171~180(復習Ⅴ)

復習Ⅴおわり-レッスン151~170

2018-03-28

 レッスン151~170を復習する「復習Ⅴ」がようやく修了しました。復習Ⅴのレッスン151~170の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編』より)。

ふりかえってみたら、レッスン151をやっていたのが、去年の10月2日(秋だ)。復習Ⅴを始めたのが今年の2月1日(冬だ)。

そして、今は3月28日。春。しっかり季節が巡っていた。

朝の散歩コースの桜も満開だ。

復習Ⅴは、各々のレッスンを統一する次のような中心テーマがあった。

神は愛であり、だから私も愛である。」(God is but Love, and therefore so am I.

この短い言葉が腑に落ちて自分とひとつになることが、このコースの最終的なゴールのように思う。

少しずつでも近づいているのか、あるいは迷子になっているのか…。

いつも、そんなこと言ってる。

なんか一生、ACIMワークをぐるぐるくり返すような予感あり…。何回転になるか。

 日本語 英語
151すべてのものごとは神を代弁する声のこだまである。151All things are echoes of the Voice for God.
152決断の力は私にある。152The power of decision is my own.
153防衛しないことの中に、私の安全がある。153In my defenselessness my safety lies.
154私は神の司牧者のひとりである。154I am among the ministers of God.
155私は一歩退いて、神に導いてもらう。155I will step back and let Him lead the way.
156私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。156I walk with God in perfect holiness.
157今、私はキリストの臨在の中へと入っていく。157Into His Presence would I enter now.
158今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。158Today I learn to give as I receive.
159私は自分が受け取った奇跡を与える。159I give the miracles I have received.
160私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。160I am at home. Fear is the stranger here.
161聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。161Give me your blessing, holy Son of God.
162私は、神が創造したままの私である。162I am as God created me.
163死は存在しない。神の子は自由である。163There is no death. The Son of God is free.
164私たちは今、私たちの源である神とひとつである。164Now are we one with Him Who is our Source.
165私の心が、神の想念を拒否しませんように。165Let not my mind deny the Thought of God.
166私には、神の贈り物がゆだねられている。166I am entrusted with the gifts of God.
167一なる生命があり、私はそれを神と共有している。167There is one life, and that I share with God.
168あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。168Your grace is given me. I claim it now.
169恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。169By grace I live. By grace I am released.
170神に残酷さはなく、だから私にもない。170There is no cruelty in God and none in me.

ACIMレッスン180-レッスン169、170の復習

2018-03-26

お花見日和

昨日は暖かい陽気だった。

色彩のサークルの後、同じサークル友だちと都営荒川線(東京さくらトラム)でお花見の名所、北区にある飛鳥山公園に行った。

飛鳥山公園は、8代将軍、徳川吉宗公が享保の改革の一環として飛鳥山に1200本以上の桜を植樹して庶民が飲み食いお花見できる場所としたことから発展したのだとか。

人、人、人…犬。人、人。犬(なぜかワンちゃん連れが多かった)。公園は老若男女で溢れかえっていた。小高い丘も、シートに思い思いの食べ物を乗せたお花見客でびっしり。

江戸時代にも老若男女がお花見を楽しんだ姿を想像すると、かたちを変えながら人の営みが繰り返されているのかな、と感慨深い気がした。

お花見というより、お花見客見、という感じだったけど、日本人の季節行事の(みんなでえいっと飛ぶ)“大縄跳び”に参加できた気がして、なんだかうれしかった。

レッスン180-レッスン169、170の復習

レッスン180は、レッスン169とレッスン170の復習。

L169)恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。

L170)神には残酷さはなく、だから私にもない。

「恩寵」という言葉が、普段なじみがなくて「恩寵とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に最もよく似ている。(L169-1-1)」という説明も漠然としていてよくわからなかったけれど、わからない、はACIMではいつものことなので、さほど問題とは思わない。

神との一体性がもともとの姿で、それを思い出すこと。

一体性とは、簡潔に言うなら、「神、在り」という概念である。(L169-5-1)

私たちは「神、在り」とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-4)

この「神、在り」が好きだ。神はすべてを包含する。そして、それ以外にはない。

そこに安らかさ、究極、を感じる。

クレームの電話を受け、イラッと …  ACIMを思い出し、反省

このワークをしていた頃、マンション管理組合の次の役員の順番の方々にお知らせを出したのだけれど、その行動について古くから住んでいる他の役員の方に、「私に相談もなく…」とクレームのお電話を受けてしまった。

2年前私が役員になった時は、知らせもなくいきなり総会決議に名前が載せられて決まり面喰ってしまった。だから「お知らせ」は良かれと思って出したもので、それについてはこの前の理事会で確認を取ったつもりだった。だけど齟齬があったらしい。

私が引っ越し先を決めて心が逸っていたこと、それを口に出してはいないのだけど、その方が無意識に何かを察してそれに対する抵抗感みたいなものがあるもかも。

その後「役員は引き受けられない」という方も出てきて、なんとか別の方にお願いして引き受けてもらうまですったもんだしてた。

ここで気づいたのは、攻撃されると、私自身もつい受けて立っていらっとしてしまい、ACIMの教えをすっかり忘れてしまう、ということだ。その時は相手は年長者だし、すぐに「すみませんでした」と口に出したものの、内心は穏やかではなかった。

まさにレッスン170「正当防衛で攻撃していると考える時、あなたは、残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。(L170-1-3)」という世界にいた。

翌日、落ち着いてACIMの教えを思い出し、反省した。

「もう私理事会も出ないし、監事もしないから」と言われたその方に、電話をし直して「物事を丁寧に進めなくて、申し訳ありませんでした。」と謝り、「Yさんがおられないと諸々立ちいかないので、ご出席お願いします。」と、思いを伝えた。

そうすると、いらいらしていた気持ちがすっきりして穏やかな気持ちになれた。

攻撃を正当化する→恐れが安全を確保するものとなる→愛を敵とする→残酷さを崇める→残酷さと恐れを神としてしまう

レッスン170の攻撃と恐れに関する考え方のメカニズムは、ささいなことから有事まで、この世の惨状を生む因果を論理的に説明してくれている。

怒りを感じたり、イラッとしたら、それはすでに自分のフォーカスが間違っているということだ。

神に残酷さはなく、私にもない。

落ち着いて頭を冷やし、心を鎮めることだ。

攻撃的なところを内に秘めている私ならばなおのこと。

そして、それが表面に出てきた時こそ、手放すことができるのだから、その舞台に参加してくれた人は、縁があり感謝すべき人なんだ、と確認。

ACIMレッスン179-レッスン167、168の復習

2018-03-23

反社会的勢力ならぬ、反ゲンジツ的勢力!?

先週土曜日、手付金を支払い引っ越し先マンションの契約を済ました。

その際、「重要事項の説明」で、「反社会的勢力の排除に関する事項」というのがあって、売主さんサイドの不動産屋さんが「ここは、見るからに違います(反社会的勢力の構成員とは見えない)から、省きます」と言われた。

「反社会的勢力(暴力団等)」の人には売れない、ということなのかな?

そこで、不思議とぴりっと恐縮してしまった。

もちろん「反社会的勢力」の構成員ではない。

けど、「世界はない」と思っている、「反ゲンジツ勢力構成員」かも('_')!?と。

「反社会的勢力」より「反ゲンジツ勢力」のほうがスケールがでかい気がするし。

世の中に対して悪さをしようという気はもちろんないけど、自分が世間というものに対してかなり「防衛的」だというのを再認識するきっかけではあった。

反社会的勢力の人になると、住まいを買うのも不自由なんだな。あたりまえか。

レッスン179-レッスン167、168の復習

レッスン179は、レッスン167とレッスン168の復習。

L167)一なる 生命いのち があり、それを私は神と共有している。

L168)あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。

これも、もうずいぶん前にやったワークで、タイムラグがあると感覚も変わってきてしまう。なるたけ直後にまとめた方がよさそうだ。

レッスン167で、最も印象にあるのは「死とは一つの想念にすぎず、肉体の死と見なされているものとは無関係である。考えは心の中にある。(L167-3-2,3)」というところ。

「死」とは「神との分離」を象徴する概念で、不安、恐怖、罪悪感、後悔などさまざまな感情で現れる。

そういうものが見えたなら、幻を見ているのだから、それをゆるし手放すだけだ。そうしたものは、自分の心の中にあるものが、この世というスクリーンに映し出されているだけだ。

私たちは時間という夢を見ていて、そこに肉体もあるかのように見ているが、それは夢の中でのこと。

想念はその源を離れないのだから、死はない。

そして、レッスン168では、すでに神の恩寵が授けられている、という。あとは、それを自分のものとするだけだ。

神の恩寵は、あなたがそれを認めるだけであなたのものになる。(L168-2-5)」

神はわが子を愛している。この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい。(L168-4-1,2)」

花粉症という過剰な戦い

このワークをしたある日のメモには、

「この世で、私たちは、必ず負けるゲームをしている。」

=盛者必衰ゲーム

でも、そのゲームを止めてもいい。

帰るところがあるのだから。

「死」を生かす必要はない。

今日のいのちをどれだけ喜べるか。

喜びって、刺激的というより、ゆったりした状態なんだ。

…などと書いている。

そして、私が花粉症がひどいことにもふれて、

戦う必要はないのに、つい戦ってしまう。

自分が罪の意識があって攻撃されているかのように感じるから、戦ってしまうんだ。

花粉は私を襲おうとしているわけじゃないのに、花粉を敵と見なして過剰防衛してひとり相撲をしている。

私は、何でもおばけにしてしまう、と書いている。

今日も、たくさん花粉飛んでそうだな。

ちなみに、ひどい花粉症だけど、お医者さんにもかかっておらず、薬も飲んでいない。

名づけて「野ざらし療法」

花粉に徐々にさらして、からだに花粉が怖いものではないと学習させる…、な~んて。

たんに、ずぼらなだけだった(^_^;)

 

ACIMレッスン178-レッスン165、166の復習

2018-03-17

今年もいよいよ活動期へ

すごく暖かい日があったかと思うとまた急に寒い日が続いたりしていたけど、ここに来てようやく暖かさが安定してきた。

動植物が動き出す「活動期」が今年もいよいよやってきたなぁ、と思う。

幼い頃から、一年のうちでは春がいちばん好きだった。

雪国の富山で育ったためか、寒くて空もどんよりした冬が過ぎてふきのとうが芽を出す頃になると、しみじみうれしかったものだ。

東京は冬の空がすばらしい。が、その分、春が来る喜びは薄まる。花粉症なんていう都会人がなるものと思っていたアレルギーになってからはさらに、純粋に春が喜びにくくなってきた。

それでも、この季節になると、ああ、今年も一年が始まると、気分が高揚してくる(4月から新学期、というのが、未だにからだに染みついているのかな)。

レッスン178-レッスン165、166の復習

レッスン178は、レッスン165とレッスン166の復習。

L165)私の心が、神の想念を拒否しませんように。

L166)私には、神の贈り物がゆだねられている。

2月27日~3月4日までレッスン178のワークをやっていた。

そして、このワークをやっているときに、「私はACIMを信じていない、自分が信じているゲンジツからACIMに逃げているだけだ」(参考:転換点ーACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか)と感じた。

でも、細々とだけどACIMの学習を続けてきたのも事実。小さな部分ではあるけれど、ACIMは私の一部になりつつある。

私は少しずつでも変化しているんだろうか。

自分ではわからない。ただ、この世で見せる自分(仮面?)と、ACIMを心にもつ自分(本来の自己?)の間にギャップができていて、そのギャップが大きくなっているのを感じる。それを小さくしたい。

内心では、エゴがそうはさせるものか、と暴れているような気もする。「ACIMの学習をやることは認めた。それはこの与えた庭からはみ出さない範囲でだ。そこを超えたら痛い目に合うよ」と脅かしてくるのだ。

私の心の中での葛藤?

神へ…くりかえし背中を押しつづけるACIM

「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外に、どんな理由があるだろうか」(L165-1-1)

私にはこの世がかなりリアルに見えている。少しでも行動を起こすとそれはさらにリアルに映る。そして、ACIMの学習から少し離れても、それはさらにリアルになる。

「天国を拒否してはならない。求めさえすれば、それは今日あなたのものになる。」(L165-4-1)

「真に欲しながら求めなさい。」(L165-5-1)

「神は例外なく与え、あなたの幸せのためになるものを与えずにおくことはない。けれども、あなたの意志が神の意志とひとつとなっていなければ、神からの贈り物が受け取られることはない。」(L166-1-4,5)

「自由になりたければただ、誰が自分とともに歩んでいるかを認識し、自分の宝庫を開きさえすればよいのである。」(L166-6-3)

ACIMはくりかえし、くりかえし、神への道を説いている。

ACIMのすすめに、恐怖にからだをこわばらせている私

私も、ワークブックに向かっているときは「わかる」と思う。

その一方で、強い不安も感じる。

聖霊に自分をゆだねることへの不安。

エゴが傷つくことへの不安。

ACIMをすばらしいと思っているというのに、恐怖にからだをこわばらせている。進むことも退くこともできずに固まっている。

「あなたがどんなに恐れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。」(L166-11-3)

「その存在は、あなたが貧困という概念に圧迫されるたびに、あなたのもっている贈り物のすべてを指し示す。あなたが自分を孤独でおびえた者として知覚するときには、あなたには旅の同伴者があると語りかける。」(L166-11-4)

私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう

私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう。

コースを歩むとは…?

生身のからだをもった私は、何をして、どうやって稼ぎ、

だれと、どこで暮らし、

何であるのか。

聖霊がせっかく強く呼びかけてくれるのに、手で両耳をふさいだり開けたりしながら「あ~」をエゴの声を張り上げて、ちゃんと聴いてしまわないようにしている。

神の贈り物を受け入れ、キリストの感触を体験することを選択する心がどれほど大きく変容するかを、あなたの幸福によって証ししなさい。これが、今やあなたの使命である。」(L166-15-4,5)

諸々のこと、よくわからないけれど、ここに書かれている「あなたの使命」をきっと私は生きたいんだなぁ。

これが私の真北だ、やっぱり。

ACIMレッスン177-レッスン163、164の復習

2018-03-05

ひな祭りの差し入れ

おととい土曜日は、おひなさまだった。

そんなことはすっかり忘れて、朝東京都のパソコン講習に出かけ夕方に帰ってきた。

ドアノブにレジ袋みたいなものが引っかけてある。何かと中と見たら、ちらし寿司みたいなものと煮物、お漬物が入っていた。

メモはない。だけど、おそらく下の階のおばあちゃまかな、と思い、電話したら、案の定そうだった。

「おひなさまだからね」と。「朝ピンポン押したけど出なかったから、まだ寝てるかと思って置いてった」

寝てはいなかったけど(^_^;) 日本の季節行事をすっかり忘れていた。ありがたい。

ハート型に盛りつけようとしたけど、かえってぐしゃぐしゃになった。数の子の食感がこりこり歯ごたえがいい。奮発して買ってきた大きな牡蠣も蒸し焼きに。ぷりっとしてクリーミィだ。おいしい。

ひとり暮らしの個食ながら、ほっこり、気分も華やいだ。

こんなやさしい心くばりをしてもらえるところなのに、老朽化と管理組合の面倒さを理由にここを去ろうとしている私。それもすごく大きなコストをかけて(仲介手数料や登記料て高い)。

それってほんとうに必要なことなのかな?このままいてもいいんじゃ?いやいや、今が売るラストチャンスだ…

と、頭はまたぐるぐる「マンション売却問題」のほうに向かうのだった。

レッスン177-レッスン163、164の復習

レッスン177は、レッスン163とレッスン164の復習。

L163)死は存在しない。神の子は自由である。

L164)私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

ACIMの死とこの世でいう死

「死」の概念が、私たちのそれとは大きく異なっている。

私たちは、「肉体の死」を死と捉えているが、ACIMは死とは肉体に関することではなく、一つの想念だと捉えている。

その想念とは、「神の不在」「神の欠如」だ。

私たちが今、「自分」だと思っている肉体のかたちをそもそも存在しない…としている。個々の私たち自体が幻想だし。

その上での、死=神の不在。

それが、結果としてあらゆる不安、恐怖、悲しみ、苦しみ、嫉妬、罪悪感、絶望…といった感情に現れているという。

私たちは神のかわりに擬似神を崇拝している。死もまた擬似神だ。

ACIMの中心概念は、

「神はある(それ以外はない)」

幸福、喜び、感謝などに代表される神の質と合わないものを感じているのに気づいたら、ただ赦し、手放すだけ。

なんてシンプルなんだ!

人であろうと、状況であろうと、それを赦し、手放す。

『神の使者』には、コース(ACIM)はシンプルだけど易しいとは言っていないとあるけど、それは本当にそうだと思う。

自分が渦中にいるときに、赦して手放すとは?そこにどういうふうにいたらいいんだろう。まだわからない。

ただ「死はない」というのは強力なメッセージだ。この世の恐怖感の根っこは「死」だと思うから。

「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L63-8-6,7)

私たちが正しくACIMの考えを習得できたとき、肉体の死は恐怖心を伴わないものになっているんだろう。

今回の人生でその境地まで達することができたら、最高だと思う。

ACIMは猫背なおし!?

ACIMというのは姿勢なおしみたいなもんだな。

私は猫背でパソコンを見たりスマホを覗いたりしていて気づくと、背中が丸まり首が出てる。一回矯正ベルトみたいなのを買った気がするけど、あれはどうしたかな?

猫背をなおすには、

あ、猫背だ、と思ったら、首を引いて背筋を伸ばす。

それが習慣になってよい姿勢があたりまえになるまではそのくりかえし。

ACIMも赦しが習慣になって必要なくなるまではそのくりかえし。

春近し。まず背筋から意識しようか。

レッスン176-レッスン161、162の復習

2018-02-20

メダリストってすごいなぁ、やっぱり

平昌五輪のフィギュアスケート男子は、羽生結弦選手が66年ぶりの連覇を果たし、宇野昌磨選手が銀メダル獲得と、最高の結果を出した(写真撮影:河野匠)。

また、スピードスケート女子500mでも、小平奈緒選手が金メダル!

日本中が感動し、湧いた。1つのことに一心に打ち込むってやっぱりすごい!

感じるのは、オリンピックに出場している選手みんながとっても人格者でもあること。いろいろなプレッシャーにさらされているだろうに、また年齢も若い人が多いのに、皆驚くほど、思いやりや感謝に満ちている。

マンション売却・引っ越しプロジェクト、その後

私事では、マンション売却に関して先週金曜日、一番目の内覧者の方から購入申し込みがあった。近くで飲食店を女性とその息子さんで店の近くで探していたという。

ローンに難あり、と聞いて期待していなかったのだが、地方銀行が引き受けてくれたという。契約日は2月22日に決まり、事前打ち合わせも済み、気持ちは舞い上がった。

こんなにスムーズに決まるとは思わなかった、ラッキー♪

「せめてカーペットを新しくして引き渡してあげよう」とリフォーム屋さんからサンプルをもらったり、ネットで本格的に新居探しを始めたりしていた。

…ところが!

昨日、不動産屋さんより電話があり、契約を延期してほしいとのこと。なんでも買主さんから「手付金(100万円)が用意できない」と連絡あったとのこと。

お母さんの方の老後資金を充てる予定にしていたが、それをやっぱり見直したとか…

そして、今日の昼、再び不動産屋さんから電話があった。

「キャンセルになりました」

最初から買主候補がいなければ平常心でいただろうけど、いったんその気になって舞い上がったのち急降下して、ずっこけてしまった。

いったいどういうこと?

「初めての内覧で即決まるとは、Iさん(不動産営業の方)の日頃の行いのおかげですね」「いやいや、たまさんの日頃の行いですよ」と不動産屋さんとお互いを持ち上げ合っていたけど、おそらくどちらの日頃の行いもよくなかったんだろう。

レッスン176-レッスン161、162の復習

レッスン176は、レッスン161とレッスン162の復習。

L161)聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

L162)私は神が創造したままの私である。

ここで反応したのは、レッスンの中核ではないかもしれないけれど、

「『見る』という行為はすべて、自分の見たいと願うものを自分に見せることを目的としている。『聞く』という行為はすべて、あなたの心が聞きたがっている音を、あなたの心にもたらすだけである。」(L161-2-5,6)という箇所。

とすれば、マンションの申込も、そしてキャンセルも、私が見たくて聞きたかったこと、となる。

この件では前のレッスンのワークでも「(自分から)こじらすな。」というメッセージを感じていた。

私はこじらせたのか。

自分でトラップを仕掛け、それに嵌って喜んでいるんだろうか。

レッスン161の終わりには、「今日の主題概念はあなたにとって、怒りや恐れからの安全な脱出方法である。兄弟を攻撃しそうになったり、彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ず、ただちにこの概念を使うようにしよう。」(L161-12-4,5)とある。

私は買主さんに怒りを感じるゆえんはないが、「彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまうそうになる」ことはあったかもしれない。

私と同年代、50代半ばと思しき買主の男性。どんな仕事をなさっているかは知らないが、他にも借金を持っているという。その上、これからこのマンションに対してローンを組もうとしていることに、強い恐れを感じていたのだ。だいじょうぶなのか、と。

そして、その思いをゲンジツ化してしまった。

自分が映しだすゲンジツ、だから縁は完璧

2月16日にレッスン176のワークをやった際のメモには、感じたこととして、

「よいことがあったときには感謝しやすい。

 悪いと思えることがあったときにこそ、感謝すること。赦すこと。」

と書いていた。

まあ、そんなんだけどね。

こうやって見ているゲンジツは、すべて自分を映している。

だから、現れる内覧者の方も、一人ひとりが私のある側面を見せてくれているのかもしれない。

日本的に言えば、「こういうのは縁だから」

縁には、フィーリングとタイミングが大事。

そして、この縁というもの、一枚めくれば、すべて自分が脚本演出しているのだから、まちがいはない。完璧だ。

私に、その完璧な買主は現れるのかな。価格を大幅に引き下げることになったら、次に行けるとこ、ない。

あ、いけない。またエゴのストーリーに乗っかっている。自分がこじられなければ、成るように成る。

限りなくツイテいて、限りなくハッピーでいてもいいし、上機嫌でいることが使命のひとつでもある。

レッスン175-レッスン159、160の復習

2018-02-16

平昌オリンピック真っただ中

平昌オリンピックの真っただ中だ。

私は小学校の頃から運動神経がにぶくて跳び箱3段跳ぶのにも難儀していた。そのためか、「より早く」とか「より高く」とか、あるいは1対1の「戦いに勝つ」ということに執着心がもてない。

格闘技にいたってはおしなべて「暴力」に見えてしまうし、ACIMを勉強し出してからは「この世は幻想だから」の言い訳のもと、「努力する」「頑張る」を投げ出してしまい、生来のぐうたら度がどんどん高まっている。

そんな私からしたら、オリンピック選手の極限の頑張りは目を見張るばかり。

空中でくるくる回るスノーボードなんて、いったいどうなっているんだ。同じ肉体構造をもつ人間とは思えない。

冬季スポーツの中でも好きなのは、フィギュアスケートだ(当然、見る方)。

冬は浅田真央ちゃんの、氷上の優美な姿を見るのが楽しみだった。少女らしい可憐さ、雛人形のような上品な顔立ち、それと対照的とも思える勝気さ、強さ。

成長していくとともに、真央ちゃんの表情は無邪気さ、楽しさから苦悩や厳しさに変わっていき、大人になることの定めのようなものも感じた。4年前のソチ五輪のショートの“失敗”からの大逆転ドラマは、一生心に残るシーンだと思う。

今日は男子フィギュアのSPがあった。羽生結弦選手が大けがから見事復活して現在1位。宇野昌磨選手が3位につけている。明日のフリーも優美でダイナミックな姿が楽しみだ。

レッスン175-レッスン159、160の復習

レッスン175は、レッスン159とレッスン160の復習。

L159)私は自分が受け取った奇跡を与える。

L160)私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

ここで意識が向かったのは、「与えることは、自分がすでに受け取っていることを確認する方法である(L159-1-7)」ということ。

癒しを与えるとき、自分が癒されることを知り、

赦すとき、自分が赦されていると知る。

同胞を神の子として見ることができれば、自分を神の子だと理解できる。

恐れや罪悪感は必要ない。正しい心眼ですべてを見ることができれば、この世のすべてが奇跡となる。

それは隠されているものではなく、すでに私たちに与えられているギフトなのだから、開いてその奇跡を受け取るだけでいい。

「求めさえすれば、すべてを受け取ることができる。ここでは、扉に鍵がかけられるようなことはなく、誰ひとりとして、どんなに些細な願い事についても、どんなに緊急な必要についても拒まれることはない。

キリストのこの黄金の宝庫の中ですでに癒されていない病気はなく、満たされていない欠乏や必要もない。」(L159-6-3,4,5)

なんて力強い言葉だろうか。

「あなたがあたえることができるように蓄えられている奇跡を見なさい。それは神があなたに与えると約束した贈り物である。その贈り物に、あなたはふさわしくないだろうか。

神の子を裁いてはならない。それよりも、神が定めた道を進みなさい。」(L159-10-1,2,3)

「自信のないふりをするのは止めよ」「自分自身であれ」

この復習をして私が感じたのは、「ヘタに自信のないふりをするのは止めよ」ということ。

私は自信がない。

何に自信がないのかー。改めて、考えてみた。

内から出てきた答えは、

「自分自身であることに」だった。

生まれて初めて出会った人間である、母が怖く、周りも怖く、

私はずっと「隙間家具のように生きること」をモットーとしてきた(ような気がする)。

隙間家具=そこそこ役に立って邪魔にならない。目ざわりにされない。

それは学校や会社になじむにはなかなかよい方法で、逆に信頼を得ることも多かった。

でも、私自身は生来「隙間家具」ではないのだ。

私が「自信がないふり」をしているとしたら、何かに攻撃されないように生きるためだ。

でも、その「何か」とは何だろうか。

自分の心の中に在る「恐れ」以外のなんだろうか。

「自分自身であることに対して、自信がないふりをするな」

すなわち、「胸を張って、自分自身であれ」

これがこの復習ワークから感じたメッセージだ。

自分自身であるということは、自分が使命だと思うことに素直になること。

ACIMに対しても素直になろう。ACIMの中には自分の使命があるように感じている。

レッスン174-レッスン157、158の復習

2018-02-11

内覧者現る、だいじょうぶだろうか

『奇跡講座ダイアリー』というより『マンション売却ダイアリー』になっている、ここ最近 (^_^;)

きのう初の内覧のお客さんがお見えになった。

昼ごろ不動産屋さんから「本日3時にお連れしてよろしいですか」と電話があり、猛然とそうじし始めた。

70代と思しき女性と50代のように見える男性。夫婦と聞いていたけれど、えらい年の差カップルだなと思っていたら、あとで親子だとわかった。

とても人のよさそうな方々だ。「あら気持ちがいい部屋だね」と言ってくれたお母さんにはとくに親しみを感じた。

具体的に住まれるかもしれない方を見て、急に心配になってきた。

だいじょうぶだろうか。

ここは、

・交通、買物至便。

・角部屋、日当たり、通風、眺望良好

と、古いけれど、住みやすい部屋だと思う。

ただそれは、「管理組合の役員にならねば」という条件つきだ。役員になったとたんに、住人の一人から激しい攻撃の対象になってしまう。

この人たちが買ってくれたとして、後々ここを選ぶんじゃなかったと後悔することになるんじゃないか。

最近このあたりの中古マンション購入の半数以上は中国の方の投資目的だという。投資物件としてなら役員は回ってこない。そういう方に買ってもらえるなら、そっちの方が…?

自分が転居することばかり考えていたけれど、やはり具体的な購入見込者を見て不安を感じてきた。

ワークから感じたこと

こうした私の心配に対して、最近のACIMワークから感じたことは、

「そぐわなくなったものが剥がれ、そぐうものが嵌るだけ。見えている(ようにみえる)範囲がごくごく一部でしかないものを、誤って判断し小さい心でこじらせるな。」というものだった。

これは聖霊のメッセージ的なものだろうか。あるいは私の自己欺瞞か。

感じたのは、「困った住人がいて、それに振りまわされて自分が動くのだと見れば、その見方はまちがっている。あなたは“問題”と見せられたものを現実化している。」

「そうではない、これは単なる後押しにすぎない。」

「それより、購入希望者として現れる同胞のことを心眼ヴィジョン で見るようにしたら、それはよきものを残すことになるのだから、まっすぐでいてよい」

「“うまく”やる必要はない」

「具体的にどうしたらよいかわからなくなったら、ただただ、ひたすら周りに感謝すること」

「決して怒らず、人を批判することなく、よいと見えることにもよくないと見えることにも、ただ感謝すればいい」と。

ほんとうかな。

自分が感じたと思う「メッセージ」を書いていることも、イタイことなのかもしれない。

レッスン174-レッスン157、158の復習…誰のことも肉体としては見ない

レッスン174は、レッスン157とレッスン158の復習。

L157)今、私はキリストの臨在の中へ入っていく。

L158)今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。

復習するべき主題概念の高潔さと私の現状には大きなかい離があると思う。とくにL157は今はぴんと来なかった。

L158は、啓示と心眼ヴィジョン について説明して、啓示は直接共有することはできないけれど、心眼は共有できると説いている。ACIMを学ぶ者は聖霊から受け取った心眼で見ることによって、それを与えることになる、と。

「キリストの心眼には一つの法則がある。それは、肉体を見てもそれを神が創造した神の子と見間違うことはない。それが見るのは、肉体を超えた光であり、触れることのできる有形のものを超えた一つの想念である。(L158-7-1,2,3)」

「そしてその心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。(L158-7-5)」

心眼…未だ習得できていない。

「今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、というこのことである。誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。(L158-8-3)」

「今日あなたが出会う兄弟一人ひとりが、キリストの心眼をあなたの上に輝かせ、あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。(L158-10-5)」

今日も午後4時に、別の不動産会社の方がお客様を連れて内覧の予定だ。

その方々のことを、「肉体としては見ない、同じ神の子と認めて挨拶する」ということを試みてみようかと思う。

レッスン173-レッスン155、156の復習

2018-02-07

気が休まる水曜日

なんだか解放的な気分で、気が休まっている。

なぜかというと、水曜日―不動産屋さんの定休日、だから。

今日は契約した不動産屋さんからの電話も、未契約で「ぜひうちとも契約を」という不動産屋さんからの電話も訪問もないはず。

おととい、一括査定に参加してもらったけれど早々に断っていた不動産屋さんから電話がかかってきた。

「ネットで見ましたよ。なんだ、専任契約じゃないんですね。一般だったらうちとも契約してくださいよ」

ドキッ

そうだよね、そう思うよね。私も専任にするつもりだったんだ。結果的に一般になったけど。

あ、でもね、今のところ契約する会社をこれ以上増やすつもりはないんだ。

過剰反応する必要はないけど、契約した不動産屋さんから、「契約を求める新規の不動産屋さんがいつ直接訪ねてくるかわかりませんよ」と聞いて、どこかしら身構えていた。

「私が言うのもなんですが、不動産屋はありとあらゆる手段を使って契約を取ろうとしますから、気をつけて」と念押ししていったし。

私は自分から出ていく方はそうでもないのだけど、自分の空間に来られるのはキンチョーが高まる。いつもはしないドアチェーンもおとといから、しっかとかけた(ACIMでいう「防衛」である)。

でも、今日は大丈夫。不動産屋さんはお休みだ。大いに羽根を伸ばして休んでほしい。

こんなクローズドな性質で、興味を持った買い手候補の方に家の中をお見せする「内覧」を何回もこなせるのか、不安だ。おそらく一回ごとにキンチョーするんだろう。あまり今から身構えないでおこう。

内覧希望者がまったくなかったら…。

そっちの方がかなり心配だ。

レッスン173-レッスン155、156の復習

レッスン173は、レッスン155とレッスン156の復習。

L155)私は一歩退いて、神に導いてもらう。

L156)私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

このレッスン173では、レッスン155と156の文言で、神さまと聖霊とをコンパスとするこの世での生き方をもう一度確認する。

この両方のレッスンとも、本文の一番最後の宣言がエッセンスだと思う。

L155「私は一歩退いて、神に導いてもらう。私は神に至る道を歩きたいのだから。」

L156「私は完璧な聖性の中で、神とともに歩む。私は世界を照らし、私の心を照らし、私とひとつのものとして神が創造した心のすべてを照らす。」

「神は愛であり、だから私も愛である。」

このワークでは、復習Ⅴを総括するフレーズ「神は愛であり、だから私も愛である。」をより意識した。

このフレーズは、短いながら、私たちの意識を動かす強力な2つのフックがあると思った。

1つは、文字どおり「神は愛である」というところ。

これは、私たちが神に対して無意識に投影している「罰する神」「恐れるべき神」というイメージを根幹から上書きする役割を果たす。

もう1つは、「だから、私も愛である」というところ。

「神は愛」「だから私も愛」という2つの文は、今の私には強引とも感じる。この文で、神と私はつながっているんだ、と潜在意識にしみ込ませる。

復習Ⅴを通して、この文言を唱えることで、古い心のOSの更新を図っているのだ。

…私ははたして愛になりうるんだろうか。

今世では無理かな、と、はなから投げ気味だ。

ワークをしていて感じたのは、私はやっぱり感謝が足りないということ。言葉で「ありがとう」を言うのはけっこう慣れてきたけれど、心がね。。。

「本当にありがとう」と心から感じている時は、逆に言葉にできなかったりする。

レッスン172-レッスン153、154の復習

2018-02-05

自宅マンション、売りだし開始

自宅マンションの一括査定をお願いした後、どの不動産屋さんに仲介を依頼をするか迷っていたが、ようやく決めて契約を済ませた。

1社とだけ契約する「専任」という契約と、複数社と契約できる「一般」という契約があって、「『一般』はいろんな不動産屋さんが『うちも契約を』と直接訪ねてくるよ、やめたほうがいい、オートロックもないマンションで」と聞いていた。

また、1社だけに絞り込んだ方が不動産屋さんもがぜんやる気になる、と。

だけど、2社まで絞り込みもう一度その2社の担当者とあったが1社に絞りきれず、結局「一般」での契約をお願いした。

そして昨日から不動産仲介サイトへの掲載がスタートした。

自宅内の写真も載っている。自宅のキッチンやお風呂をネットで見るのはヘンな気分だ。愛着のあった住まいが私の手によって、売りに出されている。

売ったおカネから諸経費を引いて買い替えができるところって、どこかな?20代の時ならいざ知らず、中年になって住まいのエリアを変えるって大きなことだな。とくに最近とみに体力気力が衰えている私にとっては、一大事業だと感じる。

レッスン172-レッスン153、154の復習と防衛する私

レッスン172は、レッスン153とレッスン154の復習。

L153)防衛しないことの中に、私の安全がある。

L154)私は神の司牧者のひとりである。

自分から仕掛けたことだけれど、私はマンション売却・住み替えに恐怖を感じていた。

一括査定に来た不動産屋さんは口々に、自分も不動産業なのに「不動産屋はしれっと平気でウソをつきますから、他社さんにだまされないでくださいよ」と言っていく。

「このエリア限定で去年から買いたがっている女性がいる」とある不動産屋さんに聞いて気をよくしていたら、次に着た業者さんが「そんな人、実在するわけないじゃないですか」と言い、「え、そういうもの!?」と思う。

「高値で査定する会社は、専任契約を取るためのテクニックで、契約が取れたら『高すぎて売れない』と段階的に数百万円価格を下げさせて、結局一千万円近く値引きしてさせたあげく、提携業者に買い取らせるシナリオがあるんです」と別の営業の方。

各営業マンから不動産業界の「裏側」の話を聞かされ、短期間のうちに「こいつも、もしやウソをついているのか」とすっかり「不信のメガネ」をつけて不動産屋さんを見るようになっていた。

だまされるなんて、ジョーダンじゃない!

私が「専任」を選べず「一般」にしたのも、一社だけに囲いこまれることにリスクを感じたからだった。

でも、ワークをして、「ありゃ、これこそが防衛だな」と気づいた。

私は、草食動物の私を狙う肉食の不動産屋さんと闘っているような気になって「そうは思うようにさせるか」と思っていたけれど、これは「勝ち負け」ではないんだった。

つい、内に持っている「好戦的」なところが出てしまう(^_^;)。

闘うのではなく、「聖霊さんに導いてもらう」のだった。

恐ろしいゲームをする必要はない

救済とは、幸せな子どもたちの楽しむゲームに喩えられる。それは、ご自身の子どもたちを愛する神によって計画された。その神は、恐ろしい玩具を片づけて楽しいゲームを与え、恐ろしいゲームは終わったと教える。」(L153-12-1,2)

そうだ。そもそも、恐ろしいゲームをする必要などない。

「あなたは自分の父から見捨てられて、望みを失ったというゲームをしてきた。罪と罪悪感で気が狂っている恐ろしい世界で、たったひとりで恐怖に震える役を演じてきたあなたは、今、幸せになりなさい。」(L153-13-1)

うん。穏やかで幸せなゲームでいいんだ。

そして、ワークで感じたことは、

「ここを売って引っ越しできる可能性自体が、大きな恵みなんだということ」だ。母との共有名義のマンション、15年もの間こうしてここで快適に過ごしてこれたのも、母のおかげだし天の恵みだ。

日当たりもよく、すごく心地よいところだった。

この空間に護られていたことも、感じた。

復習Ⅴへ & レッスン171-レッスン151、152の復習

2018-02-01

復習Ⅴへ

復習Ⅴには、全体を通して唱えるテーマがある。

「神は愛であり、だから私も愛である。(復習Ⅴ 序 4-3)」

毎日の復習はこの概念とともに始める。そして、この概念とともに終える。この概念とともに眠りにつき、朝目覚めてからもまずこの概念を意識に上らせる。

「愛である私」という自己概念を強力に育てていくことが、この復習のテーマなのかな、と思う。それは今後出会う周りの人に「愛である私」を伝えて「愛である私」を呼び起こしていくしごとのためでもあるんだろう。

イエスは、この復習の序文で「この復習を私への贈り物としてほしい。なぜなら、私が必要としているのはただ、私が語る言葉をあなたが聞き、それを世界に与えることだけだからである。(復習Ⅴ 序9-1) 」と言っている。

そして「私は真の自己からあなたに呼びかけているが、その自己はあなた自身の自己にほかならない。(9-4)」と言う。

この自己への道は、兄弟と歩む道、私たちはいずれ各々真の自己となり神とひとつになる。

「それならば、生きているもので、あなたとひとつでないものなどあるだろうか。(9-9)」

このフレーズが心に響いた。

このゲンジツの私は、他者を「搾取する者」や「うまくしてやろうと思っている者」に見えているからだろうか。

レッスン171-レッスン151、152の復習

レッスン171は、レッスン151とレッスン152の復習。

L151)すべてのものごとは神を代弁する声のこだまである。

L152)決断の力は私にある。

実生活では、マンション売却のための一括査定をお願いしたのち5社の不動産屋さんに訪問査定をしていただき、短期間のうちに見ず知らずの男性が相次いで家を訪れ部屋を覗き込んでいく(それが査定だ)という状況に、強いストレスと緊張を感じていた。

また、その査定結果は安いところと高いところには1,500万円もの差があって、「いったいここは本当はいくらが妥当で、いったいどの不動産屋さんに仲介をお願いすればいいの?」と、訳がわからなくなっていた。

各社からの電話やメール攻勢にも緊張し、あげくの果てには胸が締めつけられるように痛くなってきた。

ワークをしていても、「不動産屋さん、どこにしよう、早く決めなきゃ、どうしよう」がチラチラ出てきてしまい、ざわざわする。すべてエゴ的反応だ。

「あなたには判断するということができない」

レッスン151、152の本文を読んだ。

「どうしてあなたに判断することなどできるだろう。あなたの判断は、五感が差し出す証拠に基づいている。ところが、これ以上に間違った証拠というものはほかにあったためしがない。(L151-3-1,2,3)」

あ゛… そ…

「これまであなたは、自分で判断することを控えるようにとたびたび勧められてきたが、その理由は、それがあなたにふさわしくない権利だからではない。あなたには判断するということができないからである。(L151-4-2,3)」

あや…

これらの文言が、「不動産屋さん、どこにしよう」と迷っていた私の頭をコーンと叩いた。

そうか、私には判断できないのか。

査定価格、会社の力、手数料割引や売り方、担当者の第一印象、キャリア、手腕などなど「細かく分析」し「総合的に判断」しようとしていたつもりが、「五感はあてにならない」し「判断するということができない」のか、と。

特にいくらで売ってくれるつもりがあるのかという査定価格には、大きく心を動かされていたけれど、そもそも「おカネ」なんてものはないはず。

あるのは、神の豊かさだけ。

私たちはそれを自我という制限のプロジェクターを通してこの世というスクリーンに映しているだけ。

神はこの世を作ってはいない。

自我という影と制限、罪悪感と恐怖を映しているだけなのだ。

大事なのは聖霊の存在を感じ、その導きを受け入れていくだけなんだ。

「誰がパートナーなのか」

何日かこのワークをしていて感じたのは、

「やっとここまできたか」という誰かの声。これが聖霊さんの言葉なのか。

マンションの大型修繕計画やモンスター的住人、役員でごたごたしそうで、「引っ越ししよう」と思ったが、もしかしたら一連のできごとは、故郷にいる親のことが気になけつつ動けないでいるがに、何らかの変化をもたらすために私の無意識が引き起こしていることか…

そもそも聖霊さんの後押しのプロジェクトなのか…?と感じた。

それは、この先どういう展開になるのか私からは見えない、だから私には何もわからないが。

そして、「誰がパートナーなのか(不動産屋か、聖霊か)」と問われている気がした。

もちろん正解は「聖霊」だ(正しい見方を覚えていれば、そのはず)。

レッスン152本文の冒頭には、「自分の決断に因らない限り、誰も損失を被ることはありえない。苦痛を被ることを自ら選択しない限り、誰も苦痛に苦しむことはない。(L152-1-1)」とあり、

また「あなたの身に起こることで、あなたの願望を表していないものは一つもなく、あなたが選んだもので、そこから省かれるものも一つもない。ここに細部にわたって完結したあなたの世界がある。(L152-1-5)」ともあった。

そうなのだ、困ったや苦痛を感じたとしたら、それは私が作ったもの。すべては私が描く世界なのだ。

上手にワークしているつもりでいたけれど、差し迫るゲンジツの前ではすっかりこういう教えを忘れていた。

そして、今覚えているつもりでも、またすぐに忘れるんだろう。

ただ、このマンション脱出&住み替えプロジェクトには聖霊さんの導きがあるようにも感じた。

恐れないでひとつずつ進もう。なるたけ耳をすまそう。

私が私のじゃまさえしなければ、すべてはうまくいく。

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