201~220(復習Ⅵ)

ACIMレッスン206-レッスン186の復習

2018-09-14

攻撃を感謝で交した大坂なおみさんって、すごいな

テニスの全米オープン女子シングルスで優勝した大坂なおみさんが、帰国された(いつもはどこに住んでおられるんだろ?帰国でいいのかな?)。

 
 
 
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Naomi Osaka 大坂なおみさん(@naomiosakatennis)がシェアした投稿 -

一躍時の人になって大人気だ。

日本人(だけじゃないだろうけど)の心の刺さるのは、やっぱり決勝でセリーナ・ウィリアムズさんに勝った後のコメントだ。

I know that everyone was cheering for her and I’m sorry it had to end like this.....

I just wanna say thank you for watching the match. Thank you.

(みんながセリーナを応援していたことは知ってます。こんな終わり方ですみません。ただ、試合を見てくださって、ありがとうございます。)」

あれだけ大きな会場で大勢の人の不満(攻撃性)が渦巻くなか、そのフックには引っかかることなく、感謝だけを述べられた。

その対応にふいを突かれ、瞬間みな正気を取り戻した気がする。振りかざされた剣は下ろされた。

なかなかできることじゃない、と思う。

およそ邪気がない。

飾り気もなく、これがこの人の質なんだろう。

すごいな。尊敬する。

ワークで始終「赦し、赦し」と唱えながらも、電車で人に押されただけでも一瞬えっ!?と反応してしまう私。見習わなくては。

人は歳を重ねて成長する、っていうけど、そうとは限らないな。

いくら努めても、私はあの精神性には届きそうにない。

トップレベルでの勝負の世界にいながらも、そこから一歩離れれば謙虚でシャイ、無邪気。

それってやっぱりすごいことだなぁと思う。

トップになってもそのまま変わらないでいてほしいな、なんていうのは、まったく余計な杞憂だよね。

レッスン206―レッスン186の復習

ワークのダイアリーを書くつもりが、前段が長くなってしまった。

(レッスン186)世界の救済は私にかかっている。

えらく大げさな言い回しだけど、この理屈は、私には信じられる。

私自身の想念が映しだして見せてくれる世界なのだから、と思えば。

ただそう覚えていられるのは、自分が何かの渦中に入るまで。

渦中に入ったら、それが小さな渦でもたちまち飲まれてわからなくなってしまう。

あなたはあなたの自己像のように弱くはない。」(L186-6-3)

今回改めて、レッスン186を読んで印象に残ったところ。

そうかな?

私は、学習し出した頃よりACIMの理解度は深まっているとは思う反面、仕事もしておらず社会的な立場がなく、逆に(社会的には)自信がなくなり萎縮している。だから、これが気になったのかな。

自信が持てず萎縮している自分というのは、ACIMでは「傲慢さ」となるんだろうか。

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。それが消え去るままにしておきなさい。」(L186-7-2,3)

聖霊の考えとエゴの考えはあまりにも違うから、私は今や両方のマーブル状だ(それとも、どちらでもなくまったく間違えたところに入りこんでいるのか…)。

どういう価値判断が正しいのかわからない(判断がエゴのものだとしても、それなくしてはここでやっていけない)。

秋口のせいか、揺ぐ。考えがまとまらないけれど、ともかく目先のマイプロジェクトを進めようと思う。

ACIMレッスン205-レッスン185の復習

2018-09-12

新パソコンその後

新パソコンにおそるおそる電源を入れたら、「いっしょに設定しましょう」と女性の声に話しかけられ、一瞬固まる。

そうか、今はいきなり話しかけてくる仕様なのか…。

言われるがままに、wifi機器の暗号みたいなのを探して入力したらインターネットにつながった。以前に買ったセキュリティソフト会社のサイトにログインしたら(3台まで可だった)セキュリティ完了、ネットで調べて「リカバリーメディア」なるものも作った。

Windows10に慣れず、タッチパッドに慣れず…だけど、電源を入れるまでが一番ハードルが高かった。おいおいに慣れていこう。

パソコンを買い替えることができたのも、住み替えによる「差益」のおかげ。ありがたい。

レッスン205-レッスン185の復習

(レッスン185)私は神の平安を欲する。

もし神なる平安があるならば、それを望まない人はいないのではないか。

ただこれを本気で望むとなれば、話は別。

神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。」(L185-5-1)

ここがとっても、とっても難しい。

今いるここは、自分の想念が映しだす影絵のようなところで、結果の世界だ。結果の世界で夢をやりくりするのではなく、原因(想念)の世界を変えなければ、とどのつまり結果は変わらないのだと学んだ。

でも、やっぱり、自分は体を持ってここにいるように見えるし、結果の世界をいじくることでも満足度が高まる経験をしているから、一切を放棄するとなると躊躇してしまう。

今日の練習ではあなたが依然として大切にしている夢を探しだすために、心の中を念入りに検索する。」(L185-8-1)

              ⇓

何が自分に慰めと幸福をもたらすと信じているのかだけをよく考えなさい。」(L185-8-4)

              ⇓

…一つの問いがなされなければならない。

『これが、天国や平安のかわりに私が望んでいるものだろうか』と。」(L185-8-7)

神の平安を選ぶのでなければ、夢を求めたことになる。」(L185-9-4)

あ゛…、そうですよね  |゚ェ゚;)、

私は、健康や若さを求めている。

それを平安や天国のかわりに求めているのか。

平安への道具として求めているつもり。でも、そこに執着して、やはり仮想をリアルにしているんだろうか。

この世のフィールド(レイヤー?)に立つのではなく、

その下に、自分なりの、聖霊に従ったフィールド(レイヤー?)をこの世で作る。

罪悪感と恐怖を手放し、感謝と豊かさ、愛で廻るフィールドを。

言うは易しだけど…。

私が扱えるのは、自分の無意識から意識に浮かび上がってきた部分だけだから、嫌なこと、腹立たしいこと、怖いこと、後悔、罪悪感などが浮かんできたら、なるたけ、手放していこう。

平安こそが自分が望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。」(L185-6-2,2)というレベルにいずれ行きたいなぁ。

ACIMレッスン204-レッスン184の復習

2018-09-06

北海道で大地震、備えていない私

目覚めてスマホ画面を見て、びっくりした。

最大震度6強、とある。

地震?

北海道…? 午前3時8分…。

今度は地震?…、と思ってしまった。

テレビを付けたら、土砂崩れ、液状化、家屋倒壊といった怖ろしい映像が映った。被害はまだ明らかではない。もっと広がるだろう。

このタイミングで…だけど、9月1日は防災の日だからだろうか。マンションの管理組合さんから、各住戸に水と乾パンが配られた。

備蓄していたものの賞味期限が近くなってきたため、各戸に配って新しいものを買うのだとか。

「この乾パン、けっこうおいしいらしいよ」と管理人さん。

東京など人口が多いエリアで大地震が起こったら、人が多すぎて、救助どころではないだろう。中枢の交通網やインフラにダメージが起こったら、人も流通も大混乱。もうそれだけでパニック、カオスではないだろうか。

まず電気が止まった段階で、エレベーターは使えない。水もダメとなると…。

東日本大震災後、一時人気が落ちたタワーマンションだが、再びここ数年都心湾岸で人気↗、都心の地価上昇に一役買っていた。大丈夫かな?

…というより、私だ。

災害への備え…まったくしてない。

備蓄。料理に使うサバ缶とシーチキンくらい(備蓄とは言わないか)。

いくらずぼらでも…、

これだけあちこちで災害が起きているのだから、少しずつでも準備しよう。

レッスン204-レッスン184の復習

(レッスン184)神の名は、私が受け継いだ賜物である。

このレッスンでは、この世における「名づけ」の意味が示されていた。

名つけとは、

1.自分と切り離して認識するための手段であり(分離化)、

2.名づけることによって、自らが統治でき(自らを神とする)、

3.幻想に現実味を付与する。

すなわち、この分離した幻想社会を形づくるための有力な手段だという。

そして、私たちは幼い頃から長い時間をかけて、名づけられたものを習得してきた。それこそが、ここでの学びでありコミュニケーションの手段だ。

でも、ここで大事なのは、それをリアルとはしないこと。

自分が世界を作ったと考えてはならない。幻想ならば確かに作り出した!しかし地においても天においても真実なるものは、あなたによる命名を超えたものである。」(L184-8-1)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

無数の名づけによって成立しているこの世で、たくさんの名を用いながらも、それを超えて真実を見る。

意志疎通コミュニケーション と真の 親交コミュニケーションは別のものだ。

周りの人のなかに神の子を見る。

神に名はない。

ただすべてが、つまるところ神に集約されていき、ただそれだけになる、という意味で、それは一なるものの象徴であり、一なる名である。

それはまた、私たちにそもそも与えられている、備わった名だ。

肉体でない、だけど健康づくりはしたい

復習Ⅵとして、それぞれのレッスンの復習とともに軸となる概念を学んでいる。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私だから。

私は肉体ではない。

私は引っ越して落ち着いたらいくつかの身体の不具合に対処したり(病院苦手で先延ばししてきた)、筋トレ・ストレッチなどの体づくりをしたいと思っていた。

そして、今もやはりそう思っている。

肉体ではないと思うことと、体への配慮は矛盾しないよね?

それも、また体をリアルにしてしまうことなんだろうか。

ACIMレッスン203-レッスン183の復習

2018-09-05

台風21号去る

あ゛…、コーヒー…、今日もやってしまった。(参考日記:レッスン202-レッスン182の復習

粉を少なめにした上に溢れされてしまい、今日も薄いコーヒーになった。二日連続…、不調なのかな?

台風21号は、関西空港でタンカーが連絡橋に衝突したのを初め、列島各所に大きな爪痕を残して去っていった。

今朝のウォーキング時にも、大きな植木鉢が倒れていたり、大きな枝が折れて飛ばされていたりしたのを見た。

私が数日前にgetして喜んでいた小枝の類もたくさん…たくさん落ちていた。

最近「異常気象」とか「例年に類のない」といった言葉を「頻繁に」聞くようになった気がする。もはや平時が異常になった時代ー非常時時代ーなんだろう。

台風は去ったが、家の外ではヒューヒュー、ビュービュー、今日もものすごい風の音だ。少し慣れたけど、怖い。特に不意に鳴る高音の風が(>_<)

レッスン203-レッスン183の復習

(レッスン183)私は神の名と私自身の名に呼びかける。

8/24~28頃にやっていたワークで、ワークをした日から日にちが経っているから、何だっけ?となっている。なるたけ乖離を縮めたい。

「神の名を繰り返しなさい。」(L183-3-1)

すべての名は幻想に名づけられたものだが、唯一名があるとすればそれは神であり、神に呼びかける者は自らの神性に呼びかける者だ。

私たちの神性はここで眠った状態だが、神の名を呼ぶことは自らの神性を揺り起こすことに他ならない。

私たちの内に神はある。

神は外に探すものではなく、内に開くものだ。

すでに在るものを解き開くのだから。

宇宙は唯一、父に呼びかける神の子だけで構成されている。」(L183-11-4)

絵を描く目的がわかった…?

このワークをやっていた頃のノートには「絵を描く目的がわかった」と書いている。

ワークをやっていたのは、ちょうど色えんぴつ画の作品展の時だった。

先に色えんぴつ画を習っていた友人の作品展を見て「すごいね~、色えんぴつで描いたとは思えないよ」と言ったことがきっかけで、私も始めることになったのだけど、正直絵を描く目的はなかった。

趣味を聞かれても何も答えられなかったから「月1回で負担も少ないし、これを趣味とすればいいかな」と、やや不純な動機だった。

でも、最近先生が出された題材ではなく自由画を描くようになって、私は「神さまを感じる瞬間」や「神性の癒し」のようなものを描きたいのだと思った。

もしかしたら、他のみんなもそうなのかな?

自分が感じる何か、と描きたいんだよね。

下手でいい。かたちのない神を見えるかたちにする。

私自身が神性を感じた瞬間を集めていくといいかもしれない、と感じた。

ACIMレッスン202-レッスン182の復習

2018-09-04

朝のコーヒーが占う心模様

毎朝自作のマグカップに、プラスチックのドリッパーを乗せてひとり分のコーヒーを入れる。

マグカップは昔むかし区の陶芸講座で作ったもの。講座中作ったもののなかでいちばん不格好だ。でもそれでか逆に癒される。ドリッパーがぴったり収まってコーヒーを入れやすいところも気に入って、もう15年以上毎日使っている。

コーヒーを入れる時、自分の心理状態がわかる。

小さな鍋から少しずつお湯を注ぐのだけど(やかんは持っていない)、自分でも気づかないうちに、心ここにあらずだったり不調な時は、お湯を入れ過ぎて溢れさせてしまうのだ。

今日がその日だった。

あ゛…しまった、こんなに。

気をつけよう。

非常に強い台風21号が来ているというから、それも影響しているのかな。

もはや外は風がびゅーびゅー鳴っている。ベランダのものは全部家に入れた。

7月の豪雨や台風20号のダメージがまだ残っているところも多いだろうに…、なるたけ被害が少なく通り過ぎますように。

レッスン202-レッスン182の復習

(レッスン182)私は、一瞬の間静まり、家に帰る。

レッスン182は、お盆が終わって東京に戻ってきた頃やっていたワーク(ワークと日記が離れすぎ)。その頃は台風19号と20号がいっぺんに近づいていた。今年は台風多い…。

私たちは、この宇宙のなかの地球のここがわが家だと思っているけれど、ここは私たちが本来いるところではない。

遠い記憶のどこかで、私たちはそのことを知っている。

だけど、ここでうまくやるには、そんなことに係ってはいられないとも思っている。だいたいに忙しくてそんなこと考えている暇などない。

でも、心の中には幼子がいて離れた親を探すかのように「ここじゃない、お家に帰りたい」と訴えている。

その子は、私たちの内なる無垢性の象徴だ。

その子は、私たちが急ぐ道がどこにも行きつかないことを知っている。私たちがこの世で役立ちそうな道具ばかり集めるが使わずじまいで身動きが取れなくなっていることも知っている。

内なる子どもの声を聴くには、スペースが必要だ。空間と時間。

そして心。

空いた時間と場所と心があれば、無垢な幼子はいつでもどこでも顔を出す。

思い切ってこの子に道案内を任せよう。

…と、そんなことを言っている(ような気がする)。

「防衛しないことの強さ」が欲しい

幼子の無垢性は素晴らしい。

そして、私が憧れるのは、その子が象徴する「防衛しないことの強さ」だ。

防衛しなければならないと思うがゆえ、常に周りを気にしテンパっていてエネルギーが無駄に必要だった、しかも自分から遠ざかっていた気がするから。

私が防衛するということは、裏を返せば、私には攻撃する気があるということだろう。

その攻撃性を少しずつ減らしていきたい。

その攻撃性は自分に向けられているものでなんの役にも立たないものだと知っているのだから。

自分のなかにいる無垢な幼子を安心させたい。

その幼子が手を引いていくところに向かうとしたら、その子は私をどこに連れて行こうとするだろうか。

復習Ⅵへ & ACIMレッスン201-レッスン181の復習

2018-08-29

復習Ⅵへ

復習Ⅵは、レッスン181~200の復習。

毎日1つずつ主題概念を取り上げ、それをできる限りたびたび練習する。」(復習Ⅵ序1-1)

朝と夜にそれぞれ少なくとも15分を捧げ、1日を通して1時間ごとにそれを思い出し、その合間の時間にもできるだけ何度も使用する。」(序1-2)

…とある。

最近の20の想念を一つずつ丁寧に染み込ませていく。

よく理解され、練習され、受け入れられ、一日を通して生じるかに見える出来事のすべてに適用されるなら、それぞれの概念にはこのカリキュラムのすべてが含まれている。」(序2-2)

そして、前回の復習時と同様、軸となる概念があり、各レッスンの前後は次の概念で終わるようにとされている。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」(序3-3,4,5)

一日をこの概念とともに始め、それとともに終える。そして私たちは毎時きっかりにこの概念を繰り返す。」(序3-6,7)

練習には形式は設けないとしながら、例外として、

雑念をそのままにしておかないこと」(序5-2)という留意点が示されている。

誘惑があるときには、

この考えを私は望まない。そのかわりに、こちらを選択する__」(序6-2)

と解放を宣言する。

…読み返しながらポイントと思うところを書きだしていたら、冗長になってしまった。

レッスン201-レッスン181の復習

(レッスン181)私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

このレッスンはお盆帰省中とそれから東京に戻ってきた時にやっていた。

復習Ⅵを貫く機軸となるテーマ「私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」には、どちらかというと苦手意識がある。

個としての「肉体」と「私」に執着があるから。

私はずっと自分を体だと思い、その「私」の自己実現に関心があった。

関心があるのは「私」であって、同胞-この世の兄弟姉妹―にはあまり関心がなかったのだ。

でも兄弟姉妹と自分はひとつで、出会いに偶然はなく、自分の無意識にあるものを見せてくれている、と知る今…。

自分の中の「束縛されてしまう」という恐れに気づく

ワークをして感じたのは、このワークと直接関係がないようにも思えるのだが、「(制約を設けず)この世でしたいことをすればいい」ということだった。

しかし、果たして、それは何?

気づいたことは、私の中にはずっと「束縛されてしまう」という恐れがあること。

「束縛」自体ではなく、「束縛されてしまう」恐れに支配されている。

根底に対人恐怖があるのだろうか。周りが怖くて、学校でも職場でもその他の場でも、いつもその場の何かに孫卓してしまう。よく言えば「空気を読む」なのか?

そして、八方美人になり、過剰適応してしまう。

いわゆる「いい子」をやってしまい(できているかどうかは別)、そのことに自分自身が疲れてしまい、その場を去りたくなってしまう(それで、旧居も逃げ出した?)。

そういう自分が好きじゃない。つまらないなぁと思う。言いたいことがちゃんと言えて、したいことができている(ように見える)人に憧れる(なんでか、ホリエモンの顔が浮かんだ)。

恐れを手放し兄弟姉妹を信頼するという、私のお題に気づく

いい子になろうとして自滅するパターンは、長男長女に多いかもしれない。

その心理の根底にはやはり「恐れ」があるのだと思う。

私は、物ごころついた頃から、常に恐れているのだ。

もう気づいた頃には、周りに受け入れられるだろう「キャラ」を身につけていた気がする。それは、膨大な無駄なエネルギーが要った。

もう、そんなエネルギー使う気がしない。

でも、でもー。

自分が本当に「やりたい」ことならば、恐れなくてもいいのではないかー

今、そう思う。

私は自由でありたい。

どこにいても、ゆったりにこにこしていて、いいんだ。

そういう自分でいたい。

そのためには、レッスン181の「私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。」(L201-1-1)は不可欠なのだ、と改めて気づいた。

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