやすい。

 悪いと思えることがあったときにこそ、感謝すること。赦すこと。」

と書いていた。

まあ、そんなんだけどね。

こうやって見ているゲンジツは、すべて自分を映している。

だから、現れる内覧者の方も、一人ひとりが私のある側面を見せてくれているのかもしれない。

日本的に言えば、「こういうのは縁だから」

縁には、フィーリングとタイミングが大事。

そして、この縁というもの、一枚めくれば、すべて自分が脚本演出しているのだから、まちがいはない。完璧だ。

私に、その完璧な買主は現れるのかな。価格を大幅に引き下げることになったら、次に行けるとこ、ない。

あ、いけない。またエゴのストーリーに乗っかっている。自分がこじられなければ、成るように成る。

限りなくツイテいて、限りなくハッピーでいてもいいし、上機嫌でいることが使命のひとつでもある。

レッスン175-レッスン159、160の復習

2018-02-16

平昌オリンピック真っただ中

平昌オリンピックの真っただ中だ。

私は小学校の頃から運動神経がにぶくて跳び箱3段跳ぶのにも難儀していた。そのためか、「より早く」とか「より高く」とか、あるいは1対1の「戦いに勝つ」ということに執着心がもてない。

格闘技にいたってはおしなべて「暴力」に見えてしまうし、ACIMを勉強し出してからは「この世は幻想だから」の言い訳のもと、「努力する」「頑張る」を投げ出してしまい、生来のぐうたら度がどんどん高まっている。

そんな私からしたら、オリンピック選手の極限の頑張りは目を見張るばかり。

空中でくるくる回るスノーボードなんて、いったいどうなっているんだ。同じ肉体構造をもつ人間とは思えない。

冬季スポーツの中でも好きなのは、フィギュアスケートだ(当然、見る方)。

冬は浅田真央ちゃんの、氷上の優美な姿を見るのが楽しみだった。少女らしい可憐さ、雛人形のような上品な顔立ち、それと対照的とも思える勝気さ、強さ。

成長していくとともに、真央ちゃんの表情は無邪気さ、楽しさから苦悩や厳しさに変わっていき、大人になることの定めのようなものも感じた。4年前のソチ五輪のショートの“失敗”からの大逆転ドラマは、一生心に残るシーンだと思う。

今日は男子フィギュアのSPがあった。羽生結弦選手が大けがから見事復活して現在1位。宇野昌磨選手が3位につけている。明日のフリーも優美でダイナミックな姿が楽しみだ。

レッスン175-レッスン159、160の復習

レッスン175は、レッスン159とレッスン160の復習。

L159)私は自分が受け取った奇跡を与える。

L160)私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

ここで意識が向かったのは、「与えることは、自分がすでに受け取っていることを確認する方法である(L159-1-7)」ということ。

癒しを与えるとき、自分が癒されることを知り、

赦すとき、自分が赦されていると知る。

同胞を神の子として見ることができれば、自分を神の子だと理解できる。

恐れや罪悪感は必要ない。正しい心眼ですべてを見ることができれば、この世のすべてが奇跡となる。

それは隠されているものではなく、すでに私たちに与えられているギフトなのだから、開いてその奇跡を受け取るだけでいい。

「求めさえすれば、すべてを受け取ることができる。ここでは、扉に鍵がかけられるようなことはなく、誰ひとりとして、どんなに些細な願い事についても、どんなに緊急な必要についても拒まれることはない。

キリストのこの黄金の宝庫の中ですでに癒されていない病気はなく、満たされていない欠乏や必要もない。」(L159-6-3,4,5)

なんて力強い言葉だろうか。

「あなたがあたえることができるように蓄えられている奇跡を見なさい。それは神があなたに与えると約束した贈り物である。その贈り物に、あなたはふさわしくないだろうか。

神の子を裁いてはならない。それよりも、神が定めた道を進みなさい。」(L159-10-1,2,3)

「自信のないふりをするのは止めよ」「自分自身であれ」

この復習をして私が感じたのは、「ヘタに自信のないふりをするのは止めよ」ということ。

私は自信がない。

何に自信がないのかー。改めて、考えてみた。

内から出てきた答えは、

「自分自身であることに」だった。

生まれて初めて出会った人間である、母が怖く、周りも怖く、

私はずっと「隙間家具のように生きること」をモットーとしてきた(ような気がする)。

隙間家具=そこそこ役に立って邪魔にならない。目ざわりにされない。

それは学校や会社になじむにはなかなかよい方法で、逆に信頼を得ることも多かった。

でも、私自身は生来「隙間家具」ではないのだ。

私が「自信がないふり」をしているとしたら、何かに攻撃されないように生きるためだ。

でも、その「何か」とは何だろうか。

自分の心の中に在る「恐れ」以外のなんだろうか。

「自分自身であることに対して、自信がないふりをするな」

すなわち、「胸を張って、自分自身であれ」

これがこの復習ワークから感じたメッセージだ。

自分自身であるということは、自分が使命だと思うことに素直になること。

ACIMに対しても素直になろう。ACIMの中には自分の使命があるように感じている。

琴音さんの歌を聴いて…、気づいたら正座してた

2018-02-14

琴音さん―「女神」の歌声

初めて琴音さんの歌を聴いたのは、2月4日(日)の夜。

たまたまつけたテレビで歌っていて、その歌声の美しさに驚いた。

ぐんぐん引き込まれ、気づくと正座して聴いていた。

何時からやってたんだろう、この番組。

「今夜、誕生!音楽チャンプ」…ふだん見たことがなかった。「次世代スターを夢見る挑戦者が歌ったりパフォーマンスをして、辛口審査員やロボット採点機がジャッジするという番組」らしい。

私が聴いたのは一曲。琴音さんは翌週は見事勝ち抜きチャンプとして挑戦者を迎えるということだったので、私は手帳の2月11日の欄に「TV 琴音さんの歌」と書きいれた。

そして日曜日の夜。午後内覧の方が来られた後、疲れが出てしまいつい忘れそうになったが、思い出して、聴いた

やっぱり素晴らしい…

声に魅力がある?

そう。

歌がうまい?

そう。

だけど、それだけじゃない。不思議な存在感がある。魂を鷲づかみにされて揺さぶられる感じ。

そう感じているのは私だけではないらしい。司会の黒木瞳さんも審査員の森久美子さんも、聴きながら涙を流している。ある審査員の方は「女神がおりてきた」と表現された。

女神がおりてきたー。

そう。本当にそんな感じを受けた。

もちろん万人ではないだろうけれど、多くの人を動かす何かがある。

私は彼女の歌に、絶望と希望の両方を感じた。絶望からの希望、といった方が近いかもしれない。

絶望の淵にあってやけっぱちになっている自分や、「生きることは妥協すること」と本当の自分を蔑ろにしている自分に対して、

「そうだよね、辛いよね、そうだよね、頑張ってきたんだよね」と寄り添い、

「でもね、でもね、見て、希望はたしかにある、いっしょに見て」と光の道筋を指し示してくれる。

そして、心の奥底の大事なところをやさしく開いて見せてくれる。そんな感じ。

開かれた人がカタルシスと喜びを感じ、涙するのではないかな。

「心眼」や「奇跡」ってこんな感じ?

琴音さんの歌う姿を見ていて、もしかしたら、「心眼ヴィジョン 」とか「奇跡」ってこの感じに近いのかな?とふと思った。

ACIMを学びながらも、私は心眼や奇跡が実感ではよくわからないでいる。

「奇跡とは真実の顕在化、現実化である。知覚が奇跡によって修正され見えてくる光景がヴィジョンである」(大畑学著、『A Course in Miracles Workbook精読』レッスン91より)。

最近の復習では、レッスン158に「その心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。」(L158-7-5)、

レッスン159に「キリストの心眼は二つの世界の間の架け橋である。そしてあなたは、この世界から、赦しによって神性になった世界へと自分を運んでくれるものとして、安心してその力を頼みとすることができる。」(L159-5-1,2)とある。

よくわからないけれど、琴音さんは何かを発信していて、錆ついてはいるもののもそのレシーバーを持っている私たちにキャッチさせてくれる。そのレシーバーがあることを教えてくれる気がする。

そして私たちも同調して音色を勝手に奏でだすのだ。

「与えることは、自分がすでに受け取っていることを認識する方法である。それは、自分のもっているものが確かに自分のものだと示す証拠である。」(L159-1-7,8)とある。

16歳、新潟の女子高生だという琴音さん。

存在のちからに年齢は関係ない。それを才能というのかな?

受け取った私も、「受け取っていることを認識する」ために、何か発信できたらいいなと思う。

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