『奇跡講座』 ワークブック

ACIMレッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

2018-05-11

新しい町が気に入っている

おかげさまで、ようやく意識が「マンション売却」から「引っ越し」に移ってきて、引っ越しが実感できるようになってきた。

住まいを駅で選んだわけではないけれど、内見やらなんやらで行くにつれ、町に親しみが増してきている。商店街には八百屋さんや靴屋さんなど昭和の面影が残る店があって、ほっこりする。

今は「この町が好きだ」と思う。

この年になって、また心機一転の気分。あるいは、長い滞在型の旅をするかのようだ。

この世が幻想であっても、環境の影響って大きいと思う。

この世がすべて結果なら、私という原因がどこか変化したから、私が見る環境が変わったということだろうか。

体は、ぎっくり腰はよくなったけど、昨日からまだ膀胱炎っぽい。

こちらの幻想はこじらせる前にさっさと手放したいが。

レッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

レッスン189は、「あなたの中には、世界が知覚できない光がある。この光を、あなたはこの世界の目で見ることはない。あなたは世界によって目が見えなくなっているからである。」(L189-1-1)から始まる。

この世界が知覚できない、内なる光とは、内なる神の愛の反映である。

この神の愛に意識を集中してこれを認めることが、この今回のワークのお題だ。

私たちが内なる神の愛を認めて感じるなら、その反映としての世界というスクリーンには、無垢性と祝福を見ることになる。

今、私の目に映る世界には恐れと怒りが渦巻いている。

これは、私の見方がエゴを通したもので間違っていると示す証拠だということだ。

見方の二者択一

見方は二つに一つ。神の愛を認めるか、否か。神の愛か、罪&恐怖か。どちかかが幻想でどちらかが実在する。

そのどちらもが在るということはありえない。

私はどちらを選ぶのか。

それは「『人は自らの内に感じているものを見ることになる』という知覚の法則(L189-5-2)」に従っている。

だから、

今日、私たちは幻想を通り越して、幻想を通り越し、自らの内にある真実なるものに到達しようと努める。」(L189-6-1)

そして、

愛と愛からのギフトである光を感じる視覚を感じることを試みる。

そのためには、既存のすべての概念を取り去って、心を空にする。

ワークで取り去るべき概念の中には、「この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい。」(L189-7-5)とACIMでさえ忘れ、まっさらな心でいることが強調されている。

そして、ただ神に来てもらうことだけを願う。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。」(L189-8-7)

「問題」「困りごと」はエゴのエネルギー源だから、今は忘れる

おそらくエゴが幻想であるエゴを保つには、エネルギーを与え続けることが必要だ。それが、私たちがこの世で目にする「問題」だ。

問題はこのレベルでは確かに解決すべきことだけど、この世界は結果にすぎないとしたら、その原因のほうを解決することが合理的だ。

その原因は、私(たち)の心の中の神の不在だ。神と私たちは切っても切り離せない。ただ神を認識すること。

そのために心の中のあれやこれや、とくに自分がもっとも問題だと感じていることを脇に置くこと。

神にお願いごとをしたり問題解決を願うのは、神を自分(エゴ)の望みで変形させようという試みだ。

そうではなく、それらを一時心から出して、ただ心を空にすること。

それが神を感じられるスペースを作ることであり、神に近づくことだ。

呼吸をするくらいに無意識にできたら…

ACIMブログを書いている時は、もちろん覚えているけれど、こういうことは渦中に入るとすぐわからなくなってしまう。

だから、くりかえしが必要なんだな、と思う。

前よりも、神さまが怖くなくなった。神の愛を素直に感じられるようになったと思う。

歯磨きくらい、呼吸をすることくらい、神の愛を感じることが習慣化されたら、この世界もまた違って見えるだろうなと思う。

ACIMレッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

2018-05-02

引っ越しはまさに断捨離のため?

家にある荷物を見ながら、「やっぱり断捨離しなきゃダメだな~」と思っている。

新居は押入れ一つ分の収納が減るし、本棚の置き場所も減るから、使わないものは捨てなきゃ。

「断捨離」って友だちがよく使うけど、「ものを捨てる」ってこと?ようわからん、と思っていたけど、

ネットでちらと見たら

  • 」=入ってくる不要なモノを断つ
  • 」=不要なモノを捨てる
  • 」=モノへの執着から離れる

という意味があるとか。

「例えば、モノが増えてきたから捨てればいい、ではなくて、自分にとって『本当に必要なものを見つめ直そうとするのが断捨離です。」とある。

それならば…!

私が、引っ越しすることになったのは、実際のところ断捨離したいからかも。

モノのだけじゃなくて、自分の在り方の。

自分という存在の“ぜい肉”を落とし、幹をしっかりと太く堅くしたい。今回初めて自宅に増えたものに気づいたように、引っ越しは手っ取り早くいろんなものを見直すきっかけになる。

メルカリ初出品

この前は初めて「メルカリ」に挑戦した。購入後返品しそびれていたウォーキングシューズを売った。

写真を撮ってちょこっと説明書いて、出品ボタンを押すだけだったけど、初めてのことってやはり気合いが要った。

むかしむかし若かりし頃、「おばさん」って、新しいものを使いこなせず、なんてとろくさいのだろう、と思っていたけど、自分が成長して、まさに、その生物になろうとは…(^_^;)

「メルカリ」では質問を受けただけじゃなく値引き交渉を受けたことも新鮮だった。まだわかっていない暗黙のルールもありそうだ。でも、初めて「ネットを通して売る」体験は、ほんのちょっぴり自信にもなった。

占いの本とかも、ブックオフに持ってくんじゃなくてメルカリに出品してみようかな。

レッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

レッスン188でも、言葉を変えながら、神と自分がひとつであることを説いている。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)というのが、なんかいい。

認識できるようになる道程、それがACIM(A COURSE IN MIRACLES)だ。

今ここに光はある。

自らの内にある。

見えるものはすべて、内なる視覚で見られたものの影である。知覚は内なる視覚から始まり、内なる視覚で終わる。それ以外の知覚の源はない。」(L188-2-6,7)

だから、

神の平安は、今あなたの中で輝き、あなたのこころから世界中へと延長される。」(L188-3-1)

この光と平安を自らに認めるには、静かに座り、目を閉じて内に向かうこと。

あなたの内にある光で充分である。L188-6-2)

このフレーズも好きだ。

その光だけで、あなたに視覚の贈り物を与える力がある。」(L188-6-3)

忘れるのは仕方ない、なるたけすぐ思い出せるようになろう

こんなに、手を変え品を変え、ACIMは勘ちがいをとりなしてくれているというのに、ちょっとでも、ゲンジツに自分にとって不具合なことが起こると、すぐ心乱れてしまう。そして、わけがわからなくなってしまう。

私は新居を購入した不動産屋さんからあるはずの連絡がなく、不安に思いいらだちを感じていた。

そんなささいなことでさえ、心がさざめいてしまうのだ。

怒る必要があることなんて、この世にはない(正しい目で見れば)。

怒りの裏には恐怖、不安、見捨てられ感がある。

怒りは、それを赦せるために、そのことのために起っているんだ。

連絡がないことは、私自身のだらしないところを見せていて、それを赦すために現れているように感じた。

すべての不愉快な、あるいは理不尽なことには、赦しの機会だということを、なるたけ覚えていたい。

私たちは、世界が自分に為したと思っていたことについて全世界を放免し、一切を赦す。私たちこそ、自分が望む通りに世界を作り出す当事者だからである。私たちは今、世界が無垢であり、罪がなく、救済に向かって開かれたものとなることを選択する。」(L188-10-2,3,4)

意識に残ったところを書きだそうと思うと、どんどん増えて全部になってしまいそう。

ACIMの教え、日常生活のなかで、すぐ忘れてしまうのは仕方ないとして、なるたけすぐに思い出せるようになりたい。

ACIMレッスン187-私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

2018-04-30

後ろめたさが緩むGW

GW真っただ中。

私は昨日もおとといも、ただぼーっと過ごした。なんだかとても眠くて、眠くて。でろりんとしている。考えもまとまらない。

金曜日の売却の契約で、昨年末から始まっていたマンション売却・住み替え・引っ越しプロジェクトがひとくぎりで、知らず知らずの間に臨戦態勢にあった身体から力が抜けたようだった。

自分がそんな“臨戦”だったことに、軽くショックを受けた。私は、だれから身を守りだれと戦っているんだろう。

GWは好きだ。

GWこそは籠りたい。世間が休みということで、罪悪感なく自分のやりたいことに向かえるから。

いつも世の中のみんなが頑張っていて自分が頑張っていないことに、どことなく「後ろめたさ」を感じていて、常に煽られ感がある。GWはそれが緩む。

新しい住処の後は、新しいはたらき方、収入源をかたちにしなくては。

レッスン187-私は世間を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

レッスン187は、ちょうど私にとっての女神=買主さんが現れた時のワークだった。

            *

自分が持っているものでなければ、与えることはできない。

この世の見方では、与えてしまったら与えた方は失うが、ACIMはそうではない、という。ものはそれを作り出す想念を表現したもので、想念は与えることによって、強化され増大する。

強化され増大された想念は、さらに与えた時より好ましい形で返ってくる。

だから、「自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それらを守りなさい。そうすれば、あなたは自分がそれらを決して失わないと確信する。」(L187-4-1)

失うように見えるものは、いずれは必ず自分に戻ってくるものに比べて、自分にとってずっと価値の低いものばかりである。」(L187-5-8)

与えた者は、犠牲を払っているかのようだが、「犠牲」という概念はまさに幻想の産物であり、「狂った概念」だという。

苦痛や損失、病気や悲嘆、貧困、飢えや死などで現れる一切の犠牲もありえない。

自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない。」(L187-8-1)

もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が、誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。」(L187-8-3)

犠牲ではなく、あるのは祝福だ。

犠牲は神への恐れと罪悪感から生じているが、神との分離が幻想なのだから、犠牲など存在しえない。

ただ、祝福がある。

今、私たちは祝福されており、だから今、私たちは、世界を祝福する。」(L187-11-1)

神への恐れと罪悪感は、とてつもなく大きな幻想だ。大きすぎて直視できず認めることも拒否している。

私たちは、たえずスケープゴートとして非難し祭り上げる人を求めている。悪いのは自分ではなく、「あの人」だと。最近はマスコミなんかでも、その傾向がさらに強く出ている気がする。

自分を責めたくなる分だけ、目の前の人に寛容になれ

私はこのワークをしている時、生前の父に対する申し訳なさが出てきた。

それは「こうすればよかったのに」という後悔になって、さらに自己否定へとつながっていった。

でも、それから、「申し訳なさは幻影。申し訳ないと思ったときは、それを手放して感謝を倍にしなさい。」と言われた気がした。

ワークをしていて、最近のぎっくり腰や膀胱炎も、自分の中の罪悪感に気づく機会なのだと感じた。

それから、こうも感じた。

人間はおしなべて、苦労に耐えられないんじゃなくて、幸せに耐えられないんだ。

勘ちがいの罪悪感に苛まれ続けるから。

自分を責めたくなる分だけ、

目の前の人に寛容になれ。

見ているのは自分自身だ。

ACIMレッスン186-世界の救済は私にかかっている。

2018-04-27

「喜びとは静かなものである」

先週、欲しかったもの(気に入った新居)が思いがけず手に入ったという喜びを感じていた。そして、とてもコーフンしていた。

エネルギーが乏しい方だから、そのコーフンで感情エネルギーを使い疲れ果ててしまい、土曜に懸案だった自宅マンションの売却まで決まった時には、うれしいんだけど反応する余力が残っていなかった。

レッスン186は、そういう最中の一週間に行った。

ワークをしている時、この新居は、自分に与えられた役割(聖霊には母のいる故郷に帰れと言われた気がしたことがある)に素直になりきれず、駄々をこねる子に対して聖霊が与えてくれた「おもちゃ」なのかもしれないと感じた。

手を引かれ、「ほら、家に帰るぞ」と言われているときに、縁日のおもちゃや雰囲気に魅せられ「まだ帰りたくない」という幼児に、「これ買ってやるから」と大人がなだめておもちゃを買い与えるように…。

そんなふうに感じつつも、一方ではやっぱりとってもうれしかった。

ワークでは、「喜びとは静かなものである」という声(メッセージ)も感じた。私が先週感じていたコーフンは、真の豊かさを反映した喜びとは異質なものなんだろう。

レッスン186-世界の救済は私にかかっている。

主題概念の「世界の救済は私にかかっている。」とは、いかにも大げさである。ワークブックにも「今日の主題概念は、その意味がわからないうちはひどく深刻なものに思えるかもしれない。」(L186-3-1)とある。

だけど、世界は、分離した(ことになっている)神の子が、それぞれの位置から映画を見ているにすぎないこと、自分の世界はただバーチャルリアリティ映画そのものであること。

その真実に目覚めることで見える「世界」が変わるのなら、この私が見ている世界の救済は私にかかっている、というのは、理にかなっている。

この考えを受け入れることは、謙虚さである。

この考えを否定することは、傲慢である。

もし、神の声が、救済にあなたの役割が必要であり、そしてその全体があなたにかかっていると保証するのであれば、その通りであることに確信をもとう。」(L186-5-4)

聖霊はこの気づきをサポートしてくれている。しかしー

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。」(L186-7-2)

最近の私は(いや、ずっと前からも)こんな↑感じだ。

聖霊の声を聞いてしまったらー、ぼんやりとではなくクリアに感じてしまったらー「困る!」(それによって、私が仕切りたいと思っている人生の路線を変えなければならないから)と、ずっと思っている。

そして、ワークブックを学び、聖霊に耳を傾ける時間を取りながらも、同時に耳をふさいだり開けたりしている。

そして、垣間にもれ聴こえる声をかいつまんで聴いて、従ったふりをする。

あ゛…、自分でそこまで気づいているなら、もうそろそろ「ふり」はできなくなるな。

この世界を見せているのは自分だ、とワークを続けるなかで、私はより納得できるようになってきた。

神の声が指示するとおりに行いなさい。もしその声があなたに不可能と思えることを求めるなら、誰が求めているのか、誰がそれを拒否しようとしているのかを思い出しなさい。」(L186-12-1)

神の声(聖霊の声)に素直に。

これが私のお題だ。

耳をふさいだり、開けたりしながら、聴こえないように「あ~」と自らの声を出している。

その声を静めて、ふさいだ手を下ろすこと。

そして、目前の赦しを実践していくこと(これがむずかしい)。

この世界の救済はすことのできるあなたにかかっている。それがここにおけるあなたの 機能はたらきである」(L186-14-5)

∠(`・ω・´)

ACIMレッスン185-私は神の平安を望む。

2018-04-25

ぎっくり腰と膀胱炎

外は大雨。

私は、まだぎっくり腰と膀胱炎で家の中を腰を曲げてそろそろと歩き、トイレばかり行っている。

市販の薬飲んでいるけど、お医者さん行った方がいいのかな?

でも、行けば抗生物質を出されるだろう。できれば抗生物質は飲みたくない。もう少し様子見するか。

明後日の念願の!売買契約までに、治すことができるかな。契約中も不動産屋さんで、そろそろと中座してトイレを借りることになるのかな。

体調の悪い時、「これは幻想だ!」と思って手放すようにする。だけど、ただそう思っただけですぐに回復させられるくらい、まだ視点の転換に熟練していない。

ゲンジツの不愉快さを何とかしたいと、つい逆に幻想にフォーカスしてしまい、それを強化してしまう。いわゆる負のスパイラルに陥りがちだ。

ここに、不具合として現れているものは、内なる恐怖と罪悪感の象徴にすぎないのだから、これもまたanother chance for forgiveness(新たな赦しの機会)にすぎない。

それでも、この幻想って、今の私には、すごくよくできていて、ものすごくリアルだ。

レッスン185-私は神の平安を望む。

レッスン185は、「私は神の平安を望む」と、シンプルなACIMの主題のなかでもことさらシンプルだ。

この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。」(L185-1-1)

神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。」(L185-5-1)

ここでは、「本気で(言う)」というところがミソだ。

今日は、自分の口にする言葉を自分が本気で言っていると認識する練習をしよう。」(L185-7-1)これがこのワークのお題だ。

平安を望まない人はいない。でも、本気で望むときには、この幻想の世がもたらしてくれるように見える手段に執着してはならない。たとえば、社会的地位やおカネ、贅沢品、見た目の良さ、肉体的強さや若さ、人気とか…?

これはとても難しいように思える。この世に生きていてそれらをまったく願わない人はいないと思う。願うのはかまわないけど、執着してそれをリアルにしてしまってはならない、真実を見る目を曇らす、ということなんだろう。

でもやはり…今の私には難しく感じる。幻想と知ってるつもりだけど、今の自分の知覚にとってはリアルだし、その知覚を楽しむのがなじんだ“生きている感”でもあるから。それら全部を手放したら、重力がなくて宇宙空間にふわふわ浮いているかのようになりそうだ。

神の平安を真摯に求めるなら、その手段は理解できる形で与えられる

レッスン185では以下のパラグラフがとくに心に残る。

平安こそが自分の望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。

平安を求める願望が真のものであるとき、平安を見出す手段は、それを誠実に探し求めるそれぞれの心が理解できる形で与えられる。彼が真摯に求めているなら、レッスンはどのような形をとるにしても、彼が見間違うことのない形で計画されている。」(L185-6-1,2,3)

神の平安に対して、真摯であれ!

そうすれば、旅の途中で自分のコースの一里塚を見逃しはしない。

この部分に安堵を感じる。

ただ、幻想のキラキラに心ときめかすところも未だ大ありな私にとっては、旅の至るところに“踏み絵”もまた置かれているだろう。

ACIMは幻想の快感の手段のすべてに対して、「一つの問いが問われなければならない」としている。

『これが、天国や神の平安のかわりに、私が望んでいるものだろうか』と。」(L185-8-8)

いや~、ACIMワークブックはがんがん細かいところまで詰めてくる。「ふり」は許されない。

は~、長い道のりだ。

どのくらい長いのか見当もつかない。

とりあえず、私は次の一里塚をめざろう。のろのろと。

ACIMレッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

2018-04-20

や~っと、ダンベル、できた

レッスン183のワークについて書いた前回、ワーク中「姿勢を良くするために体幹を鍛えよ、そのためにダンベル習慣を再開せよ」というメッセージを受け取った気がしたと書いた。

「姿勢を良く、体幹をしっかり」というのは、ここ最近のワーク中毎回感じることだ。

これが、いわゆる聖霊からのメッセージかどうかは自信はないが、これだけ具体的かつ健康に良さげなこと、やってみればいいじゃないか。ここで書いてしまった以上、ダンベルを再開しなくてはブログ更新できない気がしていた。

そして、やっと、やっと…、今日できた。

あまりにもささやかなことだけど。やれやれ。

ダンベルをすると血流が良くなるのか、身体がすっきりする。

できたら、一回だけじゃなくて前のように習慣にできたらいいけど。

私が「きれいだな」と思う人は、年齢にかかわらず姿勢がいい。しゃんと背すじが伸びた、存在そのものが美しい人に憧れる。

レッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

レッスン184は、名づけることについて書かれている(と思う)。

「あるもの」に名前を付けることで、そのものの性質が知覚され、自分との関係が定められる。そして、自分から分離したある存在として認識される。

名づけることは、意味をもたせることであり、存在理由をつくることでもある。

私たちは、このゲンジツの世で限りない名づけを行って、幻想に厚みを持たせてきた。

そして、その共通認識を身につけることを学びといい、それによってコミュニケーションを成立させてきた。

でも、ACIMを学べば、それはいかに複雑で厚みがあるように見えても、やはり幻想に拠っているのだとわかってくる。

ただ、身体を持って、この幻想の世の名づけにしたがったゲームに参加している者は、名づけからまったくフリーになることはできない。

ACIMがいかに素晴らしいと感じても、ACIMの理論だけではこの世でコミュニケーションができない。

そこに、私自身の「??」もあったように思う。

ACIMの価値観を深めつつ、この世でどう生きたらいいのか。ACIMを勉強しているつもりで、ただの「浦島太郎子」になっている私。世間話の相づちさえヘタになってる(・・;)

ACIMとゲンジツ、どう折り合いをつけたらいいのかな。

この世のルールにしたがいつつも、その下にはACIMの層をしっかり意識し、その価値観からぶれないようにすべきなのかな。は~、いつもぶれぶれだけど。

こうした思いに揺れている私に、レッスン184はひとつの指針を与えてくれる。

ゲンジツを生きつつACIMを歩むヒント

あなたはもうしばらくの間、この世界の象徴を使う必要がある。しかし、それらに騙されてはいけない。」(L184-9-2)

それらはこの世界が理解できるやり方であなたが意思疎通をするための単なる手段となるが、あなた自身がそれが真の親交が見出せる場としての一体性とは違うということを認識している。」(L184-9-5)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

世界がそれらに与えている名前を単なる便宜のためにのみ使いなさい。ただし、それらがあなたとともに神の名を共有しているということを忘れずにいなさい。」(L184-11-4)

このあたりに、ゲンジツを生きつつACIMを歩む方法のヒントがあるように感じた。

「神に名はない。しかし、神の名はあらゆるものが一つであるという最後のレッスンとなり、このレッスンですべての学びが終わる。」(L184-12-1)

それをこの世で忘れないこと。そのために、この世のリズムから抜け出て、心を静めること。

そういうことかな。

よく言われることだけど、「忙」という字は「心を亡くす」と書く。忙しくするのは、エゴが正気を失わせる得意技だ。

やっぱり、ちょいちょい休んで心の声(聖霊の声)に耳を傾けるのが大事ということかな。

明日も、ダンベル、できるかな。

ACIMレッスン183-私は神の名と自分自身の名に呼びかける。

2018-04-17

怒涛の展開、現在渦中

4月も気づけば後半だ。やるべきこと、あまり進んでない(・・;)

先週金曜日から昨日にかけて、あくまで自分にとって、だけど、怒涛の展開があって、今も渦中にいる。

それは落ち着いてから…として、ワーク183だ。

これは、3月の終わりにやったワークで、その頃はまだ桜が咲いていた。ワーク…すでにどんなだったか忘れている。

日本は四季があって常に季節が移ろいでいく。これから春から初夏へと向かう。毎日そうは変わってない気がするけど、この世のゲンジツは自分を取り巻く環境も自分自身も含めて、常に常に変化し流れていく。

レッスン183-私は神の名と私自身の名に呼びかける。

名というものは、おしなべて認識のフック=手がかりだ。

神の名を心に浮かべることで、神を心にいだくことができる。

神の名に呼びかけるということは、あなた自身の名によびかけることである。」(L183-1-2)

それは、ワークブックにあるとおり、真の自己への呼びかけとなり、自分を思い出す。

自分=神の子、神の延長だということ

だから、レッスン183は、「神の名を繰り返しなさい」とくりかえし呼び掛ける。

「そうすれば、全世界がそれに応えて幻想を放棄する。」(L183-3-1)

「そうすれば、卑小な名前は意味を失う。」(L183-4-1)

「神の名を繰り返せば、地上の小さく名もなきものすべてが、正しい視座におさまる。」(L183-5-2)

と言い、

「今日は、神の名をゆっくりと何度も何度も繰り返すことだけを練習する。神の名以外の名は、一切忘れてしまいなさい。」(L183-6-1)と指示する。

この練習を行うことで、実相(神)だけが意識され、エゴのつくっている砂の城が崩れていく。

聖霊さんの具体的メッセージ!?

私はレッスン183の中の「黙して座り、神の名を、あなたの心を完全に包む包括的な想念になるようにする。」(L183-8-3)の次がとくに好きだ。

これ以外の想念はすべて静める。そして、ほかのすべての想念にはこれをもって応える。」(L183-8-4,5)

なんか美しく感じるから。

そうなれたらいいけど。ゲンジツの私は俗物で、まだまだそんなふうにはなれそうにない。

正しい方向に導いてくれる聖霊の声が聴けているかどうかもわからない。エゴの声と聖霊の声の聴き分けすらできているのかどうか。

ワーク中思いついたり感じたりすることが「それ」かな、と思ったりしているだけ。無意識のうちに聴けていて行動できているのかも、と思ったりもしている。

ここ最近ワーク中頻繁に思い浮かぶのは、

姿勢を良くすること

 ↖そのために体幹を鍛えること(腹筋背筋不足か、長い時間座ることもきつい)

  ↖そのためにダンベルを再開(1回20分のダンベルDVD、腹筋も含まれている)

これが聖霊さんのメッセージだとしたら、えらい具体的やな。しかも幻想だという身体のことだし。

おそらく、聖霊さんじゃないにしても、まぎれもなく私が気になっていることなんだろう。

だけど、半月前くらいから聴いている(思い浮かぶ)くせに、まだできてない。たかだか20分くらいのことでも、一回止めてしまった習慣を再開するのって、パワーがいるなぁ。

まず一回。

習慣として再開できるかどうかは、その後だ。

では、今日から。。。?

ACIMレッスン182-私は一瞬の間静まり、家に帰る。

2018-04-02

人間に許しがたきを許す、そこから先は神のためだと知らぬか

家の片づけに勢いづき、週末は家電を3つ近所のリサイクルショップに持ち込んだ。石油ファンヒーター、空気清浄機、加湿器…。値段が付いたのは加湿器だけで500円。

今やゴミの引き取りにもおカネが要る時代。十分だ。今朝は解体した本棚を粗大ゴミとして引き取ってもらった(1,100円かかった)。

物の処分でも手こずるのが、紙や書類だ。昔やっていた仕事やプロジェクト、勉強していたものの書類を見ると、時おり感情が揺れてしまう。今より若かった時代への懐かしさなのか、あるいは後悔も含まれているのか。揺れているのはもちろんエゴだ。

そうした昔の書類も、今の機会になるたけ捨てよう。片づけコンサルタントのこんまりさんも、テレビで「書類は全捨て」って言っていたではないか。

そう思って片づけ作業をしていたなか、ふと目に止まった詩があった。産業カウンセラーの勉強をしていた頃のレジュメにあった詩だ。

許しうるものを許す

 それだけならどこに神の力が要るか

 人間に許しがたきを許す

 そこから先は神のためだと知らぬか

 『八木重吉全詩集2 貧しき信徒・詩稿Ⅲ』

この詩…。「許す」は、ACIMのいう「赦す」ではなく、一般的に使われる「許す」の意味だと思う。だけど、ACIMの言わんとすることに近いニュアンスも感じる。

高校生の頃、八木重吉さんが書かれたある詩がすごく心に響いて、覚えていた。だけど、いつの間にか忘れてしまい、今は思い出せない。どんな詩だったんだろう。

ふと、八木重吉詩集というのを読んでみたい、と思った。

レッスン182-私は一瞬の間静まり、家に帰る

レッスン182は「あなたが住んでいるように見えるこの世界は、あなたの家ではない。心のどこかで、あなたはこのことが真実だと知っている」(L182-1-1,2)から始まる。

それをみんな心の奥では知っているけれど、思い出さないようにしている。仕事や遊びに没頭したり、感情を否認したり、その考えを否定したりして。

そして、永遠の安堵感を、この世でいろいろな手段に求めるが、結果的には徒労に終わる。

だれの心の中にも「父の家を探す幼子がいて、その子は自分がここでは異邦人だと知っている。」(L182-4-3)

その聖なる幼子こそが、私たちを導く内なる神の子だ。

「彼は家に帰ることを深く絶え間なく欲しており、彼の声は少し休ませてほしいとあなたに訴えている。」(L182-5-3)

「この幼子とは、防衛しないことによる強さそのものである。彼はあなたを信頼している。」(L182-7-1,2)

この世での時間のゆとりを設け、この内なる幼子の声を聴くことがこのレッスンのテーマである。

そして、この幼子の持つ防衛しないでいる無垢な強さこそが、自分の内にある強さであるという、その認識。

死の恐怖を忘れるため、ハードワークをする!?

少し前『東大から刑務所へ』という本を読んだ。堀江貴文と元王子製紙会長の井川意高(カジノで会社のおカネ106億8000万円を使い込み逮捕された)の対談集を読んだ。

(堀江:僕は小さいころから「死の恐怖」に苦しんできたんですよ。でも、シャバにいるときはとてつもなく忙しく動いているから「死の恐怖」は忘れている。長野刑務所の独房で寝ているのときには時間がありすぎて「人は必ず死ぬんだよな」という恐怖に襲われました。P208)とホリエモン。

たしか前の本でも、死の恐怖を紛らせるために忙しく働いていたといったようなことを言っていた。

案外、正直な人なのかもしれない。

私も幼い頃から、死が怖い。

今は前より怖くなくなったとは言え、迫っていると感じたら、どんなにか恐怖を感じるだろう。

もちろん、それは幻想だと、頭ではわかっている。

でも、まだまだエゴの見方から聖霊の見方に矯正できていない。

それよか、私は、ACIMをまったく知らない平均的な人より、防衛的だ、たぶん。

「姿勢を良くしろ」

最近ワークをしていて感じるのは、「感謝しなさい」ということと共に、「姿勢を良くしろ」ということ。

そのためには、体幹を鍛えること、手始めには前やっていたダンベルを再開…と、具体的なイメージも浮かんできた。

これは…、聖霊さんのメッセージ?

やっぱり私が勝手に思いついていること?

ACIMでは身体に重きを置くべきではないとしている。それなのに、姿勢をよくするために体幹を鍛えろとは…!私は、聖霊さんというより、エゴの声を聴いているんだろうか。

まぁ、腹筋背筋が衰えていて、椅子に座っていても前かがみになりがちではある。どっちにしても、体幹を鍛えて悪いことはなにもなさそうだ。

ACIMレッスン181-私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

2018-03-29

あたらしい展開、あたらしい風…

桜が早くも散り始めていた。

3月も、もう終わり。

新年は1月だけど、4月こそ生きものの新しい一巡のはじまりのような気がしている。やる気に満ちた季節。だけど、だからこそ、諸々焦りも強くなっている。

ワークをしていてふと思ったのは、私は余計なものを抱え込んでしまって重くなってしまったということ。

“あたらしい展開”、“あたらしい風”を呼び入れるために、居住地を変える必要があったのかな…、と。

もちろん、今いるところで新しい展開は可能だけど、私の場合、しがみつきが知らず知らず頑固になってしまっているから、家を引っ越す、くらい根底から変えないと、身動きできなくなっていたのかも。

幸い、引っ越し先は、今の居室の半分くらい。

たくさんいろいろなものを捨てるきっかけとなった。粗大ゴミにも3回くらい申し込んだ。この15年に溜めてしまっていたものの多さと言ったら…!

マンション売却のほうは、内覧4件目の若いご夫婦の方が購入申込みしてくださった。とてもありがたい。

ただ、勤めて間もないこと他で都市銀行の審査が通らなかった。その後、信用金庫に事前審査を申込みしていて、そろそろその結果が出る。

通ればうれしいけど、そう簡単ではないのかもしれない。

 

次のレッスン、181~200がまたひとつのかたまりだ。

ここでは、自分の進歩を阻んでいるものに焦点を合わせて、その防衛を超えていくことに注力する。

レッスン181-私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

進歩を阻んでいるものの一つは、「罪」や「欠けた部分」に焦点を合わせるクセだ。

「知覚には焦点がある。これが、あなたが見るものに一貫性を与える。」(L181-2-1)

「兄弟の罪に焦点を合わせるのはやめなさい。」(L181-2-5)

「彼らの間違いに焦点が置かれるならば、それはあなたの中の罪の証言となる。」(L181-2-7)

自分の罪を投影して他人に見える“罪”をゆるし、自分の無罪性見ることに心する。

そして、過去のことや未来のことを気にかけるのは、今の自分の見方を変えたくないがための、防衛手段のひとつだだから、このワークでは、自分が無垢であることだけに意識を集中させる。

誰かの「罪」が見えたり腹を立てるようなことがあったならば、それは焦点の合わせ方がまちがっているというサインなのだから、その時は、

私が見たいのは、これではない。

私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。」(L181-6-4,5)

と自分に言い聞かせ、焦点を変える。

それができたら、罪と見えていたものはぼやけ罪のない世界に焦点が合う。その世界には、愛だけが映し出される。

怒りや恐怖心より、手放しにくい、罪悪感

思えば、今年に入って、マンションを売る件で何人もの不動産屋さんに会って、「不動産屋さんにだまされないで」と各々言われたのを口を聞いて、身構え、「兄弟たちを信頼する」どころか、「人をうがった目で見る」ということを、意識的にやっていた気がする。

家の外では、所轄内で振り込め詐欺が連続しているらしく、警察車両が「安心・安全パトロール」として「…こうした電話は信用してはいけません」と毎日連呼していく。

こうした風景を見ている私は、内側に「罪」をたくさん持っているんだな~と思う。

自覚できる罪もあれば、自覚すらできていないものもあるだろう。

怒りや恐怖は自覚したら、案外手放そうという方向に持っていきやすいが、罪悪感というのは、もっとその奥にあって、取り除くのが難しいような気がする。

意識の深い層に巣くって、自分を罰するために、自分を悩ますものとして現れる気がする。

もちろん、脚本・演出は自分だ。

「私たちの無罪性は、神の意志にほかならない。」(L181-9-7)のだから、自覚できたものは、都度、拭いさろう。

家の片づけ・大掃除とともに、内なる罪悪感も手放し、軽くする。過去への執着も、軽くする。

復習Ⅴおわり-レッスン151~170

2018-03-28

 レッスン151~170を復習する「復習Ⅴ」がようやく修了しました。復習Ⅴのレッスン151~170の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編』より)。

ふりかえってみたら、レッスン151をやっていたのが、去年の10月2日(秋だ)。復習Ⅴを始めたのが今年の2月1日(冬だ)。

そして、今は3月28日。春。しっかり季節が巡っていた。

朝の散歩コースの桜も満開だ。

復習Ⅴは、各々のレッスンを統一する次のような中心テーマがあった。

神は愛であり、だから私も愛である。」(God is but Love, and therefore so am I.

この短い言葉が腑に落ちて自分とひとつになることが、このコースの最終的なゴールのように思う。

少しずつでも近づいているのか、あるいは迷子になっているのか…。

いつも、そんなこと言ってる。

なんか一生、ACIMワークをぐるぐるくり返すような予感あり…。何回転になるか。

 日本語 英語
151すべてのものごとは神を代弁する声のこだまである。151All things are echoes of the Voice for God.
152決断の力は私にある。152The power of decision is my own.
153防衛しないことの中に、私の安全がある。153In my defenselessness my safety lies.
154私は神の司牧者のひとりである。154I am among the ministers of God.
155私は一歩退いて、神に導いてもらう。155I will step back and let Him lead the way.
156私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。156I walk with God in perfect holiness.
157今、私はキリストの臨在の中へと入っていく。157Into His Presence would I enter now.
158今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。158Today I learn to give as I receive.
159私は自分が受け取った奇跡を与える。159I give the miracles I have received.
160私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。160I am at home. Fear is the stranger here.
161聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。161Give me your blessing, holy Son of God.
162私は、神が創造したままの私である。162I am as God created me.
163死は存在しない。神の子は自由である。163There is no death. The Son of God is free.
164私たちは今、私たちの源である神とひとつである。164Now are we one with Him Who is our Source.
165私の心が、神の想念を拒否しませんように。165Let not my mind deny the Thought of God.
166私には、神の贈り物がゆだねられている。166I am entrusted with the gifts of God.
167一なる生命があり、私はそれを神と共有している。167There is one life, and that I share with God.
168あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。168Your grace is given me. I claim it now.
169恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。169By grace I live. By grace I am released.
170神に残酷さはなく、だから私にもない。170There is no cruelty in God and none in me.

ACIMレッスン180-レッスン169、170の復習

2018-03-26

お花見日和

昨日は暖かい陽気だった。

色彩のサークルの後、同じサークル友だちと都営荒川線(東京さくらトラム)でお花見の名所、北区にある飛鳥山公園に行った。

飛鳥山公園は、8代将軍、徳川吉宗公が享保の改革の一環として飛鳥山に1200本以上の桜を植樹して庶民が飲み食いお花見できる場所としたことから発展したのだとか。

人、人、人…犬。人、人。犬(なぜかワンちゃん連れが多かった)。公園は老若男女で溢れかえっていた。小高い丘も、シートに思い思いの食べ物を乗せたお花見客でびっしり。

江戸時代にも老若男女がお花見を楽しんだ姿を想像すると、かたちを変えながら人の営みが繰り返されているのかな、と感慨深い気がした。

お花見というより、お花見客見、という感じだったけど、日本人の季節行事の(みんなでえいっと飛ぶ)“大縄跳び”に参加できた気がして、なんだかうれしかった。

レッスン180-レッスン169、170の復習

レッスン180は、レッスン169とレッスン170の復習。

L169)恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。

L170)神には残酷さはなく、だから私にもない。

「恩寵」という言葉が、普段なじみがなくて「恩寵とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に最もよく似ている。(L169-1-1)」という説明も漠然としていてよくわからなかったけれど、わからない、はACIMではいつものことなので、さほど問題とは思わない。

神との一体性がもともとの姿で、それを思い出すこと。

一体性とは、簡潔に言うなら、「神、在り」という概念である。(L169-5-1)

私たちは「神、在り」とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-4)

この「神、在り」が好きだ。神はすべてを包含する。そして、それ以外にはない。

そこに安らかさ、究極、を感じる。

クレームの電話を受け、イラッと …  ACIMを思い出し、反省

このワークをしていた頃、マンション管理組合の次の役員の順番の方々にお知らせを出したのだけれど、その行動について古くから住んでいる他の役員の方に、「私に相談もなく…」とクレームのお電話を受けてしまった。

2年前私が役員になった時は、知らせもなくいきなり総会決議に名前が載せられて決まり面喰ってしまった。だから「お知らせ」は良かれと思って出したもので、それについてはこの前の理事会で確認を取ったつもりだった。だけど齟齬があったらしい。

私が引っ越し先を決めて心が逸っていたこと、それを口に出してはいないのだけど、その方が無意識に何かを察してそれに対する抵抗感みたいなものがあるもかも。

その後「役員は引き受けられない」という方も出てきて、なんとか別の方にお願いして引き受けてもらうまですったもんだしてた。

ここで気づいたのは、攻撃されると、私自身もつい受けて立っていらっとしてしまい、ACIMの教えをすっかり忘れてしまう、ということだ。その時は相手は年長者だし、すぐに「すみませんでした」と口に出したものの、内心は穏やかではなかった。

まさにレッスン170「正当防衛で攻撃していると考える時、あなたは、残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。(L170-1-3)」という世界にいた。

翌日、落ち着いてACIMの教えを思い出し、反省した。

「もう私理事会も出ないし、監事もしないから」と言われたその方に、電話をし直して「物事を丁寧に進めなくて、申し訳ありませんでした。」と謝り、「Yさんがおられないと諸々立ちいかないので、ご出席お願いします。」と、思いを伝えた。

そうすると、いらいらしていた気持ちがすっきりして穏やかな気持ちになれた。

攻撃を正当化する→恐れが安全を確保するものとなる→愛を敵とする→残酷さを崇める→残酷さと恐れを神としてしまう

レッスン170の攻撃と恐れに関する考え方のメカニズムは、ささいなことから有事まで、この世の惨状を生む因果を論理的に説明してくれている。

怒りを感じたり、イラッとしたら、それはすでに自分のフォーカスが間違っているということだ。

神に残酷さはなく、私にもない。

落ち着いて頭を冷やし、心を鎮めることだ。

攻撃的なところを内に秘めている私ならばなおのこと。

そして、それが表面に出てきた時こそ、手放すことができるのだから、その舞台に参加してくれた人は、縁があり感謝すべき人なんだ、と確認。

ACIMレッスン179-レッスン167、168の復習

2018-03-23

反社会的勢力ならぬ、反ゲンジツ的勢力!?

先週土曜日、手付金を支払い引っ越し先マンションの契約を済ました。

その際、「重要事項の説明」で、「反社会的勢力の排除に関する事項」というのがあって、売主さんサイドの不動産屋さんが「ここは、見るからに違います(反社会的勢力の構成員とは見えない)から、省きます」と言われた。

「反社会的勢力(暴力団等)」の人には売れない、ということなのかな?

そこで、不思議とぴりっと恐縮してしまった。

もちろん「反社会的勢力」の構成員ではない。

けど、「世界はない」と思っている、「反ゲンジツ勢力構成員」かも('_')!?と。

「反社会的勢力」より「反ゲンジツ勢力」のほうがスケールがでかい気がするし。

世の中に対して悪さをしようという気はもちろんないけど、自分が世間というものに対してかなり「防衛的」だというのを再認識するきっかけではあった。

反社会的勢力の人になると、住まいを買うのも不自由なんだな。あたりまえか。

レッスン179-レッスン167、168の復習

レッスン179は、レッスン167とレッスン168の復習。

L167)一なる 生命いのち があり、それを私は神と共有している。

L168)あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。

これも、もうずいぶん前にやったワークで、タイムラグがあると感覚も変わってきてしまう。なるたけ直後にまとめた方がよさそうだ。

レッスン167で、最も印象にあるのは「死とは一つの想念にすぎず、肉体の死と見なされているものとは無関係である。考えは心の中にある。(L167-3-2,3)」というところ。

「死」とは「神との分離」を象徴する概念で、不安、恐怖、罪悪感、後悔などさまざまな感情で現れる。

そういうものが見えたなら、幻を見ているのだから、それをゆるし手放すだけだ。そうしたものは、自分の心の中にあるものが、この世というスクリーンに映し出されているだけだ。

私たちは時間という夢を見ていて、そこに肉体もあるかのように見ているが、それは夢の中でのこと。

想念はその源を離れないのだから、死はない。

そして、レッスン168では、すでに神の恩寵が授けられている、という。あとは、それを自分のものとするだけだ。

神の恩寵は、あなたがそれを認めるだけであなたのものになる。(L168-2-5)」

神はわが子を愛している。この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい。(L168-4-1,2)」

花粉症という過剰な戦い

このワークをしたある日のメモには、

「この世で、私たちは、必ず負けるゲームをしている。」

=盛者必衰ゲーム

でも、そのゲームを止めてもいい。

帰るところがあるのだから。

「死」を生かす必要はない。

今日のいのちをどれだけ喜べるか。

喜びって、刺激的というより、ゆったりした状態なんだ。

…などと書いている。

そして、私が花粉症がひどいことにもふれて、

戦う必要はないのに、つい戦ってしまう。

自分が罪の意識があって攻撃されているかのように感じるから、戦ってしまうんだ。

花粉は私を襲おうとしているわけじゃないのに、花粉を敵と見なして過剰防衛してひとり相撲をしている。

私は、何でもおばけにしてしまう、と書いている。

今日も、たくさん花粉飛んでそうだな。

ちなみに、ひどい花粉症だけど、お医者さんにもかかっておらず、薬も飲んでいない。

名づけて「野ざらし療法」

花粉に徐々にさらして、からだに花粉が怖いものではないと学習させる…、な~んて。

たんに、ずぼらなだけだった(^_^;)

 

ACIMレッスン178-レッスン165、166の復習

2018-03-17

今年もいよいよ活動期へ

すごく暖かい日があったかと思うとまた急に寒い日が続いたりしていたけど、ここに来てようやく暖かさが安定してきた。

動植物が動き出す「活動期」が今年もいよいよやってきたなぁ、と思う。

幼い頃から、一年のうちでは春がいちばん好きだった。

雪国の富山で育ったためか、寒くて空もどんよりした冬が過ぎてふきのとうが芽を出す頃になると、しみじみうれしかったものだ。

東京は冬の空がすばらしい。が、その分、春が来る喜びは薄まる。花粉症なんていう都会人がなるものと思っていたアレルギーになってからはさらに、純粋に春が喜びにくくなってきた。

それでも、この季節になると、ああ、今年も一年が始まると、気分が高揚してくる(4月から新学期、というのが、未だにからだに染みついているのかな)。

レッスン178-レッスン165、166の復習

レッスン178は、レッスン165とレッスン166の復習。

L165)私の心が、神の想念を拒否しませんように。

L166)私には、神の贈り物がゆだねられている。

2月27日~3月4日までレッスン178のワークをやっていた。

そして、このワークをやっているときに、「私はACIMを信じていない、自分が信じているゲンジツからACIMに逃げているだけだ」(参考:転換点ーACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか)と感じた。

でも、細々とだけどACIMの学習を続けてきたのも事実。小さな部分ではあるけれど、ACIMは私の一部になりつつある。

私は少しずつでも変化しているんだろうか。

自分ではわからない。ただ、この世で見せる自分(仮面?)と、ACIMを心にもつ自分(本来の自己?)の間にギャップができていて、そのギャップが大きくなっているのを感じる。それを小さくしたい。

内心では、エゴがそうはさせるものか、と暴れているような気もする。「ACIMの学習をやることは認めた。それはこの与えた庭からはみ出さない範囲でだ。そこを超えたら痛い目に合うよ」と脅かしてくるのだ。

私の心の中での葛藤?

神へ…くりかえし背中を押しつづけるACIM

「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外に、どんな理由があるだろうか」(L165-1-1)

私にはこの世がかなりリアルに見えている。少しでも行動を起こすとそれはさらにリアルに映る。そして、ACIMの学習から少し離れても、それはさらにリアルになる。

「天国を拒否してはならない。求めさえすれば、それは今日あなたのものになる。」(L165-4-1)

「真に欲しながら求めなさい。」(L165-5-1)

「神は例外なく与え、あなたの幸せのためになるものを与えずにおくことはない。けれども、あなたの意志が神の意志とひとつとなっていなければ、神からの贈り物が受け取られることはない。」(L166-1-4,5)

「自由になりたければただ、誰が自分とともに歩んでいるかを認識し、自分の宝庫を開きさえすればよいのである。」(L166-6-3)

ACIMはくりかえし、くりかえし、神への道を説いている。

ACIMのすすめに、恐怖にからだをこわばらせている私

私も、ワークブックに向かっているときは「わかる」と思う。

その一方で、強い不安も感じる。

聖霊に自分をゆだねることへの不安。

エゴが傷つくことへの不安。

ACIMをすばらしいと思っているというのに、恐怖にからだをこわばらせている。進むことも退くこともできずに固まっている。

「あなたがどんなに恐れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。」(L166-11-3)

「その存在は、あなたが貧困という概念に圧迫されるたびに、あなたのもっている贈り物のすべてを指し示す。あなたが自分を孤独でおびえた者として知覚するときには、あなたには旅の同伴者があると語りかける。」(L166-11-4)

私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう

私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう。

コースを歩むとは…?

生身のからだをもった私は、何をして、どうやって稼ぎ、

だれと、どこで暮らし、

何であるのか。

聖霊がせっかく強く呼びかけてくれるのに、手で両耳をふさいだり開けたりしながら「あ~」をエゴの声を張り上げて、ちゃんと聴いてしまわないようにしている。

神の贈り物を受け入れ、キリストの感触を体験することを選択する心がどれほど大きく変容するかを、あなたの幸福によって証ししなさい。これが、今やあなたの使命である。」(L166-15-4,5)

諸々のこと、よくわからないけれど、ここに書かれている「あなたの使命」をきっと私は生きたいんだなぁ。

これが私の真北だ、やっぱり。

ACIMレッスン177-レッスン163、164の復習

2018-03-05

ひな祭りの差し入れ

おととい土曜日は、おひなさまだった。

そんなことはすっかり忘れて、朝東京都のパソコン講習に出かけ夕方に帰ってきた。

ドアノブにレジ袋みたいなものが引っかけてある。何かと中と見たら、ちらし寿司みたいなものと煮物、お漬物が入っていた。

メモはない。だけど、おそらく下の階のおばあちゃまかな、と思い、電話したら、案の定そうだった。

「おひなさまだからね」と。「朝ピンポン押したけど出なかったから、まだ寝てるかと思って置いてった」

寝てはいなかったけど(^_^;) 日本の季節行事をすっかり忘れていた。ありがたい。

ハート型に盛りつけようとしたけど、かえってぐしゃぐしゃになった。数の子の食感がこりこり歯ごたえがいい。奮発して買ってきた大きな牡蠣も蒸し焼きに。ぷりっとしてクリーミィだ。おいしい。

ひとり暮らしの個食ながら、ほっこり、気分も華やいだ。

こんなやさしい心くばりをしてもらえるところなのに、老朽化と管理組合の面倒さを理由にここを去ろうとしている私。それもすごく大きなコストをかけて(仲介手数料や登記料て高い)。

それってほんとうに必要なことなのかな?このままいてもいいんじゃ?いやいや、今が売るラストチャンスだ…

と、頭はまたぐるぐる「マンション売却問題」のほうに向かうのだった。

レッスン177-レッスン163、164の復習

レッスン177は、レッスン163とレッスン164の復習。

L163)死は存在しない。神の子は自由である。

L164)私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

ACIMの死とこの世でいう死

「死」の概念が、私たちのそれとは大きく異なっている。

私たちは、「肉体の死」を死と捉えているが、ACIMは死とは肉体に関することではなく、一つの想念だと捉えている。

その想念とは、「神の不在」「神の欠如」だ。

私たちが今、「自分」だと思っている肉体のかたちをそもそも存在しない…としている。個々の私たち自体が幻想だし。

その上での、死=神の不在。

それが、結果としてあらゆる不安、恐怖、悲しみ、苦しみ、嫉妬、罪悪感、絶望…といった感情に現れているという。

私たちは神のかわりに擬似神を崇拝している。死もまた擬似神だ。

ACIMの中心概念は、

「神はある(それ以外はない)」

幸福、喜び、感謝などに代表される神の質と合わないものを感じているのに気づいたら、ただ赦し、手放すだけ。

なんてシンプルなんだ!

人であろうと、状況であろうと、それを赦し、手放す。

『神の使者』には、コース(ACIM)はシンプルだけど易しいとは言っていないとあるけど、それは本当にそうだと思う。

自分が渦中にいるときに、赦して手放すとは?そこにどういうふうにいたらいいんだろう。まだわからない。

ただ「死はない」というのは強力なメッセージだ。この世の恐怖感の根っこは「死」だと思うから。

「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L63-8-6,7)

私たちが正しくACIMの考えを習得できたとき、肉体の死は恐怖心を伴わないものになっているんだろう。

今回の人生でその境地まで達することができたら、最高だと思う。

ACIMは猫背なおし!?

ACIMというのは姿勢なおしみたいなもんだな。

私は猫背でパソコンを見たりスマホを覗いたりしていて気づくと、背中が丸まり首が出てる。一回矯正ベルトみたいなのを買った気がするけど、あれはどうしたかな?

猫背をなおすには、

あ、猫背だ、と思ったら、首を引いて背筋を伸ばす。

それが習慣になってよい姿勢があたりまえになるまではそのくりかえし。

ACIMも赦しが習慣になって必要なくなるまではそのくりかえし。

春近し。まず背筋から意識しようか。

レッスン176-レッスン161、162の復習

2018-02-20

メダリストってすごいなぁ、やっぱり

平昌五輪のフィギュアスケート男子は、羽生結弦選手が66年ぶりの連覇を果たし、宇野昌磨選手が銀メダル獲得と、最高の結果を出した(写真撮影:河野匠)。

また、スピードスケート女子500mでも、小平奈緒選手が金メダル!

日本中が感動し、湧いた。1つのことに一心に打ち込むってやっぱりすごい!

感じるのは、オリンピックに出場している選手みんながとっても人格者でもあること。いろいろなプレッシャーにさらされているだろうに、また年齢も若い人が多いのに、皆驚くほど、思いやりや感謝に満ちている。

マンション売却・引っ越しプロジェクト、その後

私事では、マンション売却に関して先週金曜日、一番目の内覧者の方から購入申し込みがあった。近くで飲食店を女性とその息子さんで店の近くで探していたという。

ローンに難あり、と聞いて期待していなかったのだが、地方銀行が引き受けてくれたという。契約日は2月22日に決まり、事前打ち合わせも済み、気持ちは舞い上がった。

こんなにスムーズに決まるとは思わなかった、ラッキー♪

「せめてカーペットを新しくして引き渡してあげよう」とリフォーム屋さんからサンプルをもらったり、ネットで本格的に新居探しを始めたりしていた。

…ところが!

昨日、不動産屋さんより電話があり、契約を延期してほしいとのこと。なんでも買主さんから「手付金(100万円)が用意できない」と連絡あったとのこと。

お母さんの方の老後資金を充てる予定にしていたが、それをやっぱり見直したとか…

そして、今日の昼、再び不動産屋さんから電話があった。

「キャンセルになりました」

最初から買主候補がいなければ平常心でいただろうけど、いったんその気になって舞い上がったのち急降下して、ずっこけてしまった。

いったいどういうこと?

「初めての内覧で即決まるとは、Iさん(不動産営業の方)の日頃の行いのおかげですね」「いやいや、たまさんの日頃の行いですよ」と不動産屋さんとお互いを持ち上げ合っていたけど、おそらくどちらの日頃の行いもよくなかったんだろう。

レッスン176-レッスン161、162の復習

レッスン176は、レッスン161とレッスン162の復習。

L161)聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

L162)私は神が創造したままの私である。

ここで反応したのは、レッスンの中核ではないかもしれないけれど、

「『見る』という行為はすべて、自分の見たいと願うものを自分に見せることを目的としている。『聞く』という行為はすべて、あなたの心が聞きたがっている音を、あなたの心にもたらすだけである。」(L161-2-5,6)という箇所。

とすれば、マンションの申込も、そしてキャンセルも、私が見たくて聞きたかったこと、となる。

この件では前のレッスンのワークでも「(自分から)こじらすな。」というメッセージを感じていた。

私はこじらせたのか。

自分でトラップを仕掛け、それに嵌って喜んでいるんだろうか。

レッスン161の終わりには、「今日の主題概念はあなたにとって、怒りや恐れからの安全な脱出方法である。兄弟を攻撃しそうになったり、彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ず、ただちにこの概念を使うようにしよう。」(L161-12-4,5)とある。

私は買主さんに怒りを感じるゆえんはないが、「彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまうそうになる」ことはあったかもしれない。

私と同年代、50代半ばと思しき買主の男性。どんな仕事をなさっているかは知らないが、他にも借金を持っているという。その上、これからこのマンションに対してローンを組もうとしていることに、強い恐れを感じていたのだ。だいじょうぶなのか、と。

そして、その思いをゲンジツ化してしまった。

自分が映しだすゲンジツ、だから縁は完璧

2月16日にレッスン176のワークをやった際のメモには、感じたこととして、

「よいことがあったときには感謝しやすい。

 悪いと思えることがあったときにこそ、感謝すること。赦すこと。」

と書いていた。

まあ、そんなんだけどね。

こうやって見ているゲンジツは、すべて自分を映している。

だから、現れる内覧者の方も、一人ひとりが私のある側面を見せてくれているのかもしれない。

日本的に言えば、「こういうのは縁だから」

縁には、フィーリングとタイミングが大事。

そして、この縁というもの、一枚めくれば、すべて自分が脚本演出しているのだから、まちがいはない。完璧だ。

私に、その完璧な買主は現れるのかな。価格を大幅に引き下げることになったら、次に行けるとこ、ない。

あ、いけない。またエゴのストーリーに乗っかっている。自分がこじられなければ、成るように成る。

限りなくツイテいて、限りなくハッピーでいてもいいし、上機嫌でいることが使命のひとつでもある。

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