奇跡講座ダイアリー

ACIMレッスン220-レッスン200の復習

2018-11-14

あ、レッスン220、飛ばしてた!レッスン220―レッスン200の復習

あれっ?

今気づいた。

レッスン220のダイアリー抜かしてた!

やっと第2部に入って、先に進めると思っていたけど。

レッスン220ってー? レッスン200の復習。

(レッスン200)神の平安のほかに平安はない。

この大事なワークをすっ飛ばしていたとは…。

いつやってたんだっけ?

10/25~28だった。すでに半月経っている。

その時のノートを見返すと、経済面の不安感&働いていない罪悪感(世間に顔向けできない)と、「感謝しながら自由にやりたいことをやっていいんだ」が交互に出てきている。両方本心だ。

10/26のワークのメモには、

「(私は)もっともやりたいことをやっていい。」と書いていて、

「それは、おそらく、

ACIMの学習者である私が、

書く、

話す、

カウンセリングやリーディング?

といったこれまでやってきたことを、ACIMの視点からやる。

たぶんそうしたことに関すること。」

…と書いて、マーカーで囲んである。

そして、続けて、

「おカネは幻想だ。

それがなくなることを心配するより、

自己表現に伴う恐怖を(ひとつずつ)とりのぞけ、

表現することによって」

とある。

でも、やっぱり不安感のほうが強くなって、この直後に近所の倉庫事務の求人を見つけて応募したんだった。

思えば、ずっとずっと揺れている。

そしてその揺れ幅は大きくなっている。

「問題」は、つり橋の上で恐怖から固まっているかのように、前にも後ろにも進めないでいることだ。

同じ時間という幻想がすぎるなら、そしてまだおカネをいう幻想が手元にあるなら、もっと自由にやりたいことをやってみればいいのに!

ただ固まって、自分を追い込んでいる。

ばかみたい。

開かれた目で見さえすれば、あなたを迎え入れようとして扉が難なく開き、目の前に天国が見出せるというときに、地獄を延々と探しまわるのはあまりに愚かなことではないだろうか。」(L220-3-6)

今レッスン200を開いて目についたところ。

しばし、気を落ち着けて直感を遊ばせてみようか。

やりたいことはすぐに形にならなくとも、種を蒔き、試行錯誤しないことには見当もつかないのだから。

若い頃自分探しをしたり夢に向かうテーマって、アニメなんかでも目にするけど、還暦に近づいてこれって、かなりイタい人だ。

人には言えない、と思う。

いーじゃないか、言う必要もないんだから。

すでに十分イタイんだから、もう少しイタくなったって!

ACIMワークブック第Ⅱ部-1.赦しとは何か

2018-11-13

11月の色えんぴつ画講座

今日は月一度の色えんぴつ画講座の日だった。

今日の生徒は8名。風景画、クリスマスカード、家猫をモチーフとした年賀状などなど、みんな思い思いのものを描いている。

私は人物画の続き。 (さらに…)

パソコンの中ってこうなってたんだ

2018-11-12

「OSとハードウェアの管理」講座

週末、東京都のキャリアアップ講習の「OSとハードウェアの管理」という講座を受講した。

夏に同じくキャリアアップ講習のウェブ講座を受けた際、隣になった方と、「新しいパソコンを買ったのだけど、初期設定とかよくわからなくて…」と話していたら、「この講座受けるといいよ」と勧められたのだ。

ネットを使って少しでも収入を得るしくみが作られないかと思って、数年前からパソコンやウェブサイトの短期講座を受講している。

けど、どうも、私にはネットビジネスに必要なセンスや時代感覚が乏しいようで(^_^;)

インスタグラムもfacebookも、ツイッターもやってないし。

今どきは、自分で単独のネットショップを作ってモノを売るというより、メルカリやラクマで売ったりした方が早いんじゃ…?

そもそも、ウェブサイトの勉強をしても、扱う商品が思いつかない。

ありゃ、いつもの本末転倒??いったい何をやってんだか…。

それでも、サイトづくりの勉強はおもしろいし、講座を受けるだけで少しできる人になった気がして満足していた。何度もやらないと覚えられないけれど、いつか自在にサイトが作られたらいいな、と思っている。

パソコン解体、へー、こうなっているんだ!

週末受けた講座では、パソコンの解体をした。

え、この講座こんな内容だったの~!?と少し面喰ったけど、面白かった!

初めにパソコンの内部の構造とそれぞれの部品の説明を聞いて、午後グループごと解体して、再組み立て。

外側のパネルを外して、メモリ、フラットケーブル、CPUファン、CPU、ハードディスク、光学ドライブ…とどんどん取り外していく。

これまでパソコンを動かすことには関心があったけど、この箱の中がどうなっているかなんて考えたこともなかった。

中はけっこう空間が多いんだな~、CPUってパソコンの頭脳って言ってたけど、薄いチョコレートくらい小さいんだな、などなど新鮮だった。

他のグループが解体→組み立ての後、再起動してもうまく動作してなくて手こずっている中、こっちはサクッとできた。

なにしろ、私の他は若い男子二人で、手慣れているみたいだったから。

はー、まったく敵わない。私ひとりだったら、たぶん、元に戻せなくなっていただろう。

ネットで収入プロジェクトからはますます遠回りしているようだけれど、そしてけっこう悠長なことしてるな、とも思うけど、興味が湧いた。

世の中知らないことだらけだ。

最近の私はなんでも幻想だと斜に構えていた。けど、もっと驚いたり楽しんでいいんだ、と思った。

ワークの「赦しとは何か」を書こうと思っていたけど、気づいたらパソコン講座について長々と書いていた。

今やっているワークと、ブログに書くワークにどんどん乖離ができて、埋めなきゃ、と焦る。

自分だけのことで、どーでもいいことだけど!

第2部へ

2018-11-11

ようやく第2部に入った。

この『奇跡講座』ワークプロジェクトは、学びはゆっくりながら、気づけば私の根幹になっている。

これは宗教ではない。自分の霊性の学びだという。

組織に属する必要がなく“自学自習の書”というのが、私に合っていると思う。

第2部では、あまり言葉はあまり意味を持たなくなり、神なる真理の直接的体験を求めるという。ワークはその直接的体験に向けて自分の内側に入るための導入部として機能する。

これからも、朝と夜に好きなだけの時間を神と過ごすことを素づけていく。」(第2部序文2-6)「また日中は、忘れずに一時間ごとに神を思い出す。第2部序文2-9)

初回のワーク時は、第2部に少し苦手意識を持っていた。

「父なる神」としての擬人化がさらに強まった感じがあり、それがなじまなかったのだ。今回はどうかな。

好きなフレーズはこれ。

神を迎えることが自分の意志だと認識したあなたを訪れることが、神の意志である。そしてたとえ漠然とでも、それが自分の意志だと見なしていなかったら、あなたは決してここまでこられなかったはずである。」(第2部序文5-6,7)

この後半の文に自信と勇気がもらえる。

第1巡目にどんなことを書いているかな?と過去ノートを見てみたら、2015年3月5日に

「今日から第2部だ。“神の声をきく”というが、聖霊の声もキャッチできていないのに…」というメモ書きがあった。

ACIMのブログを作りたいとも書いていた。それに対して、「こわい、どのスタンス(立ち位置)で書いたらいいのかが、まずわからない。」とも。

私、変わってないな(^_^;)

でも、ともかくACIMから離れずやっている。

世間的には紛れもなく退化で、自分的には退化なんだか進化なんだかわからないけど。

(“進化”と入力しようとしたら、私のパソコンは変換がおかしくて何度入れようととても“芯化”になってしまった。)

もしかして、ACIM学習とは芯に向かうこと=芯化なのかな?

ACIMワーク復習Ⅵおわり-レッスン181~200の復習

2018-11-08

やぁ~と、復習Ⅵが終わった!

復習Ⅵのレッスン181~200の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編』より)。

自分なりのワークが、ワークの体をなしているかどうか、わからないけれど。離れずに続けられていること、少しずつ進んでいることがうれしい。

今見たら、ひとつ前の復習Ⅴを終えたのが、今年の春で桜の画像を載せていた。今は秋。先日行った巣鴨(菊祭り)の画像を載せておこう。

とにかく終わらせたいと思い先を急いでいた1巡目とちがって、1つのワークに数日かけているから、前回より主題概念が浸透しているようにも感じる。

これで、第1部がおわり、というのもうれしい。

復習Ⅵには、各レッスンをその概念で始め、その概念で終わらせる機軸となる概念があった。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。

復習Ⅵの間はずっとこの概念を唱えていたので、少しでも浸透していたらいいと思う。薄皮を剥ぐように少しずつ。少しずつ。本当のアイデンティティに近づきたい。

 日本語 英語

181

私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。181 I trust my brothers, who are one with me.
182私は一瞬のあいだ静まり、家に帰る。182I will be still an instant and go home.
183私は神の名と私自身の名に呼びかける。183I call upon God's Name and on my own.
184神の名は、私が受け継いだ賜物である。184The Name of God is my inheritance.
185私は神の平安を欲する。185 I want the peace of God.
186世界の救済は私にかかっている。186Salvation of the world depends on me.
187私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。187I bless the world because I bless myself.
188神の平安は今、私の中に輝いている。188The peace of God is shining in me now.
189私は今、自分の中に神の愛を感じる。189I feel the Love of God within me now.
190私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。190I choose the joy of God instead of pain.
191私は神ご自身の聖なる子である。191I am the holy Son of God Himself.
192私には、神が私に全うさせようとする 機能はたらきがある。192I have a function God would have me fill.
193すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。193All things are lessons God would have me learn.
194私は未来を神の手にゆだねる。194I place the future in the Hands of God.
195愛は私が感謝の内に歩む道である。195Love is the way I walk in gratitude.
196私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。196It can be but myself I crucify.
197私が得られる 報酬ものは、自分自身からの感謝のみである。197It can be but my gratitude I earn.
198私の咎めだけが私を傷つける。198Only my condemnation injures me.
199私は肉体ではない。私は自由である。199I am not a body. I am free.
200神の平安以外に平安はない。200There is no peace except the peace of God.

バイト面接、履歴書書いたの10年ぶり!?、そして

2018-11-07

アルバイトの面接

月曜日午後いち。アルバイトの面接。

最後に履歴書を書いたのは10年以上前だ。写真ボックスで、3×4㎝の写真も撮って。

職種は、倉庫に併設された事務所内での事務。自宅から12分くらい。週3日からOK。

白ブラウスに黒ジャケット、紺のスカートにパンプスといういでたちで、えらくキンチョーして行った。

男性ばかり3人の小さな事務所だった。働きやすそうなアットホームな雰囲気だった。

「慣れてもらうのに、時間短めで金曜からでも来てもらおうか」と話しあっている。もう決まったかのような口調だ。

あ~、はい、喜んで参ります。

私が自分のフリーランス仕事のために作った会社がそのままで休眠状態に近いけれど閉じてはいないことが、やや引っかかる感じだった。

正直に書かない方がよかったか。けど、感触は悪くない。

「繁忙期は週4日、場合によっては5日ってのも来られますか?」

はい、なるべく合わせるようにいたします。

面接というのは、つい流れで相手方に合わせてしまうものだ。

具体的な仕事の流れを教えてもらい、

「他にも数名応募の方がいます、なるべく早く連絡します」とのことで帰っていた。

キンチョーが解けて、疲れた~

たった一時間ほどの面接だったけど、帰宅後どっと疲れが出た。そして安堵からなのか、すごい眠気。外が暗くなるまで、動けず横になっていた。

あ~、私、勤めるのか(時間で働くのが苦手で、時給換算すれば500円に満たないこともある請負仕事のほうを好んでやってきたのだ)

金曜から?

月水金、になるのかな?

だったら、平日、泊りの旅行のひとつでも行っとばよかったかな。

固定収入久しぶり、うれしいな。

この年齢の私を雇ってくれるのだから、まじめに仕事しよう。早く仕事を覚えて役に立てるようにしよう。

ちゃんと…

睡魔のなかで、というより眠りながら、これからのことをいろいろ考えていた。

フラレた!?残念だけど、、、これでいい

昨日の夕方、外出先から帰ってしばらくして、面接していただいた会社からのメールを発見。

「さっそくですが選考結果について連絡させていただきました。 
大変恐縮ながら、今回はご縁がなかったということで 
お見送りさせていただければと存じます。 」

!?
「このたび多数のご応募をいただいていたこともあり、 
より適性に合ったと判断した方で決定いたしました次第です。 」

へっ、落ちた?

すぐ来て、みたいなトーンだったから、キツネにつままれたみたいだった。

でも、複数のなかで選ぶのだから、当然そんなこともありなん。

私がひとり目だったのかな。そして、続いて他の方に合ったら、こっちのほうがいいじゃん、となったとしてもおかしくない。

とはいえ、彼氏から突然フラレたみたいな気分だった。

しかし~!そもそも、すべて自分が見せている夢なのだから、このストーリーの監督は私だ。俳優は私の指示どおり動いたまでだ。

すでに“そこで働く気”を作っていたから、正直残念だった。

一方で、ちょっとだけ、ほっとしている自分もいた。

そもそもおカネがなくなる恐怖感から、ポチっとした。

でも、1日に出かけた「小さなこころ旅」では、「ふくろうの森」カフェで自称「旅する発酵料理家」の美しいカフェ店員さんに、「リスクをとって好きな道に進んでいいのよ」と、マジカルなお茶で背中を押された。

その方向と、今回のバイトは道が逆行していると言えなくもなかった。

そう…、これでよかったんだ。

引きこもっていたのが、面接まで行けたというのは、ある意味前進だし。

いい歳して何やってんだか、とも思うけど。変わり者偏差値上昇中、、もう歳だって気にしなくてもいいんだよな~

小さなこころ旅 ③

2018-11-05

「ふくろうの森」カフェへ

秦野市市営の無料足湯では、常連さんの会話に「ふくろうの森」というワードが飛び交っていた。

お店かなにかかな?

聞いてみると、近くにあるカフェらしい。音楽をテーマにしているとか?

ちょうどどこかでお茶でも…と思っていたところ。行ってみることにした。

ものの3分。小さな建物の2階だった。勝手に広い空間を想像していたけど、イメージとはちがってた。

中は狭めで薄暗くて、小さなこんもりとした森の感じと言えなくもなかった。

中には女性の店員さんの知りあいと思しき男性客ひとり。

店員さんにオリジナルブレンド薬膳茶をおすすめされた。

 

オリジナル薬膳茶を処方してもらった

カルテみたいな紙に体調についての項目が並んでいる。気になるものにチェックを入れていくと、それに合わせてブレンドしてくれるのだという。

なんだか、マジカルなお店だな、と思った。店員さんはたおやかできれいな顔立ちの方で、見た瞬間「あ、魔法夫人だ!」と思った。(魔女っぽいけど、和風だから、魔法夫人)

彼女が、私用に調合してくれたお茶は、

  • ローズピップ
  • ゴジベリー
  • はすの葉茶
  • 金銀花
  • 蓮芯茶
  • よもぎ
  • 胎菊花
  • くこの実

のブレンド。なんだかえらいゴージャスだ。浄化やリラックスの効果があるらしい。

まほう屋さんで、まほうの飲み物を出された気分だった。

一口いただくと、ローズヒップの味なのか甘酸っぱい。

そして心と体にふっと何か広がる感じがした。

自分にキャッチフレーズを付けて発信すると

男性客が店を出て二人きりになってから、彼女と話しこんだ。

この店は、オーナーが別にいて、店員さんは曜日ごとに変わるのだそう。彼女は、水木の担当だという。

去年、高給だった渋谷のアパレル会社を辞めて、鶴巻温泉に引っ越して来たこと。

この店は明日でちょうど開業一周年だということ。

年末年始に11日間のヴィパッサナーの瞑想合宿に申し込んだこと、などなど、聞いた。

おもしろいなと思ったのは、

大量生産大量消費志向だったアパレル会社が合わなくなったと感じ、不安もあったけれど、衣食住のなかで日本古来のよいものを追求したい考えと、自分に「旅する発酵料理家」というキャッチフレーズをつけカフェ店員の傍ら、この一年活動してきた。

そうしたら、いろんなものが回転し始めて、知り合いも増えて発酵やアートなどのワークショップなどの依頼も増えてきた。自分らしさを追求してきた活動が具体的なかたちになってきた、と彼女が話してくれたこと。

「『くみあわせ』だと思んです。」と彼女。

発酵に興味があり、料理にも関心があり、それで衣服のデザイナーの経験があって、古民家にも関心がある。そういうものを全部組み合わせて、自分なりの発信をした。それが唯一無二のオリジナルとして育っていると。

「この一年、リスクを取って、自分が何者かを名乗ってきてよかった。手ごたえを感じているんです。」

私も“発信”したいのだ

彼女の話を聞いて、キャッチフレーズを付けて自ら発信するというスタンスが、私に欠けているものだと感じた。彼女がそういうのもありだよ、と見せてくれた気がした。

自分につけたいキャッチフレーズ―、私だったら何だろ?

「旅する『奇跡講座』学習者」かな?それじゃあ当たり前すぎるか、旅もしてないし。

一見抽象的で難解な『奇跡講座』とこの世の日常生活をつなぎたいという思いがある。それは、楽しいことや美しいことを通じてできたらいいと思う。

思っているだけじゃ、人生終わってしまう。

そう、私も彼女のように“発信”したいのだ。

それを確認する旅だったのかな。

家路に着く頃には外はもう暗くなっていた。駅のホームから燃えるような夕焼けが見えた。

たった6時間位だったけど、けっこう遠くまで行けた。

なんか背中をだれかに押された気がした旅だった。

 

 

小さなこころ旅 ②

2018-11-03

月曜、バイトの面接に行くことに

11月1日慌てて、ささやかな一日旅に来たのには、もう一つわけがあった。

月曜日バイトの面接に行くことになったのだ。

31日ネットの求人サイトで家の近くの募集を目にして、ポチっと押してしまった。そしたらその日のうちに、月曜日に面接にいらしてください、というメールが。

フリーランスの仕事がここ数年で減少、それをそのまんまにしていたことは前にもブログに書いたと思う。

複数の依頼先の仕事をこなすのは難しくなっていたし、仕事でACIMワークが中断することが何度かあって、時間ができたことを喜んでいた。そして気づけば無職状態に。印税とかたまーに昔やった仕事の収入が入るけどほぼ無収入。

今年はマンション住み替えの(プラスの)差額が思いのほか出て、それを使いながら生活している。これを食いつぶす前に、在宅で何かできる収入の得方はないか、と思いつつ、工夫や試行錯誤ができず形になっていない。

まぁ、生きられるうちはいいや、と、やりたいことだけやって自由を楽しんでいたのだ。

それが、面接!?

今の時代は、電話も要らず、ポチっとするだけでいいから身構えなく応募できる。

会ってくれるというありがたさと、キンチョーと。

週3日のアルバイトとはいえ、私に務まるんだろうか。気力、体力なし。いまやすっかりわがまま放題で、協調性もトボシイ。

面接こわい。もし、もし、勤務することになったら…

そういった諸々のキンチョー感から、心のプチ旅なら今!と思って、翌日空を見上げて、飛び出して来たのだ。

学生時代の町に行けば、自分が好奇心とやる気と人生に対する期待感に満ちていた、そのカケラを感じられるかと思ったけれど、年月が経ちすぎたためか、見つからなかった。

その頃の自分は、もはや自分じゃない、前世のようだ。

鶴巻温泉の足湯でじんわりあったまる

そして、近場で手軽に旅気分が味わえるところ、というので、鶴巻温泉の足湯へ。

秦野市の市営で2年前にできたらしい。大人10人くらいが入れるスペースで、女性ばかり4,5人入っていた。

靴下を脱いで入口で足を洗ってから、長めのスカートをたくしあげて、そろそろ足を入れる。

あったかーい。

温度は少し高めかな、あとで調べたら40℃とのこと。

は ふぁ~、気持ちいい。

10分も入っていたら、額にはじんわり汗が。ふらっと来てあったまっていけるこんな足湯ありがたい。

私が来る前からおいでで、出てもまだ入っておられた83歳だというおばあちゃまが「私、人見知りでね…、この前足がつってね、この温泉で治ったの」と来る人来る人に同じ話をくりかえしていた。

向かい側に入っていた、これまた常連だという女性が、にこっと笑って目配せした。

秋の平日の3時すぎ。なんか平和だ。

(小さなこころ旅 ③へつづく)

小さなこころ旅 ①

2018-11-02

秋晴れに誘われて、こころの旅

きのう、旅に行った。一日だけの小さな旅。

だれかがどこかに行ったという話を見聞きするたび、私もどっか行きたいなと思っていたのだ。

10月は、お盆帰省時の交通費のカード引き落としがあったり固定資産税の支払いがあったりと出費が多くて、1日だけとはいえ出かける気になれなかった(幻想!)。

そしてきのう11月1日。

空はぴっかーんと秋晴れ。

時計は11時。

いつも以上にトイレが近くて体調はイマイチすぐれないけど、すべてが万全に整うのを待っていられない。まごまごしてたらお昼になってしまう。

…、で、外へ。

行き先は、自分が18、19歳と短大時代2年間住んでいた神奈川県の町。新宿から約1時間だ。

別のところでもよかったんだけど、新しい場に行くのは緊張する。観光目的ではなく、少しだけ非日常気分を味わいたい、という気持ちだったから。

ビア&カフェBERGでランチ

まずは新宿駅で腹ごしらえ。

東口にあるビア&カフェBERGへ。

お昼時だし立席しか残ってないかと思っていたけど、すんなり座れた。いっつもすごい混雑で中に入るのも大変だったのだが、人の流れが変わったかな。

頼んだのは、一日限定30食?のエッセンセットに自然卵のゆで卵つけて。(842円+57円)

ずっと行きたくて行けてなくてイメージが先行し過ぎてた。コ―フンして、味がよくわからなかった。もっとゆっくりいただけばよかった。

健康志向のためか味が薄くなりすぎてたような。レバーパテはおいしかった!

始発列車の列に並んで、席に着く。

『神の使者』は何度も再読しているけど、こころの旅のお供はやっぱりこれ。分厚い本を開いて読み始める。

ゲイリーの家にいきなりアサンディッド・マスター、アーテンとパーサが現れて…30分位読んでいたが、

気づくとゆらゆら心地よい揺れを感じながら、うとうとしてた。

少しずつ緑が増えてきて、40年近く前に住んでいた町に着く。

学生時代の自分を訪ねるタイムトラベルでもあったが

初めて、母からの過干渉を離れてひとり暮らしを始めた町。初めてアルバイトをしたり、初めて男の子と二人で出かけてみたり。

これから自分を生きるんだ~、と高揚していた時代。ここに来たのには、そういう若かりし自分のカケラを見つけてみたくて、というのもあった。

駅前のシンボルだった魚屋さんが消えていた。

私のアパート(コーポ)はまだあった。屋根とドアはカフェオレ色に塗りなおされていた。

アパートから少し上った一面りんご畑だったところには家が並び、なぜか柿畑になっていた。それにしても空が澄んでいる。

衣料スーパーの前には、10円入れて動く子どもの乗り物があり、店頭ではお皿50円で売っている。“昭和感”が半端ない。もうすぐ平成も終わるけど。

なつかしいけれど、私の記憶力が悪いのとあまりにも日が経っていて、そこまでの感慨はない。

思えば…50代も後半。やっぱりえらい遠くに来ちゃったんだ、私。

18歳当時の私が、やが~ておばさんになった私が自分を訪ねてくると知っていたら、ちょっとしたホラーだな、と思った。

当時は自分が年を取ることを考えすらしなかった。

そして、『神の使者』に出会い『奇跡講座』のワークを始めてからは、あれもこれも、幻想…。

町をぐるっと回ると、小一時間でもう行くとこはなくなった。

で、となりの駅に無料の足湯ができたらしいことをネットで見て、行ってみることにした。

(小さなこころ旅 ②へつづく)

ACIMレッスン219-レッスン199の復習

2018-10-31

区の健康診断へ、たかが健康診断なのにドキドキする

昨日、区の健康診断に行ってきた。

引っ越し前の区の健康診断受診表が着ていたから、旧居と新居どっちの区でするのかな、と思いつつそのまんまにしていたのを、先週ふと思いだしたのだ。

現区に電話したら、「こちらで受診表を発行します。ただし受診期間は10月末までなので、すぐ取りに来てください。」となった。それで、昨日の受診だ。

前の区では、10年以上も同じ診療所で受けていた。風邪の時や腰痛のリハビリにも行っていたから慣れた場だった。

だけど、今、ビビリの私は、新しい医療機関に行くのさえ緊張するのだと気づいた。そして健康診断でさえ怖いんだ。

病気の発覚が怖い、老いの事実に直面するのもイヤ。

それは、とりもなおさず私が自分を肉体だと思っている証拠だろう。

去年、血圧が165と正常範囲を超えた。そして、骨密度は5年で(5年おきに測る)なんと20%も減少していた!

両方とも女性ホルモンに関係しているというから、女性ホルモンが枯れてきているんだよなぁ(>_<)

再び血圧高い事実に直面したらいよいよ対策考えねば、、。

初めての病院。ここでも血圧は初っ端自分で測るシステムだ。

呼吸を十分に整える。腕まくりして、測る。

… 上が149。高い。脈拍も110。ビビリがそのまんま脈に出てる。

「ドキドキしちゃって」

いい歳して何言ってんだか、だけど、健診担当の方にそう言うと、「全部終わって帰りにもう一回測ってみてくださいね。」と優しくおっしゃった。

で、1時間半後、深呼吸して再計測。

…上123、下66。

正常範囲に収まった。よかった。

昨晩、血液サラサラ効果がある玉ねぎ、いっぱい食べたんだ。

健診では、問診の女医さん、心電図計測やX線検査の女性、採決してくださった看護師(男性だった)など、たくさんの方にお世話になった。

皆さんきびきびと働いておられた。ぼーっとしている自分とは大違いだった。

レッスン219―レッスン199の復習

(レッスン199)私は肉体ではない。私は自由である。

自らを肉体と見なさないというのは、ACIMのもっともベーシックな概念だ。

一方で、自分が肉体だというのは、この世では至極あたりまえなことだから、この概念から自由になるのはとっても難しい、と感じる。

肉体=エゴの家、だから。

自分の体が脅かされそうになった時に、それまで意識していなかったエゴが大暴れする。

自我は肉体の中に住み、自分が作り出した家と一体化して生きているので、肉体を非常に大切にする。肉体は、自分自身が幻想だと発見されないように自我をかくまってきた幻想の一部だからである。」(L199-3-3,4)

たかだか、初病院で健診というだけでキンチョーする私は、ぼってりと肉体に匿われたエゴの持ち主だ。ワークがぜんぜん効いてないのかな、とがっくりきてしまった。

そうじゃなくって、それだけエゴが肥大しているんだろう。

このテーマは、とにかくエゴが身構えなくなるくらい何度も何度もくりかえすことが必要なんだと思う。

ある種の洗脳だ。

エゴの洗脳を同じ手段を持って解く、逆洗脳なんだ。

肉体への執着を解かなければ、自由にはなれない。

ワーク199の最後の文言、

私は肉体ではない。私は自由である。私は神から与えられた一なる声を聞き、私の心はこの声にのみ従う。」(L199-8-7,8,9)

を、くりかえそうと思う。

自分が見ている世界を赦すー安田純平さん解放で感じたこと

2018-10-29

「自己責任論」と「社会的使命論」で論争!?

シリアの武装勢力に拘束されていたジャーナリストの安田純平さんが、先週解放されたとのニュースがあった。

3年4ヶ月もの長い拘束。どんなにかきつく暴力と恐怖にさらされた生活だっただろう。

私は、単純に、助かってよかった、と思った。

テレビで、ネットを中心に「自己責任論」が起こっている、と知った。わざわざ政府も止めているのにそんな危ないところへ行ったのだから、自業自得、自己責任だという。

一方で、ジャーナリズムは報道しなければならないという「社会的使命論」もあり、両者の間に大論争が起こっているという。

解放時のコメントで、安田さんが「荷物がすべて奪われたのでそのことが頭にきている」「日本政府には借りを作りたくない」等と述べたらしく、「ご心配おかけしてすみません。ありがとうございました。」といったコメントを無意識のうちに期待していた私たちが裏切られたように感じたことも一因だと思う。

私はどちらかといえば、「自己責任論」には反対の方だ。

善し悪しはわからないけれど、今心身への暴力で衰弱し尋常ではないだろう人に、さらに平和な国の私たちが追い打ちをかけてどうする、と思う。

でも、「自己責任論」を唱える人も、「社会的使命論」を支持する人も、武装勢力に対する思いは同じだろう。

ACIM的観点から、ものを言ったらどうなる!?

ここで、ふっと思う。

私が、「これは実際起ったように見えるけれど、実際には起ってないんです。私たちは幻想の次元でものを見ているだけなんですよ。

だから、私たちは“起っていない”ことと、それに加わった同胞を赦しましょう。私たちは常に神とともにあり平和です。」と言ったら…、と。

私は、著名人でも見識者でもないからだれも相手にしないけれど、これをテレビに出ている立場がある人が言ったら、論争をしていた両方のエネルギーがいっせいにその人に向かい、「何、無責任なこと言ってるんだ。頭おかしいんじゃないか」ということになるだろう。

そして、あやしい宗教にハマった人のレッテルを貼られ、社会的立場を失うだろう、と想像した。

…これが、私が見ている世界だ。

そして、これが私の恐怖だ。

これこそ、私が赦すべきことなんだ。

ここに行きついた。

そして、ACIMについて考えを述べていく時には、世の中が幻想というだけでは足りない、相手がどう受け取るかは別として、この世の言葉で説明したり表現したりする力も必要だと感じた。

『奇跡講座』の考えを、理屈で考えて整合性がある、正しいにちがいない、と思っている一方で、まだまだ感情的には受け入れがたいとも思っている私。

今「踏み絵」を差しだされたら、何くわぬ顔で踏んでしまいそうだ。

ひとり鍋の季節到来

2018-10-27

だんだん肌寒くなってきて、あったかいものが恋しくなってくる季節。

ほぼ自炊の私にとっては、ひとり鍋の季節到来だ。

昨晩は皮きりにキムチ鍋を作った。

ちょっと卵、火を通し過ぎたか。

食後は体がぽかぽかした。

鍋は、

  • あったまる
  • 手間がかからない(使う食器も少なくて済む)
  • 野菜が取れる
  • 材料を使いまわせる

と、サイコー。

ひとり暮らしだとそれに胡坐をかいて?、鍋が続くことに。

和洋中と味を材料を変えながら、冷える心身をあっためてもらう。

ひとり鍋の本も、(引っ越しの後適当にしまいすぐには出てこないけど)何冊か持っている。

これを「わびしい」と思うかどうかは、人それぞれだけど。

私は、慣れっこになっているから、感じない。

気候温暖化のためか、夏がすごーく長くなった気がする。

暑さがようやく過ぎたと思ったら、ありゃ、今年も残りあと…?とかいう感覚。

12月は鼻っから煽られ感満載で、慌ただしいし。

ホントは、春と秋が長くて、夏と冬はスパイス程度にあるくらいでいいのにな。なんて、思ってしまう。

暑かろうと寒かろうと、家族があろうとなかろうと、ささやかに、自分なりに、暮らしを楽しみたいな。

 

ACIMレッスン218-レッスン198の復習

2018-10-26

レッスン218―レッスン198の復習

(レッスン198)私の咎めだけが私を傷つける。

とがめ」という字、ふだんあまり見ない難しい字だな~と漢字の成り立ちを検索してみたら、「処」と「口」の合体だった。

「処」には、「場所」や「身を置く」「人とつきあう」の他に「処罰する」という意味がある。なので、「咎める」は文字通り「口で罰する」か…。

傷つくということはありえないことである。しかし、幻想は幻想を作り出す。」(L198-1-1)から始まるレッスン198。

(自分が)咎めること⇔傷つくこと、はワンセットだという。

本来はどちらも在りえないものだ。

だがこの世で、「咎め」を認めるなら、「傷つく」も在りうる。

  • 咎める→幽閉、傷つく
  • 赦す→自由、幸せ

そのどちらをとるか。

これは、

  • 真理の世界住まうか
  • 幻想の世界住まうか

…の選択でもある。

赦しはすべての幻想への回答

赦しは幻想であるが、ほかのすべての幻想への回答となる幻想である。」(L198-2-10)

赦しもまた幻想の一部だけど、

赦しは幻想をとりなすはたらきをする。

したがって、赦しによって、この世の存在事由である罰も消える。

そもそも私たちは、罰せられる(自罰する)必要がない。

この世には、神の一なる子がいて、その子を自分が代表して今「自分」を感じている。

いるのは、神の一なる子だけ。

他者のように見えてはいるけれど、それは自分を鏡の中に覗きこんでいるようなもの。

心理的に誰のことも咎めてはいけない。

赦したうえで、この世でなすべきことがあればなせばいい。

たしかにそうだけど…、やじろべえのように揺れる

ACIMワークは、いつも、こうした同じロジックを視点を少しずつ変えながら、くりかえしくりかえし説明して諭してくれている。

この世で肉体と寿命を持って生きている(と思っている)私たちには、そのロジックの全体像がまったく見えないからだ。

この世は超リアルで、私たちは「自分の手」でこの世の勝利を勝ち取りたいともがく。

ここで城を築くことは、つかの間の生で素晴らしい感覚をもたらす。だけどそれは、いずれは手からこぼれおちる砂の城だ。この世と闘えば、幻想の砂の中に埋まってしまう。

それよりも、問題に対する答えを手にしていることを喜ぶほうが賢明ではないだろうか。」(L198-5-1)

私はこの一文が好きだ。

なんとなく、くすっと笑ってしまう。

たしかに、そうだけど、そうだけど、、揺らぐんだよねー。

だって、この世とそのやり方になじんでいるし、ACIMの道は前が見えない野原を歩いているようにも思えるから。

一個の自分にとっては、ACIMに従うことは、あたかも「実験」のようにも思えるのだ。

私の咎めだけが、私を傷つける。

私自身による赦しだけが、私を自由にする。」(L198-9-3,4)

神の個の中にはどんな咎めもないと宣言するこの一つの幻想を受け入れなさい。」(L198-10-1)

毎日、ACIMの価値観と、この世の価値観の両方を、やじろべえのように、行ったり来たりしているよ。

この世の価値観の方に振れた時は、赦しのチャンス到来!なんだろうけど、何度も、何度も、見逃しているよ。

「超」整理法による私のノート

2018-10-24

またコーヒーを溢れさせてしまった

あ、またやってしまった。

コーヒーがマグカップから溢れている。

コーヒーを入れているとき無意識に溢れさせてしまうことがあるのだ。(参考:2018-9-4 コーヒーが占う心模様

自分では気がついていない感情が溢れていたり、気がかりがあったり。

これは無意識からのイエローカード。気をつけよう。

そして、少し薄めのコーヒーを飲むことになる。

1冊に何でも書く私のノート

唐突だけど、ノートや記録のはなし。

私の整理法は、25年前のベストセラー『「超」整理法』だ。

超管理法のエッセンスはシンプルで、「整理すること=分類」というそれまでの観念を脇に置き、すべてのものを時系列に並べるというもの。

分類するから分類方法に迷ったりいざという時にどう分類したかが思い出せなくなる。「時系列」というのは、意外と人の記憶に残るものだという。

だから、ヘタに分類しようとせず、何でも手元ノートに書く。

毎日ノートを書くようになったのは、2002年4月から。

その当時読んでいた『ずっとやりたかったことをやりなさい』という本に、「脳の排水を出す」ために毎朝なんでも頭に浮かんだことを書くということを推奨していた。

それは「モーニングページ」と名づけられていて、私はモーニングページを書くため「モーニングページノート①」をスタートさせたんだった。(略してMPノート!)

そのノートがそのまんま続き、今では130冊目になっている。

初めはB5の罫線入りだったけど、そのうち無地になり、今はA4の方眼と、それなりに変遷している。

ノートは心の友

ノートにはその日の行動をメモする。レコーディングダイエットじゃないけど、食べたメニューまで書いている。買物した時にはその商品詳細を貼り付けることもあるし、旅の計画や引っ越しの段取りなどもノート上でやる。

今では毎朝モーニングページを書くという習慣はなくなったけど、考えごとをするときにはまずノートを開く。

白いページを前にいろいろ書いているうちに、頭が整理されすっきりしてくる。

ノートは親友のようなものだ。

本棚の一角には、ずらーっとMPノートが並んでいる。

これだけのボリュームになると、ちょっと邪魔。だけど「あれ、あの時どうだっけ?」というのを知るのにけっこう役に立つ。

たいしたことは書いてない。人にとってはな~んの価値もないものだ。だけど、その時その時の自分が詰まっているから私にとっては大事。

誰にも見られたくない。

そういえば、最近は、何も考えずだらだら思い浮かんだことを書くモーニングページ、やってないなぁ。

だから、「脳の排水」が溜まっているかなぁ。

深まる秋はノートに向かう最高の季節かもしれないなぁ。

と思う。

ACIMレッスン217-レッスン197の復習

2018-10-23

レッスン217―レッスン197の復習

(レッスン197)私が得られる、は、自分自身からの感謝のみである。

これは、前のレッスン196の主題概念「私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。」と対になっているようにも思える。

この世が幻像であり映画のスクリーンを見ているようなものだとすれば、そこに何を映すかが重要だ。

そもそもこの世は、エゴが私たちの罪悪感と恐怖からのエスケープ場所として提供したもの。

無意識のままならば、そこに映されるのは、罪悪感と恐怖となる。もちろん人生には楽しいことや喜びもある。だけど、根っこのところで無意識に鎮座する罪悪感と恐怖感に苛まれることになる。

それに頓着せず、手放すこと。

この部分をレッスン196は言っていた(よう思う)。

一方で、感謝は、愛と同じように神なるものでリアルだから、その認知力が高まれば高まるほど、神の愛、喜び、豊かさも受け取ることができる。

空に浮かぶ雲が消えれば、その向こうには常に太陽が照っている。

それと同じで、エゴの偽りの想念が取り除かれれば、神の子なる自分が認識される(と言う)。

感謝を引っ込めてしまわない

感謝は、雲を取り除き神とつながる、この世でのもっとも近道だ。

そんな強い力を持っている感謝だけど、感謝しても相手から同じように感謝が返ってこない時、私たちは、不安に思ったり「マナーがなっていない」とすぐに引っ込めてしまいがちだ。

それは、リアルな眼で見たら、神からのせっかくの贈り物を無下に断っているようなもの。実にもったいない」と言っている。

あなたの贈り物が何の効果もなく失われたように見えたとしても問題ではない。

それらは与えられたところにおいて、受けとられている。」(L197-4-3,4)

すべての贈り物は唯一あなた自身に与えられるので、神に捧げられ、神はあなたが捧げるすべての贈り物を祝福する。」(L197-5-1)

感謝は神そのものであり、神の子そのものだから、感謝すればするほど延長し増幅し、ただただ感謝がある。

ただいま感謝を練習中

私は、元々わがままな性格で、感謝というよりグチを言ってきた。

そして、遅ればせながら今、感謝を練習している。

まずは「形から入る」というか、なるたけ「ありがとう」を言うようにしよう位からやっている。

前よりは感謝できるようになってきたけれど気づくと、些細なことに不満を感じていたり、感謝してもそれに対してどこかしら見返りを期待しているところもある。

それはやっぱり筋トレみたいに、少しずつやりながら習慣にして、負荷をかけてもできるようにしていくものなのかな、と思う。

感謝のいいところは、下手でもやっていれば本当に感謝の念がだんだん出てくるところ。

そしてそれがこの世のいたるところに入り込んで、自分に良きものが返ってくるのを実感する。

今は、実に恵まれていてありがたいと思える。そうではない場面でも感謝できるかな。

この世の感謝は、赦しとセットなのだ。

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