『奇跡講座』 ワークブック

レッスン7-私は過去だけを見ている

2016-05-29

5月最後の日曜日。今日も何とかワークを終了。

今日のお題は、「私は過去だけを見ている。」

たとえば、コップひとつを見ている時でも、私たちはコップにまつわる過去の体験や過去学んだ観念を反芻しているにすぎない、という。すべての目にするものは、過去からのつながりで存在し、知らず知らずのうちに過去のフィルターをかけて見ている。

今日のワークでは、目にしたものすべてにランダムに、

このパソコンの中に、私は過去だけを見ている。

この服の中に、私は過去だけを見ている。

この体の中に、私は過去だけを見ている。

と今日のお題を適用する。まだ数分のワークを1日3回なので、ついていけている。

今日の午後は、友人と風月堂の甘味処で落ち合った。

奥まった直線が喫茶室は、美しい和モダンな空間。薄暗く間接照明を活かした作りは洞窟のようで外に面した大きな窓には水が循環して滝のように落ちていた。ほっこり落ち着けるいいところだった。

メニューをう~む、と見て、煎茶とか抹茶にしようかな、と思っていたけど、最後に写真入りのあんみつの誘惑に負けた。

余計なものが入ってない自然なあんこの甘みと黒蜜が絡んだ寒天。おいしかった。

甘いものって理屈抜きにしあわせ気分になれるなぁ。

このあんみつの中に、私は過去だけを見ている。

食べてるときは、そんなこともすっかり忘れてた。

ゲンキンなものだ。しばしこの幻想を楽しもう。

 

レッスン6ー私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである

2016-05-28

「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」

これまでのワーク同様、まず心の中に怒りや恐れ、心配ごと、憂鬱といったかたちで表れる「動揺」とその「原因」と思うものを探索する。

その後、それに主題概念を、

私が      について腹を立てているのは、存在しない何かを見ているからである。

私が      について心配しているのは、存在しない何かを見ているからである。

といったようにあてはめる。

これを1回数回、1日3~4回やる。

今日は、このワークに3回意識を向けるのが、やっとだった。

最初の十数個のワークは、時間もかからず生活への「負荷」も小さい。進むにつれ、次第にワークの内容が深くなりボリュームも大きくなり、ACIMを生活の中心に据えなければならなくなっていく。

今回はもう、やっとこさ、ワークをやっているという感じだ。この先、大丈夫か。

3年前のレッスン6のワークでは

ふと思いついて、2013年6月の初回ワークのレッスン6のメモを見てみた。

「私がおカネを稼げないことを不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」('_')…なんか、今と変わんない。逆に言えば、同じような状態で生き延びていることが奇跡的にも思えてくる。

「私が高齢になった故郷の両親のことについて心配しているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについては、父は昨年亡くなり、状況は3年前とは大きく変わった。父との別れは私が存在しない何かを見ているからにせよ、私には大きな動揺であり出来事だった。それは今も続いている。

「私が今の生活が前進なのかそれとも退化なのか不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについても、今と変わらないというか…「前進」と「退化」が対義語になっていない気がするけど、この感覚そのものは、わかるような気がする。こつこつとACIMのワークをやっていても、それがゲンジツの誰かに役に立つことではないし、おカネにつながることでもないし、人には理解されないだろうし、私は、もしかしたら、現実逃避の言いわけにワークを使っているだけなのではないのか、という気持ちになることがある。

3年前の自分に比べたら、感情的に穏やかになったように思うけど、目に見えて変わったとも思わない。だけど、やっぱり進化している、自分にとっては前進だ、と思っているからこそ、また改めてやろうとしているんだろうな~

他の道はないし、無視して生きることはできないし。

これからもたびたび3年前の私のメモを見返して、変わったところ、変わらないところを見つけたい気がしている。3年ひと昔だな~

 

レッスン6

2016-05-28

「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」

またこれまでのように、心の中に、怒りや恐れ、心配ごと、憂鬱感などとして感じられる「動揺」とその「原因」を探索する。

それから、それらについて今日の主題概念を、

私が、      について腹を立てているのは、存在しない何かを見ているからである。

私が、      について心配しているのは、存在しない何かを見ているからである。

といったふうに、当てはめる。

今日は、このワークに3回意識を向けるのが、やっとだった。

最初の十数個のワークは、時間もかからず生活への「負荷」も小さい。進むにつれ、次第にワークの内容が深くなりボリュームも大きくなり、ACIMを生活の中心に据えなければならなくなっていく。

今回はもう、やっとこさ、ワークをやっているという感じだ。この先、大丈夫か。

3年前のレッスン6では

ふと思いついて、2013年6月の初回ワークのレッスン6のメモを見てみた。

「私がおカネを稼げないことを不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」('_')…なんか、今と変わんない。逆に言えば、同じような状態で生き延びていることが奇跡的にも思えてくる。

「私が高齢になった故郷の両親のことについて心配しているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについては、父は昨年亡くなり、状況は3年前とは大きく変わった。父との別れは私が存在しない何かを見ているからにせよ、私には大きな動揺であり出来事だった。それは今も続いている。

「私が今の生活が前進なのかそれとも退化なのか不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについても、今と変わらないというか…「前進」と「退化」が対義語になっていない気がするけど、この感覚そのものは、わかるような気がする。こつこつとACIMのワークをやっていても、それがゲンジツの誰かに役に立つことではないし、おカネにつながることでもないし、人には理解されないだろうし、私は、もしかしたら、現実逃避の言いわけにワークを使っているだけなのではないのか、という気持ちになることがある。

3年前の自分に比べたら、感情的に穏やかになったように思うけど、目に見えて変わったとも思わない。だけど、やっぱり進化している、自分にとっては前進だ、と思っているからこそ、また改めてやろうとしているんだろうな~

他の道はないし、無視して生きることはできないし。

これからもたびたび3年前の私のメモを見返して、変わったところ、変わらないところを見つけたい気がしている。3年ひと昔だな~

レッスン4

2016-05-26

「これらの考えには何の意味もない。それはこの部屋に見えているものと同様である」

約1分間心の中をよぎる考えを注視して、上記の主題概念をそれらの考えにあてはめる。その際、その考えの「よい」「わるい」は区別しない、というワーク。

これは、「無意味なものを自分の外側に見て、意味あるものを自分の内側に見ることを学ぶという長期目標における最初の試み」だと記されている。

私は、明日締め切りの仕事がちゃんと納期を守ってしっかり仕上げられるか不安でならない。今週ずっとやっているけど、なかなかまとまらないのだ。

…で、ワークで心の中をよぎる考えを覗いてみたら、

「仕事間に合うか、時間ない…!」「ちゃんとやりたい、わかりやすく、なるたけシンプルで美しく」「明日中に送らなきゃ」が、渦巻いていた。

「仕事のレジュメづくりについてのこれらの考えには何の意味もない、それは私がこの部屋の中に見ているものと同様である」

とワークをした後、やっぱり今の私には意味ある、というか、今は何とかこれをクリアしなくては…と仕事に戻っていった。

今日3回このワークをしたけど、やっぱり今は、仮初めのゲンジツであっても、仕事をクリアすることが大事。

何とか今日中に目処をつけたい。

レッスン2

2016-05-24

昨日スタートしたワークブック2日目。今、目にしているゲンジツの見方の「解体」の続き。

昨日のテーマは、

「このテーブルには何の意味もない」「この手には何の意味もない」「このパソコンには何の意味もない」…

だったが、今日はそれを進め、

「このテーブルに、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」「この本に、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」「この足に、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」と目にしたものすべてにランダムに適用する。

これも、あっという間に終わった。

ワークはだんだん心理的に時間的に負荷がかかるものになっていく。

せっかく始めたのだから、最後までやりたい。あまり頑張りすぎず、だけど、止めてしまうことなく、ぼちぼちいこう。

ワーク2巡目を開始

2016-05-23

レッスン1

なんとかブログを定着させたいと思っているけど、まだまだ…。とにかく今日も書こう。

ACIMのワークブック2巡目を開始した。レッスン1だ。

ACIMの「ワークブック」は1日1課、全部で365のレッスンから構成されている。

「1日に1レッスン以上進もうとしないように」という決まりがあるが、これは初めてワークを行う場合に限られると思う。ワークブックの中で複数のレッスンを復習していることもあるから…。

とは言え、私も基本的には1日に1レッスン進むようにしよう。

メモによると、前回は2013年6月20日からスタートしている。365のレッスン全部を終えたのが、2015年12月3日だったから、2年半位かかったんだ。

今日からまたそのプロセスを始めるかと思うと、心してかからねば、という気持ちになる。

レッスン1こそ、文章も短いしワークもすぐ終わるけど、だんだんボリュームも増え気持ちも向けなければならないし時間もかかるから。

最初の50のレッスンでは世界観を「解体」

ワークの最初の50のレッスンでは、今、目にしている現実(と思っている)世界の世界観の「解体」を行うことになっている。私たちが見ている、触っているもの、経験していると思っていることは、実は、すべて実在しておらず、映画のように幻を映し出しているだけ。現実と思っているモノの見方を解体していくプロセスだ。

ちなみにレッスン1は、「この部屋の中[この路上に、この窓の外に、この場所に]に見えているものには何の意味もない」という主題概念に基づいて、周囲をゆっくり見回して、目に入るもの何にでも、

このテーブルには何の意味もない。

このパソコンには何の意味もない。

この手には何の意味もない。

このペンには何の意味もない。

あの時計には何の意味もない。

あのテレビには何の意味もない。

…と目にするものすべてに、主題概念を当てはめていく。

これを1分位、朝と夜。

あっという間に終わってしまう。

はじめはよいよい、なんだな。気合いが入っているわりにはあっさりしたものだ。

しかし、久しぶりにACIMのワークができて、うれしい。

明日はレッスン2をやろう。

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