奇跡講座ダイアリー

ACIMワーク250-私自身を、限られた者として見ることがありませんように。

2019-03-19

私自身を、限られた者として見ないためには、目の前の人を限られた者と見ないことが絶対条件だ。

分離を映し出す世の中では、自分と他者を切り離し「自分ではない○○が悪い」と考えることで、心の均衡を保っている。

それが無意識のくせになっていて、自分ではない「悪い」人を見つけて批判する。

その間だけは無意識の罪悪感を自分からそらすことができるから、楽になった錯覚がする。

だけどその作用は長くは続かないから、新たなターゲットを批判することが必要になる。

まるでドラッグやなんかの依存症のようだ。

批判依存。

それは他でもない自分がかかっている病で、遠くのことには観念的に考えられるが、自分自身が巻き込まれたことだと、ささいなことでも瞬時に批判の刃を持って身構えてしまう。

そうしたクセを治していくには、どんどん他者と触れ合って他者と自分を分けない、他者のなかに神の子だけを見る訓練をする必要があるんだろうなぁ、と思う。

奇跡講座についてのブログを初めて3年。かなり内向きな日々だったけど、そろそろちょっと外向きになってもいいんじゃ?

私は赦しどころか、奇跡講座の理くつだけ学んで脆弱なエゴをガードするスーパーエゴを作り上げてしまっているんじゃ…と、しばしば思う。

そして聖霊が導く正しい見方を学んだ自己の部分から、スーパーエゴとして“成長”したエゴが、そっちには行かすもんか、と引っ張っているんじゃ?

あ゛

私、ちぎれちゃうよ。。<(;゚_゚;)> 

 

考えすぎかな?これも頭の中での見解。

畳の上での水泳練習はそろそろやめて水に入らなきゃ。

とすれば、いろんな方と交わって、

彼の中の神聖な光を陰らせ、彼の強さが衰えて虚弱となるのを見ようとするのはやめよう。

また、彼の中に欠乏を知覚して、それを理由に彼の主権を攻撃しようとするのはやめよう。」(L250-1-2,3)

を実践することだ。

エゴが猛反発しないように、そろりそろり。徐々に徐々に。

『奇跡講座のメリットって?』に、やはり即答できず(・・;)

2019-03-18

Tokyo Wordpress Meetupというイベントに参加


土曜日、友だちに誘ってもらってTokyo Wordpress Meetupというイベントに参加してきた。

Wordpressという無料のサイトやブログを作るしくみに興味がある人が集まって、自分のノートパソコン持ち込みで作業したり教えあったりする会だ。

今回第5回とのこと。全国各地月1ペースでやっているらしい。

この「奇跡講座ダイアリー」というブログもWordpressで作っている。「これならつくれる!おしゃれなホームページ」という本で提供されていたテーマ(テンプレート)を利用した。

かわいい雰囲気が気にいって選んだのだけど、ブログ用に作られたものではなく、また4年前に発刊された本のまんまで古くなっているから、Wordpressのカスタマイズの仕方とか学びたいと思っているのだ。

Wordpress Meetupは具体的なレクチャーを受けるような場ではなかったが、なかなか刺激的でおもしろかった。

まず、受付もなく出入りも自由なのかな?とてもオープンなところ。

そしてその人のやりたいことや習熟度に合わせて、机を配置してにわかグループや進行役を決めて進めるところなど。

そもそも無料のイベントで善意に乗って進んでいくので、ニーズが満たされないと不満を出す人もいない。新しいことをやりたい人の気に充ちていた。

「奇跡講座をやるメリットは?」

私が入ったグループは9名で、その中の5人でランチに行った。私と友人以外は起業している男性だった。

戸惑ったのが、やっぱり「奇跡講座って?」という質問。

ランチに向かう途中一人の方に聞かれたけど、端的にどう説明するべきか。普段からひきこもっている私には、初対面の方と話すだけでもハードルが高い…

「あえていえばスピリチュアル系のなかの一つかな?」と私。

「それをやるメリットは?」と男性。

そうだよね、そう聞くよね、ふつう。

メリットねえ-と一瞬固まる私。

この世でのメリットを期待してなら、

Nothing. 何もないー(赦しの結果映し出されるゲンジツも変化するだろうけどそれはメリットという狭い定義には入らない)。

でも、真実を言えばEverythingだ。

これをどう説明しよう?

「あ…、怒ったりしなくなるかな」と私。

「たしかに見るからに穏やかそうですもんね」と男性。

あ゛…。ウソだ。

表情に出にくいだけで、私は未だ気が短いほうだし、

奇跡講座を字面で学んでいるだけど、実践のほうは決して進んでいないから。

でもこれはまた別のはなし。

これをちゃんと説明する器量は私にはない。

奇跡講座を軽い会話で説明するのはむずかしい。とくにこれから社会に自らの力を発揮して天下を取ってやろうなどと思いがちな若い男性には。

「この世でのいろんな執着心を手放していくの。それで心が穏やかになるの」とやっと答えたけど、回答になっているか。

相手の方だって、すごく興味があって知りたいわけじゃないから、テキトーに楽しく答えればいいのに、そのコミュニケーションスキルに欠け距離感もわからず、戸惑ってしまった。

でも、籠りがちな人間にとってはこういうところに行くことがまずチャレンジだから、私にとってはこれは大きな一歩なのかもしれない。

何も持っていなくても幸せそうな謎の人をめざす!?

いま、ふっと思った。それに即答できなくても、

な~んか魅力的な人になれればいい。

若さもなく美しさもなくキャリアもなくおカネもなく、結婚もしておらず子もなく、

どこからどう見ても“人生の負け組”(死語?)…でもあの人なんか幸せそうだよね、感じいいよね、秘訣って何かな?と思ってもらえるようになるのだ。

そしてその秘訣を聞かれたら、「奇跡講座よ」とにっこり答える。

こういう風になれたら、最高だな。

しかしこれはこれでさらにハードル高し!?

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

2019-03-15

確定申告終えてほっ

何かにつけて体力気力が乏しい(と思っている)私には土日と講習が続くのは負荷がかかりすぎるみたい。ちょっと調子を崩していた。大量の花粉飛散(>_<)の影響…もあるかもしれない。

おととい確定申告を終えた。ほっとした。

今年はいつもにない不動産譲渡取得税(不動産を買った時よりも高く売った場合にかかる税金、これが関わってくるのはありがたいこと)の申告という作業があったから。

売買を仲介してくれた不動産屋さんはもう済んだ取引には親身ではなく、所轄の税務署も個別の相談までは受けられないとのことだった。

ネットで調べてたたき台を作り、他社の不動産税務無料相談会に申し込みいろいろ教わった。

相談会で対応してくださった税理士さんは、「これ、うちで仕事として受けたらお母様と二人分で40万円はいただきます」

それを無料相談会だからと親身に教えてくださった。おかげで、何とか自分で書類を作成して終わらせることができた。

ACIMでこの世の幻想性、おカネの幻想性を学んではいるものの、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私には、こういうことは圧倒的なリアルさを持って立ちはだかってくる(ように見える)。

もっともっと学習が進んだら、たいしたリアルさではなくなるんだろうけど、それにはまだまだ赦しの実践が足りない。

そうそう、カルチャー講座仲間からバレンタインチョコのお返しというわけじゃないだろうけど、ホワイトデーに手作りの肉じゃがをいただいた。



タッパーを新聞紙でくるみ、その気取らなさがあったかかった。

肉じゃが久しぶり、おいしかった!私よりうんと上品な味付けだな。東京の肉じゃがは豚肉だと聞いていたけど、これは牛だった。

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

赦しが描き出す世界では、苦しみは終わり、損失は不可能となり、怒りは意味をなさない。攻撃は過ぎ去り、狂気には終わりがくる。

そのとき、どのような苦しみがありえるだろう。

世界は喜びと豊かさと慈愛に溢れ、いつまでも与え合う場となる。」(L249-1-1~5)

書き映してしまった。

こういう世界をどこか知っているという記憶があるから、ACIMに惹かれたんだろうと思う。

私はACIMの理くつは素晴らしいと思っているけど、赦したくない、赦しの機会に直面したくないと思っている節もあるなと自己分析する。

赦しを実践してこそのACIMだ。

気が乱れがちな私の3月

このワークをやっていたのは3月の初めでその頃のワークメモを見てみたら、メモらしいメモはなく、

ただ「疲れていると思い込んでいるだけで、私は疲れてはいない。」という走り書きがあった。

ん?どういうことだ?

私は自分を身体だと見ているから、こんなに疲れやすいんだろうか。

「ゲイリー・R・レナードさんのワークショップ申し込んだ!」

「気が上がってしまい落ち着くことができなかった」

とのメモもあった。

そうそう、気が上がってしまったついでになのか、クレジットカード落っことした。再発行手続き…。あ゛~やはり私はマヌケだった。

もちろんこれも、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私の出来事で、大勢に影響はないことなんだろうけど。

疲れと支離滅裂。一回落ち着きたい。

“『奇跡講座』の効果”

2019-03-09

SEO講座に行ってきた

全3回のSEO講座の最終日。風は強かったが日差しは暖かかった。

公園の鴨のカップルもいくぶん緩んでいる気がした。

SEOの話は知らないことだらけで、これはこれで奥が深そうな話だった。

検索サイトにサジェスト機能というのがある。ある検索語を入れたら「次の検索語はこれではないですか?」とそのワードを表示してくれる親切な機能だ。

どの検索サイトか忘れたけれど検索窓に「奇跡講座」と入れたら、次にサジェスト機能で「効果」と出てきた。

「奇跡講座の効果って何だ」と検索している方が多いのだろう。

これはおもしろい、と思った。

それだけ奇跡講座が広まってきたということだろうか。

実際に奇跡講座(ACIM)を学んでいる人は、その効果を改めて検索しようとは思わないのではないか。

効果というのは、この世での効果、効用。

奇跡講座を学ぶ → こんな効果がある、という関係が成り立つ。

奇跡講座は、この世を映画のように内側から見せられている幻想だと見る。その真の因果が成り立たない世界での結果と見えるものに執着せず赦すことが、その中核だと思うから、「奇跡講座ってどんないいことがあるの?」という発想は真逆だと思う。

結果を求めるものではないのだ。でも、その学びの姿勢によって副次的にこのゲンジツでの結果も付いてくる。

説明がヘタだけど、そんな気がする。

私が感じた“奇跡講座の効果”

でも、この機会に改めて、“奇跡講座の効果”を考えてみた。私だけの狭い経験だけど。

1.まずひとつめは、スピリチュアルや自己啓発関連の本を読まなくなったこと。効果と言えることかどうかわからないけど。

これまでいろんな本を読んで、ふーむなるほど、と思い、またしばらくして他の本を読んで、ふーむなるほど、と思う。その繰り返しだった。

『奇跡講座』の考えを知って、わからないながらも、「これこそ真実」と感じ、他書に答えを求めることがなくなったのだ。ACIMの本を読むだけで精いっぱいでその時間もない。

2.死への恐怖が和らいだ

私は死への恐怖が強い人間だ。今も怖い。

しかし自分を肉体とは見なさない教えが浸透するにつれて、死への恐怖が少なくなってきた。本来の私は神の子であり死ぬことはない。不死だ。

3.ネガティブな感情を人にぶつけることが少なくなり、自分に嫌なことも起きにくくなった

これまでは、何か嫌な気持ちになると、それはこんな気持ちにさせた○○のせいだと被害者的に感じていたし、その感情をそのまま相手にぶつけてしまうこともあった。

けれど、今はそれは自分自身の内側にあるものを鏡のように相手にかぶせて見ているのだという理屈を学んだ。

渦中にいるときにそれを思い出すのは難しいこともあるが、いったん落ち着いて赦してから行動すると、負のスパイラルに陥ることもなく周りの人との関係性が良くなった。

思いつくまま3つ挙げた。

他にもいいこと、たくさんある。

人生が生きる価値のあるものになった、とか。

一生を懸けられる喜び!とか。

こんなに素晴らしいと思っているのだけど、実践はなかなかむずかしい。

けっこう、すっ転んで感情大爆発させちゃうこともまだまだある(>_<)

もてなし英語講座、最終回

2019-03-07

1月から開催していた全8回の「もてなし英語」が終了した。

最終回は締めとして?英語プレゼンテーションが設定された。グループごとにテーマが定められ、メンバーそれぞれ持ち時間4分程度でスピーチするのだ。

私は半日かけてプレゼンテーションボードとスピーチ原稿を準備。肝心のスピーチの練習はまったくできなかったが、何とか無事?終えることができた。ほっとした。

中にはスティーブジョブズさながらという堂々としたプレゼンテーターもいた。

すごい、いいなぁ。

私は英作文づくりは、(正しいかどうかはともかく)辞書やネットを使って何とか時間をかけてやる。

でも質問されたりフリートークだとかになると、未だカタコトも話せない。一言二言単語をあわあわ言うのが精いっぱいだ。

やっぱり語学習得には時間がかかるなぁ。

今回の収穫は、一般の日本人でも流暢な英語が習得できるとわかったこと。

私は勝手に特別な人だけが英語が話せるんだと思い込んでいたが、そうではないらしい。一見普通の老若男女の区民がみんな流暢に話していた。

脳のどこかが決定的に違うのかな(私は最近人と話すことが少なく日本語も出てこない(^_^;))

私もペラペラになりた~い。

4月13日ゲイリーさんのワークショップ行けることになった時のために(まだ参加費も振り込めてないから不確定)、彼と直接話すことを想定して伝えたいこと英作文作って練習しようかな。

本当はヒアリングもちゃんとできて通訳さんなしでも理解できたら素敵だけど

英会話に対するモチベーション上昇中。

春の訪れとゲイリーさんの来日が相まって、ワクワクする。

ゲイリー・R・レナードさんのワークショップ申し込んだ!♪

2019-03-06

ワークショップ申し込んだよ

ゲイリー・R・レナードさん4月来日ワークショップ、の情報を知ったのが先週土曜。そして一昨日ダイアリーにそのことを書いてた。

そして、昨日、申し込んだ!!(振り込みはまだだけど)

一昨日のブログにくさちゃん(本来ならくさちゃんさんと書くべき?)がコメントをくださって、ご自身が2年前京都でのセミナーに参加なさった際のブログ記事を紹介してくださった。その文章がとても美しかった。

くさちゃんは、ゲイリー・R・レナードさんのワークショップに関するブログ記事2つに加え、申込先のWebサイトアドレスも貼り付けてくださっていて、一日の仕事の後で疲れているだろうに、そういった手間をかけてくれたことがありがたくうれしかった。

私はどうも素直ではなくて、スピリチュアル系のことが好きなわりにシニカルに見てしまう一面がある。

外国人講師の方の来日ワークショップは、当時好きだったソニア・ショケットさんの東京でのワークショップに2007年参加したのが最後。約7万円という参加費を頑張って工面して参加したのを思い出す。思えばもう10年以上経っている。

ソニアさんのポジティブでアクティブなワークショップはとても楽しかった。

反面みんなが一つの雲に乗って限定付き“ポジティブキャラ”になっていくような印象を受け、かすかな違和感も感じた。ソニアさんになにか問題があるとかいうんじゃない、ただ私がワークショップの雰囲気に完全に乗り切るということができなかった。

ものすごく好きでシカゴの自宅までリーディングをしてもらった先生だったのに。個別にリーディングしてもらった時の体験がアメリカへのひとり旅と相まって強すぎたのか。

好きなもののすぐ近くにエゴが張りついている?私

どうも私は自分が好きなもののすぐそばに強固なコンプレックスというかエゴが張り付いているようだ。

だから、好きなものに素直に近づけない(家のパソコンで『奇跡講座』の検索すら気合いを入れないとできないし、スピリチュアル系のブログもめったに読めない)。

何らかの怖れだ。

私は『神の使者』を自分の人生のなかで最も大切な本…と思っている。だからこそこの最も大切…と思っている気持ちも守りたい。

最も重要で大事にしているものにぴったりと貼りついていて自分を制限する恐怖とエゴ。

それこそが赦すべきことなんだろうな~と、思う。

くさちゃんのコメントは、

「めったにお会いできない人ですよ~。

ぜひぜひ~\(^o^)/」

で締めくくられていて(勝手に掲載、くさちゃんすみません)、

そのピュアさと素直さに私の殻が解けていくのを感じた。

ありがとう、くさちゃん。

4月13日というともう1ヶ月じゃないか。その頃はもう桜も散っているね。

わー!

ワークショップが終わって1ヶ月後とかにその情報を知ったら、かなりのショックだったろうなぁ。

よかった。

なんたって、いつかアメリカとかに行ってACIM関係のワークショップに参加できたらと思って英会話をやっているのだから、それが日本語で東京で聞けるのだから!

『神の使者』 著者のゲイリー・R・レナードさん4月来日!?

2019-03-04

週末またまたWeb講座へ

週末、土曜も日曜も東京都主催のWeb関連講座に出ていた。

土曜はいわゆるSEO対策。日曜はWeb環境に関する基礎知識とトピックのような内容だった。

日曜日のテキストは『キーワードで学ぶ最新情報トピックス2019』という先月19日に発刊されたばかりの本。

扱われているキーワードが、「LINE」「TwitterとInstagram」「YouTubeとニコニコ動画」「クックパッドと価格.com」「Webサーバーとブラウザ」「LANとWi-fi」「コンピュータウィルス」などなど。

2019年現在の情報コミュニケーションに関すること何でもかんでも(パソコンやスマホは用いず)座学で広く解説という講座だった。

受講者は私と同様昭和世代が多め。

こういうものはいくら言葉で説明されても、自分が実際やっていなければわからないし、やっている人にとっては、何を今さらだろう。

それを先生が言葉で解説してくださるのが、シュールだった。

でもテキストは最新のベースのベースがよくまとまっていて、勉強になった(問題はそれを私がどう活かせるかだけど(^_^;))

えっ、ゲイリー・R・レナードさん来日!?

土曜日のSEO対策…こちらはパソコンに向かいながら作業を伴う講座だった。

そこで授業の合間、ふだんはしない『奇跡講座』(ACIM)関連のことをGoogleで検索してみた。

私は自分が「奇跡講座ダイアリー」などというブログをやっているくせに、『奇跡講座』やスピリチュアル系のことをネットで見ることはまずない。

エゴのはたらきなのか、心がざわついてしまうのだ。家ではACIMのことを検索したりはしない(できない)のだけど、授業中『奇跡講座』や『神の使者』のキーワードで検索してみた。

そこで発見したのが『神の使者』の著者、ゲイリー・R・レナード氏4月13日来日のニュース

おお、これは…!!

関心のある方なら、こういうことはちゃんとアンテナが立っていてずっと前に情報が入っていることだろうけど。

私はここで知った。

『神の使者』といえば、私が『奇跡講座』に出会うきっかけを与えてくれた本だし、続編も含めてくりかえしくりかえし読んでいる本。いつかゲイリーさんのワークショップにも出てみたいと思っていたけど。

こんな大事なことも知らずにのうのうと生きていたなんて。。

行くべきか…

今からでも申込みできるのか…

心がざわざわ、頭がぐるぐる。

彼個人を崇拝しているわけではないけれど、話は聞いてみたい。アメリカに行かずとも聞けるこれは大きなチャンスなのでは?!

すぐにいろいろ調べればよかったけれど、Web講座受講後心のエネルギー残が乏しく、まだ調べたり、決断したりすることができないでいる。

今回のWeb講座はこ既に申し込んだという友人に誘ってもらい、追加募集の最終日ぎりぎり申し込んだもの。

それはゲイリーさん来日という私にとって重要な情報に気づくためだったのでは…?などと思えてくる。

ゲイリーさんのワークショップ、行ってみたいような、行ってみたくないような…

自分にとって大事と思っているものだから、逆にいろいろ思いがある。

明日エネルギーが少し“充電”されていたら、調べてみようと思う。

ACIMワーク248‐苦しんでいる主体は、私の一部ではない。

2019-03-01

メルカリでペンタブ購入

昨日一昨日とほとんど休眠状態の自社の確定申告作業でばたついていた。嫌なことを先延ばししてぎりぎりにならないとできない性格は未だ直らない。

2月中旬ペンタブ欲しいと言っていたが、気づいたら買ってた。

メルカリで不用品を売った「売上金残」があり、ペンタブってどんながあるのかなと見てたら、ついポチっとしてしまったのだ。4,000円位。

メルカリで売ってメルカリで買う循環経済。売るのも買うのも手数料10%だからメルカリっていい商売してる。

ペンタブ使いこなせるかわからないのもを新品でまで買おうとは思えないし、もし新品買うならちゃんと検討しなきゃと買うまでには至らないだろうから、これでよかった。

でも、こういうものに、もはや使用説明書って付いてないんだな~(説明書はあるにはあるが設定の説明のみ)、

これ、どうやって使うんだろ?

私に使えるかな?

ACIMワーク248‐苦してんでいるは、私の一部ではない。

一年のうちでこの季節がもっとも苦手だ。

自社の確定申告で自分の無能さ、無力さ加減をを痛感するから。

こんなに豊かで自由でIT化に伴って無料で個人が使えるツールもたくさん出ているというのに、なんで何らか自分なりのプチ事業さえできないのか。。。

言ってみれば、なさけなさと罪悪感。

悩んでいる気もするし、悩んでいない気もする。

苦しんでいるは、私の一部ではない。

そう。

ACIMでは何かに苦しんでいる、悩んでいるなら、それはあなたの見方が間違っているという。

神の子である私たちには、本来愛と喜び、幸福以外はありえないはずだ。それ以外を感じているとしたら、それはあなたが幻想をリアルにしているということだ。

なので、私はここ数年「悩み」を大っぴらに言えない。

「悩み」はこれを「悩み」として相談してしまうと「リアル」にしてしまうと思っているのだ(ブログではついつい書いてしまうが)。

友達にはどうでもいい悩みしか口にしづらい。

苦痛を感じているのは、私の心の中の幻想にすぎない。」(L248-1-5)

今、私は自己概念や、聖なる神の子についての欺瞞や虚言を、放棄する。」(L248-1-7)

これを実践しようと思っている私と、

気づけば苦痛や悩み事について考えてしまっている私。

それをまたゲンジツに向けて自力で努力することはせず心の中で手放そうと試みる。

ああ、こんなんでいいのか。。。

この世をリアルにせずにこの世と絡み合わない生き方って、なかなか理解されないだろう。私もそれでうまくいっているとは言えないから人に言いづらいなと思っている。

ACIMを前進しているのか、

はたまた世逃げ度と怠け者度を増しているだけなのか。

この宇宙はバーチャルリアリティ-奇跡講座のおはなし②

2019-02-26

奇跡講座のおはなし①:神はこの世を創らなかった

近年すさまじく進んだバーチャルリアリティ

近年バーチャルリアリティ(VR)の進化がすごい。

東京ディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパン(USJ)でも、VR技術を使ったアトラクションが人気なのだそう。

Virtual Reality…日本語では「仮想現実」や「人工現実感」と訳されるらしい。

専用ゴーグルを付けるだけで、あたかも空を飛んでいるかのように感じられたり、人気アーティストのライブを実際その場にいるかのように体感できたり。

人がVRの可能性に魅せられるのもわかる。医療分野でもどんどん活用されるだろうし。

VRの技術がもっともっと進んで五感によりリアルに感じられるようになれば、私たちは体をここに置いたまんまどこにでも行けるのかもしれない。

近い未来には、「パリ」と選び、ゴーグルをかけただけでパリの街並みを歩き観光スポットを回るような商品も一般販売されているかも。

実際に見て歩いてパリの風を感じている感覚が脳にリアルにある。その私の現実は、パリにあるのか部屋の中にあるのか…、現実ってそもそも何?

この世はバーチャルリアリティの映画を見ているようなもの

『奇跡講座』(ACIM)では、この宇宙が大きなバーチャルリアリティ空間だと見ている。

私たちは「生きてここにいる」と思っているけど、ここにはいない。幻想=よくできたバーチャルリアリティの映画を見ているのだと考えるのだ。

いやいや、いやいや、実際いるし!

でも、それは仮初めの世界。ゴーグルを付けていて仮想現実の中に入り込んでいるから気づけてないんですよ、と『奇跡講座』は言う。

そして、そこからリアルな世界(実相)に目覚めたら、世の中の見方だけじゃなく、これまで人生だと思っていたものがまったく違うように見えるよ、と教える。

私たちは死んで地獄に落ちたらどうしよう、怖いと思う。

いやいやそうじゃない、すでに地獄にいるだよ。

だって、この世は怖いことや理不尽なことだらけじゃないか。(このあたりの言い回しは『神の使者』から)

そこから抜け出すことはできるよ。

そう、その付けているゴーグルを取ればいいんだ。

そう教えているのが、『奇跡講座』なのだ。

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

2019-02-25

些細なゲンジツに一喜一憂するワタシ

枯れた木に新芽が出ている。3月近し。いよいよ春到来の気配。

甥っ子が第3希望の大学に進学が決まったと母から電話。「あんたも電話してやりなさい」。

先日甥と話してからも妹から連絡があったわけじゃないし、電話しても機嫌が悪かったらヤダなと若干気が重かったけど電話した。

今度は妹もいた。

「進学先決まったんだって、お母さんからうれしそうな声で電話があったよ」と私。

「お姉ちゃんにこの前からいろいろ頂き物しているのに電話もしなくてごめんね」「大学のこともこちらから連絡しなくちゃいけないのに」と妹。

進学先が決まって機嫌がよかったのかもしれない。その言葉に私はみるみる解けて癒されていくのを感じた。

現実ではないと自分に言い聞かせつつも、やはり気にかかっていたのだ。最近は「お姉ちゃん」とも呼んでもらえなくなっていたから、「お姉ちゃん」と呼んでもらえるだけでうれしい。

こんなささいなことでも、私には大事なんだな。

私の在り方はこの世のすべてを赦すという態度とはほど遠いのだった。

でも、ACIMの教えに倣って電話をかける前に不安感を手放すということを何度かやっていたため最初から不安をぶつけずに済んで、和やかなゲンジツが得られたのかもしれない。

私には子どもがいないから、甥っ子は母の唯一の孫であり未来の世への希望をつなぐ存在。

そのことだけでも妹には頭が上がらないと思ってしまう。

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

罪は攻撃の象徴である。罪をどこかに見ている限り、私は苦しむ。赦しだけが、私にキリストの心眼をもたらす手段だからである。」(L247-1-1,2)

兄弟よ、私の所にきて、あなたの姿を見せてほしい。あなたの麗しさが、私自身のそれを映し出す。

あなたの無罪性は私の無罪性である。あなたは赦されており、私はあなたとともに赦されている。」(L247-1-5,6,7,8)

このとおりだ、と抽象的概念としては理解できるけど、自分の身に具体的な事象がおこるとすぐわけがわからなくなってしまう。

目の前のことに感情が揺らぎ、『奇跡講座』の概念のほうがウソくさく思えてしまう。

どちらが真実でどちらが偽りと思えるか。心の中に切り替え装置でも付いているみたいだ。

私の無意識の恐怖と罪悪感の埋蔵量はどれぐらいのものだろう。

ワークを始めて5年余り。0.1%ほどでも手放せただろうか。

たとえ行き先は見えなくても方向はわかったのだから、磁石の指すほうを目指したい。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

2019-02-22

早くも蘭が咲いた

蘭の花が咲いた。

例年5月頃咲くのだけど、引っ越ししてから西日が入る部屋になり蘭は「咲こう」という気分になったのか。

もともと仕事で一緒に出かけた方に小さな鉢を買っていただいたもの。今ではかなり野性的に育っている。

蘭の花がほころんでいくのを見ていると春が近いと感じる。

母から甥っ子が滑り止めの大学には合格が決まったらしいと聞き、電話をしてみた。妹は外出中で甥っ子だけだった。

そこで、合格したってね、と話しつつ、送ったけどリアクションがなく気になっていたチョコのことを聞いてみた(参照:2月16日ダイアリー)

「忘れてた」と気の抜けた応え。

着いたかなと気になったからメールでもしてね、と言いながら、甥には何らの感情的こだわりがないことに気づく。

私が意識してしまっているのは妹のほうだった。

子どもの頃はかわいい、かわいいだけだったけど、大人になって妹が旅先で家族みんなに怒りをぶつけたことがあり、その姿が昔の母を思い起こさせ私の心に壁ができたのだった。

私は「許せない」と思っていた母を赦したつもりで、そうではなかった。母が老いて弱者になり丸くなったから、その感情がうずくことがなくなっていただけだったのかもしれない。

支配的に感情的に振る舞う妹にかつての母を見て、それ以来感情が揺れるようになったのだ。

認めたくないが、それは私が隠している自身の姿そのものでもあるんだろう。

また妹には別の感情もあった。

私は高校卒業して進学のため家を離れた。とにかく母から離れたかった。

一方私がいなくなった家では、思春期を迎えた妹がひとりで母のパワハラ的しつけを受け、それはかなりしんどかったらしい。パワーある妹は反抗で返したらしいが。

その「自分だけ逃げ出した」というどこか罪悪感めいたものが、妹に対してあるのだ。

妹に若かった母のおもかげを見てざわつく気持ちと、「逃げた」という感覚、両方とも「神から離れた」という原初のできごと(もちろん実際には起こってない)の、別バージョンの再現ドラマだ。

それこそが私の心に根っこがある勘違い。私が赦すべきことだ。

そうやって“分析”はできるものの、それですっきりおしまいというわけにはいかない。心の深みにある感情を表面化して手放していく時間という幻想の経過が必要だ。

親や兄弟、夫、妻といった近しい「特別の関係」は、ACIMの中でも手ごわいものなんじゃないかと思う。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

さてレッスン246。

胸に憎しみを抱いたままで神への道を見出せるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-1)

神の子を傷つけようとしながら彼の父や私の真の自己を知ることができるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-2)

自分自身を認識できないまま、父を自覚できるとか、父から私への愛や私が父に返す愛が思い描けるなどと、信じることがありませんように。」(L246-1-3)

まさに!

振り返って、最近はワークをやっていてもおざなりで上滑りしていて“エゴ主導”になっているかも、とも思った。

起きていることはすべて赦しの機会を含んでいる。

私がいろんなことを正当化して自分の赦しを遅らせることがありませんように。

知っていることを実行するだけの勇気が持てますように!

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

2019-02-20

夜な夜な英語アプリを前に大声で発音練習中

区主催のもてなし英語の講座は6回目を終えた。

「お好み焼きを外国人にどう説明する?」などという先生からのお題に、カタコトすら言葉が浮かばず、先生に当てられたらどうしよう?と毎回ビビりながらの参加だ。

でも自分から手を挙げる参加者の方が多いから座っているだけで時間が過ぎ、今日も無事終わったとほっとする。

そんなんでいいのか…。

でも日本人でもこんなにみんな流暢に話せるんだな~という“発見”は大いに刺激になった。

私もペラペラ話せるようになりた~い!

でもおカネはかけたくない。

前は無料アプリの「毎日英語」というので発音練習していたこともあるが、久しぶりに立ち上げてみたらいつの間にか毎月課金しないと使えなくなっていた。

それに代わるものと語学アプリをいろいろ見て「Real英会話」というのを買ってみた。こちらは買い切り600円なので許容範囲だ。

これが今の私には合っていた。「スピーキング」では発音をアプリが判断してくれる。正しいと判断されないとクリアできない。練習し始めてかれこれ20日。今は初級30%というレベル。

声に出して発音してどうやっても聴き取ってもらえないフレーズがいくつもある。

私はどうも「L」の発音ができていないらしく、よくひっかかる。「We'll」もまったく聴き取ってもらえない。

この練習、時間が経つのが早い。何度も却下されているうちに自然に声がでかくなる。老独女が夜ひとりアプリに向かって拙い英語のことばを繰り返す。。。の巻(^_^;)

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

私の行くところには、あなたの平安がともにあります。その光は、私が出会うすべての人に注がれます。」(L245-1-2,3)

私はその光を、惨めで孤独で怯えた人々のところへと運びます。」(L245-1-4)

…とここまで読んで、惨めで孤独で怯えた人…?

「それは私やないかい!」と心の中でツッコンでしまった。

え!?

ネガティブ卒業「ポジティブでいこう」と決意して間もないというのに、自分のことを「惨めで孤独に怯えた人」と思っていたなんて、と気づく。

そんなに急には変われないものか。

それでも、こうしてACIMに出会えてACIMを学習できるスペースが与えられて、私はとても恵まれていると思っていることも本当。ACIMのおかげで人生が行きつく先は死ではないと知り、希望の光を得た。

その昔20代の頃勤めていた会社を辞める時に上司だった方が手紙をくれた(退職時の会の際みんなの前で読んでくれた)。その手紙の中にあったフレーズを思い出した。

自助の人たれ

英語でセルフヘルプ。

自分が「惨めで孤独に怯えている人」なら、まず自分に「神の平安」を届けよう。聖霊はいつも助けてくれるだろう。

それができるようになったら、その平安の光を他の人にも届けることができるだろう。

まず自分に光を当て幸せにする。

幸せは願望というより義務に近い。

私が行くところには必ず神の平安があるのだから、私はその光をもってどこにも行ける。

その光をともにある人すべてと浴びることができるはず。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

2019-02-18

ダンベル体操のDVDを飲み込んだままのプレーヤー

筋力UP・維持のため以前やっていたDVDを見ながらのダンベル体操を再開させたいとダイアリーを書いていたのが、去年の9月。

それから毎日とはいかなかったけれど何とか週2回くらいやっていた。

が、それも昨年末DVDプレーヤーの調子が悪くなるまで。今年に入ってからは一度もやってない。

しばらくぶりにDVDプレーヤーのスイッチを入れてみた。もしや直っているかと思ったが、やはりだめ。機械に自己治癒力はなかった

ブーンと音が鳴り続け、ダンベルのDVDを飲み込んだまま開くことすらできなくなっていた。

2年前Amazonで3,500円で買ったDVDプレーヤー。やっぱり壊れるのが早い…

なかなか決断できなかったけど、やっぱり新しいの買おう。

でも、やっぱり次もAmazonの最安値を選んでしまいそうだ。

「安物買いの銭失い」ってことわざあったなぁ、と思いながら。

おカネだって幻想の最たるもんだけど、なかなか…ね。自由までの道のり遠し。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

レッスン244の主題概念も私には響くものだ。

なんだかんだ言って気づけばやはり不安と恐怖でがちがちになっていることが多いから。

言葉にして「世界のどこにいても、私に危険はない。」と言ってもらえると心強く思うのだ。

私は赦しを実践して前進するどころか、逆に幻想の不安や恐怖を強固なものとして自分の足を引っ張っているのではないか…

危険がある場所は、スクリーンじゃなくて映写機のフィルムのほう。自分の心の中なのだ。

神の中で私たちは安全である。」(L244-2-3)

ずっとこれを覚えていられたら、と思う。

この感じ方をリアルに感じられるくらい成長したい。

ACIMレッスン243-今日、私はどんな出来事も裁かない。

2019-02-16

赦し…言うは易く行うは…

「赦し、赦し」とそればかり口にしているくせに、ささいなことでもひっかかってしまう。

甥っ子にバレンタインチョコを送ったがリアクションがない。甥っ子はとても大人しく口数も少ないが、妹は高3の受験生に「余計なことを」と思っているかも。

妹の誕生日があったから2月初めには妹にもチョコを送っていたが、それに対してもまったくノーリアクションだ。

仲が悪いわけではないけれど歳が離れているのもあって、妹が家庭を持ってからあまり行き来がない。

自分が勝手に送ったくせに…しかもささやかなもの。だけど、なんだか軽んじられている気もしてしまう。

それが自分の“罪”を赦すための赦しの機会だということは知っているくせに…。

気になったなら気軽に電話すればいいだけのことだけど、それもできず。

ACIMワーク243‐今日、私はどんな出来事も裁かない。

滞っているワークについて書こうと、「今日はどこから?お題は何だっけ」と見たら(ワークをやるのとブログに書くのとの間には少しズレがある)、これだった。

今日、私はどんな出来事も裁かない。

そう…、私は裁きたくなっていたのだ。

たかだかチョコレートの受け取り連絡がないくらいで、ネガティブに振れてしまうとは…

ACIM学習者ならずとも小さすぎる。

私は大昔家庭教師をしていたお宅から結婚祝いに高価なランプをいただいたが、お礼の連絡をしそびれたという大失態をしたことがある。

実家に宅配便で送っていただいたのだがその時慌ただしかったこともあって何か紛れて連絡しそびれてしまったのだ。

こう書いているだけで未だにピリピリする。なんでできなかったんだろう。

自分がそんな大それた失礼なことをしておきながら、人には小さなことでも見咎めようとする。それが私…

レッスン243の文言は穏やかに諭す。

今の自分の理解が及ぶはずもないことを、すでに知っていると思わないようにする。知覚の断片から、全体が理解できるなどと思わないようにする。」(L243-1-2,3)

それにより私は、もともと自分にはできない判断を下さずにすむ。」(L243-1-5)

すべては赦しのために…なんだよな。

私の見方が変われば、世界も変わる。それはワークを通して何度も経験している。

私に赦すべきことがあるから、見せてもらっていることなのだ。

私は今も神とひとつなのだから、自分も他者も裁く必要はない。

色えんぴつ画

2019-02-15

会場まちがえる

今週火曜は月1の色えんぴつ画講座があった。

この一ヶ月まったく画に触らず、先月のまんま。

慌ただしく準備して向かったら、だれもいなかった!

区のサークル活動としてやっていて、AセンターとBセンターのうち会場が取れたところでやっている。その会場をまちがえてしまったのだ。

あ゛~。

先月念押しされたというのに。。汗をかきながらあたふたAからBへと移動し遅れて加わった。

ミスのない日を送りたいと思い、今日こそはと思っているが、財布を忘れたり出がけに鍵が見当たらず遅刻したりとミスばかりしている。

風景画の建物がむずかしい

先月から習っているのが風景画。

いただいた写真と手順のレジュメを元にまず青色を塗る。先生は赤、青、黄色+白黒の5色のみで描かれる。私もそれに倣っている。下描き→青→赤→黄色→黒→調整の順で色を重ねていくのだ。

建造物描くの、難しい。

“情報”が多すぎて鼻から無理と思ってしまう。

「この写真は風景画のなかではうんと簡単なほうです。だって建物に窓がないから」と先生。

たしかに。窓がたくさんあったりした日にゃお手上げだ。

自分が実際には見たことがない風景を写真から絵を描くことも気乗りがせず、なかなか進まない。

「来月は風景画の続きでも自由画でもどっちでも好きなほうを」と先生。じゃあ、途中でやめようかな、それとも苦手克服?のために最後まで仕上げるべきか?

“芸風”をつくるには?

頭のなかでイメージしたものがさらさら描けたら、楽しいだろうに。

下手とはうまいとかはさておき、自分なりの“芸風”みたいなのがあって味があるっていうの、いいなぁ。

“自分なりの味”を出せるようになるには、たくさん描くことなのか…月1度しか画用紙に向かわないって、趣味にしてもなんだかな。

ベストセラーになった『大家さんと僕』のカラテカ矢部さん、たしかあれが初漫画って言ってたけど、上手。いい味出してるなぁ。お父さんが絵本作家さんというから素養がおありなのか。

たまに自分で描いたイラストとか載せておられるブログを見ると、そういうのも素敵だなと思う。

あれは…ペンタブとかいうので描いているのかしらん?私もやってみたいな。

自由に描くということを学んでいる

教えてくださる先生が「自由に描いていいんですよ」とおっしゃるので、描くことに対する縛りが次第に解かれていく。

色えんぴつ画講座は私にとってセラピーみたい。

やっぱり私はもっと自由に表現できるようになりたくて、行っているのかもしれないな。

先生は「絵は手で描くものではなくまず目で描くもの。しっかり見ることが大事」ともおっしゃる。

この世は幻想で五官は「幻影を作り出す器官」だと言いつつ、この世の細部を観察して絵を描く。

それもおもしろいなぁと思っている。

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