奇跡講座ダイアリー

Apple新宿へ、iPhoneの電池交換に行った

2018-12-14

iPhone割引電池交換を予約

iPhoneの割引価格での電池交換(8,800円→3,200円)が年内終了だった。ネットで「予約が取れない」とのニュースを見て、思い出した。

私もできればお願いしたい。

予約サイトを見た。たしかにもうすでにいっぱい。

でもしつこく何度も画面をチェックしてたら、ふっと「Apple,新宿」の「12/14 17:10」に空きが出た。で、慌てて申し込んだのが数日前。Appleって新宿にもあったんだ…

Apple,新宿にはちょっとした外国感があった

夕方の新宿はこれから飲みに繰り出そうとする人たち?で賑わっていて、師走の雰囲気を感じた。もっとも、賑わっているのは年がら年中なんだろうけど。

Apple,新宿はマルイの正面玄関に堂々と陣取っていた。

店内がすごく明るい。大きなスクリーン。カウンターの商品をさわっている人。店内の壁沿いをぐるっと囲むように長ーい行列。おそろいの赤いTシャツのおしゃれな店員さん。

外国に来たみたいだ。気遅れがする。

大縄跳びの中に入るくらいの勢いをつけて、声をかけたら、分担がしっかりしているらしく思いのほかスムーズだった。

長い行列について聞いてみたら「商品ご購入希望のお客様の順番待ちです」とのこと。みんなの購買意欲の高さにびっくりした。

「○○○で△△、もしくは○○○で□□、どちらになさいますか」

何度も説明しているのだろう、女性店員さんは早口で流暢すぎて聞きとれず。

私一人でいて人と話す機会が少ないから、日本語のヒアリングとスピーキングがヘタになっているのだ。

パードゥン…、と心のなかでつぶやく。

「あ、ごめんなさい。もう一度お願いします」

iPhoneを開いてみたら壊れていたという場合、3万いくらかで買い直すか、電池交換もせずそのまま返すか、の選択肢だった。

後者をお願いした。

2時間位かかる、と言う。引き取り時間は19:15~30。

格安カット店からの、ハンバーガー屋さんも久しぶり

2時間どうしよっかなー、と思ったけど、マルイの中に格安カット店が入っていたから、髪を切りに(30分)。それでも時間があったので、ファーストキッチンで日替わりハンバーガーセットを食べて、図書館で借りたての『罪と罰』を読んでいた。

夜の新宿を歩くことも、Appleに入ることも、ハンバーガー屋さんに入ることも、どれもみな人(若者?)にとっては日常的なトーンでできることだろうけど、私は、それぞれにちょっとしたエイッって感じがあった。

ちょっぴり新鮮なような、背伸びするような。それが心地よくもあった。

やっぱり外国感なのかな。

歳を重ねるってことは、自分の国が外国になっていくような感覚なのかもしれない。

そういえば、何より難度が高かったのは、電池交換の前日に、パックアップを取ること。ネットで調べながら2時間位かかった。

子どもとかいたら、聞けるんだろうけど。

これからもいろんな変化とその対応のあれやこれやがあるんだろうなと思う

ワークL228について書くつもりが気づいたら、電池交換で終わってしまった。たぶん2時間余りの師走の夜の新宿がワクワクして楽しかったんだと思う)

ACIMレッスン227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

2018-12-12

冬だ、冬。一年て、早い。

4日ぶりのブログ。

急に冷え込み、すっかり冬になった。

手がかじかむ。

そうそう、こんなだった、去年も。冬の寒さを思い出した。

あ゛~、引っ越しの時、加湿器じゃまだと思って、リサイクルショップに引き取ってもらったんだ。ミスった。

今年の冬だって乾燥するー。他区だって乾燥するー。

気が大きくなっていたのか、、、。あの時は、ただ物を減らしたい衝動にかられてた。

年末が見えてきて、、一年ってなんて早いんだろうと、焦る。

体内時計(リズム)がトロくなっているから、周りが早く感じられる。

感覚的なもの=錯覚なんだろうけど。

自分が不十分感をもっているから、早く感じられるんだろうな。

自分のブログでさえも、間が空くと、来るのに気合いが要る。

ちゃんとできない時には、できない自分を赦すこともワークのひとつだっけ。

ACIMワーク227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

レッスン227をやっていたのは、11月23~26日頃。

やっていたと言っても、文章を読み、朝晩15分くらい瞑想ワークするだけだけど。

少しでもACIMワークを離れると、この世とこの世の価値観がリアルになる。

やっぱり私たちは肉体で、肉体の死とともにすべてが終わる。それまでの間いかにこの世で自己実現すべきか…と。

それに並行してACIMが奇想天外、荒唐無稽なものに感じられる。

これは現実逃避のもので、気休めだな。。と。

私と神さまのつながりは、これくらい薄いものなんだな、と思い知る。

ACIMワークに戻って、そういえば、そうだった…となり、遠くなっていた神を思い出す。

神さまは探さなくても、そこに在る。

自分の感受性を取り戻すだけだ。

それには赦すことと感謝すること。

このシンプルなことを、覚えている時はなるたけ、やろう。

これは、ACIMを生きようとそうでなかろうと、「実際に」役立つことだから。

ここ最近のワークで「絵本つくりかた」という本が出てくる。

それが聖霊さんからのアドバイスかどうかわからないけど、目を閉じて静かにしていると、その本が出てくる。

だけど、買えてない。

差し迫って必要なものじゃないから、2,030円が高く思える。

だったら、「Webデザイン」の本が欲しいな、などと思っているとポチっとできないのだ。

今日のワークでも、その本のことを思い出していた(一回イメージに出てくると連続するのか)。

さっきブログを書くために、レッスン227ワーク時のメモをを見たら、すでに、

「『絵本つくりかた』買おう」とメモしていた。

いつから、そう感じているんだろう。

その「メッセージ」が本物かどうかわからなくても、「2,030円」投資をしてみることは価値があるだろうに。。

一方で、それ買ってどうなるっての?受けとるのも面倒なんだよな、と、ぐだぐだしぶる自分もいる。

神の子は今日、自分の夢を放棄する。神の子は今日、罪から解放され、聖性に包まれ、ついに正しい心を取り戻し、再びわが家に帰る。」(L227-2-2,3)

↑改めて今読んで、気になったところ。

はたして「絵本つくりかた」は年内に買えるか。

「家に帰るまでが遠足」…帰り道で大失敗

2018-12-07

旅の余韻、帰りの新幹線

しつこく旅行ネタ。

4日の午後1時、母が乗った金沢行きサンダーバードを見送った後、私ものぞみに乗って東京に向かった。

旅、慌ただしかったな。お母さんにも無理を強いたかな。

やさしくしたいと思っていたのに、次の行き方を調べたり乗り場を探したりといった目の前のことでいっぱいいっぱいで、だめだった。。

最終日の駅カフェで母がパンを「油っこい、こりゃ胸やけするわ」と言った時も、(乗り場に近いから、ここがいいって自分で言ったくせに)「だったら、無理して食べなきゃいいじゃない、残しとけば?」と、言ってしまった。

母と話していると、つい自分が責められたような気分になってイライラしてしまうのだ。

初めは受け流していられたのに、3日目には反応してしまっている自分がいた。(これこそ赦すべきことだ)

ああ、結局ダメだった。。と旅を反芻する。

母は好奇心旺盛で自分でも頭がいいと思っているが、歳には抗えない、心と頭、体の間にはギャップがあるなぁ。

やさしくしたいなら、一緒に住めばいいのに。

でも、一緒にいるのは3日が限界かも。

私に子どもがいたら、さぞかし喜んだだろうに。

脈絡のない思いがぐるぐる回っていた。これ“マザコン”だよなぁ。

バカ、バカ!大失態に気づく

自分が失態に気づいたのは、東京駅に着いてから。

改札で切符を出そうとする。が、

あれっ、ない!

リュックの小ポケットに入れていたはずだけど。

コートかな?トートバックのポケット?

ない…、ない。

とにかく落ち着こう。

トイレに行って大捜索。

ない。

あ゛~、私ってば、切符、なくしたんだ。

そういえば…

名古屋駅でシニア男性が降りようとしていた歳、通路に落ちていた切符に気づき、「お父さん落とされたみたいですよ」と家族の方に切符を渡した。

あれ、私のだったんだーーー!

私、自分がそそっかしいのを忘れてた。落としたのは他でもない自分だー。

窓口に行き、駅員さんに必死で説明した。

「名古屋駅に電話してみますが、見つからなければ、再購入ということになりますね」

あ゛…(・・;) どーしよ!!

一気に旅の余韻から覚めた。

私が買っていたのは、「東京―東京」の一筆書き切符(こんなのが世の中にあるって初めて知った)。乗車券だけで13,820円。これに新幹線特急券。

あってくれ~。祈る気持ちで待つ。

「家に帰るまでが遠足」を噛みしめる

私が事情を話した男性職員は、他の方の対応で忙しくしている。どーなる?

…、と、事務室のドアから女性の職員の方が出てきた。

「名古屋駅で切符が見つかり確認が取れました。これをお使いください。」と、代用の切符を手渡してくれた。

あ ありがとうございます。

へなへなとからだからちからがぬけた。

あ よかった。

からだからちからがぬけたまんまで、改札を出て山手線に乗り換えた。

この世の出来事も、おカネもすべて幻想だって言ってもねー。

「母との秋旅2018」というVTRは、最後にスパイスを効かせてあった。

しっかし、私、よく物を落とすよなぁ。ぼーっとしてるからだ。(実家に来るまでも、マフラーを紛失、駅に届けられていたのを受け取った)

気をつけないと!

届けてくださった方々、ありがとう。

「家に帰るまでが遠足です」子どもの頃、何度も言われたこの言葉を改めて、噛みしめた。

おわりよければ、すべてよし。

いろいろもろもろ、ありがとうございます。

母とスマホカメラ

2018-12-06

少し落ち着いてきたら、私は自分人生ゲームの映画館で「母との秋旅2018」というVTRを選び、映画の世界に喜んで浸っていたのだ、と思えてきた。

他の様々なVTRと同じひとつのVTRなのだ。それでも、これはお気に入りだったし、その中でのエピソードも楽しかった。

      *     *     *     *     *

よく知らない人に声をかける人懐っこい母

私はいつもに増してトイレが近く、三日目の朝立ち寄った東福寺でも、母に「ちょっと待ってて」と言って、境内脇のトイレに寄った。

数分経って出ると、あれっ?母がいない。

見ると、10数メートル先、5、6人の制服姿の男子高校生に囲まれている。

ん、またぁ!

私の母は、社交的なほうで、よく知らない人に話しかける。

エレベーターで乗り合わせた赤ちゃん連れの人には「かわいいお顔しとられる」、観光地で袴姿だったカップルには「おしゃれさんやね」。歩きスマホの女子高生には「ねーちゃん、ちゃんと前見て歩こ!」と注意したことも。

また、何か声かけたにちがいない。

そう思った私は母に小走りで駆け寄った。

と、「いいとこに来た、写真撮って」と母からスマホを渡された。

「ちゃんと本堂の屋根まで入れてあげてね」と母。

「あ、はい。もっと皆さんもっとお互い寄ってぇ、ハイ」

パシャリ。

「あ、横でも一枚撮りますね、ハイ!もー一枚!」

パシャ、パシャ、と私。

男子高校生に見せると「バッチシです」

ニコッと笑ってお礼を言って去っていった。

声をかけたのは男子高校生のほうだった

どうも、声をかけたのは母の方ではなく、男子高校生グループの方だったようだ。

よりによって今もガラケーの80歳オーバーのおばあちゃんに頼むなんて。人選ミスだ。

母は、言われたとおりシャッターを押したけど、見きれて全員が入らなかったり、本堂が入らなかったりして、何度かやり直しさせられている途中だったという。

画面上のボタンに力を入れ過ぎて、いつもぶれてしまうのだ。

最初に声をかけた男子は、「おまえもよ~(こんなやつに声かけるなんて)」と仲間から突っ込まれていたんだとも、教えてくれた。

母は、以前新幹線の中で外国人の男性から「ここは指定席ですか」と言ったようなことを英語で聞かれ、「Free、Free」と一生懸命答えていたら近くに座っていたサラリーマンが笑われた、というエピソードも教えてくれた。

母は私とちがって、人懐っこいから、声をかけやすいオーラが出ているのかな?

どこか対人恐怖的なところがあって、ひとりが落ち着く私は、そういう母がちょっぴりうらやましい。

今度いつ頼まれてもいいように、スマホカメラの練習をする、と言って、母が東福寺で私を撮ってくれた。その渾身の一枚→

晩秋の京都旅

2018-12-05

門の外から永観堂の紅葉を愛でる

12/2~4母と京都に行ってきた。

ここ数年11月末、母はわが家に来ていたが、「今年は来ないの?」と聞くと「行かない。京都なら行く」とのこと。で、京都に行くことに。

1日目昼に京都着、永観堂がある東山方面へ。2日目は、定期観光バスで嵯峨野、高雄方面昼食付き一日コース。3日目は東福寺に立ち寄って駅での昼食後それぞれの家へ、という予定。

思っていた以上に母の歩行能力が落ちていて、なかなか予定通りにいかなかったが、念願の「秋の京都」に行くことができてよかった。

ホテルにチェックイン後、最初の目的地真如堂までタクシーを使ったが、メインだった永観堂の拝観受付(午後4時)には間に合わず(^_^;)。すごい人ひと… 紅葉は門の外からでも美しかった↑。

2日目は乗っていれば連れて行ってくれる観光バスだったけど、やはりそこからお寺まではかなり距離があるところもあって、バスガイドさんの許可を得て、いくつかの目的地を飛ばさせてもらって集合場所近くで休んでいた。

「やさしくする」目的が果たせず、げんなり

母は、ストライクゾーンが狭く、思ったことを口に出すタイプ。

新幹線の途中駅でスーツを着た男性二人が前の席に座った時には、「あ~、タバコくさい」

永観堂からの混みあったバスでは、前にいた強面のお兄さんに「もっと前に詰めればいいのに」

ホテルの大浴場では、バスタオルを巻いたまま風呂に入る韓国女子に「あれ~、なんやろか」。

このご時世、余計なことを口に出さないほうがいいと思っている私は、ヒヤヒヤして母をつつくが、母は「だってぇ、あんた」と話を続ける。

今回の旅の目的は「母にやさしくすること」だったけど、私自身、段取りが上手いほうではなく、まずホテルにチェックインすべきか、あるいはコインロッカーの空きを探すべきか、経済的には電車で行きたいところだけれど、やっぱり母にはタクシーのほうがいいだろうかなど、頭をぐるぐるさせ、

気づくと予定をつつがなく進めることばかり気を取られ、やさしくするどころか、母の細かい要望や質問にいらいらしがちだった。

母と別れた新幹線で、あ~ぁ、せっかく行ったに(やさしくできなかった(-_-;))、とうなだれた。

半年で一段と老いた母、その母に子ども心のまま甘えたい老娘

若い頃は、今でいう“毒親”だと思っていた母を恐れ、表面的にはいい子をやりながら、内心許せなかった。

それが40歳になる頃は、「お母さんも嫁ぎ先で生きるのに必死だったんだな」と一人の女性として見るようになり、許せるようになった。そうしたらいきなり情が湧いてきた。

本当はただ母を慕い、やさしくしてほしかったのだ。

そうやって精神的に大人になりそこねたまんまの老娘の私。

絶大な権力をふるいモノを言う強者だった母は、庇護すべき弱者となっている。今はただ、“要求が多いちょっと面倒なおばあちゃん”だ。

お盆の頃と比べても、老いたな、と思う。体力的にも、認知機能も。

そう思うと、いずれ来るお別れまでも想像してしまって、いたたまれなくなってしまった。

お母さんがいなくなっちゃたら、私どうしよう。。。

冷静に考えてみれば、80歳すぎて健在で一緒に旅行できるだけで有難いことなのに。

許せても、赦せてない…

『奇跡講座(ACIM)』では、この世と神の両方を取ることはできないと言う。この世がリアルじゃないから、自分の「罪」も贖われるのだ。

私にとって、母はリアルで、今、神か、母か、どちらかを取れと言われたら、迷うことなく母を取る。

私の認知は間違っている。

旅行中はすっかりACIMから遠ざかり、その存在すら忘れていた。

私が母に感じているのは、ACIMが言うところの“特別の愛”で、神の子たる普遍的な愛とは異なる(いや、それ以前、お母さんがいなくなったら自分が寂しいという単なるエゴだ)。

母を許すのではなく、本当は赦すべきなのだ、と今朝になって思い出した。

それでも、やはり私にとって、母はいちばん大切なひとで、平成最後、節目の秋、ともに過ごせてよかったと思う。

今朝の、久しぶりのワークでは頭が混乱していて、旅に行けたことにただ感謝をささげた。

[caption id="attachment_5030" align="aligncenter" width="788"] 真如堂にて[/caption]

 

母と京都へ

2018-12-01

急だけど、明日から二泊三日で母と京都に行くことに。

私が今日ある講習を受けて、その足で夕方富山へ。

そして、明朝母と京都に向かう予定。

紅葉はどうなっているかな?

先週がベストシーズンだったと思うけど。

秋はすごく混んでいると聞くけど、どのくらいかな?

母は今はどれくらい歩けるかな?

そして、私は、間が悪くおとといあたりから膀胱炎気味。

いつもトイレが近いけど、さらに近い。

今日急に髪染め(白髪染め!)に行ったけど、そこでもトイレをがまんしてヒヤヒヤした。1度お手洗い借りたけど、2回目は借りにくい。

市販の薬を飲んでいるけど。。やや不安。

ともかく、講習に行ってまいります。

「病気」のはなしを最後にしておくのは気になったから、更新して出かけます。

いろいろもろもろありがとうだ。

病気のことー病気と占い

2018-11-29

病院の定期検査に行った

昨日は、経過観察で通っている病院の検査に行った。半年ぶり。

病名は、甲状腺がんだ。

ブログを見てみたら、これまでも何度か病気のことを書いていたが、どこまで書いたか。曖昧な書き方をしていたかもしれない。

病気のことはごく近しい人以外話していない。

病名のイメージと私の状態の間にはギャップがあるし、いろいろ聞かれて説明するのも気乗りがしなくて。

治療はしたことがない。

毎回、血液検査をしてエコー検査をして「観察」のみ。痛くもかゆくもないし、本人的にはまったく病気感なし。

5年位前にのどの右側が腫れて「良性腫瘍」との診断を受け、「経過観察」となった。その経過観察の途中で4年前に「実は、左側にも小さい腫瘍があって、それが大きくなっているようだから、細胞診をしてみましょう」と言われ、針で細胞を取って調べたら、左のは「悪性」だった。

先生は、「甲状腺の全摘手術が必要。早期発見できたのは幸いですよ」とおっしゃった。

手術はしないで様子見を選んだ

は~、そうなのか。え~、ついに!ガーン。。

で、提示された手術の日程が、(外来の先生なので)先生の病院で受けるなら4ヶ月後、今通っている病院なら8ヶ月後、と言われた。

…ん?この病院でなら8ヶ月後?なんか悠長だな。そんな急がなくてもいいってことだ。

そこから、甲状腺がんのことをいろいろ調べた。

で、私のは低リスクだとわかった。お医者さんの立場からすれば、臓器がなければリスクゼロだから、全摘を勧めるのだろう。

だけど、私の甲状腺はホルモン値には異常なく、毎日一生懸命働いてくれている。それを全部取ってしまったら、一生投薬でのホルモンの補充が必要だ。

私は、いろいろ情報を集めて整理した結果、現段階では手術の必要なし、と判断、先生に手術はしない旨伝えた。少し感情の行き違いがあったけど、了解してくださって数ヶ月に一度の経過観察を続けている。

大きさは、7~8ミリくらいでここ数年まったく変化なし。今のところは手術しないでよかったと思っている。

恐怖心が占いの予言を成就させた

この世のことは自分の身体も含めて、すべて幻想であり自分の意識の投影だと学んだが、とくに「甲状腺がん」については、自分で作ったなぁと思う。

私の恐怖心がこの世でゲンジツ化したものだ。

そう思うのは、ある占いがきっかけだった。

それは、もう十数年前のこと、当時少し名が通っていた路上占い師に占ってもらった。

その方は老賢人たる風格で、私が椅子に腰かけるやいなや、

「カウンセラー、占い師、コンサルタント、すべてよし!」と、大きな声で私に言った。

それは、私が当時実際にやっていたり勉強していた三大職業だったから、びっくりした。

え、ほんと?うれしい。当たってぇ!と瞬間的に舞い上がった。

で、続けて、

「がんになるなぁ、あんた」「でもまぁ別にそれで死ぬってわけじゃないけど」と言った。

この日から、私は、すごくがんを意識し始めた。

占いの前半部分は、「当たってほしい」

後半部分は、「当たってほしくない」

矛盾した気持ちで、「予言」がぐるぐるした。

今はがんは2人に1人の病気と言われているけど、当時はもっと恐ろしい病気だったから、私の恐怖がものすごく「がん」に反応してしまった。

だから、実際に2014年実際にがんの診断を受けた時、「やっぱり」「やっと」と思ったのだ。

要は、自分が信じた「予言」を成就させたのだ。

そして不思議なことに、「なるかも、なる、なる、怖い、嫌だ」と、あれだけがんを恐れていたのに、なる前よりなってからの方が恐怖心が薄れている。

もうすでに、がんなのだから、がんを恐れなくてよい。

…と、わけがわからない理屈。

体に小さながんがある状態で、心身のバランスが取れているのだ。

もう少し『奇跡講座』の勉強が進んだら、がんを手放しても安定、安心できるのではないかと思う。(長文すみません)

「OSとハードウェアの管理」講座

2018-11-28

「OSとハードウェアの管理」終了、刺激になった

先週末「OSとハードウェアの管理」最終日を終えた。

たった3日間のコースだったけど、コンピュータ内のCPUやメモリ、ハードディスクの種類から始まって、その組み立て、ネットワーク、セキュリティ等盛りだくさんだった。

これまでアプリケーションを使うことには関心があったけど、パソコン自体やネットワークには意識がなかったから、新鮮だった。

CMDとかバッチファイル、RAIDとか、半分くらいは、何のこっちゃ?だったけど、刺激になった。

私が想像できないくらい頭がいい人たちがいて、こういうものをここ数十年で作ってきたんだな~

この世が仮初めといえども、すごい…と思う。

パソコン内の構造を学ぶために用いた参考書が『かんたん自作パソコン』というものだったから、それをペラペラ見ているうち素直な私?は、「私は自分でパソコンを作るのか…」と思いこみそうになった。

いやいや、時間とおカネと気力、そんな余裕ない。でも、いろいろやって完成までこぎつけたら楽しいかもしれない。

自作したほうが買うより「高くつく」とは、意外だった。

これも、道楽だな。

ネットに繋がりにくかった件を質問してみた

そういえば、家のパソコン、引っ越してから、インターネットに繋がりづらい。一度目は「接続されていません」と表示が出て、二度目、三度目でつながる。

…かと思うと、また切れてたり。

接続してくれたKDDIに言ったら直してもらえるのかな?それとも、他の原因?と思いながら、まあ、まったく繋がらないってわけではないし…と数ヶ月放置していた。

そのことを今回の講師の先生に質問してみた。

マンションの場合、無線LANアダプターが隣室などと干渉しあっている場合がある、とのことで、「チャネル設定を変更してみて」と教えてくださった。

その「無線LANアダプターのチャネルを変更する」ことも、私にとっては“チャレンジ”でネットで調べながら、なんとかやってみた。「自動」となっていたのを「11」にしてみた。

少ーし、良くなったみたい。

「少し」ってのが、変だな。

干渉が原因だったならば、サクッと良くなるはずだけど。

機械とかでも、やわやわ良くなるってことがあるのかな?

新しいノートパソコン、引っ越し時に買ったけど、ディスクトップ型の方がキーボードが手になじんていて、使いやすい。なんとか設定はして、アプリを入れたりしたけど、切り替えるまでには至っていない。

2020年1月には、Windows7のサポートが終了するのだとか。

この世は“進化”している。私だけ「このままでいたいの」とはいかないのだ。

今から少しずつ勉強を重ねていけば、やがて“パソコンおばあちゃん”とかになれるかな。

ACIMレッスン226-私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。

2018-11-26

幼馴染と会う

故郷にいる、小学校から高校までずっと同じ学校だった幼馴染が上京、東京に住んでいるもうひとりの幼馴染と三人で食事をした。

赤坂見附。20代の初め1年間、専門学校に通っていた町。

久しぶり。来ることないもんな~。

お店はほぼ満席で、みんな楽しげだ。都会の人はこうやって夜を楽しんでいるのか、とやけに明るい店内をキョロキョロ見回してしまった。

3人で会うのも数年ぶり。一人は故郷で専業主婦で男の子二人を育て、もう一人は東京でシングルマザーとして女手ひとつで娘さんを育て上げている。二人とも大人でえらい。

久しぶりだけど久しぶり感がないのが、幼馴染のいいところだ。

話が健康や病気の話になったり親の介護の話になったりするのが、不思議な気さえした。変わらないつもりでも仮初めの世で変わらないものは何もない…。

それぞれけっこうな人生の旅をしてきたなぁ、と感慨深かった。

おすすめのサラダを頼み、レタスやトマトにドレッシングがかかったものが来るのをイメージしていたら、見慣れない野菜が乗っかったカラフルな皿が出てきた。

「おー!最近のサラダはこうなっているのか」と驚いた。これは店に拠るんだろう。

おいしかった。

二人がそれぞれゲンジツ生活の中で努力を重ねて人生を築いているなかで、ふっと自分だけ迷子になっているような気もした。

別れてから、サラダの写真を撮るより三人で写真を撮ればよかった、と思った。

ACIMワーク226-私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。

私たちは、この世か、神か、そのどちらかしか手にできない、という。

私は神を選びたいと思った。

でも一方では、生まれてこのかた、この世しか知らないと思っているし、「自分自身」という個の存在にも執着がある。どっちつかずの状態にいる。

この世で頑張っている人を見ると、自分がただリトリートしていて肩身が狭く申し訳ないような気分になる。

あるいは、思いはそれなりのものであっても、やり方が間違っているのでは、となる。

昨晩は、この世の色のコントラストが濃く見えた。

そして、それはとても魅力的だった。

私は、この世に対して、ぼわーんとした反応の鈍い人間になっているな、と思う。

人から見たら、さそかしつまらない人間だろう。

もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。」(L226-1-1)

私はこの世を完全に立ち去りたい、とは思っていないのかな?

この世はきらきらして見える。

一方で、私はこの世が天国につながるものではないことを知っている。

天国がこのようにたやすく私のものになるというのに、虚しい願望や打ち砕かれた夢しかない場所に、どうして長居をする必要があるでしょう。」(L226-2-3)

そう、たしかにそうだ。

自分がその気になれば、そばにおられる存在に気づけるのだから、ただ見ることを志せばいいだけだ。

私の家が待っている。寄り道をせずわが家に帰ろう。

アートセラピー・ワークショップ

2018-11-25

プチ遠足、アートセラピーワークショップに参加

一昨日はすがすがしい秋晴れ。カルチャー講座の友人が主催するワークショップに参加した。

普通だったら電車とバスを乗り継いでいくところだけど、気持ちがよさそうなので1時間と少し歩いていった。

アートセラピーとは、絵や粘土、コラージュなどで表現することによって、無意識―意識のパイプの通りを良くして、カタルシス(浄化)や、気づきや成長を促すもの(私理解)。

アートセラピーにはずっと関心があって、数年前には私自身がある学校のインストラクターコースを受講するも、先生と相性が合わずに途中で止めてしまったという経緯がある。それは大きな赦しの機会でもあった。

3枚の絵を作った

今回のワークショップ、参加者は男性1名を含めて3名。これくらい少人数の方が私は落ち着くから、好きかな。

約2時間の間に3つの絵を作った。

最初はアイスブレイクの意味も込めた回し描き。

自分が描いた絵を時計回りで(反時計回りでも)隣の人に回して何か描き加えてもらい、自分も回ってきた隣の方の絵に描き加える。そうやって再び自分の絵が手元に戻ってきた時には、ひとりで描いたであろう場合とは違った趣の絵に出来上がっている。

私は鳥みたいなものと葉っぱを描いたが、その鳥には目がなかった。そこに誰かが入れてくれ、そして葉っぱには葉脈とオーラみたいなピカピカがついて帰ってきた。

やっぱり目はあった方がいいみたい。

「橋のある風景」を描いた、まだ秘境に向かう私!?

2枚目のお題は「橋のある風景」。

みんな躊躇せず、お題を得たらすーっと自分の世界に入っていくのがすごい。

私は、色えんぴつ画で描いたうなづき湖をまた思い出してしまい、橋がかかった宇奈月の風景を描いた。

橋の上にはトロッコ電車が走っている。

絵を描いた後は、お互いの絵を見せ合って質問に答えたりする。

軽くショックだったのは、ファシリテーターの友人が、「たまさんは、この絵の中のどこにいるんですか」と質問したのに対し、私が、

「トロッコ電車かな?」

「秘境の源流のほうに向かっているの」

と答えたこと。

私ってば、まだ下流の町の方ではなく秘境に行こうとしているわけー!?

少し内から外に出たのかと思ってたけど、まだー!?

と思ったのだ。

私の意識より絵の方が正直だ。これが、今の私の深層心理か。

3枚目、自分の中のタイトルは「赦しと祝福」

3枚目は自由画なのかな?折り紙を切ったり貼ったり。

なにしろ時間をかけずに10~20分位で、サクッと作るから、自我が入り込んで防衛するひまがない。言葉で話すより素直な自分だ(たぶん)。

私は鋏を使う元気がなかったから、使わないでできることを。

観念や思いこみの卵を割って、その中から本当の自分を解放しているイメージだ。

「よかったね、卵が割れて」と、友人が言ってくれたけど、私は、

「卵はね、たくさんたくさんあるの。これが、今私がやっていること」と答えた。

左のピンク色のセロファンが聖霊のイメージで、右上の金色の折り紙が神さまのイメージなのだ。

絵を作って、なんだかすっきりしたよ!

帰りは、みんなで夕ご飯を食べて帰った。

私は野菜ドリアをチョイス。思えばドリアという食べ物が世の中のあるの忘れてた。

あっつあっつのドリアがおいしかった。

ACIMレッスン225-神は私の父であり、子は父を愛する。

2018-11-22

「おもてなし英語」を申し込むのに、感じた怖さ

最近、東京都の各区(市町村も?)で、「おもてなし英語講座」なるものが開催されている。東京オリンピック・パラリンピックに向けてのボランティア育成の意図もあるんだろう。

私が引っ越してきた区でも、来年1月からの短期講座のチラシを見つけた。

英会話はずっと私が身につけたいと思っているものの一つ。

今回見つけた講座は「無料」。願ってもない。

対象は、「英検2級以上またはTOEIC600点以上相当で、日常英会話ができる方」。前半はかろうじてクリアしているけど、後半は全然だめだ。

月2回、初級英会話に通っているけど、ホントのカタコトしかしゃべれない。義務教育から何年も英語をやっているはずだけど。。

今日も講座があって、先生から

「How is your room?(あなたのお部屋どんな感じ?)」と聞かれ、とっさに、

「…square(四角)」と答えたら、笑われてしまった。「このなかに三角の部屋に住んでる人いる?」みたいな英語を言って(>_<) (^_^;)

そんなこともあってか、中級おもてなし英語に申し込みたいと思ったけど、怖かった。たいしたリスクじゃないのに。

私が怖いと思う理由をよくよく感じてみたら、英会話ができないこと以上に、先生や他の受講生さんに自己紹介したりする場面があるだろう、その時に、ひとり者で子どももなく、今は職も持っておらず、、「自分が何者か」説明できないことが、怖いのだと感じた。

未だにエゴが強くて、防衛的。気づくと、固まりになっている。

その不安感を赦した。

そして、こんなんじゃ、いくらACIMを学んでいるつもりでも、いつまで経っても「畳の上で水泳の練習をしている人」だよ!、と思って、エイッとはがき(今どき往復はがきでの申し込み)を書いて出した。

申込み多数で抽選らしいから、どうなるかな?

ACIMワーク225-神は私の父であり、子は父を愛する。

英語つながりでいうと、原文は「God is my Father, and His Son loves Him.」となる。

完全に代名詞が男性形。

これは、ACIMがイエスによる聖書の修正版だから代名詞は聖書に準拠しているといった説明が『神の使者』にあったけど、これは女人間からすると、疎外感を感じる表現ではある。

日本語訳は、「Son」を「息子」ではなく「子」と訳してくれていて、それが地味にうれしい。

文章の中でとくに響いたのは、「そして、本当は始まったことのない旅を終わらせるこの最後の数歩を歩み終えようとするとき、私たちが求めるのはこの一体性である。」(L225-2-5)

本当は始まったことのない旅か…

全然脈絡がないのだけど、このワークをやっている時、「私がワークを始めてからここ数年位引きこもりがちだったのは、ACIMの思考を身につけるための“補助輪”だったのかな~」と思った。

外界との接触が多くて慌ただしいなかでは、私みたいな者はすぐ巻き込まれて、そこからまったく進まずACIMから離れてしまっていただろうから。

今は、もう補助輪を外していい。

世間にもっともまれながら、ACIMを実践していく時が来ている。

…と、感じた。

ACIMレッスン224-神は私の父であり、父は子を愛する。

2018-11-20

ウォーキング中おカネを落とす

今朝は最初からつまづいた。

ウォーキング中おカネを落としたのだ。

ウォーキングには、いつもスマホと千円札と10円玉を持って出る。

10円は立ち寄る神社のお賽銭。千円札は帰りに24h営業のディスカウントスーパーに寄ることがあるから、その買物用。裸でズボンのお尻のポケットに、家の鍵と一緒に入れていた。

その千円札を落としてしまったのだ。

今日はスーパーには寄らずに帰宅。お尻のポケットから千円札を、、、

あれ、ない!

深めのポケットだ。大きなウサギのキーホールダーがついた鍵といっしょに押し込んでいて、お札だけ落ちたらしい。

キツネにつままれた気分だ。

情けないのは、これが今月二度目ってこと。

同じように、裸でズボンのポケットに入れていて、落としてしまった。その後、それじゃいかん、と小銭入れにもなるウサギのキーホールダーにお札を四つ折りにして入れていた。

けれど、今日のポケットは深いし、大きなキーホールダと一緒だし、大丈夫、と思っていた。

でも、ダメだったみだい。

え、でもどうなったら落ちる、お札だけ?腑に落ちない。

落とした千円札を探してウォーキング道を逆に

気が済まなくて、すぐ探しに出た。通勤者が多い道中にまだ落ちているとは思えなかったが、落としてしまった“罰”のようなもの。一応は探さねば。

来た道を逆に廻り、それから、お賽銭を出す時まではあったことを思い出し、神社まで行って、そこからまたいつもの廻り方で廻った。いつもの2廻り半歩いた。

通勤の方が足早に駅に向かうなか、道に千円札が落ちていないかうつむき加減で歩く私。

いったい何やってんだか!!

千円という、私にとっての大事なおカネを同じミスでまた失うなんて、という自責の気持ちと、人間以外の動物にとっては落ち葉とまったく同じ価値しか持たない紙を必死に探している私ってーという価値観に揺れた。

これは、すべて私が自身に見せている映画で、映画のなかのおカネがどう動こうと、映画でしかないのに!

おカネを落としたことが、実のところ「悪いこと」なのか「よいこと」なのかわからない。「よいこと」ではないと思うけど、水面下では何がどうつながっているかはわからない。

ただ私にわかるのは、晩秋落ち葉のなかに千円札という紙を探している中年無職女。。と言うシュールな絵在り、ということだ。

もちろん見つけられなかった。

二度あることは三度ある、というから気をつけよう。

ACIMワーク224-神は私の父であり、父は子を愛する。

こんな長文を書いた後に、ワークのダイアリーというのもなんだけど、とにかく今やっているワークに近づきたい。ダイアリーを待って、ワークの方が、足踏み状態なのだ。(どーでもいいことだけど。。)

レッスン224の、短い文言のなかの後半部分に共感して、線が引いてある。

私は、自分がどこに行くのか、

誰なのか、

何をしているのかが、

わかりません。

父よ、

自分の見ている世界に疲れ果てた私に、思い出させてください。

こうしたもののかわりに、あなたが私に見せようとなさるものを、現わしてください。」(L224-2-2,3,4)

本当に…。神さま。聖霊さん。

こうやって書いてきて、ふっと思ったことが。

さっき「千円札という紙を探している」と打っていた時、パソコンが「神を探している」と変換まちがいした。

もしかして、これは、

落とした千円札を探すくらい熱心に神を探せ。求めよ、ってこと?

聖霊さんのアドバイスー!?

そんな皮肉を効かせたりしないよね?

ACIMレッスン223-神は私の生命である。神の生命のほかに、私に生命はない。

2018-11-19

ああ、もう冬だ~

冷えてきた。

一昨日はパソコン講座の昼休憩、食べログで調べて少し遠くにあったラーメン屋さんまで行ってみた。

この世にラーメンという食べ物があるのを忘れていた!

いや、女ひとりではラーメン屋さんに入りにくくて、意識から遠ざけていたのだ、たぶん。

久しぶりのラーメンは煮干し出汁。あったまった!そして、もっといろんなラーメンが食べたくなった。

今朝はふとんから出るのに、えいっと気合いがいった。

ああ、もう冬だ。

暖房器具、これまでエアコンは空気が乾燥するからつけず、電気ストーブ40㎝角のミニミニホットカーペットだけだった。

ミニミニホットカーペットは、パソコンの前にいる時は足の裏を温め、テレビの前に座るときは、この上に毛布をかけてミニミニこたつ風に。

電気ストーブは、軽いので常に自分がいるところに動かしていた。

器具ではないけど、腰には防寒腰巻ケットをして。。

家が5,6帖から構成される2DKから広めのワンルーム的空間になったけど、この防寒態勢でこの冬も乗り切れるか?ここの家の寒さは??

そういえば、引っ越しのどさくさにまぎれて、リサイクル屋さんに0円で加湿器を引き取ってもらったけど、早まったか、加湿器いるかも。

ACIMワーク223-神は私の生命 いのち である。神の生命 いのち のほかに、私には生命 いのち はない。

レッスン223は、11月の初め。ちょうどアルバイトの面接に行った日から、その後面接に落ちた日あたりにやっていた。

面接に行く前は、面接そのものへの不安や、もし決まったらうまくやれるか、時間のやりくりができるかといった不安をノートに書いてきた。

落ちた後は、「自分が制限だと感じているものに、自分の時間という幻想を捧げなくてもいい」と自分を慰めるようなこと?を書いている。

そして、

「在宅でキャッシュフローのしくみが作りたかったら、やってみてもいい。

ACIMのことを何か表現したいと思っているなら、やってみてもいい。」

と続けている。

この2つが、今私が関心が高いことだけど、具体的にこれならできるというイメージがない。わからない。

でも、もうしばらく、この関心があるほうへベクトルを向けてもいいのかな、と思っている。

まずいのは、関心があると言い続けているだけで、やはり不安で固まり何も動けないことだ。実のところ、ずっとそうなのだ。

やってみようか、と思いつくこと、何でもやってみたらいいと思う。

要するに、自分のベクトルに進んでみよ、というメッセージを感じたのだ。

ワーク文の「罪悪感は私たちがあなたの子ではないと宣言するので、私たちが見たいのは自分の無罪性です。」(L223-2-3)に拠りどころを感じた。

ACIMレッスン222-神は私とともにある。私は神の中で行き、神の中で動く。

2018-11-16

ペルソナがない夢!?

月1回のカルチャー講座ユング心理学講座では、後半夜見た夢の話をする。

私は、あまり夢を覚えていられるほうではないが、先週見た夢があったので聴いてもらった。

〈11月9日朝の夢〉

「ひとりでどこか観光地の川へ向かうが、天気が悪くて川は濁流。

 別のグループの方が川は止めてプールへ行くと言っていたので、私も付いていくことに。

 プールは新しくて水がきれいだった。

 プールに入って楽しんでいたが、自分が水着を着ていなかったことに気づく。ありゃ、まずい。

 他の人に気づかれないように、バスタオルを巻いてフロント売店に行き、無事水着をgetして、再びプールへ。(そこからいろいろあってそこがメインだったけど全部忘れた)。

 閉館時間になり、水着買ったつもりだったけど、レンタルだったのか、フロントで「洗って3階の屋上?に干して」と言われ、言われたとおりにして外に出る。」

あまり面白くもない夢だけど。

夢は無意識からのメッセージで、夢に出てくるものは、水=無意識、服=ペルソナ=(会社員、夫、生徒といった)社会的な立場や仮面といったように、この世での夢見者の何らかの状況を象徴していると見る。

先生は私に「(この夢に)何か思い当たることある?」とおっしゃった。

服(水着)を着ていなかった→社会的立場や仮面がない、ことは最近ずっと感じているけど、その他は特段思いつかなかった。

服はあっても、いざ外出しようとすると着る服がないというのは、ゲンジツの話でもある。

私は先生からなにか特別なアドバイスみたいなものを期待したけど、先生は、「いいんじゃない、ちゃんと売店で水着を手に入れられたんだから」とおっしゃった。

そんなに警告的な夢ではなかったのかな。

講座終了後、何人かで夜お茶をして帰った。

私、雑談がますますヘタになっている、と気づいた。

政治家の話とかになって、「○○、ひどいよね」「何が“美しい日本”だってねー」となっても、うまく会話の流れに乗れない。「この世は自分のエゴが見せている映画だ」という認識が浸透したためなのか、ゲンジツの会話に素早いリアクションがとれないのだ。

1対1はまだ話しようがあるけれど、複数だととくに。“あいまいな日本人”をさらにあいまいにしたほほえみ?を貼り付け、どーでもいいことしか言えない。

こういうことだから、水着(ペルソナ)を身につけていなかった夢を見たのかな~?

ACIMワーク222-神は私とともにある。私は神の中で生き、神の中で動く。

レッスン221をやっていたのは、月初。学生時代の街に小さな旅をした頃だ。

ワークのメモにはたいしたことは書いてないが、自分のことで感じたこととして、

「硬くなりすぎ」「緊張しすぎ」←「原始的な恐怖」で、それを手放す!

と書いていた。

それは、言葉を変えたら、

攻撃されてしまうんじゃないかという不安と、

それに対して、

自分が腹を立ててしまうんじゃないかという恐れ(自らの攻撃性を感じたくない)

だとも書いていた。

そういう不安や恐れから、リアクションがあいまいになっているのか。

でも、そういう場で『奇跡講座』の見方で話したら、そりゃ、事だよな。

自然と口数が減るのはいたしかたないか。

あ~、どっかで思いっきり、ACIMワークあるあるを話したい。

ACIMレッスン221-私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。

2018-11-15

独り身には堪える冬!?近づく

急に寒くなってきた。街にはマフラーや手袋をした人の姿も見かけるようになった。

冬が来る!

北海道では昨日初雪が降ったとか。これは平年より22日も遅いらしい。北海道の冬は長い。

冬は、ひとり暮らしにとっては、きびしい季節だ。ひとりが気楽だといっても、クリスマスやお正月があるし、家族であったまろうという企画ががんがん流されると、やっぱり独り身の冷えを感じることも。(勝手だ)

同じひとり暮らしで無職や在宅ワークの方のブログを覗いたりしているが、その中に猫を飼っている方がいらして、うらやまし~、と思う。

あぁ、ソファに寝そべっているとき、にゃんこさんが私の胸やのど元のあたりまで登ってきて、どっかと座る感覚、また味わいたい。

当マンション、築25年経っているけれど、管理規約でペット禁止。ざんねん。

この前、エントランスで犬を抱えている方とすれ違ったけれど、あれは、いったいー??

飼っていいんなら、私もにゃんこさんにいてもらいたいなぁ。

今はぬいぐるみのにゃんこさんが、二人。

かわいくないところが、気に入っている。

ACIMワーク221-私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。

第2部では、「言葉はあまり意味をもたなく」なり、「演習を単なる出発点とする」とされている。演習を導入のきっかけとして用いて、「真理の直接的体験」を追求する。

説明文は難しいけれど、「概念はある程度学んだから、神そのものを感じることにワーク時間を使いましょう」ということだと思う。

レッスン221の主題概念の「私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。」というのは、まさに私に必要な祈りのことばだ。

ワーク中や意識がある時は、感謝して聖霊のアドバイスに従おうと思っているけれど、気づくと、不安と恐怖と罪悪感でぐるぐるしてしまっている。

ACIMっぽい自分と、ACIMっぽくない自分の間を行ったり来たりして、随分なエネルギーロスだと思う。

私が非常に疲れやすいのは、そのためのあるのかな。

実は赦したくないのだ、と気づく

一昨日の「赦すとは何か」のダイアリーに「ネガティブな感情を感じた時は、チャンス到来!なんだけど、私はその感情を感じること自体が嫌で、赦しのチャンスからも逃げている気がする。」と書いた。

あとで、それは私がとりもなおさず、「赦したくないからだ」と気づいた。

赦したくないと思っているから、赦しのチャンスに出会わないよう逃げ回っているのだ。

L221をやった際のワークのメモにも「私はACIMの勉強をしている体で、それは限定的なもので、その実エゴの殻に引きこもりエゴを守っていたのか?」とあった。エゴをさらに分厚くしているのだとしたら、あ゛~、それはまずい。

そして、その後に「ACIMを見つけられたのだから、自信を持て」とも書いていた。

揺れながら進むというのは、まだまだ続きそう。

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