ACIMワーク260-神が私を創造したということを、思い出せますように。
2019-05-10
「思いだせますように」シリーズ
何しろ“渦中”にいるときに、思いだすことが一番むずかしい。
安全なところにひとりいるときには穏やかにいられても、そこから一歩出ればいたるところにトラップがあって、気づいたときには渦に巻き込まれている。 (さらに…)
奇跡講座を日々ゆっくり学習しています。そこから感じたことや日常のことを書いてます。
251~260(4.罪とは何か)
2019-05-10
何しろ“渦中”にいるときに、思いだすことが一番むずかしい。
安全なところにひとりいるときには穏やかにいられても、そこから一歩出ればいたるところにトラップがあって、気づいたときには渦に巻き込まれている。 (さらに…)
2019-05-08
「神のゴールを達成不可能に見せているのは、罪という概念だけである。」(L259-1-1)
レッスン259には、罪があるという意識がすべての発端、、とそこから派生していることがまちがいだと示されている。私の理解と合わせてまとめてみると… (さらに…)
2019-05-01
今朝、久しぶりにウォーキングに行った。昨日からの雨が上がり露にぬれたツツジが清々しかった。
ツツジ… 5月だな。
というか令和! (さらに…)
2019-04-18
ゲイリー・レナードさんのワークショップでいつになくテンションが上がってしまった翌日はぼわーんとしてしまっていた。
元々外交的なほうじゃない上に近年こもっているから、一人で初めてのところに出かけていくこと自体ハードルが高かったようだ。 (さらに…)
2019-04-12
「私は、今日、自分が平安だけを選択できるとは思えない。それでも、わが神は私に、神の子は神ご自身と同じだと保証している。
今日は、私が神の子であると語る聖霊を信じよう。」(L255-1-1,2,3)
「私は神の名にかけて、父が私のために意志するものを見出すことに、一日を捧げる。」(L255-1-6)
この「4.罪とは何か」の節では、繰り返し真実を思い出させ選択するよう促す主題概念が並んでいる。
まるで「正気にかえれ、思い出せ」と肩を揺さぶられているようだ。
ゲイリー・レナードさん&シンディ・レナードさんご夫妻のワークショップが明日に迫った。
なんかまだキツネにつままれているようなぼわんとした気分で、心の準備がおっつかない。明日ちゃんと会場に行けるだろうか。
参加するまでにゲイリー・レナードさんの新書『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読み終えたいと思っていたけれど、それもまだ途中。
この新しい本では、
奇跡講座(ACIM)を机上で学んだだけではACIMを理解したとは言えない、
赦しを実践してこそエゴを解体できる、
それこそが神と私たちを隔てているものを取り除く、
ことが強調されている。
私はACIMを学んでいるつもりで、実は赦しの機会から逃げていた。
『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読んで、それではせっかくACIMに出会ったのに遠回りをしていると感じた。
またACIMの核となる純粋な非二元性が、眼前の人の存在を否定するような気がして、周りの人にACIMについて話すこともできなかった。
けれど、それではACIMを生きていることにはならない、堂々と非二元性を話せるようになろうとも感じた。
私は2013年からACIMのワークブックをやっていて、大畑学さんのACIM解説本を読んだり、このブログにコメントをいただいたりしてACIMを学習されている方々の存在に触れることができた。
だけど直接ACIMに関心を持っていたり学習されている方を見る(へんな言い方だけど)のは、明日が初めてだ(あ゛~、私は同胞を肉体として見ている)。
おととい着た開講前のご案内メールには、
「当日の受付は混雑が予想されます。
時間に余裕を持ってご来場ください。」とある。
『神の使者』を読みACIMに関心を持っている方がそんなに大勢いるのか!
その方々に会える。
それにもドキドキする。
きのうのワンコインイングリッシュ講座終了後、先生にゲイリーさんへ向けて作った短いメッセージを添削してもらった。これを伝える機会があるかわからないけれど…
「For me, your book "D.U" is the most important book I've ever read.
If I can take one thing with me to a deserted island,I would bring your book!
Thank you for writing it.」
(あなたの著書『神の使者』は私がこれまで読んだ最も大事な本です。もし無人島に何か一つだけ持っていくとしたら、この本を持っていきます。『神の使者』を書いてくださってありがとう。)
えっ、1冊持ってくなら、『奇跡講座』じゃないの!?
というツッコミがあるかもしれないけど。
私は自分にとってわかりやすい『神の使者』のほうかな~
今晩の思いーここまで導いてくれた聖霊さんにもっと素直になろう。
2019-04-04
春らしいよいお天気。早朝から開いているスーパーで買物。
春キャベツが100円。
安い。キャベツ、おいしいよね、からだにもいいし、とカゴに入れる。
他にもバナナやヨーグルト、納豆、ホッケの干物などぐるっと回ってカゴに入れレジでお会計。
商品を袋に入れながらふとレシートを見ると、あれっ、キャベツが180円になってる。
ちがうよ。100円だったよ。
そのお店はちょいちょいレジの間違いがある。またか。
で、申告する前に、キャベツの売り場に確認に行ったら、あら不思議。
値札はレシートどおり「180円」になっている。
でも、さっきはたしかに「100円」だった。
私が買い物カゴに入れた時より、キャベツがどーんと増えている。店員さんが今朝入荷分を店頭に並べ、それから「今日の値段」を付けたらしい。値札は何枚も重なっている。
あ゛、だったら、入ったばかりの新鮮な180円のをもらえばよかった…
…と。
こ~んなささいなことでも、一瞬「あ゛」と思う私。これはリアルではないのにね。
幸いキャベツと80円の差額だったからすぐ気を取り直し帰った。
けど、事故とかトラブルに巻き込まれたら、完全に『奇跡講座』を忘れ自分の目先の損得に固執してしまうだろう。
「今日、私たちは、自分の言葉や行為が自我の考えに支配されないようにする。
そのような考えが生じたら、静かに後ろに退いてそれらを見つめ、その後、それらを手放す。」(ワークブックL254-2-1,2)
そうそう、自我の考えに支配されないこと!
でも何かが起こっているときにはしばしば何が自我の考えか、何がそうでないか(聖霊による見方か)、わからなくなる。
で、自分が「正しい」と思い込んで前のめりになる。
その時、この世のゲンジツをすべて自分が作っていることはまったく忘れている。
だれかが真実を教えてくれても、それを理解するスイッチがオフになっている。
私ったら、気づけば、
神さまを信じることが結果的にはすべてを満たすのに、自我の声を重んじて自分の邪魔ばかりしている、とよく思う。
脆弱なACIM学習者だ。今のところ。
何事も練習、訓練なんだろうけど。だからこうしてワークをやっているんだけど。。
ワークったって、気がはやって神を感じられるまで心を鎮めることができないことが多い最近。
これじゃあな。
どうか…
「私の中で、神の声以外の声がすべて静まりますように!」
2019-04-03
新年号「令和」の発表翌日、友だちと皇居周辺でお花見&ランチした。
3月30日~4月7日まで皇居乾門通りの一般公開だったこともあって、皇居から千鳥が淵周辺はたいへんな人出だった。
昨日はあいにく曇り空で、色がつくかつかないかという微妙な桜のピンク色はくすんで見えた。
どちらかというと友だちとのおしゃべりがメインで桜を堪能するという感じではなかったけど、年に一週間だけの桜の花のいのち。帰宅後、もっともっと間近で見上げればよかった、と思った。
日本人のDNAなのか?…やっぱり桜が好きなのだ。
私はひとりで静かに『奇跡講座』の世界に浸っているときは、穏やかで気分よく『奇跡講座』が指し示す神の世界こそリアルだと感じていられるのだけど、イベントや外出で刺激を受けたりだれかと長時間一緒にいたりすると、すぐこの世界の刺激の強さにのまれてしまい、わけがわからなくなってしまう。
妹が泊まりに来ていろいろ昔のことや母のことなどおしゃべりして無意識が動いたのか、あるいはイベントの人出に当たったのか、妹が帰った後疲れきってしまい、一日ぼーっとしていた。
『奇跡講座』を学んでいるといったところで、それは人里離れた一軒家のひとり暮らしみたいに外部からの刺激が少なく“守られた”環境でのみ言えることで(そこでも大いなる自然の刺激、影響がある)、普通の環境ではまったく身についていないのかもしれない。
赦しだって頭の中だけで考えていることで、実践はできていないのかもしれない。
…すぐ自分がだれだかわからなくなってしまう。
落ち着いてリズムを整え、自分が聖霊に導いてもらっている神の延長であることを思い出したい。
「私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。
この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。
私の身に起こることは、私が望んでいることである。
生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。」(L253-1-1,2,3,4)
そうなのだな~
すべて自分が見ているものは、自分が見せているものなのだ。
私はだれかや何かに巻き込まれているわけではない。
自覚はないが、すべて私自身が作って見せているゲンジツなのだ。
この真実もまたすぐ忘れてしまうから、ちょいちょい思い出すようにしよう。
『奇跡講座』を勉強している(思い出している)ときは、この世の今のささやかなことや瞬間的なことはリアルではないから…リアルを見ようと投げ打ってしまうことが多いけれど、もっと大らかでもいいかもな。
桜はやっぱり美しく心惹かれるし、新年号騒ぎはかわいくも見える。
そういう一つひとつが今からだをもって生きているってことだ。
そこを否定することが『奇跡講座』だと思っていたけど、それはそれ。執着さえしなければ、楽しんでいいのかもしれない。
2019-03-27
また少しワークをやる日とそれをダイアリーブログに書く日にかい離が…。本来ならばワーク体験を記録できればと思っていたけど、たいしたメモもなくどんなふうに感じたのか思いだしづらい。
なので…
「私のアイデンティーは神の子である。」この主題概念を見て、今思い出したこと。
むかーし、むかーし、18歳の頃、初めて高校からの友だちとラフォーレ原宿に行き、そこで初めての占いをした。
その頃のラフォーレはできたばかりで田舎育ちの私にはすごくキラキラして見えた。いくつかある占いブースのうち和風なおばさま占い師の前に座って、ドキドキしながら言われることを待った。
言われた(覚えている)のは、
・お母さんとの関係(相性?)に問題アリ
・非常に信心深い
の二つ。
友だちは「おっとりとして見えるたまちゃんに『お母さんとの関係が良くない』って見抜くってすごいね!」とコーフン気味だったのを覚えている(私は母親のグチをよく言っていたのだ)。
私は、「信心深い」のほうに「えっ?」とびっくりしていた。
18歳の女のコ(当時!)をつかまえて「信心深い」とは…!?と。
占い師さんは「宗教に入るとかそういうことじゃなくて、神さまに対する信心があるということですよ。」と補足された。
幼い頃や若い頃のことをほとんど覚えていない私がこれを覚えているのは、言われた内容が驚いたのとどこか刺さったからなんだろう。
そもそも占いを信じるかどうか、ってことがあるけれど。ラフォーレでの占い初体験は、なかなか衝撃的だった。
今40年近くたって、たしかに宗教組織に入ったことはないけれど、またキリスト教系短大で聖書の授業があったにも関わらずそれには全然なじまなかったけれど、『奇跡講座』に出会って今もつながっているということは、ある意味信心深いのかな~とも思う。
「お母さんとの関係に問題アリ」のほうはずいぶん改善した。
「私の自己の聖性は、今の私が考えつくあらゆる聖性の概念を超えたものである。
そのきらめくような完璧な清らかさは、これまで見たどんな光よりもはるかにまばゆく輝いている。」(L252-1-1,2)
ゲンジツの私は自己チューで怖がりで…怠け者。
清らかさとはほど遠いけれど、そのカケラがどこかにあるならそこに手を伸ばしたい。
それにしても時間も錯覚だというけれど、40年の何と短いこと!
私を占ってくださった占い師さんは、当時すでに50歳を超えているように見えたが、今はどうしておられるだろう。
「深い信心があるのよ」…と時空を超えてもう一度言われたような気がした。
「私のアイデンティティーは神の子である。」かぁ…
まだ高らかに宣言するまでには至らないけど…
2019-03-25
今朝のウォーキングでの桜。満開直前。
写真の撮り方ヘタで桜の色の美しさが伝わらないけど。
一年に一度、一週間の華麗で切ない桜ショーが始まる。
あの薄ピンクの薄い薄い花びらに生と死が凝縮されているから、こんなに人を魅了するんだろうな~
レッスン251ー「私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だった。」(L251-1-1)から説明が始まる。
見つけたのは絶望、オンリー!? いや~、そこまでひどいとは思っていなかったけど。
奇跡講座(ACIM)が「一般向けではない」「万人のニーズを満たすものではない」と言われるのは、こういうところだろう。
大前提としてゲンジツの世の否定がある。
私たちはこの世と人間を、「いろいろあるけれど善いものだよ」と捉えることから、人生(と思えるもの)をスタートさせる。
その人生のなかで、「頑張れば報われるんだよ」と教えられ「だから頑張れ」と教育される。
あながちそうとは言えないことは大人になってわかるけれど、それを言っちゃあおしまいなのだ。
そうやって、この世の中と折り合いをつけて、幸せを見つけることが人間の命題なのだと思い込んでいる。
そして、学業を終え仕事を見つけ、伴侶を獲得し子孫をもうけ、映画や音楽を楽しみスポーツに興じ、旅をして自然を愛で、人生を豊かなものにしようと頑張っている。
そういうささやかな「大変な頑張り」を、ACIMは全否定しているかのように見える。
それだから、この人生に成功し満足している人より、そういうグループには入らなかった人のほうが、ACIMを学びやすい傾向にあると言われるのかもしれない。
人生に満足している人は、努力して頑張って手に入れたものがリアルではないなどという“たわごと”は、到底受け入れられないだろう。
私はうまく行っているほうではないし、ACIMの教えはすばらしいと思っているけれど、それでも「見つけたのは絶望だった」とバッサリ切られるとひっかかる。
桜の美しさもそうだし先週行われたフィギュアスケート世界選手権での頂上決戦での演技もそうだし(女子も男子も)、美しくて感動的なものもいっぱいあるよー、と言いたくなる。
こう書いてきて、ふっと、前にくさちゃんがブログで言っておられたことを思い出した。
3月初旬に私がゲーリー・レナードさん来日ワークショップ発見の日記を載せた時、2年前京都ワークショップに参加された際のブログの感想を紹介してくださったのだ(くさちゃんのブログ:2017年5月7日の記事より)。
「外部の事柄として感覚化されているものは
心の投影と言われていて。
このワークショップと、会場の美しい背景が
自分の心の投影だとしたら。
それはステキなことだな、と僕も思うのです。」
…そう見たら、この世に絶望せずに何かを見て美しい、素敵だと感じられることは、やっぱり素敵なことだな、と思っていいのかな、と思えた。
私は真理を必要としている。
だけど、それはこの世の美しさをすべて投げ捨てなければいけないものではない。
真理の中ですべてがかわる。レッスン251にも、
「今、私は自分に必要なすべてをもっている。
今、ほしいものすべてをもっている。
そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。」(L251-1-7,8,9)
とある。
やがてやがて、真理の見る術が身に付いたら、この世はすべて私の安らかさの投影となるのかな。私は安らかさと美しさしか感じられなくなるんだろうか。
そういう景色を見てみたい。
2019-03-22
「罪とは狂気である。」(第2部、4-1-1)から始まるこの節。
罪とは狂気…。そう言われてもなかなか難しい。
私たちは神から離れたと思い込み(誤解)、そのことに深い深い罪悪感を感じているがために逃げ場所としてこの宇宙を作った。 (さらに…)