『奇跡講座』 ワークブック

レッスン103-神は愛なのだから、幸福でもある。

2017-04-25

外は日差しが出てよい陽気だ。

今朝のテレビで、今日は朝鮮人民軍の記念日で北朝鮮が核実験や弾道ミサイル発射をするかもしれないと聞いた。それがあればアメリカは武力行使をする“Xデー”なのだとか。

こんな穏やかな春の日に?

その後どうなったんだろう。

北朝鮮の最高指導者の動きを見ていると、ACIMで説明されているエゴの思考がよくわかる。無意識の怖れと罪悪感が非常に強くて自らのうちに認めることができず他者に投影し、それを敵とみなす。そして、やられる前にやれ、悪いのはあいつだ、とけしかける。アメリカのトランプ大統領の方も同じだ。それをこうして見ている私も同じ。

そこが行きつく先は破滅でしかない。

でも、これはまた私が見ている幻像でもある。

そこでなすべきことは、赦すこと。大きなことであろうと小さなことであろうと、やはり赦すことだ。

レッスン103-神は愛なのだから、幸福でもある。

レッスン103は引き続き「幸福」がテーマだ。

神は愛なのだから、幸福でもある。

へんな文章だ。ここでもやはり「幸福」にまつわる罪の意識や、神に対する恐れという誤解を解くことがテーマになっている。

幸福は愛の属性である。」レッスン103はこの言葉から始まる。

愛はいたるところすべてにある。だから、幸福もいたるところすべてにある。

苦痛は必要ない。

喜びを感じていい。

私たちは、「苦痛があるからその対価や報酬として喜びを許可される」といった発想がしみついているように思う。

この発想は神には愛と罰の両方があるという、私たちのまちがった神のイメージに基づいている。

しかし愛には対極はない。すべてを包み込むものに対極はない。

私たちは苦役や苦痛の末のつかの間のごほうびとしての喜び…ではなく、いつであれどこであれ、喜びや幸福を自分に認めていい。

神は愛なのだから、幸福でもある。

 神を恐れることは、喜びを恐れることである。

レッスン103は上記の言葉で「神は恐れであるという誤った信念を訂正する」。

2つめの文章は、主語と述語を逆にして

「喜びを恐れることは、神を恐れることである。」とも言えるかもしれない。

幸せになってもいい。幸せであってもいい。神は私たちに幸せだけを望んでいる。ないものに振りまわされず幸せを見よ。

幸せに自らがかけているリミッターを外せ。

ワークをして

何年か前の歯医者さんで、すごい恐怖を感じたことをなんでか思い出してた。歯科医は、「恐い」という私の感情がわからず、「痛い」のが嫌なのだろうと思っていて、大げさに恐がっていた私に「なんだ、これ、神経もう抜いた歯だよ、痛いはずはないじゃない。だまされたよ」と言ってた。

だましたんじゃなくて、痛いのがやなんじゃなくて、恐いんだよ~と、口をあんぐり開けながら、心で訴えていたけど、おそらく伝わっていなかっただろう。

私はただ恐くて、恐くて。たぶん、今、また歯医者さんに行っても恐いだろう。

例え恐れが心の中だけに在るものだとしても、恐れている者にとっては恐怖はリアルだ。

私は怒れる罰する神のイメージを歯医者さんに被せていたんだ。

そしてエゴの支配が強いからこそ、強い恐怖を感じてしまった。

人はその立場や境遇によって、恐れの感じ方や感じる場面は異なる。自分で創り出してしまう罪の投影もさまざまだ。

歯医者さん、恐くない、痛くない、と言われても、恐いものは恐いし。

そのエゴは少しずつ薄皮を剥ぐようにでも、解体されているんだろうか。

 

そう思いを巡らしていたら、北朝鮮の若き最高指導者の恐怖心はいかばかりだろう、とふと思った。

恐れはどこにも行きつかないばかりか、それを心理的リアルにすることでさらに深い恐れを呼ぶだけだ。

レッスン103は以下の言葉で恐れを鎮めなさいと締めくくられている。

神は愛なのだから、幸福でもある。

 私が今日、追及するのは幸福である。

 私は真理を追求しているのだから、決して失敗しない。

レッスン102-私に幸せを望む神の意志を、私も共有している。

2017-04-23

印刷博物館

今日は月1度の小さな色彩サークルの日で、参加者は3名と少なかったけど、飯田橋にある「印刷博物館」というところに行ってきた。凸版印刷が2000年、同社の100周年記念事業で設立したものらしい。

人類が文字を象形文字を綴った古代から現在にいたるまでの文字と印刷文化の技術、歴史が体感できる素敵な空間だった。とくにインターネットが普及してからのここ20年余りの時代の大きなうねりのようなものを感じた。

同年代の友人と行ったこともあって、つい「昔はこうだったよね」という話に花が咲いた。ついでに昔の私はもっとチャレンジすることに抵抗感がなかったことも思い出した。若さ=自信だったのかな?それが春の風とともに心地よい刺激となった。

博物館見学の後はラーメン&ギョーザを食べ神楽坂をぶらぶらしたけど、人出が多いことにびっくりした。日差しが強くまるで初夏のよう。休日らしい気持のよい日だった。

レッスン102-私に幸せを望む神の意志を、私も共有している。

レッスン102も引き続き「幸せ」がテーマだ。神は私たちに幸せを望んでいるということをさらに学んでいく。

私たちもまた自らの幸せを望んでいる。ただ私たちはどこかで辛いことが幸せの条件だと思っているようなところがある。たとえば「これだけ辛いことに耐えたのだから幸せになれる」みたいに。

そしてどこかしら辛いこと、しんどいことを賛美するようなところがある。けれど、神はそのようなことを求めてはいない。

幸せは代償を求められるようなものではない。

レッスン102にも「苦痛によって手に入るものなど何もない。」と明記されている。「それは何をもたらすこともなく、存在してもいない。」これが苦痛に対するACIMの見解である。

幸せは私たちの心の奥底にある。

幸せは神の意志であり、その意志を私たちは共有している。

そしてレッスン102はそこに到達する練習だ。

Be happy, for your only function here is happiness.(幸せでありなさい。なぜなら、ここにいるあなたの唯一のはたらきは幸せでいることだからである。)」

これはなんと力強いことばだろう。これを心から受け入れることがこのレッスンのテーマだ。

ワークをして

やはり私は外部環境に振り回されてばかりいて、いつもつい外の「問題」ばかりに目を向け反応している。存在しないはずの「問題」に…。

まあ、努力が少ないわりにはこうしてつつましく幸せにやっている、とも思うけど、ここでいう幸せ、神の子に用意されている幸せとはそういうものではないんだろう。

いま ここ しあわせ

神の子にあるしあわせに、そこはかとなく感じるありがたさみたいなものなんだろうか。

しあわせを「考えて」いたら、わからなくなった。

ちなみに辞書で調べたら、語源は「仕合せ」から来ていて、それは「めぐりあわせや機運、天運」というものを表すらしい。今ここに巡り合わせたありがたさ…?

考えるものじゃなくて感じるものだよな。

人生で最も幸せ感を感じた時は…と振り返ってみたら、20代の頃のデートで二人でボートに乗っていた場面で出てきた(^_^;)

ACIMで言っている幸せってどんなだろう。

幸せでありなさい、と言われ、どうあればいいのか、そのあるべき姿がわかるような、わからないような、なんとなく少しは思い出せそうな、とそんな感じになった。

幸せ…がよくわからない。けど、大事なのはやっぱり、赦すことと、感謝することと愛すること、この3つかな、と。

そのそれぞれも、実はよくわからないのだけど。

この3つをなるたけ実践することと、より実践できるようになるためにACIMの理論を学び、聖霊の声に耳を傾けること。

幸せでいることが私のしごとだ。それはなんか力強く元気が出るメッセージだ。

レッスン101-神の意志が私に望むのは完全な幸せである。

2017-04-21

ワークの方は先に進みたいけど、それをブログにするのに手間どっていて、差が開いている。今日のレッスン101は4月6日にやったやつ。

あれ、なんだっけ?ってなっている。

少しワークはがまんしても、一回差を縮めたい。

「ワークをがまんする」とは、なんかよく勉強しているみたいだけど、ただ365という数が与えられたら学生時代のドリルみたいでただとりあえず終わらせたくなる感があるだけで、実際には最近のワークのどれもが理解不十分かつ不完全遂行(?)かも。でも完全な理解を待っていたら一歩も先に進めないし…。

パソコンに向かって座っていて腰が痛いな~と感じるようになった最近。区のリサイクルセンターに立ち寄った際に、ふとバランスチェアの出品があった。粗大ごみで回収したけどまだ使えるものを無料で区民に提供しているのだ。応募多数の場合が多いから抽選となる(私はここのくじ運だけは非常によく、家の家具の半分はここのだ)。

バランスチェアは、クッションが2つあって、座面が斜めに傾いていて、もう1つのクッションで膝、脛で体重を支えるしくみの椅子。腰椎カーブが自然のS字になって腰への負担が軽くなるのだとか。試しに座ってみたら、心地よかった。

それで何気に応募して帰ったら、当たってしまった。…家にバランスチェアが来た。思ったよりでかい。

机の前に置いてみると、パソコンに向かう分にはよいのだけど、文字を書くとなると座面が高すぎて机とバランスが合わない。それでは困る。ということで、本来の目的である仕事机の椅子としては却下。でも、背筋がぴんと伸びて気分がいいので瞑想的ワークをするのに使ってみたら、いい感じ。また本を読むのにも心地いい。仕事部屋から居住部屋の和室に移してとりあえずはそこが定位置になった。

ぜったいに自ら探しては買わないだろうものが、ふいに家に来て、意外な存在感を放つことになった。

レッスン101-神の意志が私に望むのは完全な幸せである。

レッスン101は引き続き幸せについて学んでいく。レッスン100では、幸せと喜びが神の子である「私」のはたらきと説明されていた。レッスン101は、それをまた別の角度から説明している。

罪が実在すると思っている私たちは、救済を勘ちがいしているのだという。すなわち神による救済とは罪に相応しい罰を受けることだと。そして、この世でどんなふうにしていても罰は履行されると。

もし罪が実在するなら、救済は苦痛でしかない。(中略)なぜなら救済は殺しにくるものだからである。しかもそうした救済は、自らの怒りがおさまるまで、ゆっくりと生贄からすべてを剥ぎ取っていき、すでに骨と皮となっている生贄に、恩恵のごとく歓迎される死を授けるのである。」という表現はおどろおどろしく、まるで地獄絵図のようだ。

だけど、罪は存在しない。「神からの分離」という「過ち」が実際には起きていない。前提がまちがっているのだから、当然罪はない、罰もない。

レッスン101では、ここにフォーカスする。何度もくりかえし教えられていることだけど、私たちの心はエゴのマインドコントロールにかかっている。しかもそれは無意識となっている深いものだ。だから、くりかえしくりかえし正しいことを再暗示させるがことく訓練する必要がある。

神の意志があなたに望むのは完全な幸せである。なぜなら、罪は存在せず、苦しみには原因がないからである。喜びこそが公正なものであり、苦痛はあなたが自分を誤解したしるしにほかならない。

この文言がレッスン101のメッセージをよく表していると思う。

ワークをして

私も頭ではこの内容は理解できるのだけど、目をつむってワークを始めたら、若い頃からのこの世での悪行の数々と、幸せになってはいけない根拠が浮かんできて、悲しくなった。

法的な罪ではないけれど…

親を憎みながら成長したこと。

親が大喜びした結婚からわずか一年で離婚してしまったこと。

父の病で母の介護がたいへんにしていても、故郷で一緒に暮らす決断ができなかったこと。

親との関係だけでなく異性との関係でも、親しくなった男性に攻撃的になってしまい責めてしまうクセ…

このゲンジツの世は幻想に過ぎないと思っても、私がこれまで住んできたのはここで、そこでの思い出がノスタルジックに悲しみとたくさんの層となって出てきて、その一番下層にある「無罪・幸せ」まではなかなかたどりつけない感じがあった。

この世に生まれ、知るかぎりの幸せもこの世で経験したものだから、罪悪感は悲しみだけじゃなくて自分が感じた幸せともマーブル状になっていて、だから、さっぱり手放すのが寂しいようにも感じる。

もちろんこれは全部エゴが見せているものなんだろうけど。ノスタルジックに思い出すというのが、エゴの罠なんだろうな~。

罪と罰はない。幸せであること。これを何度もくりかえすこと。また時間をかけて勘ちがいの薄皮を剥いでいくことが必要なんだろうと思う。

「罪はない」と心の中で唱えると、一方から「何都合のいいことほざいてんだ」という言われる気がする。

でも、神への献身とは私が完全に幸せでいること。それは神と聖霊とゆだね一体であることから感じる幸せだ。

今は、毎日揺らいでいる。自分を責めたい自分と、幸せであろうとする自分。覚えている時は幸せを選ぼう。。

レッスン100-私の役割は救済計画に不可欠である。

2017-04-19

レッスン100-私の役割は救済計画に不可欠である。

レッスン100で「私の役割」とされ望まれているのは、「完璧な幸せ」=「私が完璧に幸せでいること」だ。

神の子が幸せであることが強いメッセージなのだ。

世界は私自身を投影したもの。私というカケラを通して幻想を見たもの。

だとすれば、私が笑顔でいて幸せでいることが、こだまして、それが世界だ。

だから、自分の中の最も神に近い部分(キリスト、真の自己)に共鳴し、今日一日、喜びに満ちて幸せでいよう、というのが(かなりざっくりだけど)レッスン100のワークだ。

ワークをして

思えば、くりかえし言っている気がするけど、自分に幸せをゆるすことにはすごく大きな抵抗があった。

幼い頃から厳しく暴力をふるう母親が怖くて、いつか見返してやりたいと憎しみを抱いて育った。一方で、親の期待に応えられないことに、自分はダメな子だと罪悪感も感じていた。

そして表面的には親に従ういい子でいながら、成長するにつれ反抗心から行動することで心は葛藤してますます瞑想し、自分の反抗心や怒りを社会や周りの他者に投影していたように思う。一頃流行った言葉でいえばアダルトチルドレン。意外とよくある話なのかもしれない。

そのすべての根っこは自己嫌悪であり、それは「神との分離」が実際起ったこと、自ら引き起こしたことだという誤解だ。

今やその誤解は解けた。

おっちょこちょいで思いこみが強いんだから~、という笑い話にすぎない。

私は幸せであってもいい。

いや、そうではなくて、

幸せであることが私のはたらきだ。

この世が私の心が投影された世界であるならば、幸せな世界は私の幸せにかかっている。

これは、ひきこもっている私の妄想だろうか。

世界のことはさておき、まず、今日の私は幸せでいよう。

いいことがあれば   ○  ⇒ 幸せ

よくないことがあれば ×  ⇒ 不幸せ

このループから私が抜け出せることはあるかな?

いいことがあろうと         ○ ⇒

よくない(不都合な)ことがあろうと × ⇒ 常に幸せ

よくない(不都合な)ことは実際に在ることではない、赦すべきことだ。

これを、かなりリアルなこのゲンジツワールドで、それだけいつも覚えていられるかな?

身体も脳もエゴの支配下で作られたものだというのに、私たちがそこから脱して、神と聖霊の考え方に完全に移行することができるのだろうか。

それにはこの幻想の世の一生があと何回必要だろうか。

でも、その旅は始まっている。その道すがら必要なものはすべて与えられている。

そしてナビゲーターは聖霊だ。

だから、今この与えられたチャンスを活かそう、と思う。

レッスン99-救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

2017-04-18

もう4月18日。春だ。

先週は慌ただしかったこともあってまったくワークをしなかった。ワークの方は先週土曜のレッスン103で止まっている。

レッスン93からの「起きている間、1時間の最初の5分をワークに用いる」というのが、私にはなかなか負担できびしくワークから逃げていたというのが本当かな。再開したら、やらなきゃなんないから…。

そういう意味では十分羽根を伸ばせた気がする(エゴが?)。そろそろワークに戻ろう。

…ダイアリーブログの方は、レッスン99から。

って、レッスン99ってどんな内容だったか…。ノートを見たら4月3日にワークをしている。

レッスン99-救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

レッスン99では、「救済が、ここにいる私の唯一の機能(はたらき)である。」と言い、「救済と赦しは同じものである。」と言っている。

「救済とは」を私はよくわかっていないけれど、要は日々の暮らしの中で赦しを実践することだと思う。それがすなわち救済になるのだと理解している。

私たちのゲンジツの世界では、本来ありえないものが「在る」とされていて、真理と幻想が対等になっている。それを真理だけを「在る」と認識すること。それが赦しだ。赦しがなされれば同時に幻想から救われる。

そこで頼るべきは聖霊だ。

聖霊はこの神の計画を、神から受け取ったそのままに、神の心とあなたの心の内に保持している。

聖霊は、依然として1つのことが間違いなく真実だと知っている。すなわち、神は今でも愛であり、今あなたが見ていることは、神の意志ではない、ということである。

レッスン99では、聖霊の導きを得て、起きている間以下の毎時5分のワークをする。

救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

今でも神は愛であり、これ(私たちが見ている罪、苦痛、死、悲嘆など)は神の意志ではない。」

そして、聖霊から、「真の自己を知るために、何を学ぶことが必要か教えてもらいなさい」とある。

ワークをして

レッスン99をやって感じたのは、とにかく必要なのは1つずつ細かいことも含めて、赦すべきことを赦すことだな」ということだ。

その日はマンションの上階の方が亡くなられたばかりで悲しかった。赦すべきこととして、まずそのことが浮かんだ。

私たちが「神から分離した」と誤解しエゴに拠って生きるようになって、本来ならばありえない恐怖を感じている。

その最たるものが、神への恐怖と死への恐怖ではないかと思う。

私は昔から自分の体への執着が強く、死も人一倍恐れている気がする。それもあって、ご近所さんが亡くなったことに気持ちががたがたしてしまったのかもしれない。

私の人生の目標は、もしかしたら、自分の死に面して、死に怯えずに心穏やかでいられることかもしれない、と思った。真剣に訓練したら、そういう怖さも消えるものなのかな。

でも、怖いから、それを克服したいと思っているとしたら、それこそエゴの発想だ。そういう感覚とは別物なんだろう。気づいたらそういう恐怖はなくなっているというようなものではないか…。

死をリアルにしてしまっている自分の在り方を変えたい。

聖霊のメッセージを受け取る

レッスン99をやった夕方6時のメモには、「(私に必要なのは)、聖霊のメッセージをもっと心をオープンにして受け取ること。エゴの垣根で閉ざすのではなく」と書いている。

そして、次の7時のメモには「なぜ、聖霊のメッセージを聴けていないのか」と自問して、その答えに「聴いてしまって自分(と自分が思っているもの)を変えたくないんだ。」とあった。聖霊からの何らかのメッセージを受け取ったら、それに呼応して自分や自分の環境を変えなくてはならなくなる。それを恐れているのだ。

私…と思っているものは、この瞬間にもどんどん変わっているというのに、私は私という幻想に執着していたいんだ、と改めて気がついた。

エゴの執着を溶かして、聖霊の声を聴くというのが、ここ当面の課題かな。これ何回も書いているような気もする。

レッスン98-私は、神の救済計画における自分の役割を引き受ける。

2017-04-07

ちょこっと間が空くと、自分のブログながらブログを開くのが怖くなる。ワークをする日とそれをブログに文章にする日に一週間の差ができてしまっていて、誰に見せているわけでもないのだけど「たまったレッスン、ブログに書かなきゃ」とちょっとしたプレッシャーを感じる。

そして、ワークの方は自分のための勉強で先を急がねばならないものではないのだけど、365という数が目の前にあると先を急ぎたくなる。

あー、そうだ、レッスン98からだ。レッスン98は英語が私には難しく大畑学さんの「A Course in Miracles Workbook精読」の解説を脇に置きながらでも、時間がかかった。

そして、なかなか理解できず先に進みづらいことに、(こんなことしていていいのか)といった焦りやいらだちも感じた(日本語だけで読んで進めてもいいのだけど、一回始めたやり方を変えたくないし、やはり原文で読みたいという気持ちがある)。

レッスン98:私は、神の救済計画における自分の役割を引き受ける。

レッスン98で気になったところは、

まず主題概念そのものの「神の救済計画における自分の役割を引き受ける」。

私の役割とはなんぞや。

私たちには果たすべき大いなる目的があり、そのゴールの達成に必要なものはすべて与えられている。

また「罪悪感のない者に恐れはない。…(中略)…為すべく定められていることを為すという静かな確信の中で、彼らは休らう。

大畑学さんの解説には「あなたが自分の無辜性に気付き、スピリットとして生き始めると、確実に救いの道を進むことになる。あなたがいつどこで、その役割をどう果たして行けばいいのか。それは、神の計画の中で既に決められている。完璧なタイミングと場面が与えられ、あなたは自分の役割を果たすことになる。そこに疑いはない。」とある。

なすべきこと。定められていること。

自分に必要な赦しと救済の機会。

私は、未だに救済とは何なのかがわかっていないのかもしれない。

おもしろいなと思ったのは、ワークブック中のイエスの“営業トーク”。

自分の機能(はたらき)を認識することに毎時間5分かけることの“お得感”が強調されている。

計り知れない大きな報償が得られることを思えば、5分というのは小さな要請ではないだろうか。」とか、「ここで提供されているのは、あらゆる苦痛からの完全な開放とこの世の世界にはない喜びを、あなたに保証するものである。」とか。

さらに「時間には意味がないのだから、あなたはすべてを手に入れる代償として、何も要求されていないということになる。これはあなたが決して損をしない取引である。そしてあなたが得るものは、まさしく無限である!」と。

「えらい得するんだよ」というお勧めの仕方に、くすっと一人で笑ってしまった。

それで、1時間に5分というワークを、ともかくやった。

ワークをして

3月から4月への切り替え時で、いつも心にある将来への不安をまた感じ出していた。ワーク時も不安が出てきて、レッスン98の内容というより、それを手放すということをした。

何度目かの5分ワークの時に、神における救済計画における自分の役割を果たす…とは、やはり聖霊に身をゆだねることだと感じた。

私は、未だに聖霊の声やメッセージというものがよくわからない。エゴの支配下にあって聖霊からのメッセージに耳をふさいでいるような気もするし、無意識ながらメッセージを受け取れているのかもしれないと思う時もある。

ACIMと出会うきっかけとなった『神の使者』に出会えたことだって、その後すぐにブックオフで続編の『不死というあなたの現実』を見つけたことだって、聖霊の導きがあってこそだと感じている。

一方で私のエゴは、「ここまで」と聖霊が動いていい領域を決め、そこからはみ出さないように、と聖霊の動きを監視しようとしているようにも思う(あくまで私の心の中のことで、妄想にすぎないのかもしれないけど)。

エゴは聖霊を脅威に感じているのだ。

エゴの縛りが強い今の私は聖霊さんが何を私に指示してくるのか、何かを犠牲にするよう迫るのではないかと、耳をふさいでいるようなところもある(気がする)。

その日の最後の、夜11時からのワークの時のメモには、

「聖霊さま、いつもありがとうございます。

私は神の救済計画における私の役割を喜んでお受けします。」とある。

一日を通したワークで、そういう心境になったということだろう。

エゴはすべてを見通せないし、幻想しか作り出せない。

聖霊はすべてを見通し、実在する喜び・平安に導いてくれる。

だから、もっと聖霊の声を意識的に聴く、その決意をしよう。したい。

レッスン97-私は霊である。

2017-04-04

昨日は急な雷雨にびっくりしたけど、今日は春らしいよいお天気だった。

久しぶりに友だちと桜を見がてら神社に行き、ランチしておしゃべりした。人と一緒にいておしゃべりする、ということが、今の私には非日常的。ひとりで行動する独特の気の張りがなく、お店でもくつろいでいられた。それが私には恵みと癒しだった。

花見をしようと大勢の人出があった。風もここちよかった。なんでもないことをぐだぐだとおしゃべりできるありがたさ。

「今年の春の日」と取っておきたいような、なごんだやさしい風の日だった。感謝。

レッスン97:私は霊である。

レッスン97の主題概念は、「私は霊である。」

真の自己を、シンプルに自分に思い出させる。

毎時間に5分を、このために用いる。

私は霊であり、神聖な神の子である。あらゆる制限から自由であり、安全で、癒されていて、全一である。赦す自由と、世界を救う自由を持った神聖な神の子である。

この言葉を自分と世界に宣言する。

ワークをして

このワークをやったのは3月30日だったけど、毎時0分を意識して、目をつむり「自分は霊である。」と唱える。自分の心深く、霊である自分を感じようとする。

この世界から浮いたような、このワークを、今、実践できる環境にあること、実際にワークをしていられることが、恵みというか豊かさなんじゃないかな、と感じた。じゃまが入らず、内向できる空間と時間があってこそできることだ。

ワーク中は聖霊(さん?)を身近に感じた。なにか自分を見守ってくれている存在があるように感じた。それは思いのほか力強かった。

赦すことと、感謝と愛

そして必要なこと、求められていることは非常にシンプルなのだ、と確認した。

赦すことと、感謝と愛だ。

赦すことは文字どおり、ACIMでくりかえし説かれている赦し。そして、愛―これを感謝と愛と表現した。(私から見ると、この世でいう「愛」という言葉は、恋愛の愛や相手に求める条件付きの愛という意味合いを示すことも多い、今「感謝」という言葉で表すような感情が、本来の愛に近いんじゃないかなと)

だから、赦すことと、感謝と愛。

ACIMで求められていることはうーんと煮つめればこれじゃないのかな。私にはこの三語がわかりやすい。

それをなるたけ覚えていようと思う。

だけどこのシンプルなことがなかなか覚えていられない。

実践で大事なのは、この幻想のゲンジツの世で、何かがあって感情が乱れた時、「これは現実じゃない」と思い出して乱れた自分をいかにとりなすか、だ。

いくらACIMを読んでわかったつもりになっても、心が訓練されていないと、つい幻想の出来事と自分の感情に巻き込まれ、自分の心が投影して見せていることだとは思えず、全部がわからなくなってしまう。

小さなネガティブな感情にも気をつけて、なるたけ上機嫌でいることを実践したい。

それと、聖霊の声、メッセージに耳をかたむけること。

気づけば忘れているけど、心を鎮め聖霊に耳をかたむける。これも心に留めておきたい。

レッスン96-救済は私の一なる自己から訪れる。

2017-04-03

私のウォーキングコースでは川沿いに桜並木があるけれど、今朝けっこうほころんでいた。木にもよるけど1~8分咲き。

今年もこの季節がやってきた。

桜はとても繊細で美しく、その開花時期が短い。完璧といえる満開は3日から一週間位。その後は新葉が出るのだから成長に向かっているのだろうけど、散り際の寂しさはなんともいえない。

日本人は桜が大好きけど、それは桜がこの世の無常を象徴しているからではないのかしらん。この世を無常と心得たうえで、その最高の姿を愛で祝福する。日本人にはそういうメンタリズムがあるように感じる。どうだろう。

他の国の方々も、桜のつぼみからその潔い散り姿に特別な思いを感じたりするのだろうか。

レッスン96:救済は私の一なる自己から訪れる。

レッスンの説明文がむずかしく感じる。抽象的で日本語でもなかなかすっきりとはわからない。

くりかえし、少し単純化してみよう。

自己… 善… 愛…   霊…(真理)

エゴ… 悪… 憎・怖… 体…(幻想)

私たちは自己とエゴ(偽自己)に分かれているように感じていてその両者の間に葛藤を感じている。

この両者間のバランスを取ろうとするのは無意味である。エゴは幻想の中にしか存在しないのだから。

そうではなくエゴの幻想性を見抜いて、実在するものに拠りどころを持たなければ、永続的に救われることはない。エゴの論理では何事もなしえない。それは砂上の楼閣である。

実在するものを拠りどころとすることこそ救済である。

そして神と一なる自己こそが実在するもの。

ただ、私たちは今エゴを拠りどころとしているから、それがわからない。心は二分され、葛藤があるばかりだ。

そこで頼みにするのが、神と私たちをつなぐ聖霊だ。聖霊は私たちの心に住んでいる。聖霊は救済のアイディアを持っている。

レッスン96では、自分の中の聖霊とつながりそのアイディア(想念)を分かち合うこと。それを自分のものと宣言することがテーマとなっている(ように思う)。

ワークをして

たしかにこの幻想の世で葛藤する自分に折り合いをつけて「うまく」生きようとしても、たとえ一時はうまくいったかのように思えても、必ずほころびが出る。

「何か」で状況は変わるはず。

そうやって「新しい何か」を探し、今まで何度となくトライしてきた。

でも、欠落感がない安らいだ気持ちは得られないばかりか、いずれは滅ぶ肉体という夢がクリアに見えてきて、怖ろしさは増すばかりだ。

50も半ばを過ぎるとこの世のカラクリが垣間見え、

何か他のもの、新しい何か…にも期待できなくなってくる。

この世の常識からみれば、ばかげているようにも思うし、私がACIMの考えを支持していることが周りの人にわかれば「頭がおかしいのではないか」と思われそうで怖くもあるけど、

やはり一なる自己を「本気で」拠りどころにすべきではないか。

ワークをしてそう感じた。

2層の自分

ワークでは私たちの心が2つに分裂していると書かれているけれど、

今は自分が別の意味でも2つ…2層になっている気がする。

① ACIMの世界観を学び、そこになじもうとする私、と

② 世間でなるたけ普通に生きようとする私、だ。

たとえば、テロや傷害事件のような残忍なことがあれば犯人を憎む会話をするし、身内が亡くなられたと聞けば、普通にさぞかし辛く寂しいことだろうと思う。それが私も知っている人であれば、やはりショックを受けるし悲しい。

一方で、これは幻想なのだ、赦せと言い聞かせる私がいる。

そういう意味で2つ、2層の自分を生きている気がしている。

そしてここで生きる上ではこの2層は必要であり、これはこれでいい、とも思っている。

レッスン95-私は創造主と一体の一なる自己である。

2017-04-01

春めいたと思ったのは一時で、一転4月に入ったというのに底冷えする寒さだ。昨日はレッスン98をやったけど、レッスン93から続いている「起きている間一時間のうちの最初の5分をワークに捧げる」というのがなかなかハードで、耐えきれない。今日はワークはお休みにしよう…。したい。

1時間に5分なのだけど、内容を振り返ったりしていると7~10分位かかる。そうなると残り50分位ずつの刻みでしか物事ができなくなって、それが寝るまで続くのがしんどい。ひとりで何やってるんだろう、という気にもなってくる。そしてできないことに罪悪感ももつ。これもエゴのなせる技なのか。

レッスン95:私は創造主と一体の一なる自己である。

レッスン95には、起きている毎時間、最初の5分をワークに充てることについて2つの利点が書かれている。

①5分以上の長いワークでは集中力が続かないから。

②何度も頻繁にくりかえさないと、つい忘れてしまうから。

エゴの誘惑に対して自動的に正しい対応を身につけるためには、とくに毎時最初の5分という強い枠組みが有効なのだと書かれている。いわば武道の「型」のようなものだろうか。

でも、外出時とかはきちんとできないし、家にいる時も、何十分後かに控えているワークが気になりおちおち他のことに集中できず、それがストレスになる。他のやるべきことがあるし「ちゃんと」できないだろうから、今日はいいことにして明日にしよう、と思ってしまうけど、レッスン95はそうした思いに対しても言及している。

おそらくもはや要求されたことに応えられなかったという理由で、その日の練習は失敗したと見なしたい誘惑にかれるだろう。だがこれも、ただその正体を認識することが必要なだけである。

すなわち、それは自分の誤りが正されることに対する拒否反応であり、再び練習に取り組みたくはないという気持ちである。

まさにそのとおり、おっしゃるとおりだ。

そして、そういう自分の弱さに寛容になることにも触れられている。

それは「単に間違いを犯しただけである。

これには訂正が必要であり、必要なのはそれだけである。」とも。

さらに「間違いが存続するままにしておくことは、最初の間違いに基づいてそれを補強し、さらなる間違いを犯すことである。

これはACIM以外についても通るすごい正論だ。

…ということで、今日のワークは以下の言葉から始まる。

私は創造主と一体の一なる自己である。創造主とも、被造物のあらゆる側面ともひとつである自己、無限なる平安と力がみなぎる一なる自己である。

そしてこの「私は一なる自己である」という感じを感じ取ろうとする。

ワークをして

この毎時間5分という枠組みのワーク、私はどうも日中よりも夕方から晩の方が落ち着いてできるようだ。

感じたのは、最近はしばしばそう感じているのだけど、ACIMの教えを、ここではないどこかの理想郷や空絵ごとのようなイメージではなく、本当にこれこそが現実なのだとリアルに感じてみよう、ということだった。

意外とこれまでそうはしていないのだ。

この諸々(問題や理不尽さが)ある現実社会や人生からの精神的なよすがみたいなものだった。

精神的な頼みであって、それだけが在る、との実感が薄かった気がする。

まったくなかったわけではないにせよ、「私のこころ」には玉ねぎのように幾層も層があって、それが剥けるたびに実感に近づくというしくみなのかもしれない。

ただ神だけがある。

そして私は神と一なる自己である。

それをこれからの人生時間、現実として感じてみよう、と思う。一時だけでも感じ、その一時を少しずつ何回もにしていきたい。

レッスン94-私は神が創造したままの私である。

2017-03-30

春めいて

ようやく春らしくぽかぽかとした陽気になってきた。街を歩く人の服装も、スプリングコートになってきた。

3月までのプロジェクトが終わり、少し気持ちに余裕がある。子どもの頃から入学や進級が4月だったから、50代半ばの今でも4月には何か一新され仕切り直す雰囲気がある。また、今ここから、いいはじまりにしたい。

昨日、ふと思ったのは、ワークの際英語の原文で読んで進めたいと思っているのも、もしかしたらエゴから来るこだわりなのかな、と。

素晴らしい日本語訳があるのにもかかわらず原文の“読解”に時間がかかり、まるで英語の勉強のようになっていて、日本語だけならば一日で済むものを数日かかったりしている。それがACIMそのものから意識をそらすことになっているかもしれない。

かといって、そのやり方を変えられるかといえば、変えにくいけど。そういえば「目的の手段化」というのは、ズボラなくせに完璧主義なところがある私が陥りがちな“症状”ではある。

レッスン94:私は神が創造したままの私である。

レッスン91からは、真の自己の本質を思い出させるワークが続いているように思うけど、レッスン94のテーマは「私は神が創造したままの私である。」だ。

真の光は強さそのものであり、強さとは無罪性である、とも書かれている。もしこの事実を受け入れるなら、私たちは強いはずであり、光が自らの内にあるはずなのだ。

また朝起きてから夜の就寝まで1時間ごとに初めの5分をワークに用いる。

自分が作り上げた自己像を手放し、

私は神が創造したままの私である。

私は永遠に神の子である。」と唱え、自分の中の神の子に到達しようとする。

ワークをして

I am as God created me. 私は神が創造したままの私である。

この言葉は強くシンプルで、好きだ。

5分のワークは初め、時間の圧迫(落ち着かない気忙しい感じ)を感じたが、午後には少し落ち着いてきた。

そして、ACIMを、ここではないどこかの精神的な理想のものがたり、ではなく、

これこそが事実・現実として捉えなおそう、と考えた。

ずっとずっと昔、故郷の畳の部屋に赤ん坊として寝かされ、まどろんでいた頃、

まだ神が近かった。神とつながっていた感じがする。

今や…その記憶ははてしなく遠い…。けど、

実はそれこそが現実に近く、

一度も神から離れてはいない。

私は、今ここに神が創造したままの私である。

そう、感じたいと思う。

レッスン93-光と喜びと平安が私の中に宿っている。

2017-03-29

レッスン93をやったのは先週21日。ワークをした日とそれをダイアリーに書く日のライムラグを縮めたいと思っているけど、まだ縮まらず、ダイアリーブログがなんとなく億劫になっている。ワークはしたいけど、ブログにするのがむずかしい。

改めて、ワークのダイアリーに何を書いたらいいのかわからないことや、

さらにレッスン91からは文章が長く理解しきれていない、というのと、

こんなこと(中途半端にダイアリーを書くこと)して何になる、という気持ちがある。

でも、ブログがなければワーク自体緩く続けることもできていない気がするし、多少なりとも復習になっているのでは?とも思っている。

レッスン93:光と喜びと平安が私の中に宿っている。

レッスン91からのワークは、くりかえし私たちに闇ではなく光に目を向けるよう方向づけしている。

ワークは冒頭、「あなたは自分の中に悪と闇と罪が住みついていると思っている。もし誰かがあなたの真の姿を見たなら、毒蛇を見たときのように飛びのき後ずさりするだろうと思っている。」から始まる。

ここには私たちの深い自己嫌悪が書かれている。これは私のように意識の上でもそう思っている人と、意識はしていなくても無意識でそう思っている人とに分かれるだろう。

ただ、この自己嫌悪には根拠がない。「虚無に基づく信念」だけど、虚無が作り上げた世界にずっと生きている(と思っている私たち)には、まるで信じがたい。

私たちは神から自分から分離したと思い込んでいる。そして、そのことについて神にあまりに大きな罪の意識と恐怖を感じている。

でも、ACIMはくりかえし、それは誤解だ、と教えてくれる。

自ら離れたと思っている今ここの私は、エゴでありそれこそが虚像。真の自己は一度も神から離れたことがなく今も神の平安とともにある。

それをレッスン93では「あなたが為したと思っているすべての悪は一度も為されたことはないと保証されて、なぜあなたは大喜びしないのだろうか。」と言っている。「あなたの罪がすべて無であることも、あなたが創造されたままに清らかで神聖であることも、光と喜びと平安があなたの中に宿っていることも、たしかに保証されている。」と太鼓判が押されている。

でも、この考えが、虚無の世界になじんで闇の法則で生きている私たちには、ぴんと来ない。

レッスン93では、

光と喜びと平安が私の中に宿っている。

私の無罪性は神により保証されている。」と唱え、神と一なる自己を体験することに主眼が置かれている。

そして、私たちの強固な思い込みに正しい考えを刷り込むべく、起きている間はずっと1時間うち最初の5分をこの練習に使うこと、としている。

ワークをして

毎時最初の5分を使うというのは、なかなか慌ただしい。気づくと時間が過ぎていることもままあり。私はまだフリーランスだから家での作業中はやりやすいけど、勤務している人とかはいったいどうやっているのだろう。こうしたワークができる環境というのは限られているのでは…?

最初のうちは5分とても長く感じられ、何度も目を開けてしまう。落ち着かない。

でも回を重ねるごとにだんだん、やりやすくなってきた。

夕方5時のワークでは「私は幸せになってもいい」と感じた。

未だに心の奥のどこかで、「私は悪い子、悪い人間で、だから幸せである資格がない」という刷り込みがあるのだ。その自己否定は大人になってから気づいて、変えてきたつもりだけど、まだ、ある。

そこで、「私の無罪性は神により保証されている。

そして、「光と喜びと平安が私の中に宿っている。

この本当は正しい事実を、新しい暗示のごとく、何度もくりかえす。

エゴが怯えて身構えてしまわないよう、リラックスしながら、気を抜きながらくりかえした。

晩7時のワークでは、

「罪ある自分が少しましな世界を望むんじゃないんだ、そもそも原罪はないんだ」と感じた。

だから、ずっとHappy&Peacefulでいていい。問題を温存せず、手放していいんだ。

これはぐるっと一周して、元いたところに戻る…みたいだけど、

結局「自分を愛する」ということだ。そしてリアルには他者と自己の区別はない。

だからシンプルに「愛する」こと。

いいことをしたから、許される、認められる、

悪いことをしたから、不十分だから、認められない、罰せられる、というのではなくて、

そもそも無辜(むこ)であり、愛されていい。幸せであってもいい。

夜9時のワークでは、「幸せであってもいい」じゃなくて、

「いや、幸せでなきゃいけないんだ」と思った。

だからこそ、いつも上機嫌であること!

エゴは罪悪感と怖れから必要のないものを創り出している。それは実は起っていない過ちのためだ。

それを取りなすこと。それが祈りの本質なのかもしれない。

レッスン92-奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

2017-03-28

レッスン92:奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

最初にこのワークは前のレッスン91「奇跡は光の中で見える。」の延長だと書かれている。

今、私たちは肉体の目でこの世の様々なものやことを見ていると思っているが、ACIMの中でイエスは実は真に見てはいないのだと言っている。また脳で様々なことを考えていると思っているが、実は真には考えていないのだと言う。

肉体の目…真に見ることはできない。

肉体の脳…真に考えることはできない。

肉体の目では闇しか見えない。それはエゴの弱さに拠って立っているから。エゴの闇の世界が見えているのだ。

神の強さの光があってこそ、私たちは真に見ることができ、考えることができるのだという。

光=強さ…自己     …愛し赦す

闇=弱さ…エゴ(偽自己)…裁き咎める

そうであれば、私たちに必要なのは光と強さである。

レッスン92は肉体の目を閉じ、真の自己に出会えるよう聖霊に導きを求める。この20分の練習を2回。

ワークをして

以前は朝晩短い瞑想していたこともあったけど、20分目を閉じて心を鎮めるということが久しぶりだった。

睡眠以外では、ネットやスマホ、テレビなどの音や情報、刺激にさらされ続けている。

そして、たいして忙しくなくても、何かやるべきことに煽られているような感じが常にある。

煽られ感というのはエゴからのものだろう。何にもなくても、アワアワしてしまう(要はビビリ)。

こういう時間のリズムは、故郷に帰省した際には別ものになる。自分の生活圏じゃないためか、時間がゆったり感じられ一日が長く感じられる。1時間という時間の体感がまったく変わって長くなる。「あれ、まだこの時間か」と思うことがしばしば。それがとっても不思議。

「忙しい」は「心を亡くす」と書くとはよく言うけど、実際心を亡くしているのかもしれない。現代人が忙しくするのは、真に見て感じることをしないで済むようにするためかもしれない。

改めて、心を鎮める、というのも、私に必要なことだなと思った。

レッスン91-奇跡は光の中で見える。

2017-03-25

レッスン91からはまた1つの学習の固まりが始まる。

私の今のワーク学習の仕方は、ACIMの学習サイトで英語を聴いて、

大畑学さんのA Course In Miracles Workbook 精読で短いパラグラフごとに英単語や解説を見て

『奇跡講座 ワークブック編で日本語訳を見て、、、と、まるで高校時代の英文読解みたいになっている。

和訳で通しで読んだ方が意味は理解しやすいけど、原文はどうなっているんだろう、と気になるし、2つの日本語訳を見比べると訳し方のちがいもあったりしておもしろい。

そうやっていると、文章読むこと自体にけっこうな時間がかかる。レッスン91からのワークは長文が多く手ごわい。また抽象度が高く、日本語で読んでもよくわからない部分もある。

ちなみに、一回目のワークはいつやってたんだろ、と気になってメモ帳を見たら、2014年の6月だった。6月にレッスン91から113まで仕事と並行しながらけっこう毎日まじめにやってた。少し若い自分が。

レッスン91:奇跡は光の中で見える。

レッスン91は「奇跡には心眼(ヴィジョン)が伴う」というACIMの中心概念から始まる。

奇跡は常にある。それが見えるにはヴィジョンが要る。

光の中では奇跡が見える。

闇の中では奇跡が見えない。

だから光は決定的に重要だけど、私たちの信仰心は今、光ではなく闇に向けられている。それを聖霊(=内なる強さ)のサポートを得て逆転させる必要がある。

レッスン91はその強さを自分の内に感じるワークだ。

どうやってかというと、自分への次の問いかけによって。

「奇跡は光の中で見える。

肉体の目はこの光を知覚しない。

しかし私は肉体ではない。私は何なのだろう?」

この問いに対する答えを心の内に探すことが、自分の強さに気づく方法だという。そして、内なる強さを体験し、神とのつながりの信頼感にくつろぐ。

ワークをして

私の場合は、この「私は何者か」との問いかけに対して、

「神の子」という答えが浮かんだ。

一方で、ACIMの教えどおりの「神の子」を実行することは、命綱なしで高い崖から飛び込むような怖さがある。

ACIMを学べば、安全ネットがあってやさしく受け止められるのだと知っているはずなのに。怖い。。コワイ。こわい。

私は自分の弱さに立つのか。

強さに立つのか。

「私は肉体ではない。」と言う時、それを否定したい気持ちがあった。

今、体のある症状に悩んでいるから、「体ではない」とはやりすごしにくいのだ。困ってはいるけど慣れてもいて医者にも行かず放置している。

その症状は、私の無意識の罪悪感や恐怖の象徴として私がゲンジツ化しているものだ。

だけど、ちゃんとこの世で“手当て”した方がいいかもしれない、とワーク中思った。放置していることが“温存”となっているのかもしれない。

 

私は奇跡が見たいし、ヴィジョンを得たい。

奇跡は真実の顕在化であり、そこにすでにある真実がヴィジョンによって見えてくるのだという。

私は紙の上で学んでこそいるけど、奇跡もヴィジョンも体感できていない。まだまだよくわかってないんだなと改めて思う。

復習Ⅱおわり-レッスン61~80

2017-03-23

レッスン61~80を復習する「復習Ⅱ」が修了。

ここでは、初めて「赦し」という概念が出てきて、それが「私の機能(はたらき)」なのだということが示される。

また「不満」ということがどれだけ機能と逆行するものであり、ACIMの意図する神の救済計画への攻撃であるか。

だから、不満を「奇跡」と入れ替えるべき。そうすることができれば問題と思うものは存在しないのだと。

復習Ⅱのレッスン61~80の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編より』)。短いシンプルな文言が多くくりかえすうちに、復習Ⅱの元(英語)の主題概念は覚えた。英語圏の方とコミュニケーションする機会があったら唱えることができるけど、相手がACIMに親しんでる人じゃないと「なんじゃ、そりゃ」ってなりそう。。。

  日本語  英語
61私は世の光である。61I am the light of the world.
62赦しは、世の光としての私の機能である。62Forgiveness is my function as the light of the world.
63世の光は、私の赦しを通じて、すべての心に平安をもたらす。63The light of the world brings peace to every mind through my forgiveness.
64私が自分の機能を忘れずにいられますように。64Let me not forget my function.
65私の機能は、神が私に与えたものだけである。65My only function is the one God gave me.
66私の幸せと私の機能はひとつのものである。66My happiness and my function are one.
67 愛が私を、愛と同じに創造した。67 Love created me like itself. 
68愛は不満を抱かない。68Love holds no grievances.
69私の不満が、私の中の 世の光 を隠している。69My grievances hide the light of the world in me.
70私の救済は私の中から訪れる。70My salvation comes from me.
71神による救済計画だけがうまくいく。71Only God's plan for salvation will work.
72不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。72Holding grievances is an attack on God's plan for salvation.
73 私は光が訪れることを意志する。73 I will there be light. 
74 神の意志のほかに意志はない。74 There is no will but God's. 
75 光は訪れている。75 The light has come. 
76 私は、ただ神の法則のもとにある。76 I am under no laws but God's. 
77 私には奇跡を受け取る資格がある。77 I am entitled to miracles. 
78 奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。78 Let miracles replace all grievances. 
79 問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。79 Let me recognize the problem so it can be solved. 
80 私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。80 Let me recognize my problems have been solved. 

レッスン90-レッスン79、80の復習

2017-03-21

冷たい雨が降り続いている。“催花雨”というらしい。花芽が吹くには雨が必要だそうで、花に早く咲けと促す雨なのだとか。繊細で美しいな。昔の季節感は今よりもっと味わい深いものだったのかも。

気づけば、今年の冬は一度もエアコンをつけなかった。乾燥するし電気代も高いしと。もっぱら電気ストーブを連れて居住スペースと仕事部屋を移動していたら、不自由も感じなかった。しかし、今日は真冬みたいな寒さ。足元で電気ストーブが頑張ってる。

レッスン79:問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。

このレッスン79、これまで何度もくりかえし目にしてきて、やっと肚に入った気がした。

問題=不満

解決法=奇跡

、という見方。

不満がなぜよくないか。

それは、不満が自ら創りあげたものでどれだけリアルに感じようと実際にはないものだから。

それにかかずらうのは無意味だし、無益だ。

せっかくの奇跡の機会を奪っているから。

 

この世で自分の身に降りかかる不都合なことすべてを、

じつは「起こっていない」と見抜くのはむずかしいけど、

ついその理不尽さを嘆いたり、

正義をたてて怒ったりするけど、

問題とは不満、

解決法とは奇跡、

そして奇跡とは、真実を見通すこと。

だから、不満を赦し、それを入れ替わる奇跡を受け入れることが、自分を幸せにする。

ゲンジツで不都合なことに巻き込まれると、すぐに「問題とは何か」を忘れてしまうけど、このことをなるたけ覚えていられる時間を長くしたい。

リアルに感じられるように起っているけれど、問題は実際はない。私たちのものの見方の誤りでそう感じているだけで実際にはない。

問題が起こった、と思ったら、それを赦すこと。現実ではないと見抜きそれにまつわる感情をゆるめ弔うこと。

幻想に大きい、小さいはないと言うけれど、自分にとってインパクトがあることが起こっても、この原則を覚えて実行できたらいいと思う。

レッスン80:私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。

大畑学さんのWorkbook精読には「簡単に言えば、実相的には問題はどこにも存在しない。問題を抱えた時点で、あなたは幻想を抱いている、ということである。」と解説があった。

たしかに。。ゲンジツに問題があるように見えても、本人はまったくそれが問題ではなく動じず幸せのままでいるということも、理屈の上ではありうる。

今回ワークをやった際に「困ったことは起らない」というフレーズを思い出した。日本一の納税額(お金持ち)で有名になった斎藤一人さんの最初の本『変な人の書いた成功法則』にあったのだ。

昔すごい考え方の人もいるものだと感心し、それから何か困ったことが出会いそうな局面で「困ったことは起らない…困ったことは起らない…」と念仏みたいに唱えている。

この言葉は一元性の世界観に基づいているわけではないけれど、こう唱えるだけでもネガティブに流されがちな姿勢が正される。

レッスン61~80の復習Ⅱでは「不満」や「問題」がいかに光の道に反したものか、手を替え品を替えくりかえし説かれた。

不満・問題⇒幻想を見ている

⇒だから、それを赦す

不満を常に奇跡と入れ替えるということ。

よくポジティブシンキングというけれど、これがほんとうのポジティブシンキングなのかもしれないな。

二元性の光と影の光だけを見ようとするポジティブシンキングではなくて。

これは、ひとり家で穏やかにワークをしている時は「わかった」と思うけど、外に出て出会いがしらに猛スピードの自転車にぶつかりそうになった時には、すでに忘れている。

とにかく不満の芽を育てないようにしよう。赦そう。

なるたけ覚えているように、しよう。

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