ACIMレッスン185-私は神の平安を望む。
2018-04-25
ぎっくり腰と膀胱炎
外は大雨。
私は、まだぎっくり腰と膀胱炎で家の中を腰を曲げてそろそろと歩き、トイレばかり行っている。
市販の薬飲んでいるけど、お医者さん行った方がいいのかな?
でも、行けば抗生物質を出されるだろう。できれば抗生物質は飲みたくない。もう少し様子見するか。
明後日の念願の!売買契約までに、治すことができるかな。契約中も不動産屋さんで、そろそろと中座してトイレを借りることになるのかな。
体調の悪い時、「これは幻想だ!」と思って手放すようにする。だけど、ただそう思っただけですぐに回復させられるくらい、まだ視点の転換に熟練していない。
ゲンジツの不愉快さを何とかしたいと、つい逆に幻想にフォーカスしてしまい、それを強化してしまう。いわゆる負のスパイラルに陥りがちだ。
ここに、不具合として現れているものは、内なる恐怖と罪悪感の象徴にすぎないのだから、これもまたanother chance for forgiveness(新たな赦しの機会)にすぎない。
それでも、この幻想って、今の私には、すごくよくできていて、ものすごくリアルだ。
レッスン185-私は神の平安を望む。
レッスン185は、「私は神の平安を望む」と、シンプルなACIMの主題のなかでもことさらシンプルだ。
「この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。」(L185-1-1)
「神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。」(L185-5-1)
ここでは、「本気で(言う)」というところがミソだ。
「今日は、自分の口にする言葉を自分が本気で言っていると認識する練習をしよう。」(L185-7-1)これがこのワークのお題だ。
平安を望まない人はいない。でも、本気で望むときには、この幻想の世がもたらしてくれるように見える手段に執着してはならない。たとえば、社会的地位やおカネ、贅沢品、見た目の良さ、肉体的強さや若さ、人気とか…?
これはとても難しいように思える。この世に生きていてそれらをまったく願わない人はいないと思う。願うのはかまわないけど、執着してそれをリアルにしてしまってはならない、真実を見る目を曇らす、ということなんだろう。
でもやはり…今の私には難しく感じる。幻想と知ってるつもりだけど、今の自分の知覚にとってはリアルだし、その知覚を楽しむのがなじんだ“生きている感”でもあるから。それら全部を手放したら、重力がなくて宇宙空間にふわふわ浮いているかのようになりそうだ。
神の平安を真摯に求めるなら、その手段は理解できる形で与えられる
レッスン185では以下のパラグラフがとくに心に残る。
「平安こそが自分の望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。
平安を求める願望が真のものであるとき、平安を見出す手段は、それを誠実に探し求めるそれぞれの心が理解できる形で与えられる。彼が真摯に求めているなら、レッスンはどのような形をとるにしても、彼が見間違うことのない形で計画されている。」(L185-6-1,2,3)
神の平安に対して、真摯であれ!
そうすれば、旅の途中で自分のコースの一里塚を見逃しはしない。
この部分に安堵を感じる。
ただ、幻想のキラキラに心ときめかすところも未だ大ありな私にとっては、旅の至るところに“踏み絵”もまた置かれているだろう。
ACIMは幻想の快感の手段のすべてに対して、「一つの問いが問われなければならない」としている。
「『これが、天国や神の平安のかわりに、私が望んでいるものだろうか』と。」(L185-8-8)
いや~、ACIMワークブックはがんがん細かいところまで詰めてくる。「ふり」は許されない。
は~、長い道のりだ。
どのくらい長いのか見当もつかない。
とりあえず、私は次の一里塚をめざろう。のろのろと。