レッスン103-神は愛なのだから、幸福でもある。
2017-04-25
外は日差しが出てよい陽気だ。
今朝のテレビで、今日は朝鮮人民軍の記念日で北朝鮮が核実験や弾道ミサイル発射をするかもしれないと聞いた。それがあればアメリカは武力行使をする“Xデー”なのだとか。
こんな穏やかな春の日に?
その後どうなったんだろう。
北朝鮮の最高指導者の動きを見ていると、ACIMで説明されているエゴの思考がよくわかる。無意識の怖れと罪悪感が非常に強くて自らのうちに認めることができず他者に投影し、それを敵とみなす。そして、やられる前にやれ、悪いのはあいつだ、とけしかける。アメリカのトランプ大統領の方も同じだ。それをこうして見ている私も同じ。
そこが行きつく先は破滅でしかない。
でも、これはまた私が見ている幻像でもある。
そこでなすべきことは、赦すこと。大きなことであろうと小さなことであろうと、やはり赦すことだ。
レッスン103-神は愛なのだから、幸福でもある。
レッスン103は引き続き「幸福」がテーマだ。
「神は愛なのだから、幸福でもある。」
へんな文章だ。ここでもやはり「幸福」にまつわる罪の意識や、神に対する恐れという誤解を解くことがテーマになっている。
「幸福は愛の属性である。」レッスン103はこの言葉から始まる。
愛はいたるところすべてにある。だから、幸福もいたるところすべてにある。
苦痛は必要ない。
喜びを感じていい。
私たちは、「苦痛があるからその対価や報酬として喜びを許可される」といった発想がしみついているように思う。
この発想は神には愛と罰の両方があるという、私たちのまちがった神のイメージに基づいている。
しかし愛には対極はない。すべてを包み込むものに対極はない。
私たちは苦役や苦痛の末のつかの間のごほうびとしての喜び…ではなく、いつであれどこであれ、喜びや幸福を自分に認めていい。
「神は愛なのだから、幸福でもある。
神を恐れることは、喜びを恐れることである。」
レッスン103は上記の言葉で「神は恐れであるという誤った信念を訂正する」。
2つめの文章は、主語と述語を逆にして
「喜びを恐れることは、神を恐れることである。」とも言えるかもしれない。
幸せになってもいい。幸せであってもいい。神は私たちに幸せだけを望んでいる。ないものに振りまわされず幸せを見よ。
幸せに自らがかけているリミッターを外せ。
ワークをして
何年か前の歯医者さんで、すごい恐怖を感じたことをなんでか思い出してた。歯科医は、「恐い」という私の感情がわからず、「痛い」のが嫌なのだろうと思っていて、大げさに恐がっていた私に「なんだ、これ、神経もう抜いた歯だよ、痛いはずはないじゃない。だまされたよ」と言ってた。
だましたんじゃなくて、痛いのがやなんじゃなくて、恐いんだよ~と、口をあんぐり開けながら、心で訴えていたけど、おそらく伝わっていなかっただろう。
私はただ恐くて、恐くて。たぶん、今、また歯医者さんに行っても恐いだろう。
例え恐れが心の中だけに在るものだとしても、恐れている者にとっては恐怖はリアルだ。
私は怒れる罰する神のイメージを歯医者さんに被せていたんだ。
そしてエゴの支配が強いからこそ、強い恐怖を感じてしまった。
人はその立場や境遇によって、恐れの感じ方や感じる場面は異なる。自分で創り出してしまう罪の投影もさまざまだ。
歯医者さん、恐くない、痛くない、と言われても、恐いものは恐いし。
そのエゴは少しずつ薄皮を剥ぐようにでも、解体されているんだろうか。
そう思いを巡らしていたら、北朝鮮の若き最高指導者の恐怖心はいかばかりだろう、とふと思った。
恐れはどこにも行きつかないばかりか、それを心理的リアルにすることでさらに深い恐れを呼ぶだけだ。
レッスン103は以下の言葉で恐れを鎮めなさいと締めくくられている。
「神は愛なのだから、幸福でもある。
私が今日、追及するのは幸福である。
私は真理を追求しているのだから、決して失敗しない。」