奇跡講座ダイアリー

ゲイリー・レナード&シンディ・レナード夫妻ワークショップ(2019年4月14日・東京)

2019-04-15

Q&Aを交えてACIMの基本概念を復習

昨日、13日、14日と2日間にわたったゲイリー・レナード&シンディ・レナード夫妻によるワークショップが終わった。

ワークショップの内容は、神からの分離は一度も起きていない(非二元性)、私たちは今も神とともにある。だからこの世に投影して見てしまっている私たちの罪悪感や恐怖のかたちを赦して真の自分へと近づくという『奇跡講座(ACIM)』の主概念が中心だった。

“問題”はやはり私たちが、この世で投影して見ているものがあまりにもリアルだし、嫌なことはふいにやってくるので、非二元性を忘れてしまいつい幻想に巻き込まれてしまうことだ。

エゴは巧妙だし心の奥の恐怖や罪悪感は深いので、ある出来事で赦したと思っても、また次の瞬間には心が乱れてしまう。

心が乱れていると私たちの正しい道への導き手である聖霊の声が聴き取りづらくなる。

こうしたゲンジツでの困難への対処は、ゲイリーさんの新著にあるとおり、

1.まず、自分のなかでネガティブなスイッチが入っているのに気づくこと。それはエゴだから、エゴと一緒に考えたり感じたりするのをやめて、それを実在させないこと。

2.そして聖霊と一緒に考えること。聖霊は私たちがそれを信じなければ、私たちに影響を与えられないと思い出させてくれる。

3.それから霊的視覚を使って、私たちをイラつかせたり傷つけたりしたように見えた相手は肉体ではなく、完全な霊であり神の子だと見ること(出来事の場合も、自分の恐怖と罪悪感の単なる投影だと認め赦すこと)。

やっぱりこのプロセスなのだ。

知ってはいても、何度も練習が必要なのだ。

ワークショップでは、無意識の罪悪感や恐怖はゲンジツ世界ではいろいろな形でに現れるから、Q&Aがおもしろく参考になった。

あ~(赦しが難しいのは)みんな同じだな、と。

外国からあたかも母国に帰国したような

実は、ゲイリーさんに会えたこと以上にインパクトが強かったのは、同じようにACIMの学んでいる方々の世界に身を置いたことだった。

それはあたかもこれまで外国にいて言葉が通じなかったのに、いきなり母国に帰ってきたかのような感覚だった。

ACIMの世界観を当然とした上で、ACIMの主要教師であるケネス・ワプニックさんの本の話になったり書籍の翻訳の解釈の話になったり。ACIMのオンラインクラスの話やアプリの話…

いつもふわふわと浮いている感じだったけど、ここには地面があると感じた。

当然ながら、ACIMを学習している人にも、若い人あり比較的高齢の方あり、男性もいれば女性もいれば、大人しい人もキャラが立つ人も。職業も悩みもさまざま。

こうしたことすべてが、すごくエキサイティングだった。

しかも私は対人恐怖気味で籠りがちなのに、、、一度にこんなたくさんの人に会って…刺激を受けまくってぐるぐる 

あ゛~もうダメ。完全にオーバーヒート…(@_@)

聖霊の導きかエゴの大狂乱か、その両方か

帰宅後は放心状態で動けず。

テンションが上がりすぎた後の揺り戻しだろう。

テンションが上がりすぎてか、2日目にはACIMの非二元性という基本概念もどこかに行っちゃってた気がする。

ゲイリーさん、シンディさん本人を崇拝するようなことは、ACIMの基本概念から外れているんと思うけど、『神の使者』の著者でACIMの先輩で実践者だから頭を垂れたいと思うのか、この世で執着したい偶像なのかわからなくなってしまった。

最後は聖霊の導きというよりエゴの大狂乱だったかもしれない。

ゲイリーさん、シンディさんとスリーショットまで撮ってもらえてHappyだ。

お二人と写真を撮るかも、ということも思い至らず、先週行った格安カット店で「3ヶ月に一回位しかカットしないから、どーんといっちゃってください」とパッツン前髪にしてしまっていたことが多少悔やまれた。

ともかく行けてよかった。

出会ってコミュニケーションしてくれた方々にも…

ありがとう。。。<(_ _*)>

と言いたい。

ゲイリー・レナード&シンディ・レナード夫妻ワークショップ(2019年4月13日・東京)

2019-04-13

ゲイリーさんのワークショップに初参加

今日『神の使者』の著者、ゲイリー・レナードさん、シンディ・レナードさんのワークショップに参加してきた。明日も参加予定。

とっても素晴らしかった。よい時間が過ごせた。行けてよかった。

私史上最高にすなおでいた気がする(しばしば私はシニカルになる)。

ワークショップの冒頭、シンディさんがアメイジング・グレイスを歌われた。

その歌声はすばらしくクリアでやさしく、私はなぜか涙がこみあげてきてしまった。1回涙が出ると止まらなくなりタオルで拭いながら聴いた。

私は幼い頃から感情を表に出すことをよしとしておらず、いつも「問題ありませんよ」と感情にフタをしていたことに気づいた。

そのフタが解けて何かこみ上げてきたのだった。

生ゲイリーさんに単純に感激

ゲイリーさんのワークショップ初参加の私にはエキサイティングでワクワクしたことが2つあった。(もちろん、ワークショップ内で語られたゲイリーさん、シンディさんのACIMについてのお話や瞑想が今回のワークショップの中核で最も素晴らしいかったのだけど、それ以外に)

1つは、ゲイリーさんに会えたこと。

『神の使者』は、ほんとうに何度も何度も読み返している本だし、私をACIMへと導いてくれた。

その著者である生ゲイリーさんに会えた!(私は、たまたま最前列のゲイリーさんの真ん前だった)という、単純で大きな喜び。

それはミーハーで、もしかしたらゲイリーさんを身体と見てしまっているのかもしれなかったが、「ああ、この目の前にいる人が『神の使者』を9年もかけて書いたのか~」としみじみ感動した。

そして、ゲイリーさん、シンディさんのACIMに対する揺るがない姿勢に感じ入った。

会場は質素でテーブルはなくゲイリーさんらも参加者も同じパイプ椅子に座って、演出らしい演出もなく穏やかにACIMや新著についての話をなさった。

場は気負わない誠実さに満ちていたが、それは訓練されたお二人の心があってこそ作り上げられた雰囲気だと感じた。すごくなく、する。それがすごいと思った。

ACIMの学習者とACIMあるあるで盛り上がる

もう1つはACIMの学習者の方々とお話できたこと。

少し早目の時間に着いたら、ロビーに4,5人の方が待っておられた。一人で待っておられた男性に声をかけたら、静岡からお見えでゲイリーさんのワークショップは今回で3回目だとか。

「自学自習の書っていうのがすばらしいですね」とその方。

「そうですよね」と私。

お昼には、たまたま2人で入った中華屋さんにすでに10名の方がおられ参加者12名で大きなテーブルを囲んだ。

そこで赦しの実践がいかに難しいかとか、いったん赦したと思っても数分後には怒りが戻っていたとか、

ワークブックが厳しくてちゃんとやろうとするとなかなか前に進めなかったとか、あるいは最初からやりたくなるとか、etc「ACIMあるある」で盛り上がった。

私はいつもACIMの教えは、非・常識だと思って世の中に対してビクビクしていたことに気づいた。

今日のワークショップ会場では、神との分離は一度も起こっていない、この世はリアルではなく私たちはこれを赦して真実を見る、ということが、常識となっていた。

そのことが日頃無意識に身に着けていた私の防衛を解き、とても楽ちんにしたのだった。

ワークショップの中身から学んだことについては、これからゆっくり反芻しようと思う。

行けてよかった。感謝。

そうそう、昨日作ったメッセージも伝えられた。

伝わったかはわからないけど、とりあえずメモを見せながら英文を読み上げた。ゲイリーさんは私の手を取り握手してくださった。それもうれしかった。

ACIMワーク255-私はこの一日を、完璧な平安の中で過ごすことを選ぶ。

2019-04-12

ACIMワーク255-私はこの一日を、完璧な平安の中で過ごすことを選ぶ。

私は、今日、自分が平安だけを選択できるとは思えない。それでも、わが神は私に、神の子は神ご自身と同じだと保証している。

今日は、私が神の子であると語る聖霊を信じよう。」(L255-1-1,2,3)

私は神の名にかけて、父が私のために意志するものを見出すことに、一日を捧げる。」(L255-1-6)

この「4.罪とは何か」の節では、繰り返し真実を思い出させ選択するよう促す主題概念が並んでいる。

まるで「正気にかえれ、思い出せ」と肩を揺さぶられているようだ。

明日ゲイリー・レナードさんのワークショップ

ゲイリー・レナードさん&シンディ・レナードさんご夫妻のワークショップが明日に迫った。

なんかまだキツネにつままれているようなぼわんとした気分で、心の準備がおっつかない。明日ちゃんと会場に行けるだろうか。

参加するまでにゲイリー・レナードさんの新書『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読み終えたいと思っていたけれど、それもまだ途中。

この新しい本では、

奇跡講座(ACIM)を机上で学んだだけではACIMを理解したとは言えない、

赦しを実践してこそエゴを解体できる、

それこそが神と私たちを隔てているものを取り除く、

ことが強調されている。

私はACIMを学んでいるつもりで、実は赦しの機会から逃げていた。

『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読んで、それではせっかくACIMに出会ったのに遠回りをしていると感じた。

またACIMの核となる純粋な非二元性が、眼前の人の存在を否定するような気がして、周りの人にACIMについて話すこともできなかった。

けれど、それではACIMを生きていることにはならない、堂々と非二元性を話せるようになろうとも感じた。

生身のACIM学習者に会うの初めてだ

私は2013年からACIMのワークブックをやっていて、大畑学さんのACIM解説本を読んだり、このブログにコメントをいただいたりしてACIMを学習されている方々の存在に触れることができた。

だけど直接ACIMに関心を持っていたり学習されている方を見る(へんな言い方だけど)のは、明日が初めてだ(あ゛~、私は同胞を肉体として見ている)。

おととい着た開講前のご案内メールには、

「当日の受付は混雑が予想されます。
 時間に余裕を持ってご来場ください。」とある。

『神の使者』を読みACIMに関心を持っている方がそんなに大勢いるのか!

その方々に会える。

それにもドキドキする。

きのうのワンコインイングリッシュ講座終了後、先生にゲイリーさんへ向けて作った短いメッセージを添削してもらった。これを伝える機会があるかわからないけれど…

「For me, your book "D.U" is the most important book I've ever read.

If I can take one thing with me to a deserted island,I would bring your book!

Thank you for writing it.」

(あなたの著書『神の使者』は私がこれまで読んだ最も大事な本です。もし無人島に何か一つだけ持っていくとしたら、この本を持っていきます。『神の使者』を書いてくださってありがとう。)

えっ、1冊持ってくなら、『奇跡講座』じゃないの!?

というツッコミがあるかもしれないけど。

私は自分にとってわかりやすい『神の使者』のほうかな~

今晩の思いーここまで導いてくれた聖霊さんにもっと素直になろう。

『イエスとブッダが共に生きた生涯』

2019-04-10

『イエスとブッダが共に生きた生涯』-イエスとブッダの転生のおはなし

注文していたゲイリー・レナードさんの新著『イエスとブッダが共に生きた生涯』が手元に届き、おとといから読んでいる。

まだ1/4くらいだけど、…おもしろい!

イエスとブッダの(ゲンジツでの)転生のおはなし。

「紀元前700年頃に
二人は日本ですでに出会っていて神道を 学んでいた」とは…!!

ゲイリーさんの日常とパーサとアーテンという二人のアサンディッド・マスターとの会話をベースに展開されたこれまでの3冊とはまた趣きが異なるテーマがある。

これが、『奇跡講座』(奇跡のコース、ACIM)とどうつながっていくのか。

序文の「『奇跡のコース』について著者より」の筆圧の強さ!

この転生のおはなしは興味深いが、私はまず序文の「『奇跡のコース』について著者より」に圧倒されていた。

これまでゲイリーさんの本は、『奇跡講座』(奇跡のコース、ACIM)の教えをわかりやすく説明してくれているけれど、ボリュームがありすぎそのいたるところに重要箇所があって、エッセンスというか要約というかそういうものがあれば…(もっと復習しやすいのに)、と思っていた

私にとっては、この「『奇跡のコース』について著者より」がそれに該当する気がした。

この部分だけを繰り返し読んでも、思い出せることがたくさんあると思う。

そしてゲイリーさんの『奇跡講座』に対する姿勢がより濃く鮮明になっていると感じた。

「あなたは、Your Course in Miracleを生きますか~?」

まだ途中ながら私が文中で反応したところは、p73のゲイリーとアーテン、パーサの会話の中のゲイリーの言葉、

「実に多くの『コース』の生徒が『また一つ赦しの機会があった』というとね。そんなとき彼女(ジャッキー、ゲイリーの義理の姉妹)は『それでちゃんと赦したの?』と聞き返すんだって。」

あわあわ (・・;)

これは、まさに私に当てはまる。

「あ、やだな」が来たと思うと、せっかくの赦しのチャンスなのに、ヤバいと思って逆に心にフタをして赦しの機会の“在庫化”しちゃうのだ。

自分の心のなかの幻想の在庫を減らすのが赦しなのに、私は気づけば先送りばかりしている。

「赦した」ときでさえ、ほんとはもっともっと大きな赦しの機会だったはずが、私が意識のお皿に乗せることができたのは、ほんのちょびっとなのだ。

ゲイリーさんの新著は、私にはなんだか“踏み絵”を差し出されている気がした。

あなたは、Your Course in Miracleを生きますか~?

それとも頭で学んだふりだけして、Your Course in Miracleを生きるのはやめておきますか~?

と。

ふーっ、

大きなため息が出た。

そしから、ドリームジャンボ宝くじのCMに出ていた鶴瓶さんのイメージが出てきてCMのせりふもどきを言った。

[caption id="attachment_5915" align="aligncenter" width="432"] ドリームジャンボ宝くじ 「楽屋で宝くじ」篇より[/caption]

「(My Course in Miracle)… 生きないという選択肢はないやろ。」

しかし…あの鶴瓶さんの顔わるそうだったよな~

ブログを、http→httpsにSSL化するも

2019-04-09

ブログのセキュリティ強化にトライ

3月に出たWeb環境に関する基礎知識の講座で、http…で始まるサイトアドレスをhttps…に(SSL化というらしい)しなけらばならないという話を聞いた。

httpとhttps、違いはたった一文字だけど、、中身は大きく異なるらしい。サイトと利用するユーザー間でのやりとりが暗号化されているか否か、httpsのほうは暗号化されて送信されるとか。

よくわからないけれど、https化されていないとGoogleは「安全でないサイト」と判断する、だから「https化しなければならない」と教わった。

https化が必要というのはわかった。

けど、どうやって??

ネットで調べてみたら、ありがたいことに情報はいろいろあった。

で、先週末「Wordpressサイトをhttpからhttps化する方法【対応手順を丁寧に説明】」というドンピシャリの記事に沿って、次の手順をひとつずつやっていった。

①バックアップ取得

②サーバーでSSLの設定

③WordpressのURL設定

④内部リンクをすべてhttpsに書き換える

⑤.htaccessを利用した301リダイレクト

どれもよくはわからないけど、丁寧に説明してくださってて、見よう見まねでなんとか最後までできた。

⑤の手順までやったら、前のhttps://acim-diary.comというアドレスで訪れた方も、自動的にhttps化したhttps://acim-diary.comへと転送されるのだとか。

でも、でも、作業を終えた後「https://acim-diary.com」というアドレスを入れてみたら、転送されずに「Example Domain」というエラーメッセージが出てしまった。

うまく最後までできなかった、エラーメッセージ出てる…

どこが間違えているの?

手順をおさらいし、エラーメッセージの原因をネット情報で探してみたけど、私ではわからず。。。( _ _ )..........

『奇跡講座』というニッチ分野の、しかも『奇跡講座ダイアリー』などという学習記録ブログをチェックしてくださる方はいないかもしれないけれど、

もし、立ち寄ってくださって、エラーメッセージが出ていたら、やだな~とそわそわした(もし、そういう方がいらっしゃったら、申し訳ありません)。

今日再び見てみたら、ノートパソコンではうまく転送されてサイトも表示されたけど、デスクトップパソコンのほうはダメだった。

インターネット内のことなのに、なんでパソコンによって違うんだろ?

とりあえず私の手には負えない、と有償でプロの方に相談している最中。

だけどこのWordpressサイトの問題はこれだけじゃないもんな~

ホームページやWordpressのこと勉強したいと思っているけど、その気持ちだけで世間には追っつけてない。。

頑張るっていってもセンスがないとね~なんて、始める前から思ってしまう私。

こういうことも聖霊さんの導きでどうにかなる、って思っているけど、どうかな。

何かと時代の進化についていけてない拙いブログだけど、このブログが続けられますように…

ゲイリー・レナードさんのワークショップ来週だ…

2019-04-05

ゲイリーさんのワークショップ来週に迫る

気づけばすでに4月も5日。

ちょっぴり慌ただしく&気枯れ気味で意識を向けることができないでいたけど、『神の使者』の著者ゲイリー・レナードさんの東京ワークショップが来週に迫っている。

『神の使者』は「無人島に本を1冊持っていくとしたらどれか」と聞かれたら、「これ」と答える本だし、『神の使者』から始まる彼の3冊の本は繰り返し読んでいる。

私の『神の使者』は付箋、マーカーだらけだ。

その私にとってこのイベントはとっても大事。せっかくの機会。心身の調子を整えて、著書も再び読みとおして準備してから臨みたいところ。

でももう来週。初動が遅い…

申し込みをしただけで、ワークショップの時間や場所をはじめ詳細も見てなかった(大好きな本の著者なのに、実際ワークショップに参加したり会ったりというイメージが追いつかず…)。

で、ようやくもう一度、ワークショップ概要のサイトを見る。

ひゃ~、新刊本も知らなくて(・・;)

今回の来日ワークショップでは、彼の最新本『Lifetime when Jesus and Buddha knew each other(邦題:イエスとブッダが共に生きた生涯)』にまつわるお話をされる…とある。

あ゛…前の本を読むより、この新刊本読んでかなくっちゃ。

というか、まず買わなくちゃ。

こういうこともまったく抜け落ちていて、本当に著者を慕っているのか我ながら疑わしくなる。

…、今なんとかAmazonマーケットプレイスに出ていた中古本を注文した。

どうせ何度も読んで傷やへこみができるのだから、中古本で十分なのだ。火曜日着とか。

それまでに、これまでの本少しでも読みたい。

私ったら、後手後手に回っている。

ゲイリーさんにお目にかかれるのはうれしいのだけど、そのワークショップが自分のもたらすだろう変化が、ちょっぴり怖いのかな。

怖がっているとしたら、それはエゴだ。

ACIMワーク254-私のなかで神以外の声がすべて静まりますように。

2019-04-04

春キャベツを買って…

春らしいよいお天気。早朝から開いているスーパーで買物。

春キャベツが100円。

安い。キャベツ、おいしいよね、からだにもいいし、とカゴに入れる。

他にもバナナやヨーグルト、納豆、ホッケの干物などぐるっと回ってカゴに入れレジでお会計。

商品を袋に入れながらふとレシートを見ると、あれっ、キャベツが180円になってる。

ちがうよ。100円だったよ。

そのお店はちょいちょいレジの間違いがある。またか。

で、申告する前に、キャベツの売り場に確認に行ったら、あら不思議。

値札はレシートどおり「180円」になっている。

でも、さっきはたしかに「100円」だった。

私が買い物カゴに入れた時より、キャベツがどーんと増えている。店員さんが今朝入荷分を店頭に並べ、それから「今日の値段」を付けたらしい。値札は何枚も重なっている。

あ゛、だったら、入ったばかりの新鮮な180円のをもらえばよかった…

…と。

こ~んなささいなことでも、一瞬「あ゛」と思う私。これはリアルではないのにね。

幸いキャベツと80円の差額だったからすぐ気を取り直し帰った。

けど、事故とかトラブルに巻き込まれたら、完全に『奇跡講座』を忘れ自分の目先の損得に固執してしまうだろう。

ACIMワーク254-私の中で、神の声以外の声がすべて静まりますように。

今日、私たちは、自分の言葉や行為が自我の考えに支配されないようにする。

そのような考えが生じたら、静かに後ろに退いてそれらを見つめ、その後、それらを手放す。」(ワークブックL254-2-1,2)

そうそう、自我の考えに支配されないこと!

でも何かが起こっているときにはしばしば何が自我の考えか、何がそうでないか(聖霊による見方か)、わからなくなる。

で、自分が「正しい」と思い込んで前のめりになる。

その時、この世のゲンジツをすべて自分が作っていることはまったく忘れている。

だれかが真実を教えてくれても、それを理解するスイッチがオフになっている。

私ったら、気づけば、

神さまを信じることが結果的にはすべてを満たすのに、自我の声を重んじて自分の邪魔ばかりしている、とよく思う。

脆弱なACIM学習者だ。今のところ。

何事も練習、訓練なんだろうけど。だからこうしてワークをやっているんだけど。。

ワークったって、気がはやって神を感じられるまで心を鎮めることができないことが多い最近。

これじゃあな。

どうか…

私の中で、神の声以外の声がすべて静まりますように!

ACIMワーク253-私の自己は、宇宙の支配者である。

2019-04-03

皇居近くでのお花見ランチ

新年号「令和」の発表翌日、友だちと皇居周辺でお花見&ランチした。

3月30日~4月7日まで皇居乾門通りの一般公開だったこともあって、皇居から千鳥が淵周辺はたいへんな人出だった。

昨日はあいにく曇り空で、色がつくかつかないかという微妙な桜のピンク色はくすんで見えた。

どちらかというと友だちとのおしゃべりがメインで桜を堪能するという感じではなかったけど、年に一週間だけの桜の花のいのち。帰宅後、もっともっと間近で見上げればよかった、と思った。

日本人のDNAなのか?…やっぱり桜が好きなのだ。

ゲンジツの刺激にすぐわからなくなってしまう私

私はひとりで静かに『奇跡講座』の世界に浸っているときは、穏やかで気分よく『奇跡講座』が指し示す神の世界こそリアルだと感じていられるのだけど、イベントや外出で刺激を受けたりだれかと長時間一緒にいたりすると、すぐこの世界の刺激の強さにのまれてしまい、わけがわからなくなってしまう。

妹が泊まりに来ていろいろ昔のことや母のことなどおしゃべりして無意識が動いたのか、あるいはイベントの人出に当たったのか、妹が帰った後疲れきってしまい、一日ぼーっとしていた。

『奇跡講座』を学んでいるといったところで、それは人里離れた一軒家のひとり暮らしみたいに外部からの刺激が少なく“守られた”環境でのみ言えることで(そこでも大いなる自然の刺激、影響がある)、普通の環境ではまったく身についていないのかもしれない。

赦しだって頭の中だけで考えていることで、実践はできていないのかもしれない。

…すぐ自分がだれだかわからなくなってしまう。

落ち着いてリズムを整え、自分が聖霊に導いてもらっている神の延長であることを思い出したい。

ACIMワーク253-私の自己は宇宙の支配者である。

私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。

この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。

私の身に起こることは、私が望んでいることである。

生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。」(L253-1-1,2,3,4)

そうなのだな~

すべて自分が見ているものは、自分が見せているものなのだ。

私はだれかや何かに巻き込まれているわけではない。

自覚はないが、すべて私自身が作って見せているゲンジツなのだ。

この真実もまたすぐ忘れてしまうから、ちょいちょい思い出すようにしよう。

『奇跡講座』を勉強している(思い出している)ときは、この世の今のささやかなことや瞬間的なことはリアルではないから…リアルを見ようと投げ打ってしまうことが多いけれど、もっと大らかでもいいかもな。

桜はやっぱり美しく心惹かれるし、新年号騒ぎはかわいくも見える。

そういう一つひとつが今からだをもって生きているってことだ。

そこを否定することが『奇跡講座』だと思っていたけど、それはそれ。執着さえしなければ、楽しんでいいのかもしれない。

妹とハンドメイドマーケットへ

2019-04-01

さいたまスーパーアリーナのハンドメイド展へ

妹とさいたまスーパーアリーナで開催されたハンドメイドマーケットなるものに一緒に出かけた。その晩はうちに泊まり、翌日は近くにある日帰り温泉施設へというコース。

妹とは8コ歳が離れ、実家で会ったり妹宅に泊まるということはあっても、大人になってから二人だけで一緒に出かけるとかいうことはほとんどなくて、ちょっぴりドキドキ。

息子の大学進学が決まってほっと一息…なのかな、泊まりたいと言ってくれた。

ハンドメイドマーケットには、アクセサリー、バッグ、インテリア小物、洋服などたくさんの手作り品ブースが出ていて、すごい人、人、だった。中に入るまでも行列でびっくり。出品ブース約1700、来場者見込み4万人なのだとか。

出品されているものは私がイメージする「手づくり」より、ずっとずっとこなれた感じで洗練されていた。

手づくり=ダサいではだめなんだ。名刺やプライスカードの表記、ディスプレイ法、接客までそれぞれ工夫されていた。また手づくりのものを作るための素材や機械、ディスプレイのための商品を売る業者さんのブースもあって、「手づくり、手づくり感」という一大マーケットが存在していた。

なにより、出品者の方々、みんな熱があるな~と感心した。

こういうのはオリジナル性が大事だし、世の中にないものを作りたいとイメージして実際に作る、それをいくつも作る、それを売ろう、売るために値づけしたりパッケージしたり名刺やパンフレット作ったり…えらいなぁ。すごいなぁ。

妹はイヤリングやバッグなどいろいろ買っていたけど、私はまったく買わず。でも出品されたものや人、来ている人を見ているのが面白かった。

久しぶりの焼き肉、たった二日で遠のく『奇跡講座』

夜は私の希望で焼き肉屋さんに。肉は体に良くないかと思い何年か食べない時期があったけど、たまに無性に食べたくなることがある。

勢いづいて?イノシシ肉、羊肉、鹿肉までいただいてしまった。満足。

子どものこと、仕事のこと、飼っている犬のこと、近所のこと、自分がやっているインスタグラムのこと…妹は会ってからずっとおしゃべりしている。ひとりでいすぎて話すことがヘタになっている私とは大違い。

ハンドメイドマーケットでも出品者にも気軽に話しかける。二日間とても賑やかだった。

同じような環境で育っても、まったく違う。当り前か。

二日間自分の日常や『奇跡講座』とは遠い感覚で過ごして、妹が帰ったあとぼーっとしてしまっていた。

家族があり専門職の勤めを持ち、家事をして、休みにはフィットネスに行き、犬の散歩に行き、インスタグラムでコミュニケーションして、ハンドメイドマーケットで雑貨を楽しんで買い…という妹は、すごく真っ当な人間な気がした。

一方私は…

たった二日妹といただけで『奇跡講座』をリアリティがなくぼんやりしたものに感じた。

社会から逃げる口実みたいなツール、“負け犬の遠吠え”ならぬ、“負け犬の尻尾巻き”なんじゃと…

『奇跡講座』本来の在り方はそうではないと思うけど、私にとってはそういう側面もあるのかもしれない。

またしばらく一人でいたら感覚が変化するんだろうけど。

令和時代が始まる…

久しぶりに本屋さんで新しい本を買う

2019-03-29

ショーケンも逝く…か

新年号の発表間近の昨夜。ショーケンこと萩原健一さんが亡くなられたとのニュースが流れた。

自分が子どもの頃から輝いていてすごいと思っていたスターが亡くなるのは寂しいものだ…最近そういうことが格段に増えた。

やはり一つの時代の終わりを迎えたのだ…

それは新しいものを迎える際の必然だ。そうやってこのゲンジツの世は回っているのだから。

いくらこの世は回り灯篭から映される絵のようなものだと言っても、寂しいな。。

歳を重ねるって、なじみのある人や物、やり方が消えていって、なじみが薄い人や物、やり方が増えていくことなのね。時代の変化についていけてない…(>_<)

新しい本でWordpressの勉強をします

このブログはWordpressというサイトづくりのシステムを使って作っているけれど、よくわからないまま書籍に付いていたテンプレートを使って作った。

Wordpress自体が更新されていくしこれからも使っていくなら、そしてネットでこれから収入を得ることを考えるならやはりWordpressの勉強しなきゃと参考本を買うことに。

それで大きな本屋さんに出かけた。

新しい本を買うということも、本屋さんで本を買うことも、久しぶり。最近は本もメルカリとかで買っていたのだ。

今回ばかりはどれが今の自分のレベルやニーズに合っているか、中身を見て比較検討しなきゃ、と大型書店に来た。

で、4,5冊の中身を見て、選んだのが、

『はじめてのブログをワードプレスで作るための本』

Wordpressでブログを作り始めて4年目だというのに、いろいろ見た挙句、今の自分のレベルに合う本がこれだなんて…、なさけないものがある。

図書館にないのか(2019年3月1日発売の本でなかった)、本の最初に記載してある設定とかはもう済んでいるんだけど。。

う~む、と迷ったが、他の本と見合わせて、今の私はここからだという結論にいたった。

最初は、ざっと見てメルカリで売っちゃおうかな、と折り目をつけないように丁寧にページをめくっていたが、

「えーい、めんどくさい、こんな他人行儀じゃ勉強にならん」と、ガッツリ折り目も付けて向き合うことにした。

もともと機械的なことに弱いうえに、家族もいないしコミュニケーション下手で若い層との接点もなく、更新したわいいけど新機能の使い方がわからないだの、バックアップしたのをどう戻すだの、一人で悪戦苦闘している。

これでネットというものがなかったら、完全にお手上げだ。

取っ掛かりの先生はやっぱりGoogle先生。

ネットにいろんな情報載っけてもらって、えらい助かっている。内気なひとり暮らしには欠かせない。

かといって、商品をリアルに見ることができるお店もやっぱり大事。久しぶりの本屋さんはどこか懐かしくもあり楽しかった。

聖霊さんに導かれながらも、身体の私はここで今日も一喜一憂したり試行錯誤したりしている。

これもまた楽し。

ACIMワーク252-私のアイデンティティーは神の子である。

2019-03-27

主題概念から初めての占い体験を思い出す

また少しワークをやる日とそれをダイアリーブログに書く日にかい離が…。本来ならばワーク体験を記録できればと思っていたけど、たいしたメモもなくどんなふうに感じたのか思いだしづらい。

なので…

私のアイデンティーは神の子である。」この主題概念を見て、今思い出したこと。

むかーし、むかーし、18歳の頃、初めて高校からの友だちとラフォーレ原宿に行き、そこで初めての占いをした。

その頃のラフォーレはできたばかりで田舎育ちの私にはすごくキラキラして見えた。いくつかある占いブースのうち和風なおばさま占い師の前に座って、ドキドキしながら言われることを待った。

言われた(覚えている)のは、

・お母さんとの関係(相性?)に問題アリ

・非常に信心深い

の二つ。

友だちは「おっとりとして見えるたまちゃんに『お母さんとの関係が良くない』って見抜くってすごいね!」とコーフン気味だったのを覚えている(私は母親のグチをよく言っていたのだ)。

私は、「信心深い」のほうに「えっ?」とびっくりしていた。

18歳の女のコ(当時!)をつかまえて「信心深い」とは…!?と。

占い師さんは「宗教に入るとかそういうことじゃなくて、神さまに対する信心があるということですよ。」と補足された。

幼い頃や若い頃のことをほとんど覚えていない私がこれを覚えているのは、言われた内容が驚いたのとどこか刺さったからなんだろう。

そもそも占いを信じるかどうか、ってことがあるけれど。ラフォーレでの占い初体験は、なかなか衝撃的だった。

占いの答え合わせ!?

今40年近くたって、たしかに宗教組織に入ったことはないけれど、またキリスト教系短大で聖書の授業があったにも関わらずそれには全然なじまなかったけれど、『奇跡講座』に出会って今もつながっているということは、ある意味信心深いのかな~とも思う。

「お母さんとの関係に問題アリ」のほうはずいぶん改善した。

私の自己の聖性は、今の私が考えつくあらゆる聖性の概念を超えたものである。

そのきらめくような完璧な清らかさは、これまで見たどんな光よりもはるかにまばゆく輝いている。」(L252-1-1,2)

ゲンジツの私は自己チューで怖がりで…怠け者。

清らかさとはほど遠いけれど、そのカケラがどこかにあるならそこに手を伸ばしたい。

それにしても時間も錯覚だというけれど、40年の何と短いこと!

私を占ってくださった占い師さんは、当時すでに50歳を超えているように見えたが、今はどうしておられるだろう。

「深い信心があるのよ」…と時空を超えてもう一度言われたような気がした。

「私のアイデンティティーは神の子である。」かぁ…

まだ高らかに宣言するまでには至らないけど…

平成のおわりにー 生前退位という天皇の大きな功績

2019-03-26

来週新元号発表、平成もいよいよフィナーレ

いよいよ来週月曜日に新年号が発表される。

「平成」もいよいよフィナーレのカウントダウン。

平成から新元号へ。そして翌年の東京オリンピックへ、と世の中全体が郷愁と期待感が入り混じりややハイになっている気がする。

私も寂しいような感慨深いような気分。歳を重ねた人ほど期待より感慨のほうが大きいのかもしれない。

元号というのは、リアルではないゲンジツのなかのさらにリアルではない記号だ。

何かの本で権力者は時を支配する、と読んだ。今の時代天皇は権力者ではないが、天皇や年号が人々の無意識やイメージに大きな影響を与えそれが社会を動かすというは想像できる。

天皇家は日本の国民の投影の大きな受け皿なのだ。

国民に敬愛されている天皇、皇后陛下

現天皇皇后両陛下は国民にたいへん敬愛されていると思う。

私も齢を重ねられて被災地慰問や海外への訪問を始めたくさんの公務に当たられている映像を見て、頭が下がり心を打たれる。

それは天皇だから、というより、自ら象徴を背負いエゴを排して国民(他者)に尽くされ国民(他者)の幸福を祈っておられる、その姿に感銘しているのではないだろうか。

それでもやはり天皇という身分(立場)があってこそのありがたさなのだが。

生まれながらにして「国の象徴」としての生き方が決められるというのはたいへんなことだ(まず、国自体が見えないものでその象徴って何だ、と悩む)。

それを祈りをもって見事にまっとうされた。私なんかの想像をはるかに超える大変さ、辛抱、葛藤や苦しみがあったのではないかなと思う。

退位されてすこしゆっくり休めるのだろうか。そうだといいのだけど…

生前退位という天皇の大功績

私は現天皇のたくさんの功績(この言葉遣いが妥当かわからないけれど)の中でも、生前退位なさったことが最も大きな功績の一つだと思っている。

退位するということによって、天皇というのはその人にぴったりくっついた「身分」なのではなく、「役割」や「仕事」のようなものだと社会に認知させたから。

「天皇」=象徴という役割があって、それを私はやってきましたよ~、私=天皇ではないんですよ~という宣言のようにも感じる。

これは天皇制という慣習の世界にあって、きわめて「民主的でリベラル」とも言えるのではないだろうか。

天皇は生まれながらにして「天皇」に定められている。それって「職業選択の自由」とか憲法に反しているんじゃ、、と検索してみたら、「天皇制は憲法上、憲法が認めた例外」とされているとのこと。

だから天皇の人権は多少制限されてもやむを得ないとされているのだそう。「憲法上、憲法が認めた例外」っていうのも突き詰めるとよくわからない。

『奇跡講座』学習者が天皇について書くのは

自分の身体も含めてこの世のすべてを幻想として見る『奇跡講座』の学習者として、この社会の中での幻想とも言える天皇や天皇制について感じることを書くのは、夢のなかで夢のはなしをしているみたいに変な感じだ。

天皇制って正直よくわからない。一方、私は現天皇にとても尊敬を感じる。

そういえば、、私が「天皇」を初めて意識したのは、幼稚園の時。

昭和天皇、香淳皇后が富山県内の国道8号線を車で通られるからとお見送りをした時だった。

園児みんなが旗を振って車を見送ったのだ。

車が通りすぎるのを見るために幼稚園を挙げて道端でずっと待機しているのは、幼い子に「身分」を教えこむのに有効だった。

私は昭和天皇崩御の日会社に喪服(黒いワンピース)を着ていき、同僚に驚かれた。

日本という国に生まれ物心ついた時から親しんでいる天皇や天皇制は私の無意識にもしっかり根付いていると感じる。

ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

2019-03-25

桜満開直前

今朝のウォーキングでの桜。満開直前。

写真の撮り方ヘタで桜の色の美しさが伝わらないけど。

一年に一度、一週間の華麗で切ない桜ショーが始まる。

あの薄ピンクの薄い薄い花びらに生と死が凝縮されているから、こんなに人を魅了するんだろうな~

ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

レッスン251ー「私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だった。」(L251-1-1)から説明が始まる。

見つけたのは絶望、オンリー!? いや~、そこまでひどいとは思っていなかったけど。

奇跡講座(ACIM)が「一般向けではない」「万人のニーズを満たすものではない」と言われるのは、こういうところだろう。

大前提としてゲンジツの世の否定がある。

私たちはこの世と人間を、「いろいろあるけれど善いものだよ」と捉えることから、人生(と思えるもの)をスタートさせる。

その人生のなかで、「頑張れば報われるんだよ」と教えられ「だから頑張れ」と教育される。

あながちそうとは言えないことは大人になってわかるけれど、それを言っちゃあおしまいなのだ。

そうやって、この世の中と折り合いをつけて、幸せを見つけることが人間の命題なのだと思い込んでいる。

そして、学業を終え仕事を見つけ、伴侶を獲得し子孫をもうけ、映画や音楽を楽しみスポーツに興じ、旅をして自然を愛で、人生を豊かなものにしようと頑張っている。

そういうささやかな「大変な頑張り」を、ACIMは全否定しているかのように見える。

それだから、この人生に成功し満足している人より、そういうグループには入らなかった人のほうが、ACIMを学びやすい傾向にあると言われるのかもしれない。

人生に満足している人は、努力して頑張って手に入れたものがリアルではないなどという“たわごと”は、到底受け入れられないだろう。

私はうまく行っているほうではないし、ACIMの教えはすばらしいと思っているけれど、それでも「見つけたのは絶望だった」とバッサリ切られるとひっかかる。

桜の美しさもそうだし先週行われたフィギュアスケート世界選手権での頂上決戦での演技もそうだし(女子も男子も)、美しくて感動的なものもいっぱいあるよー、と言いたくなる。

真理とこの世の美しさは両立するのか

こう書いてきて、ふっと、前にくさちゃんがブログで言っておられたことを思い出した。

3月初旬に私がゲーリー・レナードさん来日ワークショップ発見の日記を載せた時、2年前京都ワークショップに参加された際のブログの感想を紹介してくださったのだ(くさちゃんのブログ:2017年5月7日の記事より)。

「外部の事柄として感覚化されているものは
心の投影と言われていて。

このワークショップと、会場の美しい背景が
自分の心の投影だとしたら。

それはステキなことだな、と僕も思うのです。」

…そう見たら、この世に絶望せずに何かを見て美しい、素敵だと感じられることは、やっぱり素敵なことだな、と思っていいのかな、と思えた。

私は真理を必要としている。

だけど、それはこの世の美しさをすべて投げ捨てなければいけないものではない。

真理の中ですべてがかわる。レッスン251にも、

今、私は自分に必要なすべてをもっている。

今、ほしいものすべてをもっている。

そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。」(L251-1-7,8,9)

とある。

やがてやがて、真理の見る術が身に付いたら、この世はすべて私の安らかさの投影となるのかな。私は安らかさと美しさしか感じられなくなるんだろうか。

そういう景色を見てみたい。

ACIMワークブック第Ⅱ部‐4.罪とは何か

2019-03-22

罪とは何か

罪とは狂気である。」(第2部、4-1-1)から始まるこの節。

罪とは狂気…。そう言われてもなかなか難しい。

私たちは神から離れたと思い込み(誤解)、そのことに深い深い罪悪感を感じているがために逃げ場所としてこの宇宙を作った。 (さらに…)

「クマのプーさん展」に行ってきた&絵本『光のテーブル』

2019-03-21

「クマのプーさん展」に行ってきた

きのう渋谷文化村で開催している「クマのプーさん展」に行ってきた。


私が絵本づくりに興味があると話したこともあって、チケットを持っていた友だちが誘ってくれたのだ。

「クマのプーさん」は、イギリス人の作家A.A.ミルンが1920年代に発表した児童小説。挿絵はE.H.シェパードで二人の共同制作によるものだ。

英国ヴィクトリア&アルバート博物館からの原画が多数展示されていて、ディズニーと契約する前の最初のプーさんのデッサンや主要な登場人物、森の地図なども展示してあった。


登場人物を8名(匹)と人間が一度に認識できると言われる7前後に合わせ、その中にネガティブキャラのロバを加えるあたり、最初からある意味“戦略的”にうまく設計されていると感じた。

最初のキャラクターのデッサンは鉛筆でのラフスケッチで、そうやっておはなしができていくんだな~ととっても参考になった。

プーさんの後ろ姿、とくにおしりの丸みがとってもかわいくて、やっぱり丸いって魅力だよね、小熊のサイズ感もいいよね、と話しあった。

展示会後ランチを取りながら、近況や最近の関心事などいろいろ話した。

友だちは私が『奇跡講座』なるものに熱心なのは知っているが、その内容まではよく知らない(私が話していない)。

私は『奇跡講座』を素晴らしいものだと思っていてそれを伝えたい気持ちがあるけれど、難しいし万人向けとは言えないので、そのエッセンスみたいなものを含んだ易しいおはなしみたいなものを作りたいと思っているんだけど、と話した。

友人はいろいろ質問してくれたりアドバイスしてくれたりした。

私は話しながらも、絵も文も自分でつくるのはパワーの要ることだし、私には未だ『奇跡講座』を伝える覚悟もない。何かやるとしても『奇跡講座』とは関係しないおはなしからかな、などと考えていた。

貴乃花の絵本「光のテーブル」、おおっー

その夜ご飯を食べた後何気にテレビを見ていたら、「今日貴乃花があらたな職を発表する」とかやっていた。

見るでもなしに見ていたが、その職業はなんと「絵本作家です」と発表され、

えっ、絵本作家!?

とびっくりした。

今後の夢で番組上のネタみたいなものかな、と思っていたら、その後すでにできあがっているという絵本が発表され、貴乃花さんが自ら朗読、という流れになった。

『光のテーブル とっても大切なカエルのおはなし』という本。

絵を担当したのは、あのパラパラ漫画で有名なお笑いタレントの鉄拳さんだという。

今、ネットで検索したら絵本がそのまんまYoutube、鉄拳公式チャンネルに載っていた。

飛ぶのが得意なカエルの子が、自分の力を見せたいと母の反対を押し切って、隣の国のカエルとびコンクールに向かうお話。

すごくすごく頑張ってカエルとびコンクールで優勝するまでになり、欲しいものはすべて手に入れた。だけどだけど満たされなくて…。

おはなし、すごくいい。

鉄拳さんの絵もすごい…素敵。

聖書の「放蕩息子」のお話と被る部分もあり、私がそういう見方で見るからか、神の家に戻るという『奇跡講座』のエッセンスが含まれているようにも感じた。

つい15歳で相撲界に弟子入りした貴乃花さんの人生と重ねちゃって泣けてきちゃうところもある。

「絵本作ってみたいな」と漠然と思いつつなーんにもしていない私。

なーんにものしていないのに、敗北感。

いやなーんにものしていないから、敗北感なのか。

何に敗北している気がするかというと、やっぱり「表現する」ということに対してかな。

絵本のつくりかたやその可能性について、いろいろと刺激を受けた一日だった。

← 戻る

←古い記事を見る 新しい記事を見る→