221~230(1.赦しとは何か)

ACIMレッスン236-私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

2019-01-18

『神の使者』をまた初めから

きのう掃除をし始めたら、気づいたら大掃除になっていた。

いつもわりとまめに掃除しているし引っ越してまだ7ヶ月、不要なものもないと思っていたけれど、知らないうちに未処理物、未分類物がここかしこに溜まっていて重たくなっていた。

物をこれ以上増やすまじと思うけど、気づくと増えてるんだよな~

ようやく世間の人の年末大掃除の頃にたどり着いたのかもしれない。

遅っ、

相変わらずだけど。

夜には『神の使者』を再読し始めた。この本は古いバージョンの本を3冊持っていてそのうちの1冊が日頃読む用(あとの2冊は予備)。

また、アーテンとパーサがゲイリーの前に現れたところから。

何かの変わり目にはつい読みたくなるのだ。『奇跡講座(ACIM)』を学ぶきっかけとなった本だから、その動機みたいなものを確認したくなるのかもしれない。

私の『神の使者』は付箋とマーカーだらけだ。

黙読しながらマーカーを引いた部分は音読するのが自分の中での流行りになっていて、そうやっているとこの分厚い本を読み終えるまでやたら時間がかかってしまう。そのうちに日常にまみれて中断してしまうこともままある。

ここは戻りたくなるところ。だからそれでいいのかもしれない。

私はACIMというより『神の使者』を信じている(というかすがっている)のかもしれないと思う。

ACIMワーク236‐私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

L236で気になったところ。

今日、私は心の働きを聖霊に差し出し、聖霊がふさわしいと思うものに使ってもらう。」(L236-1-6)

そのようにして、自分の心を自由にし、神の意志を行えるようにする。」(L236-1-8)

私はやっぱり聖霊さんのメッセージが受け取れているかどうかわからない。

いや、受け取れているけれど聞きたくないものには耳をふさいでいるのかもしれない。だから、わからないと言っている気もする。

耳元で大声でくりかえし叫んでいるのに、私がただぼんやりしているのだとしたら、聖霊さんは呆れているのではないだろうか。

もう私をサポートするのに嫌気がさしたりしているのではないか。不安だ。

自分のエゴのものさしで確証が得られないことは受け取りがたい。

エゴのものさしと聖霊のものさしはまったく別だから、私は未だにその二つの間で揺れている。

少しずつでもこのコースの歩みを進めたい。

こう書いた時、「そのためには気づいたことをやる」というフレーズが頭に浮かんだ。

と同時に、怖っと感じた。

ACIMレッスン230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

2018-12-24

色彩サークル“自主研究”

おとといの夜久しぶりに徹夜した。

きのう参加している月一の色彩サークルの年内最終回で、各自の“自主研究”の発表がありその資料づくりのためだ。

少人数のゆるい会だし、最近は「色」のことは優先順位も低くなっていてまったく手がつけられないまま前々日になっていたのだ。

自主研究といいながら一夜漬けとはなさけないと思ったが、手ぶらでは行けない…。

にわかだけどテーマは、「企業webサイトと使っている色の分析」みたいなこととした。

結婚情報サイトはやはり「愛・幸せ」をイメージさせるピンク系だし、老舗和菓子店は「和の伝統」を示すような茶系…といった話。男性化粧品はスタイリッシュ感を出すため、黒に渋めの青、緑。こじつけ感もあるけど。

資料をまとめるの久しぶりで、途中からちょっと楽しくなった。

綺麗な色でプリントアウトするために、午前4時にコンビニに行ったら、シニア世代の店長さんが黙々と品出しをしておられた。コンビニ経営、負荷がかかるたいへんな仕事だと頭が下がった。

シャンソンXmasコンサート

おととい昼は、四谷にある蟻ん子というシャンソンライブハウスで、しますえよしおさんのXmas コンサートだった。

お客さんは元気なシニア女性が大部分。みんな自らの一年の労をねぎらう意味もあるのかな。

お弁当の写真しか撮れなかったけど、しますえさんの生歌の迫力がすごかった。朝吹タツヤさんの歌にはいつも愛を感じる。

心を鷲づかみにされて揺さぶられた。

歌で人の心を動かせるってすごいと思った。

ACIMワーク230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

私は『奇跡講座(ACIM)』から離れないことが大事だと思い、とりあえずはワークを続けてきた。

でもそれは、やはり自己流で自己都合で捻じ曲げられたものだと感じた。

最近なおざりにしてきた『奇跡講座テキスト』を読んで、ありゃ…と気づいたのだ。

ACIMを勉強している(つもりだ)けど、ACIMを生きてはいない。

左足をACIMにかけ右足はこの世の価値観に置き、股裂き状態なのだ。

頭はACIMで心はまだこの世…

それが「わかっている」ということはどういうことなんだろう…

なぜACIMで価値観でもっと生きられないのかというと、執着しているものを手放さなければならないように感じそれが受け入がたいのだ。

またACIMの考えはやはり突飛な感じもするから、全てを託しきるまでは達せていないのかもしれない。

今、私は真の自己でいることだけを求める。L230-1-5)

私はあなたに創造されたままの私です。あなたから授かった平安を見いだすためには、私はただあなたに頼めばよいだけです。」(L230-2-4,5)

ACIMから離れないでさえいればいずれはその心に近づけるのではないかなぁというのが、今のきもちだ。

L230ワーク時のメモには、

「ひとつの扉を開かなければ、次の扉は開かない。

全部に確実性を求めることは不信の態度を表す。」と。

今日の一日なんだな、まず。

今日一日、神さまと聖霊さんとともにいたい。

あっ、MaryXmas

ACIMレッスン229-私を創造した愛が、私の本性である。

2018-12-19

「おもてなし英語講座」受講決まる

11月22日に応募した区のおもてなし英語講座の結果が来た。

「定員を大幅に上回る応募があり、厳正に抽選を行いましたところ、次のとおり結果が…」という文言の後に、太字で、

「当選」と。

おー、当選してる!

大幅にって、どれぐらいだったのかな。かなりの倍率とかだったらありがたみが増すよ。何はともあれ無料英会話講座、ありがたい。

私が案じていたとおり、初日は「自己紹介」で時間が30分長くなっていた。

英会話より、講座でのコミュニケーションを怖れていた私。

みんなに(わかりやすく)紹介すべき自己がないし、ひとり者っていうのも若干引け目。こういうところに来る人はテンションもコミュ力も高めの人が多そうだなー、と。

これも、もちろん赦しの対象だ。

誰も対して私を攻撃しようとしているわけではないのに自己防衛が先に立つ。

差し出し人は区の「人事課 人材育成課」となっていた。あー、ごめんなさい、私でいいのかな。

来年1月開校。ともあれ「旅の恥はかき捨て」くらいの気合いで参加しようと思っている。

ACIMワーク229-私を創造した愛が、私の本性である。

レッスン229は、12/5~9母との旅行から帰ってきた頃にやっていたワーク。

旅の余韻がありこの世の方がACIMの世界よりリアルに感じられ、いろいろ母への思いが湧いていた。

たいしてワークのメモもしていないなかで、ここでも『絵本つくりかた』買おうか、と書いていた。

最初にこの本を知ったきっかけは何だっけ?

絵本が気になっているんだな、私。

私がつくるとしたら、おとな向けの本だ。

おはなしの案も、具体的なイメージもない。

けど、気になっているんだな。

レッスン229をいま改めて読んだら、「私を創造した愛が、私の本性である。」とある。

愛が私の本性…?

何日間かそのワークをしていたはずなのに、なんか新鮮に感じた。

愛が私の本性…

ACIMレッスン228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

2018-12-17

かぜひいた

かぜひいた。

先週土曜パソコン講習日。午後3時までは何ともなかったたが、3時過ぎから喉が痛くなり始め、講習が終わった5時にはしっかり風邪引きになっていた。

電車でもらったかな。空気乾燥しているし。

免疫力少しついたかと思っていたけど、そうでもなかったか。

昨日は一日中だるく、なんでか眠くて仕方がなかった。早めに寝た。

これ以上悪化させないようにしよう。

ACIMワーク228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

『奇跡講座』は病気(と病人)には厳しい。

レッスンL136では「病気は真理に対抗する防衛である。」という主題概念を掲げ、「病気は偶発的なものではない。すべての防衛と同じように、病気も自己欺瞞のための狂気の仕組みである。」(L136-2-1,2)と説明している。

レッスンL140では、「罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。」(L140-4-3)と言っている。

また「病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-4,5,6)とも。

単なる風邪でも、「寒かったから」とか「空気が乾燥していたから」が原因ではなくて、私に罪悪感があるからなのかな。

罪悪感なら、、、やっぱりある、と思う。

昔から引きずっているものもあれば、現在進行形のものもある。他の人はみな頑張って働いているけど私は…、と思う気持ちだ。自分を咎めたくなる。

だけど、罪悪感をこじらせて(新たな)病気を作りたくはない。

自分を咎めるのは止めよう。

この世の価値観と『奇跡講座』の価値観の中で揺れている。開き直っていると思う。けど、やはり揺れている。

2018年の世相を表す漢字に「災」が選ばれた。私の場合は引っ越しの「転」かなと思っていたけど、迷走の「迷」かもしれない、と思う。

あるいは猶予の「猶」かな。

ACIMレッスン227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

2018-12-12

冬だ、冬。一年て、早い。

4日ぶりのブログ。

急に冷え込み、すっかり冬になった。

手がかじかむ。

そうそう、こんなだった、去年も。冬の寒さを思い出した。

あ゛~、引っ越しの時、加湿器じゃまだと思って、リサイクルショップに引き取ってもらったんだ。ミスった。

今年の冬だって乾燥するー。他区だって乾燥するー。

気が大きくなっていたのか、、、。あの時は、ただ物を減らしたい衝動にかられてた。

年末が見えてきて、、一年ってなんて早いんだろうと、焦る。

体内時計(リズム)がトロくなっているから、周りが早く感じられる。

感覚的なもの=錯覚なんだろうけど。

自分が不十分感をもっているから、早く感じられるんだろうな。

自分のブログでさえも、間が空くと、来るのに気合いが要る。

ちゃんとできない時には、できない自分を赦すこともワークのひとつだっけ。

ACIMワーク227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

レッスン227をやっていたのは、11月23~26日頃。

やっていたと言っても、文章を読み、朝晩15分くらい瞑想ワークするだけだけど。

少しでもACIMワークを離れると、この世とこの世の価値観がリアルになる。

やっぱり私たちは肉体で、肉体の死とともにすべてが終わる。それまでの間いかにこの世で自己実現すべきか…と。

それに並行してACIMが奇想天外、荒唐無稽なものに感じられる。

これは現実逃避のもので、気休めだな。。と。

私と神さまのつながりは、これくらい薄いものなんだな、と思い知る。

ACIMワークに戻って、そういえば、そうだった…となり、遠くなっていた神を思い出す。

神さまは探さなくても、そこに在る。

自分の感受性を取り戻すだけだ。

それには赦すことと感謝すること。

このシンプルなことを、覚えている時はなるたけ、やろう。

これは、ACIMを生きようとそうでなかろうと、「実際に」役立つことだから。

ここ最近のワークで「絵本つくりかた」という本が出てくる。

それが聖霊さんからのアドバイスかどうかわからないけど、目を閉じて静かにしていると、その本が出てくる。

だけど、買えてない。

差し迫って必要なものじゃないから、2,030円が高く思える。

だったら、「Webデザイン」の本が欲しいな、などと思っているとポチっとできないのだ。

今日のワークでも、その本のことを思い出していた(一回イメージに出てくると連続するのか)。

さっきブログを書くために、レッスン227ワーク時のメモをを見たら、すでに、

「『絵本つくりかた』買おう」とメモしていた。

いつから、そう感じているんだろう。

その「メッセージ」が本物かどうかわからなくても、「2,030円」投資をしてみることは価値があるだろうに。。

一方で、それ買ってどうなるっての?受けとるのも面倒なんだよな、と、ぐだぐだしぶる自分もいる。

神の子は今日、自分の夢を放棄する。神の子は今日、罪から解放され、聖性に包まれ、ついに正しい心を取り戻し、再びわが家に帰る。」(L227-2-2,3)

↑改めて今読んで、気になったところ。

はたして「絵本つくりかた」は年内に買えるか。

ACIMレッスン226-私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。

2018-11-26

幼馴染と会う

故郷にいる、小学校から高校までずっと同じ学校だった幼馴染が上京、東京に住んでいるもうひとりの幼馴染と三人で食事をした。

赤坂見附。20代の初め1年間、専門学校に通っていた町。

久しぶり。来ることないもんな~。

お店はほぼ満席で、みんな楽しげだ。都会の人はこうやって夜を楽しんでいるのか、とやけに明るい店内をキョロキョロ見回してしまった。

3人で会うのも数年ぶり。一人は故郷で専業主婦で男の子二人を育て、もう一人は東京でシングルマザーとして女手ひとつで娘さんを育て上げている。二人とも大人でえらい。

久しぶりだけど久しぶり感がないのが、幼馴染のいいところだ。

話が健康や病気の話になったり親の介護の話になったりするのが、不思議な気さえした。変わらないつもりでも仮初めの世で変わらないものは何もない…。

それぞれけっこうな人生の旅をしてきたなぁ、と感慨深かった。

おすすめのサラダを頼み、レタスやトマトにドレッシングがかかったものが来るのをイメージしていたら、見慣れない野菜が乗っかったカラフルな皿が出てきた。

「おー!最近のサラダはこうなっているのか」と驚いた。これは店に拠るんだろう。

おいしかった。

二人がそれぞれゲンジツ生活の中で努力を重ねて人生を築いているなかで、ふっと自分だけ迷子になっているような気もした。

別れてから、サラダの写真を撮るより三人で写真を撮ればよかった、と思った。

ACIMワーク226-私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。

私たちは、この世か、神か、そのどちらかしか手にできない、という。

私は神を選びたいと思った。

でも一方では、生まれてこのかた、この世しか知らないと思っているし、「自分自身」という個の存在にも執着がある。どっちつかずの状態にいる。

この世で頑張っている人を見ると、自分がただリトリートしていて肩身が狭く申し訳ないような気分になる。

あるいは、思いはそれなりのものであっても、やり方が間違っているのでは、となる。

昨晩は、この世の色のコントラストが濃く見えた。

そして、それはとても魅力的だった。

私は、この世に対して、ぼわーんとした反応の鈍い人間になっているな、と思う。

人から見たら、さそかしつまらない人間だろう。

もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。」(L226-1-1)

私はこの世を完全に立ち去りたい、とは思っていないのかな?

この世はきらきらして見える。

一方で、私はこの世が天国につながるものではないことを知っている。

天国がこのようにたやすく私のものになるというのに、虚しい願望や打ち砕かれた夢しかない場所に、どうして長居をする必要があるでしょう。」(L226-2-3)

そう、たしかにそうだ。

自分がその気になれば、そばにおられる存在に気づけるのだから、ただ見ることを志せばいいだけだ。

私の家が待っている。寄り道をせずわが家に帰ろう。

ACIMレッスン225-神は私の父であり、子は父を愛する。

2018-11-22

「おもてなし英語」を申し込むのに、感じた怖さ

最近、東京都の各区(市町村も?)で、「おもてなし英語講座」なるものが開催されている。東京オリンピック・パラリンピックに向けてのボランティア育成の意図もあるんだろう。

私が引っ越してきた区でも、来年1月からの短期講座のチラシを見つけた。

英会話はずっと私が身につけたいと思っているものの一つ。

今回見つけた講座は「無料」。願ってもない。

対象は、「英検2級以上またはTOEIC600点以上相当で、日常英会話ができる方」。前半はかろうじてクリアしているけど、後半は全然だめだ。

月2回、初級英会話に通っているけど、ホントのカタコトしかしゃべれない。義務教育から何年も英語をやっているはずだけど。。

今日も講座があって、先生から

「How is your room?(あなたのお部屋どんな感じ?)」と聞かれ、とっさに、

「…square(四角)」と答えたら、笑われてしまった。「このなかに三角の部屋に住んでる人いる?」みたいな英語を言って(>_<) (^_^;)

そんなこともあってか、中級おもてなし英語に申し込みたいと思ったけど、怖かった。たいしたリスクじゃないのに。

私が怖いと思う理由をよくよく感じてみたら、英会話ができないこと以上に、先生や他の受講生さんに自己紹介したりする場面があるだろう、その時に、ひとり者で子どももなく、今は職も持っておらず、、「自分が何者か」説明できないことが、怖いのだと感じた。

未だにエゴが強くて、防衛的。気づくと、固まりになっている。

その不安感を赦した。

そして、こんなんじゃ、いくらACIMを学んでいるつもりでも、いつまで経っても「畳の上で水泳の練習をしている人」だよ!、と思って、エイッとはがき(今どき往復はがきでの申し込み)を書いて出した。

申込み多数で抽選らしいから、どうなるかな?

ACIMワーク225-神は私の父であり、子は父を愛する。

英語つながりでいうと、原文は「God is my Father, and His Son loves Him.」となる。

完全に代名詞が男性形。

これは、ACIMがイエスによる聖書の修正版だから代名詞は聖書に準拠しているといった説明が『神の使者』にあったけど、これは女人間からすると、疎外感を感じる表現ではある。

日本語訳は、「Son」を「息子」ではなく「子」と訳してくれていて、それが地味にうれしい。

文章の中でとくに響いたのは、「そして、本当は始まったことのない旅を終わらせるこの最後の数歩を歩み終えようとするとき、私たちが求めるのはこの一体性である。」(L225-2-5)

本当は始まったことのない旅か…

全然脈絡がないのだけど、このワークをやっている時、「私がワークを始めてからここ数年位引きこもりがちだったのは、ACIMの思考を身につけるための“補助輪”だったのかな~」と思った。

外界との接触が多くて慌ただしいなかでは、私みたいな者はすぐ巻き込まれて、そこからまったく進まずACIMから離れてしまっていただろうから。

今は、もう補助輪を外していい。

世間にもっともまれながら、ACIMを実践していく時が来ている。

…と、感じた。

ACIMレッスン224-神は私の父であり、父は子を愛する。

2018-11-20

ウォーキング中おカネを落とす

今朝は最初からつまづいた。

ウォーキング中おカネを落としたのだ。

ウォーキングには、いつもスマホと千円札と10円玉を持って出る。

10円は立ち寄る神社のお賽銭。千円札は帰りに24h営業のディスカウントスーパーに寄ることがあるから、その買物用。裸でズボンのお尻のポケットに、家の鍵と一緒に入れていた。

その千円札を落としてしまったのだ。

今日はスーパーには寄らずに帰宅。お尻のポケットから千円札を、、、

あれ、ない!

深めのポケットだ。大きなウサギのキーホールダーがついた鍵といっしょに押し込んでいて、お札だけ落ちたらしい。

キツネにつままれた気分だ。

情けないのは、これが今月二度目ってこと。

同じように、裸でズボンのポケットに入れていて、落としてしまった。その後、それじゃいかん、と小銭入れにもなるウサギのキーホールダーにお札を四つ折りにして入れていた。

けれど、今日のポケットは深いし、大きなキーホールダと一緒だし、大丈夫、と思っていた。

でも、ダメだったみだい。

え、でもどうなったら落ちる、お札だけ?腑に落ちない。

落とした千円札を探してウォーキング道を逆に

気が済まなくて、すぐ探しに出た。通勤者が多い道中にまだ落ちているとは思えなかったが、落としてしまった“罰”のようなもの。一応は探さねば。

来た道を逆に廻り、それから、お賽銭を出す時まではあったことを思い出し、神社まで行って、そこからまたいつもの廻り方で廻った。いつもの2廻り半歩いた。

通勤の方が足早に駅に向かうなか、道に千円札が落ちていないかうつむき加減で歩く私。

いったい何やってんだか!!

千円という、私にとっての大事なおカネを同じミスでまた失うなんて、という自責の気持ちと、人間以外の動物にとっては落ち葉とまったく同じ価値しか持たない紙を必死に探している私ってーという価値観に揺れた。

これは、すべて私が自身に見せている映画で、映画のなかのおカネがどう動こうと、映画でしかないのに!

おカネを落としたことが、実のところ「悪いこと」なのか「よいこと」なのかわからない。「よいこと」ではないと思うけど、水面下では何がどうつながっているかはわからない。

ただ私にわかるのは、晩秋落ち葉のなかに千円札という紙を探している中年無職女。。と言うシュールな絵在り、ということだ。

もちろん見つけられなかった。

二度あることは三度ある、というから気をつけよう。

ACIMワーク224-神は私の父であり、父は子を愛する。

こんな長文を書いた後に、ワークのダイアリーというのもなんだけど、とにかく今やっているワークに近づきたい。ダイアリーを待って、ワークの方が、足踏み状態なのだ。(どーでもいいことだけど。。)

レッスン224の、短い文言のなかの後半部分に共感して、線が引いてある。

私は、自分がどこに行くのか、

誰なのか、

何をしているのかが、

わかりません。

父よ、

自分の見ている世界に疲れ果てた私に、思い出させてください。

こうしたもののかわりに、あなたが私に見せようとなさるものを、現わしてください。」(L224-2-2,3,4)

本当に…。神さま。聖霊さん。

こうやって書いてきて、ふっと思ったことが。

さっき「千円札という紙を探している」と打っていた時、パソコンが「神を探している」と変換まちがいした。

もしかして、これは、

落とした千円札を探すくらい熱心に神を探せ。求めよ、ってこと?

聖霊さんのアドバイスー!?

そんな皮肉を効かせたりしないよね?

ACIMレッスン223-神は私の生命である。神の生命のほかに、私に生命はない。

2018-11-19

ああ、もう冬だ~

冷えてきた。

一昨日はパソコン講座の昼休憩、食べログで調べて少し遠くにあったラーメン屋さんまで行ってみた。

この世にラーメンという食べ物があるのを忘れていた!

いや、女ひとりではラーメン屋さんに入りにくくて、意識から遠ざけていたのだ、たぶん。

久しぶりのラーメンは煮干し出汁。あったまった!そして、もっといろんなラーメンが食べたくなった。

今朝はふとんから出るのに、えいっと気合いがいった。

ああ、もう冬だ。

暖房器具、これまでエアコンは空気が乾燥するからつけず、電気ストーブ40㎝角のミニミニホットカーペットだけだった。

ミニミニホットカーペットは、パソコンの前にいる時は足の裏を温め、テレビの前に座るときは、この上に毛布をかけてミニミニこたつ風に。

電気ストーブは、軽いので常に自分がいるところに動かしていた。

器具ではないけど、腰には防寒腰巻ケットをして。。

家が5,6帖から構成される2DKから広めのワンルーム的空間になったけど、この防寒態勢でこの冬も乗り切れるか?ここの家の寒さは??

そういえば、引っ越しのどさくさにまぎれて、リサイクル屋さんに0円で加湿器を引き取ってもらったけど、早まったか、加湿器いるかも。

ACIMワーク223-神は私の生命 いのち である。神の生命 いのち のほかに、私には生命 いのち はない。

レッスン223は、11月の初め。ちょうどアルバイトの面接に行った日から、その後面接に落ちた日あたりにやっていた。

面接に行く前は、面接そのものへの不安や、もし決まったらうまくやれるか、時間のやりくりができるかといった不安をノートに書いてきた。

落ちた後は、「自分が制限だと感じているものに、自分の時間という幻想を捧げなくてもいい」と自分を慰めるようなこと?を書いている。

そして、

「在宅でキャッシュフローのしくみが作りたかったら、やってみてもいい。

ACIMのことを何か表現したいと思っているなら、やってみてもいい。」

と続けている。

この2つが、今私が関心が高いことだけど、具体的にこれならできるというイメージがない。わからない。

でも、もうしばらく、この関心があるほうへベクトルを向けてもいいのかな、と思っている。

まずいのは、関心があると言い続けているだけで、やはり不安で固まり何も動けないことだ。実のところ、ずっとそうなのだ。

やってみようか、と思いつくこと、何でもやってみたらいいと思う。

要するに、自分のベクトルに進んでみよ、というメッセージを感じたのだ。

ワーク文の「罪悪感は私たちがあなたの子ではないと宣言するので、私たちが見たいのは自分の無罪性です。」(L223-2-3)に拠りどころを感じた。

ACIMレッスン222-神は私とともにある。私は神の中で行き、神の中で動く。

2018-11-16

ペルソナがない夢!?

月1回のカルチャー講座ユング心理学講座では、後半夜見た夢の話をする。

私は、あまり夢を覚えていられるほうではないが、先週見た夢があったので聴いてもらった。

〈11月9日朝の夢〉

「ひとりでどこか観光地の川へ向かうが、天気が悪くて川は濁流。

 別のグループの方が川は止めてプールへ行くと言っていたので、私も付いていくことに。

 プールは新しくて水がきれいだった。

 プールに入って楽しんでいたが、自分が水着を着ていなかったことに気づく。ありゃ、まずい。

 他の人に気づかれないように、バスタオルを巻いてフロント売店に行き、無事水着をgetして、再びプールへ。(そこからいろいろあってそこがメインだったけど全部忘れた)。

 閉館時間になり、水着買ったつもりだったけど、レンタルだったのか、フロントで「洗って3階の屋上?に干して」と言われ、言われたとおりにして外に出る。」

あまり面白くもない夢だけど。

夢は無意識からのメッセージで、夢に出てくるものは、水=無意識、服=ペルソナ=(会社員、夫、生徒といった)社会的な立場や仮面といったように、この世での夢見者の何らかの状況を象徴していると見る。

先生は私に「(この夢に)何か思い当たることある?」とおっしゃった。

服(水着)を着ていなかった→社会的立場や仮面がない、ことは最近ずっと感じているけど、その他は特段思いつかなかった。

服はあっても、いざ外出しようとすると着る服がないというのは、ゲンジツの話でもある。

私は先生からなにか特別なアドバイスみたいなものを期待したけど、先生は、「いいんじゃない、ちゃんと売店で水着を手に入れられたんだから」とおっしゃった。

そんなに警告的な夢ではなかったのかな。

講座終了後、何人かで夜お茶をして帰った。

私、雑談がますますヘタになっている、と気づいた。

政治家の話とかになって、「○○、ひどいよね」「何が“美しい日本”だってねー」となっても、うまく会話の流れに乗れない。「この世は自分のエゴが見せている映画だ」という認識が浸透したためなのか、ゲンジツの会話に素早いリアクションがとれないのだ。

1対1はまだ話しようがあるけれど、複数だととくに。“あいまいな日本人”をさらにあいまいにしたほほえみ?を貼り付け、どーでもいいことしか言えない。

こういうことだから、水着(ペルソナ)を身につけていなかった夢を見たのかな~?

ACIMワーク222-神は私とともにある。私は神の中で生き、神の中で動く。

レッスン221をやっていたのは、月初。学生時代の街に小さな旅をした頃だ。

ワークのメモにはたいしたことは書いてないが、自分のことで感じたこととして、

「硬くなりすぎ」「緊張しすぎ」←「原始的な恐怖」で、それを手放す!

と書いていた。

それは、言葉を変えたら、

攻撃されてしまうんじゃないかという不安と、

それに対して、

自分が腹を立ててしまうんじゃないかという恐れ(自らの攻撃性を感じたくない)

だとも書いていた。

そういう不安や恐れから、リアクションがあいまいになっているのか。

でも、そういう場で『奇跡講座』の見方で話したら、そりゃ、事だよな。

自然と口数が減るのはいたしかたないか。

あ~、どっかで思いっきり、ACIMワークあるあるを話したい。

ACIMレッスン221-私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。

2018-11-15

独り身には堪える冬!?近づく

急に寒くなってきた。街にはマフラーや手袋をした人の姿も見かけるようになった。

冬が来る!

北海道では昨日初雪が降ったとか。これは平年より22日も遅いらしい。北海道の冬は長い。

冬は、ひとり暮らしにとっては、きびしい季節だ。ひとりが気楽だといっても、クリスマスやお正月があるし、家族であったまろうという企画ががんがん流されると、やっぱり独り身の冷えを感じることも。(勝手だ)

同じひとり暮らしで無職や在宅ワークの方のブログを覗いたりしているが、その中に猫を飼っている方がいらして、うらやまし~、と思う。

あぁ、ソファに寝そべっているとき、にゃんこさんが私の胸やのど元のあたりまで登ってきて、どっかと座る感覚、また味わいたい。

当マンション、築25年経っているけれど、管理規約でペット禁止。ざんねん。

この前、エントランスで犬を抱えている方とすれ違ったけれど、あれは、いったいー??

飼っていいんなら、私もにゃんこさんにいてもらいたいなぁ。

今はぬいぐるみのにゃんこさんが、二人。

かわいくないところが、気に入っている。

ACIMワーク221-私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。

第2部では、「言葉はあまり意味をもたなく」なり、「演習を単なる出発点とする」とされている。演習を導入のきっかけとして用いて、「真理の直接的体験」を追求する。

説明文は難しいけれど、「概念はある程度学んだから、神そのものを感じることにワーク時間を使いましょう」ということだと思う。

レッスン221の主題概念の「私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。」というのは、まさに私に必要な祈りのことばだ。

ワーク中や意識がある時は、感謝して聖霊のアドバイスに従おうと思っているけれど、気づくと、不安と恐怖と罪悪感でぐるぐるしてしまっている。

ACIMっぽい自分と、ACIMっぽくない自分の間を行ったり来たりして、随分なエネルギーロスだと思う。

私が非常に疲れやすいのは、そのためのあるのかな。

実は赦したくないのだ、と気づく

一昨日の「赦すとは何か」のダイアリーに「ネガティブな感情を感じた時は、チャンス到来!なんだけど、私はその感情を感じること自体が嫌で、赦しのチャンスからも逃げている気がする。」と書いた。

あとで、それは私がとりもなおさず、「赦したくないからだ」と気づいた。

赦したくないと思っているから、赦しのチャンスに出会わないよう逃げ回っているのだ。

L221をやった際のワークのメモにも「私はACIMの勉強をしている体で、それは限定的なもので、その実エゴの殻に引きこもりエゴを守っていたのか?」とあった。エゴをさらに分厚くしているのだとしたら、あ゛~、それはまずい。

そして、その後に「ACIMを見つけられたのだから、自信を持て」とも書いていた。

揺れながら進むというのは、まだまだ続きそう。

ACIMワークブック第Ⅱ部-1.赦しとは何か

2018-11-13

11月の色えんぴつ画講座

今日は月一度の色えんぴつ画講座の日だった。

今日の生徒は8名。風景画、クリスマスカード、家猫をモチーフとした年賀状などなど、みんな思い思いのものを描いている。

私は人物画の続き。 (さらに…)

第2部へ

2018-11-11

ようやく第2部に入った。

この『奇跡講座』ワークプロジェクトは、学びはゆっくりながら、気づけば私の根幹になっている。

これは宗教ではない。自分の霊性の学びだという。

組織に属する必要がなく“自学自習の書”というのが、私に合っていると思う。

第2部では、あまり言葉はあまり意味を持たなくなり、神なる真理の直接的体験を求めるという。ワークはその直接的体験に向けて自分の内側に入るための導入部として機能する。

これからも、朝と夜に好きなだけの時間を神と過ごすことを素づけていく。」(第2部序文2-6)「また日中は、忘れずに一時間ごとに神を思い出す。第2部序文2-9)

初回のワーク時は、第2部に少し苦手意識を持っていた。

「父なる神」としての擬人化がさらに強まった感じがあり、それがなじまなかったのだ。今回はどうかな。

好きなフレーズはこれ。

神を迎えることが自分の意志だと認識したあなたを訪れることが、神の意志である。そしてたとえ漠然とでも、それが自分の意志だと見なしていなかったら、あなたは決してここまでこられなかったはずである。」(第2部序文5-6,7)

この後半の文に自信と勇気がもらえる。

第1巡目にどんなことを書いているかな?と過去ノートを見てみたら、2015年3月5日に

「今日から第2部だ。“神の声をきく”というが、聖霊の声もキャッチできていないのに…」というメモ書きがあった。

ACIMのブログを作りたいとも書いていた。それに対して、「こわい、どのスタンス(立ち位置)で書いたらいいのかが、まずわからない。」とも。

私、変わってないな(^_^;)

でも、ともかくACIMから離れずやっている。

世間的には紛れもなく退化で、自分的には退化なんだか進化なんだかわからないけど。

(“進化”と入力しようとしたら、私のパソコンは変換がおかしくて何度入れようととても“芯化”になってしまった。)

もしかして、ACIM学習とは芯に向かうこと=芯化なのかな?

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