ACIMワーク258-私の目指すゴールは神であると、思い出せますように。
2019-05-01
ACIMワーク258-私の目指すゴールは神であると、思い出せますように。
今朝、久しぶりにウォーキングに行った。昨日からの雨が上がり露にぬれたツツジが清々しかった。
ツツジ… 5月だな。
というか令和! (さらに…)
奇跡講座を日々ゆっくり学習しています。そこから感じたことや日常のことを書いてます。
『奇跡講座』 ワークブック
2019-05-01
今朝、久しぶりにウォーキングに行った。昨日からの雨が上がり露にぬれたツツジが清々しかった。
ツツジ… 5月だな。
というか令和! (さらに…)
2019-04-18
ゲイリー・レナードさんのワークショップでいつになくテンションが上がってしまった翌日はぼわーんとしてしまっていた。
元々外交的なほうじゃない上に近年こもっているから、一人で初めてのところに出かけていくこと自体ハードルが高かったようだ。 (さらに…)
2019-04-12
「私は、今日、自分が平安だけを選択できるとは思えない。それでも、わが神は私に、神の子は神ご自身と同じだと保証している。
今日は、私が神の子であると語る聖霊を信じよう。」(L255-1-1,2,3)
「私は神の名にかけて、父が私のために意志するものを見出すことに、一日を捧げる。」(L255-1-6)
この「4.罪とは何か」の節では、繰り返し真実を思い出させ選択するよう促す主題概念が並んでいる。
まるで「正気にかえれ、思い出せ」と肩を揺さぶられているようだ。
ゲイリー・レナードさん&シンディ・レナードさんご夫妻のワークショップが明日に迫った。
なんかまだキツネにつままれているようなぼわんとした気分で、心の準備がおっつかない。明日ちゃんと会場に行けるだろうか。
参加するまでにゲイリー・レナードさんの新書『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読み終えたいと思っていたけれど、それもまだ途中。
この新しい本では、
奇跡講座(ACIM)を机上で学んだだけではACIMを理解したとは言えない、
赦しを実践してこそエゴを解体できる、
それこそが神と私たちを隔てているものを取り除く、
ことが強調されている。
私はACIMを学んでいるつもりで、実は赦しの機会から逃げていた。
『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読んで、それではせっかくACIMに出会ったのに遠回りをしていると感じた。
またACIMの核となる純粋な非二元性が、眼前の人の存在を否定するような気がして、周りの人にACIMについて話すこともできなかった。
けれど、それではACIMを生きていることにはならない、堂々と非二元性を話せるようになろうとも感じた。
私は2013年からACIMのワークブックをやっていて、大畑学さんのACIM解説本を読んだり、このブログにコメントをいただいたりしてACIMを学習されている方々の存在に触れることができた。
だけど直接ACIMに関心を持っていたり学習されている方を見る(へんな言い方だけど)のは、明日が初めてだ(あ゛~、私は同胞を肉体として見ている)。
おととい着た開講前のご案内メールには、
「当日の受付は混雑が予想されます。
時間に余裕を持ってご来場ください。」とある。
『神の使者』を読みACIMに関心を持っている方がそんなに大勢いるのか!
その方々に会える。
それにもドキドキする。
きのうのワンコインイングリッシュ講座終了後、先生にゲイリーさんへ向けて作った短いメッセージを添削してもらった。これを伝える機会があるかわからないけれど…
「For me, your book "D.U" is the most important book I've ever read.
If I can take one thing with me to a deserted island,I would bring your book!
Thank you for writing it.」
(あなたの著書『神の使者』は私がこれまで読んだ最も大事な本です。もし無人島に何か一つだけ持っていくとしたら、この本を持っていきます。『神の使者』を書いてくださってありがとう。)
えっ、1冊持ってくなら、『奇跡講座』じゃないの!?
というツッコミがあるかもしれないけど。
私は自分にとってわかりやすい『神の使者』のほうかな~
今晩の思いーここまで導いてくれた聖霊さんにもっと素直になろう。
2019-04-04
春らしいよいお天気。早朝から開いているスーパーで買物。
春キャベツが100円。
安い。キャベツ、おいしいよね、からだにもいいし、とカゴに入れる。
他にもバナナやヨーグルト、納豆、ホッケの干物などぐるっと回ってカゴに入れレジでお会計。
商品を袋に入れながらふとレシートを見ると、あれっ、キャベツが180円になってる。
ちがうよ。100円だったよ。
そのお店はちょいちょいレジの間違いがある。またか。
で、申告する前に、キャベツの売り場に確認に行ったら、あら不思議。
値札はレシートどおり「180円」になっている。
でも、さっきはたしかに「100円」だった。
私が買い物カゴに入れた時より、キャベツがどーんと増えている。店員さんが今朝入荷分を店頭に並べ、それから「今日の値段」を付けたらしい。値札は何枚も重なっている。
あ゛、だったら、入ったばかりの新鮮な180円のをもらえばよかった…
…と。
こ~んなささいなことでも、一瞬「あ゛」と思う私。これはリアルではないのにね。
幸いキャベツと80円の差額だったからすぐ気を取り直し帰った。
けど、事故とかトラブルに巻き込まれたら、完全に『奇跡講座』を忘れ自分の目先の損得に固執してしまうだろう。
「今日、私たちは、自分の言葉や行為が自我の考えに支配されないようにする。
そのような考えが生じたら、静かに後ろに退いてそれらを見つめ、その後、それらを手放す。」(ワークブックL254-2-1,2)
そうそう、自我の考えに支配されないこと!
でも何かが起こっているときにはしばしば何が自我の考えか、何がそうでないか(聖霊による見方か)、わからなくなる。
で、自分が「正しい」と思い込んで前のめりになる。
その時、この世のゲンジツをすべて自分が作っていることはまったく忘れている。
だれかが真実を教えてくれても、それを理解するスイッチがオフになっている。
私ったら、気づけば、
神さまを信じることが結果的にはすべてを満たすのに、自我の声を重んじて自分の邪魔ばかりしている、とよく思う。
脆弱なACIM学習者だ。今のところ。
何事も練習、訓練なんだろうけど。だからこうしてワークをやっているんだけど。。
ワークったって、気がはやって神を感じられるまで心を鎮めることができないことが多い最近。
これじゃあな。
どうか…
「私の中で、神の声以外の声がすべて静まりますように!」
2019-04-03
新年号「令和」の発表翌日、友だちと皇居周辺でお花見&ランチした。
3月30日~4月7日まで皇居乾門通りの一般公開だったこともあって、皇居から千鳥が淵周辺はたいへんな人出だった。
昨日はあいにく曇り空で、色がつくかつかないかという微妙な桜のピンク色はくすんで見えた。
どちらかというと友だちとのおしゃべりがメインで桜を堪能するという感じではなかったけど、年に一週間だけの桜の花のいのち。帰宅後、もっともっと間近で見上げればよかった、と思った。
日本人のDNAなのか?…やっぱり桜が好きなのだ。
私はひとりで静かに『奇跡講座』の世界に浸っているときは、穏やかで気分よく『奇跡講座』が指し示す神の世界こそリアルだと感じていられるのだけど、イベントや外出で刺激を受けたりだれかと長時間一緒にいたりすると、すぐこの世界の刺激の強さにのまれてしまい、わけがわからなくなってしまう。
妹が泊まりに来ていろいろ昔のことや母のことなどおしゃべりして無意識が動いたのか、あるいはイベントの人出に当たったのか、妹が帰った後疲れきってしまい、一日ぼーっとしていた。
『奇跡講座』を学んでいるといったところで、それは人里離れた一軒家のひとり暮らしみたいに外部からの刺激が少なく“守られた”環境でのみ言えることで(そこでも大いなる自然の刺激、影響がある)、普通の環境ではまったく身についていないのかもしれない。
赦しだって頭の中だけで考えていることで、実践はできていないのかもしれない。
…すぐ自分がだれだかわからなくなってしまう。
落ち着いてリズムを整え、自分が聖霊に導いてもらっている神の延長であることを思い出したい。
「私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。
この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。
私の身に起こることは、私が望んでいることである。
生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。」(L253-1-1,2,3,4)
そうなのだな~
すべて自分が見ているものは、自分が見せているものなのだ。
私はだれかや何かに巻き込まれているわけではない。
自覚はないが、すべて私自身が作って見せているゲンジツなのだ。
この真実もまたすぐ忘れてしまうから、ちょいちょい思い出すようにしよう。
『奇跡講座』を勉強している(思い出している)ときは、この世の今のささやかなことや瞬間的なことはリアルではないから…リアルを見ようと投げ打ってしまうことが多いけれど、もっと大らかでもいいかもな。
桜はやっぱり美しく心惹かれるし、新年号騒ぎはかわいくも見える。
そういう一つひとつが今からだをもって生きているってことだ。
そこを否定することが『奇跡講座』だと思っていたけど、それはそれ。執着さえしなければ、楽しんでいいのかもしれない。
2019-03-27
また少しワークをやる日とそれをダイアリーブログに書く日にかい離が…。本来ならばワーク体験を記録できればと思っていたけど、たいしたメモもなくどんなふうに感じたのか思いだしづらい。
なので…
「私のアイデンティーは神の子である。」この主題概念を見て、今思い出したこと。
むかーし、むかーし、18歳の頃、初めて高校からの友だちとラフォーレ原宿に行き、そこで初めての占いをした。
その頃のラフォーレはできたばかりで田舎育ちの私にはすごくキラキラして見えた。いくつかある占いブースのうち和風なおばさま占い師の前に座って、ドキドキしながら言われることを待った。
言われた(覚えている)のは、
・お母さんとの関係(相性?)に問題アリ
・非常に信心深い
の二つ。
友だちは「おっとりとして見えるたまちゃんに『お母さんとの関係が良くない』って見抜くってすごいね!」とコーフン気味だったのを覚えている(私は母親のグチをよく言っていたのだ)。
私は、「信心深い」のほうに「えっ?」とびっくりしていた。
18歳の女のコ(当時!)をつかまえて「信心深い」とは…!?と。
占い師さんは「宗教に入るとかそういうことじゃなくて、神さまに対する信心があるということですよ。」と補足された。
幼い頃や若い頃のことをほとんど覚えていない私がこれを覚えているのは、言われた内容が驚いたのとどこか刺さったからなんだろう。
そもそも占いを信じるかどうか、ってことがあるけれど。ラフォーレでの占い初体験は、なかなか衝撃的だった。
今40年近くたって、たしかに宗教組織に入ったことはないけれど、またキリスト教系短大で聖書の授業があったにも関わらずそれには全然なじまなかったけれど、『奇跡講座』に出会って今もつながっているということは、ある意味信心深いのかな~とも思う。
「お母さんとの関係に問題アリ」のほうはずいぶん改善した。
「私の自己の聖性は、今の私が考えつくあらゆる聖性の概念を超えたものである。
そのきらめくような完璧な清らかさは、これまで見たどんな光よりもはるかにまばゆく輝いている。」(L252-1-1,2)
ゲンジツの私は自己チューで怖がりで…怠け者。
清らかさとはほど遠いけれど、そのカケラがどこかにあるならそこに手を伸ばしたい。
それにしても時間も錯覚だというけれど、40年の何と短いこと!
私を占ってくださった占い師さんは、当時すでに50歳を超えているように見えたが、今はどうしておられるだろう。
「深い信心があるのよ」…と時空を超えてもう一度言われたような気がした。
「私のアイデンティティーは神の子である。」かぁ…
まだ高らかに宣言するまでには至らないけど…
2019-03-25
今朝のウォーキングでの桜。満開直前。
写真の撮り方ヘタで桜の色の美しさが伝わらないけど。
一年に一度、一週間の華麗で切ない桜ショーが始まる。
あの薄ピンクの薄い薄い花びらに生と死が凝縮されているから、こんなに人を魅了するんだろうな~
レッスン251ー「私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だった。」(L251-1-1)から説明が始まる。
見つけたのは絶望、オンリー!? いや~、そこまでひどいとは思っていなかったけど。
奇跡講座(ACIM)が「一般向けではない」「万人のニーズを満たすものではない」と言われるのは、こういうところだろう。
大前提としてゲンジツの世の否定がある。
私たちはこの世と人間を、「いろいろあるけれど善いものだよ」と捉えることから、人生(と思えるもの)をスタートさせる。
その人生のなかで、「頑張れば報われるんだよ」と教えられ「だから頑張れ」と教育される。
あながちそうとは言えないことは大人になってわかるけれど、それを言っちゃあおしまいなのだ。
そうやって、この世の中と折り合いをつけて、幸せを見つけることが人間の命題なのだと思い込んでいる。
そして、学業を終え仕事を見つけ、伴侶を獲得し子孫をもうけ、映画や音楽を楽しみスポーツに興じ、旅をして自然を愛で、人生を豊かなものにしようと頑張っている。
そういうささやかな「大変な頑張り」を、ACIMは全否定しているかのように見える。
それだから、この人生に成功し満足している人より、そういうグループには入らなかった人のほうが、ACIMを学びやすい傾向にあると言われるのかもしれない。
人生に満足している人は、努力して頑張って手に入れたものがリアルではないなどという“たわごと”は、到底受け入れられないだろう。
私はうまく行っているほうではないし、ACIMの教えはすばらしいと思っているけれど、それでも「見つけたのは絶望だった」とバッサリ切られるとひっかかる。
桜の美しさもそうだし先週行われたフィギュアスケート世界選手権での頂上決戦での演技もそうだし(女子も男子も)、美しくて感動的なものもいっぱいあるよー、と言いたくなる。
こう書いてきて、ふっと、前にくさちゃんがブログで言っておられたことを思い出した。
3月初旬に私がゲーリー・レナードさん来日ワークショップ発見の日記を載せた時、2年前京都ワークショップに参加された際のブログの感想を紹介してくださったのだ(くさちゃんのブログ:2017年5月7日の記事より)。
「外部の事柄として感覚化されているものは
心の投影と言われていて。
このワークショップと、会場の美しい背景が
自分の心の投影だとしたら。
それはステキなことだな、と僕も思うのです。」
…そう見たら、この世に絶望せずに何かを見て美しい、素敵だと感じられることは、やっぱり素敵なことだな、と思っていいのかな、と思えた。
私は真理を必要としている。
だけど、それはこの世の美しさをすべて投げ捨てなければいけないものではない。
真理の中ですべてがかわる。レッスン251にも、
「今、私は自分に必要なすべてをもっている。
今、ほしいものすべてをもっている。
そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。」(L251-1-7,8,9)
とある。
やがてやがて、真理の見る術が身に付いたら、この世はすべて私の安らかさの投影となるのかな。私は安らかさと美しさしか感じられなくなるんだろうか。
そういう景色を見てみたい。
2019-03-22
「罪とは狂気である。」(第2部、4-1-1)から始まるこの節。
罪とは狂気…。そう言われてもなかなか難しい。
私たちは神から離れたと思い込み(誤解)、そのことに深い深い罪悪感を感じているがために逃げ場所としてこの宇宙を作った。 (さらに…)
2019-03-19
私自身を、限られた者として見ないためには、目の前の人を限られた者と見ないことが絶対条件だ。
分離を映し出す世の中では、自分と他者を切り離し「自分ではない○○が悪い」と考えることで、心の均衡を保っている。
それが無意識のくせになっていて、自分ではない「悪い」人を見つけて批判する。
その間だけは無意識の罪悪感を自分からそらすことができるから、楽になった錯覚がする。
だけどその作用は長くは続かないから、新たなターゲットを批判することが必要になる。
まるでドラッグやなんかの依存症のようだ。
批判依存。
それは他でもない自分がかかっている病で、遠くのことには観念的に考えられるが、自分自身が巻き込まれたことだと、ささいなことでも瞬時に批判の刃を持って身構えてしまう。
そうしたクセを治していくには、どんどん他者と触れ合って他者と自分を分けない、他者のなかに神の子だけを見る訓練をする必要があるんだろうなぁ、と思う。
奇跡講座についてのブログを初めて3年。かなり内向きな日々だったけど、そろそろちょっと外向きになってもいいんじゃ?
私は赦しどころか、奇跡講座の理くつだけ学んで脆弱なエゴをガードするスーパーエゴを作り上げてしまっているんじゃ…と、しばしば思う。
そして聖霊が導く正しい見方を学んだ自己の部分から、スーパーエゴとして“成長”したエゴが、そっちには行かすもんか、と引っ張っているんじゃ?
あ゛
私、ちぎれちゃうよ。。<(;゚_゚;)>
考えすぎかな?これも頭の中での見解。
畳の上での水泳練習はそろそろやめて水に入らなきゃ。
とすれば、いろんな方と交わって、
「彼の中の神聖な光を陰らせ、彼の強さが衰えて虚弱となるのを見ようとするのはやめよう。
また、彼の中に欠乏を知覚して、それを理由に彼の主権を攻撃しようとするのはやめよう。」(L250-1-2,3)
を実践することだ。
エゴが猛反発しないように、そろりそろり。徐々に徐々に。
2019-03-15
何かにつけて体力気力が乏しい(と思っている)私には土日と講習が続くのは負荷がかかりすぎるみたい。ちょっと調子を崩していた。大量の花粉飛散(>_<)の影響…もあるかもしれない。
おととい確定申告を終えた。ほっとした。
今年はいつもにない不動産譲渡取得税(不動産を買った時よりも高く売った場合にかかる税金、これが関わってくるのはありがたいこと)の申告という作業があったから。
売買を仲介してくれた不動産屋さんはもう済んだ取引には親身ではなく、所轄の税務署も個別の相談までは受けられないとのことだった。
ネットで調べてたたき台を作り、他社の不動産税務無料相談会に申し込みいろいろ教わった。
相談会で対応してくださった税理士さんは、「これ、うちで仕事として受けたらお母様と二人分で40万円はいただきます」
それを無料相談会だからと親身に教えてくださった。おかげで、何とか自分で書類を作成して終わらせることができた。
ACIMでこの世の幻想性、おカネの幻想性を学んではいるものの、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私には、こういうことは圧倒的なリアルさを持って立ちはだかってくる(ように見える)。
もっともっと学習が進んだら、たいしたリアルさではなくなるんだろうけど、それにはまだまだ赦しの実践が足りない。
そうそう、カルチャー講座仲間からバレンタインチョコのお返しというわけじゃないだろうけど、ホワイトデーに手作りの肉じゃがをいただいた。
タッパーを新聞紙でくるみ、その気取らなさがあったかかった。
肉じゃが久しぶり、おいしかった!私よりうんと上品な味付けだな。東京の肉じゃがは豚肉だと聞いていたけど、これは牛だった。
「赦しが描き出す世界では、苦しみは終わり、損失は不可能となり、怒りは意味をなさない。攻撃は過ぎ去り、狂気には終わりがくる。
そのとき、どのような苦しみがありえるだろう。
世界は喜びと豊かさと慈愛に溢れ、いつまでも与え合う場となる。」(L249-1-1~5)
書き映してしまった。
こういう世界をどこか知っているという記憶があるから、ACIMに惹かれたんだろうと思う。
私はACIMの理くつは素晴らしいと思っているけど、赦したくない、赦しの機会に直面したくないと思っている節もあるなと自己分析する。
赦しを実践してこそのACIMだ。
このワークをやっていたのは3月の初めでその頃のワークメモを見てみたら、メモらしいメモはなく、
ただ「疲れていると思い込んでいるだけで、私は疲れてはいない。」という走り書きがあった。
ん?どういうことだ?
私は自分を身体だと見ているから、こんなに疲れやすいんだろうか。
「ゲイリー・R・レナードさんのワークショップ申し込んだ!」
「気が上がってしまい落ち着くことができなかった」
とのメモもあった。
そうそう、気が上がってしまったついでになのか、クレジットカード落っことした。再発行手続き…。あ゛~やはり私はマヌケだった。
もちろんこれも、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私の出来事で、大勢に影響はないことなんだろうけど。
疲れと支離滅裂。一回落ち着きたい。
2019-03-01
昨日一昨日とほとんど休眠状態の自社の確定申告作業でばたついていた。嫌なことを先延ばししてぎりぎりにならないとできない性格は未だ直らない。
2月中旬ペンタブ欲しいと言っていたが、気づいたら買ってた。
メルカリで不用品を売った「売上金残」があり、ペンタブってどんながあるのかなと見てたら、ついポチっとしてしまったのだ。4,000円位。
メルカリで売ってメルカリで買う循環経済。売るのも買うのも手数料10%だからメルカリっていい商売してる。
ペンタブ使いこなせるかわからないのもを新品でまで買おうとは思えないし、もし新品買うならちゃんと検討しなきゃと買うまでには至らないだろうから、これでよかった。
でも、こういうものに、もはや使用説明書って付いてないんだな~(説明書はあるにはあるが設定の説明のみ)、
これ、どうやって使うんだろ?
私に使えるかな?
一年のうちでこの季節がもっとも苦手だ。
自社の確定申告で自分の無能さ、無力さ加減をを痛感するから。
こんなに豊かで自由でIT化に伴って無料で個人が使えるツールもたくさん出ているというのに、なんで何らか自分なりのプチ事業さえできないのか。。。
言ってみれば、なさけなさと罪悪感。
悩んでいる気もするし、悩んでいない気もする。
「苦しんでいる 主体は、私の一部ではない。」
そう。
ACIMでは何かに苦しんでいる、悩んでいるなら、それはあなたの見方が間違っているという。
神の子である私たちには、本来愛と喜び、幸福以外はありえないはずだ。それ以外を感じているとしたら、それはあなたが幻想をリアルにしているということだ。
なので、私はここ数年「悩み」を大っぴらに言えない。
「悩み」はこれを「悩み」として相談してしまうと「リアル」にしてしまうと思っているのだ(ブログではついつい書いてしまうが)。
友達にはどうでもいい悩みしか口にしづらい。
「苦痛を感じているのは、私の心の中の幻想にすぎない。」(L248-1-5)
「今、私は自己概念や、聖なる神の子についての欺瞞や虚言を、放棄する。」(L248-1-7)
これを実践しようと思っている私と、
気づけば苦痛や悩み事について考えてしまっている私。
それをまたゲンジツに向けて自力で努力することはせず心の中で手放そうと試みる。
ああ、こんなんでいいのか。。。
この世をリアルにせずにこの世と絡み合わない生き方って、なかなか理解されないだろう。私もそれでうまくいっているとは言えないから人に言いづらいなと思っている。
ACIMを前進しているのか、
はたまた世逃げ度と怠け者度を増しているだけなのか。
2019-02-25
枯れた木に新芽が出ている。3月近し。いよいよ春到来の気配。
甥っ子が第3希望の大学に進学が決まったと母から電話。「あんたも電話してやりなさい」。
先日甥と話してからも妹から連絡があったわけじゃないし、電話しても機嫌が悪かったらヤダなと若干気が重かったけど電話した。
今度は妹もいた。
「進学先決まったんだって、お母さんからうれしそうな声で電話があったよ」と私。
「お姉ちゃんにこの前からいろいろ頂き物しているのに電話もしなくてごめんね」「大学のこともこちらから連絡しなくちゃいけないのに」と妹。
進学先が決まって機嫌がよかったのかもしれない。その言葉に私はみるみる解けて癒されていくのを感じた。
現実ではないと自分に言い聞かせつつも、やはり気にかかっていたのだ。最近は「お姉ちゃん」とも呼んでもらえなくなっていたから、「お姉ちゃん」と呼んでもらえるだけでうれしい。
こんなささいなことでも、私には大事なんだな。
私の在り方はこの世のすべてを赦すという態度とはほど遠いのだった。
でも、ACIMの教えに倣って電話をかける前に不安感を手放すということを何度かやっていたため最初から不安をぶつけずに済んで、和やかなゲンジツが得られたのかもしれない。
私には子どもがいないから、甥っ子は母の唯一の孫であり未来の世への希望をつなぐ存在。
そのことだけでも妹には頭が上がらないと思ってしまう。
「罪は攻撃の象徴である。罪をどこかに見ている限り、私は苦しむ。赦しだけが、私にキリストの心眼をもたらす手段だからである。」(L247-1-1,2)
「兄弟よ、私の所にきて、あなたの姿を見せてほしい。あなたの麗しさが、私自身のそれを映し出す。
あなたの無罪性は私の無罪性である。あなたは赦されており、私はあなたとともに赦されている。」(L247-1-5,6,7,8)
このとおりだ、と抽象的概念としては理解できるけど、自分の身に具体的な事象がおこるとすぐわけがわからなくなってしまう。
目の前のことに感情が揺らぎ、『奇跡講座』の概念のほうがウソくさく思えてしまう。
どちらが真実でどちらが偽りと思えるか。心の中に切り替え装置でも付いているみたいだ。
私の無意識の恐怖と罪悪感の埋蔵量はどれぐらいのものだろう。
ワークを始めて5年余り。0.1%ほどでも手放せただろうか。
たとえ行き先は見えなくても方向はわかったのだから、磁石の指すほうを目指したい。
2019-02-22
蘭の花が咲いた。
例年5月頃咲くのだけど、引っ越ししてから西日が入る部屋になり蘭は「咲こう」という気分になったのか。
もともと仕事で一緒に出かけた方に小さな鉢を買っていただいたもの。今ではかなり野性的に育っている。
蘭の花がほころんでいくのを見ていると春が近いと感じる。
母から甥っ子が滑り止めの大学には合格が決まったらしいと聞き、電話をしてみた。妹は外出中で甥っ子だけだった。
そこで、合格したってね、と話しつつ、送ったけどリアクションがなく気になっていたチョコのことを聞いてみた(参照:2月16日ダイアリー)。
「忘れてた」と気の抜けた応え。
着いたかなと気になったからメールでもしてね、と言いながら、甥には何らの感情的こだわりがないことに気づく。
私が意識してしまっているのは妹のほうだった。
子どもの頃はかわいい、かわいいだけだったけど、大人になって妹が旅先で家族みんなに怒りをぶつけたことがあり、その姿が昔の母を思い起こさせ私の心に壁ができたのだった。
私は「許せない」と思っていた母を赦したつもりで、そうではなかった。母が老いて弱者になり丸くなったから、その感情がうずくことがなくなっていただけだったのかもしれない。
支配的に感情的に振る舞う妹にかつての母を見て、それ以来感情が揺れるようになったのだ。
認めたくないが、それは私が隠している自身の姿そのものでもあるんだろう。
また妹には別の感情もあった。
私は高校卒業して進学のため家を離れた。とにかく母から離れたかった。
一方私がいなくなった家では、思春期を迎えた妹がひとりで母のパワハラ的しつけを受け、それはかなりしんどかったらしい。パワーある妹は反抗で返したらしいが。
その「自分だけ逃げ出した」というどこか罪悪感めいたものが、妹に対してあるのだ。
妹に若かった母のおもかげを見てざわつく気持ちと、「逃げた」という感覚、両方とも「神から離れた」という原初のできごと(もちろん実際には起こってない)の、別バージョンの再現ドラマだ。
それこそが私の心に根っこがある勘違い。私が赦すべきことだ。
そうやって“分析”はできるものの、それですっきりおしまいというわけにはいかない。心の深みにある感情を表面化して手放していく時間という幻想の経過が必要だ。
親や兄弟、夫、妻といった近しい「特別の関係」は、ACIMの中でも手ごわいものなんじゃないかと思う。
さてレッスン246。
「胸に憎しみを抱いたままで神への道を見出せるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-1)
「神の子を傷つけようとしながら彼の父や私の真の自己を知ることができるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-2)
「自分自身を認識できないまま、父を自覚できるとか、父から私への愛や私が父に返す愛が思い描けるなどと、信じることがありませんように。」(L246-1-3)
まさに!
振り返って、最近はワークをやっていてもおざなりで上滑りしていて“エゴ主導”になっているかも、とも思った。
起きていることはすべて赦しの機会を含んでいる。
私がいろんなことを正当化して自分の赦しを遅らせることがありませんように。
知っていることを実行するだけの勇気が持てますように!
2019-02-20
区主催のもてなし英語の講座は6回目を終えた。
「お好み焼きを外国人にどう説明する?」などという先生からのお題に、カタコトすら言葉が浮かばず、先生に当てられたらどうしよう?と毎回ビビりながらの参加だ。
でも自分から手を挙げる参加者の方が多いから座っているだけで時間が過ぎ、今日も無事終わったとほっとする。
そんなんでいいのか…。
でも日本人でもこんなにみんな流暢に話せるんだな~という“発見”は大いに刺激になった。
私もペラペラ話せるようになりた~い!
でもおカネはかけたくない。
前は無料アプリの「毎日英語」というので発音練習していたこともあるが、久しぶりに立ち上げてみたらいつの間にか毎月課金しないと使えなくなっていた。
それに代わるものと語学アプリをいろいろ見て「Real英会話」というのを買ってみた。こちらは買い切り600円なので許容範囲だ。
これが今の私には合っていた。「スピーキング」では発音をアプリが判断してくれる。正しいと判断されないとクリアできない。練習し始めてかれこれ20日。今は初級30%というレベル。
声に出して発音してどうやっても聴き取ってもらえないフレーズがいくつもある。
私はどうも「L」の発音ができていないらしく、よくひっかかる。「We'll」もまったく聴き取ってもらえない。
この練習、時間が経つのが早い。何度も却下されているうちに自然に声がでかくなる。老独女が夜ひとりアプリに向かって拙い英語のことばを繰り返す。。。の巻(^_^;)
「私の行くところには、あなたの平安がともにあります。その光は、私が出会うすべての人に注がれます。」(L245-1-2,3)
「私はその光を、惨めで孤独で怯えた人々のところへと運びます。」(L245-1-4)
…とここまで読んで、惨めで孤独で怯えた人…?
「それは私やないかい!」と心の中でツッコンでしまった。
え!?
ネガティブ卒業「ポジティブでいこう」と決意して間もないというのに、自分のことを「惨めで孤独に怯えた人」と思っていたなんて、と気づく。
そんなに急には変われないものか。
それでも、こうしてACIMに出会えてACIMを学習できるスペースが与えられて、私はとても恵まれていると思っていることも本当。ACIMのおかげで人生が行きつく先は死ではないと知り、希望の光を得た。
その昔20代の頃勤めていた会社を辞める時に上司だった方が手紙をくれた(退職時の会の際みんなの前で読んでくれた)。その手紙の中にあったフレーズを思い出した。
「自助の人たれ」
英語でセルフヘルプ。
自分が「惨めで孤独に怯えている人」なら、まず自分に「神の平安」を届けよう。聖霊はいつも助けてくれるだろう。
それができるようになったら、その平安の光を他の人にも届けることができるだろう。
まず自分に光を当て幸せにする。
幸せは願望というより義務に近い。
私が行くところには必ず神の平安があるのだから、私はその光をもってどこにも行ける。
その光をともにある人すべてと浴びることができるはず。