奇跡講座ダイアリー

ACIMレッスン187-私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

2018-04-30

後ろめたさが緩むGW

GW真っただ中。

私は昨日もおとといも、ただぼーっと過ごした。なんだかとても眠くて、眠くて。でろりんとしている。考えもまとまらない。

金曜日の売却の契約で、昨年末から始まっていたマンション売却・住み替え・引っ越しプロジェクトがひとくぎりで、知らず知らずの間に臨戦態勢にあった身体から力が抜けたようだった。

自分がそんな“臨戦”だったことに、軽くショックを受けた。私は、だれから身を守りだれと戦っているんだろう。

GWは好きだ。

GWこそは籠りたい。世間が休みということで、罪悪感なく自分のやりたいことに向かえるから。

いつも世の中のみんなが頑張っていて自分が頑張っていないことに、どことなく「後ろめたさ」を感じていて、常に煽られ感がある。GWはそれが緩む。

新しい住処の後は、新しいはたらき方、収入源をかたちにしなくては。

レッスン187-私は世間を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

レッスン187は、ちょうど私にとっての女神=買主さんが現れた時のワークだった。

            *

自分が持っているものでなければ、与えることはできない。

この世の見方では、与えてしまったら与えた方は失うが、ACIMはそうではない、という。ものはそれを作り出す想念を表現したもので、想念は与えることによって、強化され増大する。

強化され増大された想念は、さらに与えた時より好ましい形で返ってくる。

だから、「自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それらを守りなさい。そうすれば、あなたは自分がそれらを決して失わないと確信する。」(L187-4-1)

失うように見えるものは、いずれは必ず自分に戻ってくるものに比べて、自分にとってずっと価値の低いものばかりである。」(L187-5-8)

与えた者は、犠牲を払っているかのようだが、「犠牲」という概念はまさに幻想の産物であり、「狂った概念」だという。

苦痛や損失、病気や悲嘆、貧困、飢えや死などで現れる一切の犠牲もありえない。

自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない。」(L187-8-1)

もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が、誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。」(L187-8-3)

犠牲ではなく、あるのは祝福だ。

犠牲は神への恐れと罪悪感から生じているが、神との分離が幻想なのだから、犠牲など存在しえない。

ただ、祝福がある。

今、私たちは祝福されており、だから今、私たちは、世界を祝福する。」(L187-11-1)

神への恐れと罪悪感は、とてつもなく大きな幻想だ。大きすぎて直視できず認めることも拒否している。

私たちは、たえずスケープゴートとして非難し祭り上げる人を求めている。悪いのは自分ではなく、「あの人」だと。最近はマスコミなんかでも、その傾向がさらに強く出ている気がする。

自分を責めたくなる分だけ、目の前の人に寛容になれ

私はこのワークをしている時、生前の父に対する申し訳なさが出てきた。

それは「こうすればよかったのに」という後悔になって、さらに自己否定へとつながっていった。

でも、それから、「申し訳なさは幻影。申し訳ないと思ったときは、それを手放して感謝を倍にしなさい。」と言われた気がした。

ワークをしていて、最近のぎっくり腰や膀胱炎も、自分の中の罪悪感に気づく機会なのだと感じた。

それから、こうも感じた。

人間はおしなべて、苦労に耐えられないんじゃなくて、幸せに耐えられないんだ。

勘ちがいの罪悪感に苛まれ続けるから。

自分を責めたくなる分だけ、

目の前の人に寛容になれ。

見ているのは自分自身だ。

念願の!マンション売却契約すんだ

2018-04-28

先週末からの急展開の売却契約

きのうは自分のマンションの売却契約だった。

先週土曜の内覧から一週間。ものごと進む時には一気に進むもんだなぁ、と感慨深い。

そんな急展開があるとも思わず、ゴールデンウィーク中も内覧の方を待機するものだと思っていたのに一転。昨夜は解放感と安堵が湧きあがり、緊張で強張っていた身体から力が抜けた。ほんと、よかった。

一方で、住み替え・引っ越しが現実になってきて、リフォームを含めて、やることたくさんだな、と慌ただしさも感じ始めた。

買主さんとその仲介の不動産屋さんは、とにかく「娘さん宅に近いところ」でひとり暮らし用物件を探していたがなかなか見つからず、エリアを広げて探しておられたそうだ。

ここから娘さん宅へは徒歩5分もかからないという。「見つかって本当によかった」と喜んでおられる。ずーっと前から出ていたのに、目にしたのは先週末だったのだ。

人のニーズはそれぞれだなぁ。そしてタイミングが縁だなぁ。

やっかいな管理組合業務のことが気になっていたけれど、買主さんは発言力がありコミュニケーション力も高そうな方で、私が心配する必要もないと感じた。「後期高齢者」なので望めば役も免除されるはずだ。

そうそう、私が手付解除でキャンセルしてしまったマンションの方も買い手がついたようで、マンションサイトから消えていた。ほっとした。

ここに来てからの15年間の流れを思う

今回の住み替えが自分にとってどんな意味を持つのか、私には全体像は見えていない。

単に古くなったマンションの買い替えというより、人生のフェイズの変化時だと感じているけれど、どんなふうに変わるのか見当がつかない。

ここに来てもう15年か、早いな、とここ15年を振り返った。40代に入り「中年の転機」の真っただ中だった。

その頃も「もう、歳だな(-_-)」と思っていたけれど、今より15歳も若かった!

時間もまた幻想で、私たちが在るのは今しかない。

そうなのだけど。そうなのだけど…。やっぱり時の流れを感じる。

15年間この地とこのマンションに守られていたんだとも、感じた。

「自分探し」ではなく「自分なくし」

30代から40代にかけてずっと「自分探し」をしていた。

だけど、ACIMに出会って今改めて思うのは、私がすべきなのは「自分なくし」なんだということだ。(「自分なくし」という言葉は、みうらじゅんさんのない仕事のつくりかた』という本で出会った)

今、自分と思っている自分はエゴに操縦されているのだから、それをなくすくらいの気持ちでいたら、その奥にある神の子としての真のアイデンティティに近づくんじゃないか。

なくしても、なくしても、なおなくせないもの、が残るのかな、と思う。

ACIMレッスン186-世界の救済は私にかかっている。

2018-04-27

「喜びとは静かなものである」

先週、欲しかったもの(気に入った新居)が思いがけず手に入ったという喜びを感じていた。そして、とてもコーフンしていた。

エネルギーが乏しい方だから、そのコーフンで感情エネルギーを使い疲れ果ててしまい、土曜に懸案だった自宅マンションの売却まで決まった時には、うれしいんだけど反応する余力が残っていなかった。

レッスン186は、そういう最中の一週間に行った。

ワークをしている時、この新居は、自分に与えられた役割(聖霊には母のいる故郷に帰れと言われた気がしたことがある)に素直になりきれず、駄々をこねる子に対して聖霊が与えてくれた「おもちゃ」なのかもしれないと感じた。

手を引かれ、「ほら、家に帰るぞ」と言われているときに、縁日のおもちゃや雰囲気に魅せられ「まだ帰りたくない」という幼児に、「これ買ってやるから」と大人がなだめておもちゃを買い与えるように…。

そんなふうに感じつつも、一方ではやっぱりとってもうれしかった。

ワークでは、「喜びとは静かなものである」という声(メッセージ)も感じた。私が先週感じていたコーフンは、真の豊かさを反映した喜びとは異質なものなんだろう。

レッスン186-世界の救済は私にかかっている。

主題概念の「世界の救済は私にかかっている。」とは、いかにも大げさである。ワークブックにも「今日の主題概念は、その意味がわからないうちはひどく深刻なものに思えるかもしれない。」(L186-3-1)とある。

だけど、世界は、分離した(ことになっている)神の子が、それぞれの位置から映画を見ているにすぎないこと、自分の世界はただバーチャルリアリティ映画そのものであること。

その真実に目覚めることで見える「世界」が変わるのなら、この私が見ている世界の救済は私にかかっている、というのは、理にかなっている。

この考えを受け入れることは、謙虚さである。

この考えを否定することは、傲慢である。

もし、神の声が、救済にあなたの役割が必要であり、そしてその全体があなたにかかっていると保証するのであれば、その通りであることに確信をもとう。」(L186-5-4)

聖霊はこの気づきをサポートしてくれている。しかしー

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。」(L186-7-2)

最近の私は(いや、ずっと前からも)こんな↑感じだ。

聖霊の声を聞いてしまったらー、ぼんやりとではなくクリアに感じてしまったらー「困る!」(それによって、私が仕切りたいと思っている人生の路線を変えなければならないから)と、ずっと思っている。

そして、ワークブックを学び、聖霊に耳を傾ける時間を取りながらも、同時に耳をふさいだり開けたりしている。

そして、垣間にもれ聴こえる声をかいつまんで聴いて、従ったふりをする。

あ゛…、自分でそこまで気づいているなら、もうそろそろ「ふり」はできなくなるな。

この世界を見せているのは自分だ、とワークを続けるなかで、私はより納得できるようになってきた。

神の声が指示するとおりに行いなさい。もしその声があなたに不可能と思えることを求めるなら、誰が求めているのか、誰がそれを拒否しようとしているのかを思い出しなさい。」(L186-12-1)

神の声(聖霊の声)に素直に。

これが私のお題だ。

耳をふさいだり、開けたりしながら、聴こえないように「あ~」と自らの声を出している。

その声を静めて、ふさいだ手を下ろすこと。

そして、目前の赦しを実践していくこと(これがむずかしい)。

この世界の救済はすことのできるあなたにかかっている。それがここにおけるあなたの 機能はたらきである」(L186-14-5)

∠(`・ω・´)

ACIMレッスン185-私は神の平安を望む。

2018-04-25

ぎっくり腰と膀胱炎

外は大雨。

私は、まだぎっくり腰と膀胱炎で家の中を腰を曲げてそろそろと歩き、トイレばかり行っている。

市販の薬飲んでいるけど、お医者さん行った方がいいのかな?

でも、行けば抗生物質を出されるだろう。できれば抗生物質は飲みたくない。もう少し様子見するか。

明後日の念願の!売買契約までに、治すことができるかな。契約中も不動産屋さんで、そろそろと中座してトイレを借りることになるのかな。

体調の悪い時、「これは幻想だ!」と思って手放すようにする。だけど、ただそう思っただけですぐに回復させられるくらい、まだ視点の転換に熟練していない。

ゲンジツの不愉快さを何とかしたいと、つい逆に幻想にフォーカスしてしまい、それを強化してしまう。いわゆる負のスパイラルに陥りがちだ。

ここに、不具合として現れているものは、内なる恐怖と罪悪感の象徴にすぎないのだから、これもまたanother chance for forgiveness(新たな赦しの機会)にすぎない。

それでも、この幻想って、今の私には、すごくよくできていて、ものすごくリアルだ。

レッスン185-私は神の平安を望む。

レッスン185は、「私は神の平安を望む」と、シンプルなACIMの主題のなかでもことさらシンプルだ。

この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。」(L185-1-1)

神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。」(L185-5-1)

ここでは、「本気で(言う)」というところがミソだ。

今日は、自分の口にする言葉を自分が本気で言っていると認識する練習をしよう。」(L185-7-1)これがこのワークのお題だ。

平安を望まない人はいない。でも、本気で望むときには、この幻想の世がもたらしてくれるように見える手段に執着してはならない。たとえば、社会的地位やおカネ、贅沢品、見た目の良さ、肉体的強さや若さ、人気とか…?

これはとても難しいように思える。この世に生きていてそれらをまったく願わない人はいないと思う。願うのはかまわないけど、執着してそれをリアルにしてしまってはならない、真実を見る目を曇らす、ということなんだろう。

でもやはり…今の私には難しく感じる。幻想と知ってるつもりだけど、今の自分の知覚にとってはリアルだし、その知覚を楽しむのがなじんだ“生きている感”でもあるから。それら全部を手放したら、重力がなくて宇宙空間にふわふわ浮いているかのようになりそうだ。

神の平安を真摯に求めるなら、その手段は理解できる形で与えられる

レッスン185では以下のパラグラフがとくに心に残る。

平安こそが自分の望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。

平安を求める願望が真のものであるとき、平安を見出す手段は、それを誠実に探し求めるそれぞれの心が理解できる形で与えられる。彼が真摯に求めているなら、レッスンはどのような形をとるにしても、彼が見間違うことのない形で計画されている。」(L185-6-1,2,3)

神の平安に対して、真摯であれ!

そうすれば、旅の途中で自分のコースの一里塚を見逃しはしない。

この部分に安堵を感じる。

ただ、幻想のキラキラに心ときめかすところも未だ大ありな私にとっては、旅の至るところに“踏み絵”もまた置かれているだろう。

ACIMは幻想の快感の手段のすべてに対して、「一つの問いが問われなければならない」としている。

『これが、天国や神の平安のかわりに、私が望んでいるものだろうか』と。」(L185-8-8)

いや~、ACIMワークブックはがんがん細かいところまで詰めてくる。「ふり」は許されない。

は~、長い道のりだ。

どのくらい長いのか見当もつかない。

とりあえず、私は次の一里塚をめざろう。のろのろと。

怒涛の一週間にもうひとつ…買主さん現る

2018-04-24

土曜日、当日の内覧予約がきた~

昨日、先々週金曜に「新着物件」の紹介メールが来てからの、買い替え騒動について日記を書いた

怒涛の一週間だった。

…が、その最中の土曜日、もう一つ私にとってのイベントがあった。

現マンションに買主さんが現れたのだ!

昼に不動産屋さんから「今日これからお客様ご紹介していいですか」と電話があり、3時に来られることになった。

お風呂、トイレ、キッチンなどの水周りから居室、ベランダ、窓ガラスなど、生活感がある私物を片づけ内覧の方をお迎えできるレベルにするまで、私の場合3時間位必要だ。

え、今日ですか~!?

と、焦ったけれど、もちろんNoはない。

とにかく、きれいにすっきり見せねばと、片づけ&掃除をして、お迎えした。いつもの営業の方は、別件のご案内があるらしく別の方が案内してくださるとのこと。

総勢4名で来られた。おじいちゃんと、おばあちゃんと、40代位の女性と、男性。男性はいつもの担当者の代理だ。おじいちゃんとおばあちゃんは夫婦なのか、と思っていたら、そうではなく、おばあちゃん以外はすべて不動産屋さんだった。

要するに、おばあちゃんの一人暮らし。そうはいっても、元気でお若い。数年前までこの地区に住んでおられたらしく「この辺りのことは、あんたよりよく知っているよ」と頼もしい。

そして、その日のうちに購入申込み!

そして、内覧から2時間もしないうちに、購入申込みをいただいた。

自然豊かな土地に移ったけれど、歳をとって娘さん宅の近くに住みたくなったのだとか。その娘さん宅がうちから5分もかからないところにあったことが決め手になったらしい。

! ? !!

決まる時って、そんなにあっけないくらい、簡単に決まるの!?

うそ~!え、ほんとう!

うれしい。

現金での購入らしく、ローン審査の心配もない。金曜日に契約となった。引き渡しは6月21日だとか。父の命日の翌日だ。

でも、前々回は契約日の前々日にキャンセルになった。私自身は契約後にキャンセルしたし、と喜びきれない。あと、他にいろいろありすぎて、心のエネルギーが枯渇していて、喜ぶパワーが残っておらず、ただ茫然としていた。

でも、今しみじみ…

よかった。引っ越し先と売主さんが決まって。

ほっとした。ありがとう、買主さん、不動産屋さん…みんな。

罪悪感の具現化!?ぎっくり腰

ひとつおまけがあった。

急な内覧で、飛び上がって片づけ始めた私は、束ねた雑誌を持ちあげた瞬間、ギクッとぎっくり腰になってしまった。痛っ、立てない (>_<) それからは、這うようにのっそり歩いている。

金曜、ダンベル再開したばかりなのに、しばらくできないよ~、ダンベル再習慣化失敗。

私は腰が弱くて、数年前は年に何回かぎっくり腰になっていたことを思い出した。

もしかして、聖霊さんが、「体幹を鍛えよ」と言っていたのは、こういう事態を予見してのこと~?

調子に乗るな、ってことだよね。

翌日曜日の新・新居の契約も、そろそろ、そろそろ這うように歩き、電車の揺れに、あ゛…と、顔をゆがめるのだった。

こういうことを起こしているのも自分。おそらく、一方に「いいこと」があって、私の「罪悪感」がうずいて招いていることなんだろう。

実は、「新着物件」メールが届いた日から、膀胱炎にもかかっている。市販の薬を服用しているけれど、まだ治っていない。

土曜以来、腰にコルセットをして、そろそろ歩きながら、1時間に何度もトイレに向かっている。

でも、それも、「私のマンション売却&住み替えプロジェクト」というジグソーパズルの1ピース。

あ~、決まってよかった。

引っ越し、夏と思っていたけれど6月になりそうだ。

新居、キャンセル、そして別物件を新たに契約

2018-04-23

買ったマンション内に魅力的な「新着物件」現る!

昨日は、新居の契約だった。

あれっ、新居は先月決まったんじゃ?

そうそう、新居を契約したのは先月だった。そして、7月20日に引き渡しで夏引っ越しするつもりでいた。

先々週から先週にかけて、その流れが一転した。

きっかけは、先々週の金曜(4/12)に届いた一通のメールだった。

私は購入前に決めたマンションの住民や元住民による口コミサイトを見ていたのだが、そのサイトから、「あなたが見ていたマンションに新着物件が出ましたよ」という、ちょっぴり“おせっかいな”ご案内が来たのだ。

私は物件を購入してから、マンション仲介サイトは見ないようにしていた。もうすで決めて手付金も払ったのだから見る意味はないし、魅力的な物件を見つけてしまって後悔しても仕方ない、と。

それが、マンション口コミサイトという、思わぬところから情報がやってきたのだった。

何?これ?

新着情報って?

何気に開いて、それが一つ下の階の少し広めの物件の情報だとわかった。

お風呂とトイレが一緒のいわゆる3点ユニットバスが、(私にとっての)我慢ポイントだったけど、新着のそこはお風呂とトイレ別。面積も2/3になるのは仕方ないと思っていたが、新着は今住んでいるところと同じくらいとちょうどいい。

100%希望を満たすような物件はないから…と80%満たす物件を選び、満足していたはずだった。それが、残る20%も満たした物件が目の前に。坪単価はなぜか私が契約したものより安めだ。

あ゛~、こんな情報目にするんじゃなかった。契約はもう済んでしまっている。約束を破るのはよくないことだ。でも…。こっちの方がいいんじゃ? どうしよう??

いつも、すべては幻想だと言っているくせに、そういう考えはぶっとんでぐるぐるしてしまった。エゴの葛藤!!

契約解除→新たに物件の契約…怒涛の一週間

そして翌土曜、母からの電話で「新着物件」のことを話す。

母「後悔するから、見るだけ見に行くべきだ。こういう時のための手付だ」

その言葉に後押しされて、不動産屋さんに電話して、翌日曜に内覧させてもらうことに。そして、見て、手付金額を加えた価格で買うことになったとしても、「やっぱりこっち!」と気持ちを固めた。

たまたま別の用事で、その日夕方打ち合わせに来ていた仲介不動産業者さんに、「手付金、仲介料放棄して、契約解除したい」と相談。調べてもらったら、契約解除できるのは、4月19日(木)まで。それを過ぎたら物件代金の2割の違約金が発生するのだと。

内覧はしたが、確実に買えるとは限らない。まず、申込みして買う方を固めないと、と。

月曜の朝購入申込みの電話を入れた。私は内覧者の3番目だったけど、申込みは一番最初だった。

火曜に、すでに購入している方の売主さんに解除申込み。

水曜 不動産屋さん定休日

木曜 不動産屋さんに契約解除書類を書きに行く(解除期限末日だ)

日曜、新着物件のほうの契約

そして、新・新居の契約を終えての今日だ。

私が確実に買えるかどうか「月曜中に連絡する」と話していた不動産屋さんからは木曜になっても連絡がなく、「結局、両方買えなくなるのでは?」と不安度Maxになった私から電話してみたら、「(連絡を)忘れていた」とのことで、へなへなへたりこんだ。

亡き父と聖霊による導き

自分でも何だかよくわからないけど、願っていたマンションの願っていたタイプの部屋に住めることになった。

すべてのタイミングがスレスレ。

内覧できるのが次の週だったら…、

購入した方の売主さんが契約解除に難色を示されたら…、

共有者である母が協力してくれなかったら…、

流れはまったく別物になっていた。

ありがたい。

ほんとうに…。

マンションや空間もまた幻想だと知ってはいる。でも、でも、やっぱり気に入った住まいに住めるのはとってもうれしい。引きこもりがちな究極のインドア派の私なればこそ、居住空間はとってもとっても大事なのだ。

ふと思い返したら「父が(私の)家を建ててくれている」夢を見たのが金曜の明け方で、その同じ日に「新着物件」メールを見つけて、この一週間の住み替えプロジェクトが始まったのだった。

新・新居は、亡き父の力添えと導きによるものだという気がした。その考えはACIM的ではないのかもしれないのだけど、お父さんが力添えしてくれている気がした。

先週(4/16~20)はレッスン186をやっていたが、そこにこんなくだりがある。「神は必要というものを知覚しないが、神の子が知覚するあらゆる必要に応える想念を有している。」(L186-13-4)こじつけかもしれないけれど、聖霊による導きもあってこそだと思う。

亡き父の力添えと聖霊の導きはひとつのものだ。

私に見えている部分は常にわずかだ。これから、どんな展開が待っているのか。

ACIMレッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

2018-04-20

や~っと、ダンベル、できた

レッスン183のワークについて書いた前回、ワーク中「姿勢を良くするために体幹を鍛えよ、そのためにダンベル習慣を再開せよ」というメッセージを受け取った気がしたと書いた。

「姿勢を良く、体幹をしっかり」というのは、ここ最近のワーク中毎回感じることだ。

これが、いわゆる聖霊からのメッセージかどうかは自信はないが、これだけ具体的かつ健康に良さげなこと、やってみればいいじゃないか。ここで書いてしまった以上、ダンベルを再開しなくてはブログ更新できない気がしていた。

そして、やっと、やっと…、今日できた。

あまりにもささやかなことだけど。やれやれ。

ダンベルをすると血流が良くなるのか、身体がすっきりする。

できたら、一回だけじゃなくて前のように習慣にできたらいいけど。

私が「きれいだな」と思う人は、年齢にかかわらず姿勢がいい。しゃんと背すじが伸びた、存在そのものが美しい人に憧れる。

レッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

レッスン184は、名づけることについて書かれている(と思う)。

「あるもの」に名前を付けることで、そのものの性質が知覚され、自分との関係が定められる。そして、自分から分離したある存在として認識される。

名づけることは、意味をもたせることであり、存在理由をつくることでもある。

私たちは、このゲンジツの世で限りない名づけを行って、幻想に厚みを持たせてきた。

そして、その共通認識を身につけることを学びといい、それによってコミュニケーションを成立させてきた。

でも、ACIMを学べば、それはいかに複雑で厚みがあるように見えても、やはり幻想に拠っているのだとわかってくる。

ただ、身体を持って、この幻想の世の名づけにしたがったゲームに参加している者は、名づけからまったくフリーになることはできない。

ACIMがいかに素晴らしいと感じても、ACIMの理論だけではこの世でコミュニケーションができない。

そこに、私自身の「??」もあったように思う。

ACIMの価値観を深めつつ、この世でどう生きたらいいのか。ACIMを勉強しているつもりで、ただの「浦島太郎子」になっている私。世間話の相づちさえヘタになってる(・・;)

ACIMとゲンジツ、どう折り合いをつけたらいいのかな。

この世のルールにしたがいつつも、その下にはACIMの層をしっかり意識し、その価値観からぶれないようにすべきなのかな。は~、いつもぶれぶれだけど。

こうした思いに揺れている私に、レッスン184はひとつの指針を与えてくれる。

ゲンジツを生きつつACIMを歩むヒント

あなたはもうしばらくの間、この世界の象徴を使う必要がある。しかし、それらに騙されてはいけない。」(L184-9-2)

それらはこの世界が理解できるやり方であなたが意思疎通をするための単なる手段となるが、あなた自身がそれが真の親交が見出せる場としての一体性とは違うということを認識している。」(L184-9-5)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

世界がそれらに与えている名前を単なる便宜のためにのみ使いなさい。ただし、それらがあなたとともに神の名を共有しているということを忘れずにいなさい。」(L184-11-4)

このあたりに、ゲンジツを生きつつACIMを歩む方法のヒントがあるように感じた。

「神に名はない。しかし、神の名はあらゆるものが一つであるという最後のレッスンとなり、このレッスンですべての学びが終わる。」(L184-12-1)

それをこの世で忘れないこと。そのために、この世のリズムから抜け出て、心を静めること。

そういうことかな。

よく言われることだけど、「忙」という字は「心を亡くす」と書く。忙しくするのは、エゴが正気を失わせる得意技だ。

やっぱり、ちょいちょい休んで心の声(聖霊の声)に耳を傾けるのが大事ということかな。

明日も、ダンベル、できるかな。

ACIMレッスン183-私は神の名と自分自身の名に呼びかける。

2018-04-17

怒涛の展開、現在渦中

4月も気づけば後半だ。やるべきこと、あまり進んでない(・・;)

先週金曜日から昨日にかけて、あくまで自分にとって、だけど、怒涛の展開があって、今も渦中にいる。

それは落ち着いてから…として、ワーク183だ。

これは、3月の終わりにやったワークで、その頃はまだ桜が咲いていた。ワーク…すでにどんなだったか忘れている。

日本は四季があって常に季節が移ろいでいく。これから春から初夏へと向かう。毎日そうは変わってない気がするけど、この世のゲンジツは自分を取り巻く環境も自分自身も含めて、常に常に変化し流れていく。

レッスン183-私は神の名と私自身の名に呼びかける。

名というものは、おしなべて認識のフック=手がかりだ。

神の名を心に浮かべることで、神を心にいだくことができる。

神の名に呼びかけるということは、あなた自身の名によびかけることである。」(L183-1-2)

それは、ワークブックにあるとおり、真の自己への呼びかけとなり、自分を思い出す。

自分=神の子、神の延長だということ

だから、レッスン183は、「神の名を繰り返しなさい」とくりかえし呼び掛ける。

「そうすれば、全世界がそれに応えて幻想を放棄する。」(L183-3-1)

「そうすれば、卑小な名前は意味を失う。」(L183-4-1)

「神の名を繰り返せば、地上の小さく名もなきものすべてが、正しい視座におさまる。」(L183-5-2)

と言い、

「今日は、神の名をゆっくりと何度も何度も繰り返すことだけを練習する。神の名以外の名は、一切忘れてしまいなさい。」(L183-6-1)と指示する。

この練習を行うことで、実相(神)だけが意識され、エゴのつくっている砂の城が崩れていく。

聖霊さんの具体的メッセージ!?

私はレッスン183の中の「黙して座り、神の名を、あなたの心を完全に包む包括的な想念になるようにする。」(L183-8-3)の次がとくに好きだ。

これ以外の想念はすべて静める。そして、ほかのすべての想念にはこれをもって応える。」(L183-8-4,5)

なんか美しく感じるから。

そうなれたらいいけど。ゲンジツの私は俗物で、まだまだそんなふうにはなれそうにない。

正しい方向に導いてくれる聖霊の声が聴けているかどうかもわからない。エゴの声と聖霊の声の聴き分けすらできているのかどうか。

ワーク中思いついたり感じたりすることが「それ」かな、と思ったりしているだけ。無意識のうちに聴けていて行動できているのかも、と思ったりもしている。

ここ最近ワーク中頻繁に思い浮かぶのは、

姿勢を良くすること

 ↖そのために体幹を鍛えること(腹筋背筋不足か、長い時間座ることもきつい)

  ↖そのためにダンベルを再開(1回20分のダンベルDVD、腹筋も含まれている)

これが聖霊さんのメッセージだとしたら、えらい具体的やな。しかも幻想だという身体のことだし。

おそらく、聖霊さんじゃないにしても、まぎれもなく私が気になっていることなんだろう。

だけど、半月前くらいから聴いている(思い浮かぶ)くせに、まだできてない。たかだか20分くらいのことでも、一回止めてしまった習慣を再開するのって、パワーがいるなぁ。

まず一回。

習慣として再開できるかどうかは、その後だ。

では、今日から。。。?

今朝の夢ー父が家を建ててくれている

2018-04-13

ユング講座で夢のはなしを聴いてもらった

月一度通っているカルチャー、ユング心理学の講座では、受講者が見た夢のはなしをする時間がある。私もおとといの講座で3月末に見た夢について話した。

引っ越しが決まっていてその物件の再内覧に行くという夢。引っ越し&再内覧に行くという点まではゲンジツに沿っているが、物件は実際のものと違っていた。

ちょっとした体育館くらいの広さがあり、メゾネットタイプで2階に玄関があり1階へ下りていくつくり。真ん中には大きな吹き抜けがあった。2階のバルコニーの先は大海原で波が押し寄せている。おもしろい、よい部屋だった。

これともう一つ、幼馴染に会う約束をしているけどなかなか会えない、という夢を話した。

先生は私の話を聴いて、母の介護とも関係していると話された。2階は頭で、1階は心を暗示している。

「あなたは2階(頭)の分野が得意かもしれないけれど、今後1階(心)を用いねばならずそこではシャドウ(自分の影)と対峙しその部分を使っていく必要もあるだろう。自分が主人公ではやれないかも。覚悟が要りますよ」とおっしゃった。

それから、「吹き抜け」の家は、「父の不在」を意味すると。そして、「お父さんに感謝をささげなさい」とおっしゃった(先生はユング心理学を踏まえつつ独自の解釈をなさっている)。

私は、それを聴いて亡き父のことを思い出し、改めて「ありがとう、お父さん」と思った。

今朝の夢に父が出てきた

そうしたら、今朝の夢に父が出てきた。

夢の中の父は、私の家を建ててくれていた。木造2階建ての一軒家。大工さんみたいに本当に父が建てている。材料となる丸太を何本も右わきに抱え歩く後ろ姿を見て「お父さん、すごい」と頼もしく思っていた。夢の中の父は40、50代位?若かった。

起きてから、とてもうれしくなった。晩年の辛そうな父ではなく、活力に満ちた父に会えたこと。その父が、自らの手で私の家を作っていてくれたこと。

夢は潜在意識のスクリーンに映されたものだと考えると、夢の中の家は、自分の心そのものかもしれず、引っ越しの夢を見るのは、やはり変化時なんだろうなぁ、と思った。

今回、父が手づから私のための家を作ってくれている!

父は亡き父であり、神なる父(もちろん神なる母でもある)であるとも解釈できた。

私の心の内には父が作ってくれている家ができつつある。いずれ私はそこへ引っ越せるだろう。

父は私の感謝に応えるかたちで、夢を見せてくれた。私は守られている。なんてありがたいことだろう、と思えた。

そのありがたい気持ちや、護られた感が、エゴの不平不満に満ちた私のなかでどれくらい続くかわからない。でも、動けていない自分に対して焦りや恐怖感で固まっていたのが、焦らず、ぼちぼち、行くかな…、という気になれてきた。

16年ぶりに、美容室を変えた

2018-04-11

売主は少しでもこぎれいに!?初めて染め専門美容室へ

変化時っぽい今年、もうひとつ、16年ぶりに変えたものがある。

美容室だ。

[caption id="attachment_3547" align="alignleft" width="300"] 〈イメージ〉[/caption]

私が行っていたのは前の住まいの近所だった美容室。現住まいに引っ越ししてからも通いつづけていた。

美容室では、美容師さんとの会話がめんどうという声も聞くけど、店主は人情味あふれた男性で16年も通い続けているから慣れていて、世間話をするのも楽しかった。

ただ、カット&染め(白髪染め)のコースで3時間くらいはかかるので体力に余裕がないと行けず、11,500円という金額も出しづらくなっていた(行くのは3ヶ月に一度だけど)。トイレが近い私は、途中でお手洗いを借りるのも恥ずかしかった。

この冬、マンション売却で内覧の方がお見えになるという前日、少しでも見栄えよくしたいと思い、「やっぱり生え際の白髪が気になる人より、きれいな人から買いたいよね」と、初めて染め専門美容室なるものに行った。いつもインターバルは自分で染めていたけど、今年は寒くてしそびれていたのだ。

ACIMの教えと逆行するようだけど、この幻想のゲンジツの世では、見栄えはやっぱり肝心。印象をよくするには、部屋を掃除するのと同様、売主も少しでもこぎれいに見せるべし、と思ったのだ。

染め専門美容室には、生え際染め850円のクーポンを持っていったけど、全体染めになりトリートメントやロング代金など、何だかんだおカネがかかった。

でも合理的。ブローもドライヤーを渡され、自分でして帰る。全部で1時間。次からは1,700円(生え際染め)でできる。

それが気に入って、これまで一連の流れと思っていた、染めとカットを別に考えることにした。

新しい美容室、行こう

これまでずっと通い続けた美容室。何度か変えようかなと思ったけど、お店の方は、私が季節の変わり目には当然来るものだと期待(?)しているだろうなと思うと、なかなか変えられなかった。

でも、もう他区に引っ越すことだし。「美容室行くならここ」みたいなヘンな縛りが面倒くさくもなっていた。

新しい美容室、行こう!

お客の身とはいえ、このささやかな決断にも勇気が要った。

カットは「おしゃれな格安カット店」で、2,160也。美容師さんとのおしゃべりにキンチョーするかな?と思ったけど、格安美容室は激混みでタイマーをセットしてカットするから、客と余計なおしゃべりなどする“サービス”などしないのだ。

髪を10㎝くらい切ってさっぱりした。髪型も平凡ながら問題なし。

カットは3ヶ月に一度、染めは毎月行くとしたら、2160円+1,700円×3=7,260円。これまでの11,500円と比べると、4,240円/3ヶ月の節約になる。これまで途中で自分で染めていた手間も省ける。

「節約」も幻で、これを追求しておカネをリアルにしてもしようがない、とは思うのだけど、まだまた未熟な学習者。

「見栄え」と「安さ」に振りまわされるのだった。

でも、これまで「買えたらダメだ」と思っていた美容室、新しいとこに行けたのは、心のうちに抱えた罪悪感が少し減ったからなのかな?

無意識に自分を縛っている観念の、なんと多いことよ!

レッスン183のことを書こうと思ったら、気づいたら美容室のことで終わってしまった。

マンションの定期総会、終えた

2018-04-09

定期総会、予想以上の混乱で疲労困憊

昨夜はマンションの定期総会だった。そこで次の役員の方に交代、…で任務終了のひとくぎり。

総会は予想通りというか、予想以上というか、ひとりの方(勝手にモンスターさんと呼んでる)の質問や意見で大混乱した。

数年前に多数決で決まってもう終えてしまったエレベーター工事に対する今更ながらの反対だったり、予算に計上した予備費が不正につながるから不要といったものだったり、ほんとうは何がしたいのかよくわからない意見ばかりで、話すうちにもどんどん論点が変わっていく。それはかなり“病的”な印象を受けた。

管理委託契約契約更新の議案にもかみつき、管理会社さんは「否認してくださって結構、うちは下ります」と逆ギレした。

私は初め「これは幻想、幻想、反応しちゃいけない」と自分に言い聞かせていたけど、「理事長、答えなさい」と私に直接回答を求める質問をぶつけられるうちに、心臓がバクバクしてきた。答えようのない質問ばかりだし、うっかり感情的に反論したら、火に油を注ぐことになる。

途中、中国人の住人の方が、何度かまったく別方向からの質問をしてくれて、それが混乱に水をさし参加者の冷静さを取り戻す助け舟となった。

議案はすべて、彼女以外の方はすべて賛成で議案はすべて可決。まぁ、その方の暴走はいつものことだから、波乱を含めての予定調和なのかもしれない。

新役員になるはずの3名の方は全員欠席した。引き継げた感はなく、すっきり肩の荷が下りた感じもない。けど、後は留任される方にお任せしたい。

 

帰宅後、疲労困憊していた。

これが、私が見ているゲンジツなのかと。

これは、すべて私の心が見せているものだし、モンスター的住人さんも内なる自分の姿だ。

私はいったいどうなっているんだ。。

すべての紛争は私のエゴの影…、現れるのは手放すため

今朝もいつもならウォーキングに行けたことでさっぱりしているはずが、心はまだぐったりしていた。理由ははっきりしないけど、なんかなぁ、とやるせない気分だった。

ワークをして、少し見方を変えることができた。

そのモンスター的住人は、私の人生の変化を促すプロモーターの役割をしてくれているのかも、と思った。

大小にかかわらずすべて“紛争”は、私のエゴの影。手放すために見せてくれているんだ。

ただ、「神からの分離」という誤解からもたらされた幻想だと思い出し、手放しさえすればいい。

憐憫に浸ってリアルにすることはない。

やるせなさの陰に罪悪感も浮かび当たってきた。

いつもやっているように、豊かさ・喜び・感謝の流れをイメージした時、それらが私なんかにふさわしくないんじゃないかと感じてしまったから。

「サラバ」それが、聖霊さんのメッセージ?

その後、聖霊さんからのメッセージって何か感じるかな?と心の内に意識を向けたら、

「サラバ」と浮かんだ。

サラバ ???

「さよなら」っていう意味?

それは、このマンションよ、サラバ… なのか。

ネットで「サラバ」の意味を調べたら、「然らば」⇒「それならば」というのも出てきた。

それならば…?

もめ事やその人が、もし、私のエゴの影だとしたら…?てこと?

赦す…しかない。気づけたのなら。

 

他には、また「姿勢をよくしろ」

それと「悲しみに浸ることに、喜びを見いだすな」

という言葉が浮かんできた。(それが本当に聖霊のメッセージかはわかならいが)

毎日のように言われている気がする「姿勢をよくしろ」というのは、文字どおりの姿勢、猫背を治せってことかな?

それとも心の姿勢、物の見方のことかな?

こうして書いているうちに、心が少し軽くなっているのに気づいた。

書くことの効用って、渦中から少し客観的になって外に出られる、ってこともあるなぁと思う。ありがたい。

レッスン183について書くつもりが、気づいたら定期総会のことだけになった。

「きっかけは自分から」を思いだす

2018-04-06

2とおりのフリーランス

フリーランスには2とおりある。

市場に通用する価値をもってそれを売ることができる文字どおりの「フリーランス」と、そういったものをもたないで誰かのお手伝いをする「下請けフリーランス」だ。

私は後者だった。

改めてふりかえってみると、それでもよく生きてこれだ。周りの人たちとラッキーのおかげだな、とあたりまえのことに気づいた。

若いころ、ある経営の資格を取った。30代になって独立ブームに触れ、「資格で独立」みたいな雑誌を見たりして、その気になって具体的なスキルもないのに「独立」した。私は内気な一方で、無鉄砲なところもあるのだ。

もちろん名ばかり。名刺だけ作ったけど仕事なく、午前中スーパーでバイトをして通勤教材の添削講師をして…という始まりだった。

気づけば仕事のとっかかりは自分のアプローチだった

私がフリーランスとしてやっていたのは大まかにいうと、

①マーケティング調査

②ライター的な仕事

③講師

これに加え、スポット的に、占いや相談があった。

①の調査の仕事は、何ができるという具体的なものがなかったけど正社員として雇用されるのは苦手だったので、求人雑誌を見て小さなマーケティング会社に連絡して社長に会っていただき、できる仕事があれば社員というかたちではなく請負としてさせていただけないか、とお願いして手伝わせていただいていた。

ひとつ仕事をすることがまた別の会社の仕事につながったりした。当時、どんどん増えてきていたコンビニの出店調査やホテルの調査などもやった。

②のライター的な仕事は、これまた何もない状態で、大手出版社に電話して編集者に会っていただき、雑談だけして帰ってきた。半年後、再びお目にかかる機会があり、雑談で知り合いの女の社長さんの話をしたら、「おもしろいね、企画を作るから毎月書いて」と言われ、書いたものすら見せてなかったけれど、「ライター」になった。

③の講師業も、またある団体に電話をして会っていただき、1年後にセミナーの仕事をいただいた。後々、なんで仕事をくださったのか聞いてみたら「この1年で直接会ってくれと言って来たのが、たまさん(私、仮名)だけだったから」とのこと。

これをきっかけに何年間も毎年仕事をいただき、おかげで生活を支えることができた。

そう、気づいたのだけど、どの仕事もとっかかりの「きっかけは自分から」だった。もちろん、どんな仕事も、自分が見つけてアプローチして、から始まる。

何者かもわからずキャリアもない私に機会を与えてくださった方々がいて、何とかやってこれていたんだ。

考えようによっては、これって奇跡じゃない?私はいつも、どこかしらひねくれていてネガティブ志向だったけど、実は、めっちゃくちゃラッキーじゃない?

曲がりなりにも、自分から申し込んで、願った分野で仕事を作ってもらえてきたのだから。

「この世は幻想」…幻想の世の中で、私はいったい何をすれば…

ここ10年位は体力気力が落ちて、締切のある複数の仕事をこなしていく自信がなくなった。

それ以上に、これまではこの世で自己実現することに関心があったけど、いまや「この世は幻想」だ。この前提に立った時、何をとっかかりにしてこの世のことをしてよいか、わからなくなっている。

この世は自分の映し絵…「売上」はない、「コスト」もない。当然「利益」もなければ、地球温暖化も、地球も、私のからだもない!

でも、毎日のくらし、幻想とは思えないよね?

おカネは幻想だと思うけど、やっぱり節約しなくちゃね?

え、節約するってこと自体は、おカネをリアルにしてしまっている?

ぐるぐる…((+_+))

みんなが一生懸命に働いているとき、こんな問答だれにも相談できない(・・;) 四の五の言わず、働け!…ええ、おっしゃるとおりです。。。

おそらく、聖霊の声を聴いて、それに従って、やりたいことをやれば、いいんだろう。その聖霊さんの声がようわからん。聴けているのか、いないのか。

どっちにしても、恐怖心と罪悪感は赦して、インスピレーションを受けたと感じたことをやる、ってことだよね(おカネが尽きるまでは)。

それって、何かな?

私だって過去には初めての扉を叩くこともできた、それを開けてもらっていたんだ。その積極性は私のまだどこかにあるはず。

自分のやじるしをどっちに向けて、どのドアを叩いたらいいかな?

お家の売却が決まってからじっくり考えてもいいかな?これってまた先延ばしかな?

「自称・自営業」の心の内

2018-04-04

自称○○という怪しさ

4月に入って動きやすくなってきた。

正直言うと、私は恐怖に固まっている。今に始まったことではないけど。だんだん恐怖が強くなっている。

去年の夏?秋?から仕事らしい仕事をしていない。すでに自営業ではなく、「自称・自営業」になっている。

テレビのニュースなどで、犯人が「自称・○○」と言われているのを聞くと、ピリッとする。自称・エスティシャン、自称・経営コンサルタント、自称・整体師、自称・貿易業…。だれでも自称といえばまぁ自称のはずだけど、「自称」とつけただけで怪しくなる。

昔オセロの中島さんが“洗脳”されたとかなんとかいう騒動があった頃、洗脳したのは「自称・霊能者」の女性と言われていた。もう、これだけでヤバさが漂う。

決して、事件を起こすまい、巻き込まれまい。「自称・自営業」と紹介されたくない。

おカネを減らし続ける生活の「恐怖」

あ、話がずれたけれど、3、4年前からフリーランスの仕事が減り収入も減り、でもそれはちょうどせっせとACIMのワークをやっていた頃だから、時間に振りまわされるより、よしとした。ACIMの考えがなじむにつれ、経営支援の仕事はしにくくなった。大畑学さんの詳訳を見ながら原文を読むことに時間を費やし、元々内向的なのがさらに強まった。

気づけば、それが平生になってしまい、さらに諸々の状況が重なって、ありていに言えば、いま無職だ。

去年は過去にやった仕事の入金(印税等含む)、配当、株口座からの引き下ろし、預金口座からの引き下ろし等で、やりくりした。

おカネを減らし続ける生活は、やはり恐怖だ。

働かなくちゃ、と思うけれど、働くことに自信がない。体力面のことも(疲れやすく動きづらい)、精神面のことも。こんなことを言えているのは、まだ「余裕がある」のかもしれない。

働かなくちゃ、でもどういうキャラでいたらいいのかわからない

私はどうも、雇用され、時間を売るのが苦手だ。

おそらくどこか勤めても、その瞬間から辞めたくなるのではないか、と思う。フリーランスで働くのは不安定とは言え、拘束感が少なく楽しかった。

いやいや現実的にー

こんなわがままな私、

なんだったらできるのか。

昔、その昔には、私もいろいろバイトもした。飲食業、飛び込みの内装営業、家庭教師…

「若い女性」というペルソナがあったから、いろんなことにチャレンジしやすかった。

若い頃に遡らなくても、日本料理店のホール、夜間の派遣(通信教材の質問を受ける仕事)や契約占い師など、(多少ヘンテコな職種も)やったものだけどなぁ。

今は、どんな仕事も、私にはむずかしく思える。

あまりに、ひきこもりすぎて、社会が怖いのかもしれない。

私は誰として、社会に立てばいいのか。どういうキャラでふるまう?いやいや自意識過剰か。

主婦でも、母でもない。バツイチ独身のシニア女。元フリーランス。

自称・ACIM学習者。

ACIMを学習して、この世界の幻想性を身近に感じるようになった今は、逆に世間で気のきいた相づちを打つのもヘタになっている。

絵に描いた餅?、夢?

本当のところは、どこかに雇用されるより、何か小さくてもよいから、自分で収入を得られるしくみが作れないか、と願っている。これだけITも発達していることだし、交通・運輸も進化している。

がっちり儲けるのではなく、すれすれ生活が成り立つレベルでいいのだ。時間で働くのではなく、自分が稼げるしくみが作れないものか。そういうものが自分にあれば、故郷での生活や、あるいは東京との行き来も可能なのではないか。

それは、もう、ずっと何年も、何年も前から思っているけど、できていない。まず、そのための時間も十分にかけられていない。参考本を何冊か読むだけで、行動が伴わず。

ただ絵に描いた餅だ。

聖霊からのアドバイス

そんなこんなで、恐怖感が強くなっている、この春。

それに対する聖霊さんの声はー

ちゃんと聴きとれているのかどうか、わからない。

焦るな、落ち着け。

 姿勢を良くしろ。

 感謝しろ。

これが感じること。こんな命令形じゃないけど。そして、

その恐怖こそ、手放すべき幻想だ。

と。

私は、ACIMのコースからずれて迷路に入ってしまっているかな?

でも、もうちょっと様子見しようと思う。

 

ACIMレッスン182-私は一瞬の間静まり、家に帰る。

2018-04-02

人間に許しがたきを許す、そこから先は神のためだと知らぬか

家の片づけに勢いづき、週末は家電を3つ近所のリサイクルショップに持ち込んだ。石油ファンヒーター、空気清浄機、加湿器…。値段が付いたのは加湿器だけで500円。

今やゴミの引き取りにもおカネが要る時代。十分だ。今朝は解体した本棚を粗大ゴミとして引き取ってもらった(1,100円かかった)。

物の処分でも手こずるのが、紙や書類だ。昔やっていた仕事やプロジェクト、勉強していたものの書類を見ると、時おり感情が揺れてしまう。今より若かった時代への懐かしさなのか、あるいは後悔も含まれているのか。揺れているのはもちろんエゴだ。

そうした昔の書類も、今の機会になるたけ捨てよう。片づけコンサルタントのこんまりさんも、テレビで「書類は全捨て」って言っていたではないか。

そう思って片づけ作業をしていたなか、ふと目に止まった詩があった。産業カウンセラーの勉強をしていた頃のレジュメにあった詩だ。

許しうるものを許す

 それだけならどこに神の力が要るか

 人間に許しがたきを許す

 そこから先は神のためだと知らぬか

 『八木重吉全詩集2 貧しき信徒・詩稿Ⅲ』

この詩…。「許す」は、ACIMのいう「赦す」ではなく、一般的に使われる「許す」の意味だと思う。だけど、ACIMの言わんとすることに近いニュアンスも感じる。

高校生の頃、八木重吉さんが書かれたある詩がすごく心に響いて、覚えていた。だけど、いつの間にか忘れてしまい、今は思い出せない。どんな詩だったんだろう。

ふと、八木重吉詩集というのを読んでみたい、と思った。

レッスン182-私は一瞬の間静まり、家に帰る

レッスン182は「あなたが住んでいるように見えるこの世界は、あなたの家ではない。心のどこかで、あなたはこのことが真実だと知っている」(L182-1-1,2)から始まる。

それをみんな心の奥では知っているけれど、思い出さないようにしている。仕事や遊びに没頭したり、感情を否認したり、その考えを否定したりして。

そして、永遠の安堵感を、この世でいろいろな手段に求めるが、結果的には徒労に終わる。

だれの心の中にも「父の家を探す幼子がいて、その子は自分がここでは異邦人だと知っている。」(L182-4-3)

その聖なる幼子こそが、私たちを導く内なる神の子だ。

「彼は家に帰ることを深く絶え間なく欲しており、彼の声は少し休ませてほしいとあなたに訴えている。」(L182-5-3)

「この幼子とは、防衛しないことによる強さそのものである。彼はあなたを信頼している。」(L182-7-1,2)

この世での時間のゆとりを設け、この内なる幼子の声を聴くことがこのレッスンのテーマである。

そして、この幼子の持つ防衛しないでいる無垢な強さこそが、自分の内にある強さであるという、その認識。

死の恐怖を忘れるため、ハードワークをする!?

少し前『東大から刑務所へ』という本を読んだ。堀江貴文と元王子製紙会長の井川意高(カジノで会社のおカネ106億8000万円を使い込み逮捕された)の対談集を読んだ。

(堀江:僕は小さいころから「死の恐怖」に苦しんできたんですよ。でも、シャバにいるときはとてつもなく忙しく動いているから「死の恐怖」は忘れている。長野刑務所の独房で寝ているのときには時間がありすぎて「人は必ず死ぬんだよな」という恐怖に襲われました。P208)とホリエモン。

たしか前の本でも、死の恐怖を紛らせるために忙しく働いていたといったようなことを言っていた。

案外、正直な人なのかもしれない。

私も幼い頃から、死が怖い。

今は前より怖くなくなったとは言え、迫っていると感じたら、どんなにか恐怖を感じるだろう。

もちろん、それは幻想だと、頭ではわかっている。

でも、まだまだエゴの見方から聖霊の見方に矯正できていない。

それよか、私は、ACIMをまったく知らない平均的な人より、防衛的だ、たぶん。

「姿勢を良くしろ」

最近ワークをしていて感じるのは、「感謝しなさい」ということと共に、「姿勢を良くしろ」ということ。

そのためには、体幹を鍛えること、手始めには前やっていたダンベルを再開…と、具体的なイメージも浮かんできた。

これは…、聖霊さんのメッセージ?

やっぱり私が勝手に思いついていること?

ACIMでは身体に重きを置くべきではないとしている。それなのに、姿勢をよくするために体幹を鍛えろとは…!私は、聖霊さんというより、エゴの声を聴いているんだろうか。

まぁ、腹筋背筋が衰えていて、椅子に座っていても前かがみになりがちではある。どっちにしても、体幹を鍛えて悪いことはなにもなさそうだ。

ローン審査全滅と…私の罪悪感が足ひっぱってるかな?

2018-03-31

ローン×で、売却ふりだしへ

きのうの夕方、不動産屋さんから電話があった。マンションの買主さん、信用金庫も審査通らなかった、と。

先週都市銀行がだめだったということで、その後に信用金庫3行に申し込んでいたのだ。勤続年数の短さと副収入の多さ(自営と見なされてしまう)がネックになったとか。

ざんねん。やっぱりだめか~

マンションを売る際は、買主さんに、

まずネット情報などで関心をもってもらい→

内覧してもらい→

気に入ってもらい→

購入申込みをいただき→

ローン審査を受け→

ローンが通って→

契約

というのが一般的な流れになるが、内覧して気に入ってもらうまで行くのもなかなか。

それが、前回はローンはなんとか通ったものの契約前々日にドタキャン、今回はローン通らず、となんだか、こじらせてしまっている。

不動産を売る経験が少ないからよくわからないけど、こんなにとん挫するものなのかな、申込みもらったけどだめになるというのが、もう一回続いたら、不動産屋さんのやる気も萎えそうでこわい。

あ~あ、またふりだしかぁ。

気を取り直して、再スタートだ。

成約を止めているのは、私の罪悪感!?

…と朝、ワークをしていた時に、ふと思った。

この流れを止めているのは、私自身、私の罪悪感なんじゃないかと。

私は、この住まいが気に入っていた。だけど、築40年と古くなってしまった、そして世帯数が少なく高齢化も進んでいるから、数年のうちに万年役員にされてしまいそうだ。

それがいやで手放すことにした。4月に私の役員任期が終わる。そしたら、さっさと去ろう。

そのことについて、罪悪感を持っているのだ。今ここに住んでいる人たちと、新しく住民になる人へ。

とくに買主さんに「自分があまりよくない」と思っている物を押しつけていくような、そんな申し訳なさがある。

この世は自分の意識が投影されているのだから、マンション売却を阻んでいるのは、まさにこの私の罪悪感ではないかと思い当たった。

罪悪感が私をこのマンションに縛り付けている…。

しかしー、ACIMではこの罪悪感というものは、おしなべて実際には起っていない「神との分離」をこのゲンジツの世に映し出しているものだと学んだ。

だったら、気づいた時点で手放したらよいのではないかと思う。だけど、それがなかなか難しい。

なぜ?

この世は幻想だから…、という前提を突き詰めていくことへの恐れがある。また罪悪感から自分を責めることとそれに対する懲罰と償いのエネルギーが、この世で「人生」という営みそのものになっている気がした。

私にとって罪悪感はリアルだし、それを手放すのはいけないことのような気がしたのだ。

こう、ぐるぐる考えてしまっていること自体、かなりこじらせている。(エゴの大好物だ)

自意識をこじらせず、罪悪感を赦そう

ふと視点をずらせば、人の価値観はそれぞれ。

自分にとって、よくなくて手放したいと思っても、人にとっては「お買い得」かもしれない。

それに、これは、「私が売る」んじゃなくって、「お客さんが買う」かどうかだった。「売る」んじゃなくて、「売れる」。

あるいは、売れなければ→割安感が出るまで、価格を下げる。こう見れば、私の思いを絡め過ぎるのはどうよ、と思う。

もうしばらくしたら価格を下げ、なるたけ物件はきれいにして、情報を正確に出して、満足して買ってもらうこと。このシンプルさでいいはずだ。

そしてACIM学習者として行うべきは、やはり表面化している罪悪感を赦すこと。

赦すことがこのコースの根幹なのだから、四の五の言わず、「気づけば、赦すこと」だ。

この世の恐怖と罪悪感は、すべて実際には起きていない「神との分離」の現れ。

私は今も神さまとひとつだ。私が罪に感じる「原因」はない。

そして、ワークして感じたのは、「罪悪感の解毒剤は感謝」だと。これは聖霊さんのメッセージかな?

罪悪感を感じるひまがあったら、感謝しろ。

そう感じた。

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