121~140

レッスン125-静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

2017-07-12

エアコン解禁~

福岡や大分など九州北部の方では豪雨による災害があった。土砂崩れで道路や家が埋められたり流されたり。泥まみれになった家を再建するのは並大抵のことではないだろう。災害で急に生活を奪われる理不尽さと辛さ。亡くなった方、現在まだ捜索中の方もおられる。

東京は連日真夏日だ。

昨日外出から帰ってなんかだるい、動けない、とぼーっとしていたけれど、2時間経ってもやっぱりだるい、動けない。夏バテかな。熱を測ってみたら37.6℃あった。

これって、もしかしたら、熱中症とかいうのの始まりかな、とようやく思いつき、手元にあったスマホで症状を見てみたら、

だるさ、眠気、頭痛、熱…など思い当たるものが書いてあった。暑い中日傘も差さずに歩き、帰宅後もエアコンは無駄、、とがまんしていたのがいけなかったみたい。暑い部屋のなかで自力では体温を下げられなくなったいたのだ。

ネットには熱中症で亡くなる人の特徴として、

・高齢者

・男性

・低所得者

・都市部居住者

・慢性疾患を持つ

などが挙げられていた。「男性」以外は当てはまっているかも(・・;)

今年初となるエアコンを付けた。涼しい!すばらしい。エアコンをつけて休んでいたら翌朝には良くなっていた。

よかった。節約より健康。今日から家のエアコン解禁だ、私は大丈夫などと侮っていてはいけないと思い知った。

レッスン125-静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

レッスン125は「静かに耳を澄ます日」とするワーク。

この世界は“雑音”に満ちている。エゴが主導するこの世は忙しく、やるべきことで溢れている。解決すべき問題、闘うべき人、催すべき行事、落とすべき体重や、直すべき症状。キャリアアップのために必要なこと…などなど。

こうしたことを脇に置いて、まず心を静めよう、そして神のメッセージを伝えるホーリースピリットの声に耳を傾けようというのが、このワークの主眼だ。

今日、神はあなたに語る。神の声はあなたが沈黙するのを待っている。なぜなら、あなたの心がしばし静まり、無意味な欲求がやむときまで神の言葉は聞こえないからである。静かに神の声を待ちなさい。

このワークでは10分×3回。まず心を落ち着ける訓練をして、ホーリースピリット=本来の自分の声を聴きやすくする。

ただ静まりなさい。今、必要なのはこの決まりだけである。

ワークをして

10分3回のワークをしていても、このワークの意図することができているかどうかがわからない(いつものことだけど)。本人は静まっているつもり、だけど心の中の雑念をリピートしているだけのような気もする。

ワークを終えて、私が感じたのは(何度も言っているかもしれないけど)大きく3つ。

まず、私はちゃんとホーリースピリットの声が聴けているのかどうか。

まったく聴けていないような気もするし、一方でこうしてACIMと出会い勉強していられるのはホーリースピリットの導きのおかげにちがいないとも思う。そもそも耳元で声がするのでなければどうやって聴けるのだろう。

ホーリースピリットからしたら、耳元でこんなに大声を出しているのに無視しやがって、となっているかもしれない。

もう少しちゃんとホーリースピリットのメッセージが受け取れるようになりたい。

そして、これもくりかえし言っていることだけど、私はACIMに関して頭でっかちだな、ということ。

ACIMを学ぶほど、この教えが世間一般の考えや価値観、世界観とまったくちがうと感じ、人と話がしづらくなっている(雑談がしにくい)。

ACIMに基づいた自分の考えを出すことで、人にヘンな人と思われたくないし、傷つきたくもないし。

…と気づけば、ACIM学習前に比べ内向性がさらに増してほぼ孤立している。

私のエゴが傷つかないように、ACIMの鎧を身につけているのかもしれない。赦しがACIMの主たる課題なのに、赦しの機会がもたらす不快感に出くわさないように、自分の安全圏だけで生きている気がする。そしてそれはものすごく狭く、さらに年々狭まっている。

こうしたことは単なるエゴ主導の「自己分析」なのかなとも思う。

そもそもワークのお題の心を静めるということができておらず、心の雑音をリピートしただけなのかな?

最後に感じたことの3つめは、ACIMを学びつつ、もっと人とコミュニケーションするようにしよう、ということ。

まあ、ぼちぼちだと思うけど。

アファメーション

自分を邪魔しているものがあるとすれば、それは自分だけ。

レッスン124-私が神とひとつであることを、思い出せますように。

2017-07-07

そもそものおはなし

ACIMのワークはさまざまな方法や言い方で、私たちのちょっとした誤解が生み出したこのゲンジツの世からめざめるさせる練習を差し出してくれている。

すべては私たちを創造した「神」から離れてみたら…という気の迷いをして、それがなされてはいないのに「した」と思いこんだことから始まっている。「たいへんなことをしてしまった」「なんと怖ろしい」「いずれ罰せられるにちがいない」との思いを、その自分たちが作った偽のアイデンティティ、エゴが「ここではない、神から見つからない場所にかくしてあげるから、大丈夫」と言って作ったのが、この宇宙であり世の中であり、私たち個々の身体だ。

これらはいずれも、エゴが作った偽創造であり本当は存在しない。どんなにリアルに見えても幻だ。

「神は在る(God is)」そしてそれ以外はない。

究極的にシンプルな真理がある。

エゴが偽創造した「生身の」身体を持ち、その脳で考えている(と思っている)私たちが、神の使者である内なるホーリースピリットとの関係を結び直し自分の誤解に気づいていくのが、このコースだ。

この宇宙も私たちの身体も私たちにとっては圧倒的にリアルだ。そもそもの発端の誤解を解くにはそこに戻らなければならないが、すさまじい恐怖心から、思考は固まってしまっている。誤ったエゴは巨大な玉ねぎを剥くように、一枚ずつゆっくりとはがしていかなくてはならない。

こうしてACIMのワークは、あの手この手で「エゴの玉ねぎ」を剥く作業を促している。

レッスン124-私が神とひとつであることを、思い出せますように。

レッスン124は、ダイレクトの「私が神とひとつであることを、思い出せますように」というお題の元に、このコースでは初めて(たぶん)30分という長めの瞑想ワークが指示されている。

今日、あなたの上に平安あれ。神があなたとひとつであるように、あなたも創造主とひとつであると自覚する練習をして、あなたの平安を確実なものにしなさい。今日一日のうちの最適と思える時間に、自分が神とひとつであるという概念に半時間を捧げよう。

ワークをして

30分という長めのワークでは雑念がたくさん心をよぎっていく。

一つはやはり、赦しのむずかしさ。

前に知人にざわついた思いを持った時のことを思い出し、とっても些細なことなのだけど、それでさえ感情を流すことには時間がかかることを思った。

私はだいたいに自分の思うことを人に伝えるのが下手で、特にネガティブなことの場合はほとんど言えず内に飲み込む。「も~」と笑顔でユーモアを持ってツッめたりしたら、人生もっと軽やかなんだろうけど。

この世で日頃感じる心配、痛み、怒り、辛さは、ここにいる自分にとってはやはり現実でリアルだ。それを非現実として見て「だって実際には起っていないのだから」と心から思えることは、そう簡単ではないと感じる。

赦しの中でも、些細なものから大きな事故や事件に巻き込まれるようなもの、家族や自分の心身を大きく傷つけるものもある。こうしたことに直面した時、赦しはさらに相当厳しいものになるだろう。

ワークの終盤では、安らぎも感じた。いろいろ心配ごとや葛藤はあるけれど、こうしてACIMを学べていることは貴重だし有難い。

ずっと、「安心や幸せを得るために○○しよう」というような考えで来たけれど、そうではなくて、

「神に守られている今ここで、安心と幸せでいよう」と思いたいと思う。

ACIMとその周りのことをこつこつ学びたい。そういうことをゆっくり生きながらしていきたい。

そう思えている今この瞬間は幸せなんだなと思う。

アファメーション

清らかな自分に気けるように、心が鎮まりますように。

レッスン123-私は、父が与えてくれた贈り物に感謝する。

2017-07-05

レッスン123-私は、父が与えてくれた贈り物に感謝する。

ここ数日とっても蒸し暑い。

さっき「イランで東半球の観測史上最高気温に並ぶ53.7度を観測」とのニュースを見た。あわわ、これはもう暑くてやだ、と言ってるレベルじゃない。今朝、島根県には初めての大雨特別警報が出ていた。

これらも、異常気象というか温暖化の影響なのかな?家では、今年はまだエアコンを付けておらず朝に昼に夜にくるくるくるくる扇風機が大活躍している。

レッスン123はシンプルに神に感謝をささげるワークだ。

これまでに自分が受け取った贈り物に対して感謝する。

今、感謝のために捧げる一日によって、あなたがこれまでに得たすべてのもの、すなわちあなたが受け取った贈り物の、真の大きさについて、いくらなの洞察が得られるという恩恵が追加される。

私たちはひとりで進むのではない。ひとりだったときに聖なる友がやってきて、救いをもたらす神の言葉を語ってくれたことに、私たちは感謝を捧げる。

今日、あなたが神に感謝をするとき、神の感謝を受け取りなさい。神は、あなたが捧げた感謝をあなたに与える。神はあなたからの贈り物を愛に溢れた感謝のうちに受け取り、それらを何千倍にも何万倍にもして返してくれる。

感謝を捧げる15分のワークを2回。

ワークをして

ワークをして、「感謝する」というシンプルな行為が、このゲンジツの世で私たちが神の門をくぐる術なのかなと思った。

感謝することで、このゲンジツの世の影響力を小さくし、心が神の守られるその影響度を大きくするのかな、と。

だれでもいつでもどこでも「感謝する」ことで神に近づける。「感謝」ができれば幸せな気持ちになれる。感謝は魔法の杖なのだ。

私は、ACIMワークをする少し前位から、仕事関係の方や友人に前より感謝の言葉を表すようになったり、お店でお会計の時も「ありがとうございます」と言うようにしているけれど、本当の感謝のこころがわかっているかというと、かなりあやしい。

気づくと、心に不平や不満を感じているから。

人に対してというだけではなくて、自分を取り巻く状況や環境、諸々のことに心の中でグチっている。

本当に感謝できるようになったら、こうした心の中の不平不満もなくなるかな?感謝の心というのも、草花のように意識して育てていくものなのかもしれない。

正直なところ…

私は『神の使者』とACIMに出会えて感謝している。

ずっとACIMに沿って学べるかどうかはわからないけれど、今は人生に道しるべができたと喜んでいる。

幻影ではあるけれど、昔は嫌い憎しみさえ抱いていた母との関係がよくなり、産み育ててもらったことに感謝できるようになった。そのこともとてもありがたいと思っている。

ACIMの教えを学ぶにつれ、世間の競争原理や「こうあるべき」というものに振りまわされることもなくなり(人から見たら、変り者度が増しているだけかもしれないけど)、心の中の罪悪感、恐怖感が和らぎ、結果として幸福感と穏やかさが増した。それは何よりありがたく幸せなことだ。

何とかACIMのワークを続けられている。その自分の状況にも感謝している。存在をはっきり感じることはできないけれど導いてくれているだろうホーリースピリットにも感謝したい。

生きるうえでの様々な葛藤はまだまだあるけれど、

今日の一日を、今週を、今月を、、、感謝して幸せなきもちで生きよう。

アファメーション

不平不満を感じていることに気づいたら、状況のポジティブな面を見て感謝しよう。

レッスン122-赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

2017-07-03

フタを開けてみれば…「都民ファーストの会」圧勝

昨日の都議選は蓋をあけてみれば、小池百合子都知事が率いる「都民ファーストの会」が圧勝だった。公示前6議席だったのがなんと55議席も獲得。一方の自民党は告示前の57議席から23議席と半数以下となり、歴史的な大敗と言われている。

選挙前々日、駅前で公明党の候補を応援する小池さんを見かけた。生で見るのは初めて。第一印象は、色が白い、テレビで見るよりお腹周りがだいぶふくよか。声に張りと力がある。

小池さん出現にみんな足を止めて駅前はすごい人だかりになった。そして、小池さんを見上げる皆が好意的だった。その時「小池さんにはまだ“風”があるんだな」と思った。自信から来るのだろうか、オーラというかカリスマ性も感じた。

だけど、こんなに大差がつくとは思っていなかった。流れ、変わる時は変わるもんだ。

昨夜の開票速報で、キャスターの方が「小池さんの風の吹かし方もうまいけど、自民党のこけ方がひどかった」と言っていたけど、ほんとうに。

加計学園問題では直前に下村都連会長の献金疑惑が出たし、稲田防衛大臣の致命的な失言、「このハゲーッ!」でいちやく有名になった豊田真由子議員の秘書への暴言もあった。テレビは五感に訴えるから、暴言音声はかなりのマイナス宣伝になったかも。

小池さんは運がいい人なのかもしれない。

この風がこれからの東京都と都民、私の生活にどう関わってくるだろうか。

政治に関心があるわけではないけれど、人とその人が紡ぐものがたりには興味がある。

小池さんは一部では総理の椅子をめざしているとか言われるけど、そうかな?政治と選挙のゲームの達人は最終ゴールまで行きつくのだろうか。大勢生まれた「小池チルドレン」やがて自民党の「自民党 魔の二回生」と言われる人たちみたいに、話題を提供する時もやってくるかな。

見守っていこうと思う。

レッスン122-赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

昨夜の都議選にはびっくりしたけど、私はともかく自分を生きていかねばならない。自分の心の中がすべてだ。

ACIMワークをやっている時は、穏やかにもなるし豊かな気持ちにもなれるけど、心にはさまざまな葛藤があり生活に余裕はない。

これに対するワークブックのレッスン122は、

赦しは、私が望むすべてを与えてくれる

赦すことが、私たちが手に入れたいと努力している、すべてのもの―幸福や静かな心、確かな目的、おもりやり、守られている安心感、やさしさ、慰め―と、それ以上のものを与えてくれる、と説く。

答えはここにある!

赦して、赦されなさい。

…朝と夜15分「地獄の終わりを保証する探索」のワークをする。

ワークをして

赦しが、私たちにすべてのものをもたらすという理屈はわかっているつもりだ。そもそも私たちは神なる性質のすべてをもっている。

それが認識できないのは、エゴが私たちに目くらましにかけ、宇宙のこの世という“バーチャルリアリティゲーム”に誘ったことで、私たちはそちらを本当の世界だと思うようになっているから。

赦すというのは、ゲームの中の自分の視点から、外からゲームを見ている自分の視点へと視座を移すことと同じだろう。

私たちが住んでいるのは、私たちの観念が見せる世界だ。観念にぴったりの現実感を感じさせるしくみがある。1つの判断、結果を赦すことでで、幻想が一つ取り除かれる。そして赦しが完璧になれば、神と私たちを阻んでいた雲が取り払われその向こうに輝いていた太陽の日差しを感じるがごとく、神なる質をすべて自分のうちに感じることができるのだろう。

だから、レッスン122の文言どおり、赦しは私が望むすべてを与えてくれる。

それは頭でわかったつもりでも、なかなか一度では身につかない。徐々に徐々に目覚めていくには、時間という幻想が必要だ。

私の中には、さまざまな観念があって、その中には「○○のための時間がない(足りない)」というのもありそう…。

だから、やるべきことがあってそのための時間があっても、そこになかなか立つことができず、いつも「あれもしなくちゃ、これもしなくっちゃ」と心が上滑りする。

こう、言っているのもエゴなんだろうな。

赦しを学んでいるものの、どこかしら観念的で「わかったつもり」で留まっていて、本当に赦しをベースに生きるところには至っていない。

7月のじかん。大事なじかん。不平、不満、欠如、心配…などに費やさず、赦しと感謝をベースに生きたい。

アファメーション

本来の私には神の記憶がある。私が神の子のかけらだ。

レッスン121-赦しが幸せへの鍵である。

2017-06-30

都議選直前

6月最後の日。外は梅雨らしく雨がしとしと。

都議選が明後日に迫り、外の選挙カーは必死に名前を連呼して「お願い」「よろしく」と通っていく。

これって騒音っぽくてみんなの生産性を落としているだけのようにも感じるけれど、名前連呼の効果っていうのもやっぱりあるのかな。

築地市場の問題はこの都議選にどの程度関係しているかな。小池さん率いる都民ファーストの会は、どの程度議席を獲得するだろうか。

都議選については、友人知人から自民党、公明党2候補に投票を頼まれた。けれど私自身は本当は「だれ」が望ましいと思っているのか、よくわからない。投票するつもりではあるけど、未だ定まらず。

レッスン121-赦しが幸せへの鍵である。

また新しいフェイズに入る。レッスン121ではACIMの最も基本的な概念である「赦し」について、「赦しが幸せへの鍵である」という概念を深める。

これは、「赦しこそが幸せへの鍵である」と言い換えた方がわかりやすい気もする。

赦し…

すわなち、この世の幻想性を認めて、手放すこと。

この世のゲンジツはここにいる私にとってはもちろん現実的なことだけど、実は映画のように幻影を見ているだけ、それも神からの分離という幻影。それは実際には「起ってはいない」。自分の罪悪感と恐怖がときに無意識から浮かび上がって、怖く辛い映像を見せる。

その時、現実ではないのだと認めゆるす。それによって、神と私たちを隔てていたかに見える雲が取り払われて、ずっと在った神が見えてくる。

レッスン121には、「赦しは習得されるものである。」とある。車の運転や料理や水泳のように身につけるものだ。

それを内なる教師であり、本来の自分であるホーリースピリットの導きによって学んでいく。

レッスン121は赦す練習で、長いほうの練習は、

①自分が嫌ったりネガティブな感情を抱いている「敵」と「友」を選び、

②敵視している人のどこかに光を感じる

③光を広げる

④友にその光を移し、その人に友以上の存在を感じる

⑤光を自分に与えてもらう

⑥「敵」と「友」を一つにする

⑦彼らに祝福してもらい彼らと一つになる

⑧これにより自分自身によって赦された

…大まかにいえばこのようなプロセスによってワークをする。

レッスン121は一日を通して赦しが果たす役割を忘れないため「1時間ごとに、次のように自分に教えなさい。」と次のような文言で締めくくられている。

赦しこそが幸せへの道である。私は、自分が死にゆく者、誤りを免れない者、罪深い者だという夢から目覚め、自分が完璧な神の子であるとわかるようになるだろう。

ワークをして

2日間何回かワークをした。対象を決めずにワークをしたなかで「敵」の役に「妹」のイメージが出てきた。

妹は7歳も年下ということもあって、ずっと「かわいい」としか思ってこなかった。もちろん今もかわいい、愛おしい唯一のきょうだいだ。

だけど何年か前たまたま帰省のタイミングが一緒になった時、母親に激しく怒りをぶつけている姿を見て、怖ろしくなり、それから妙にキンチョーするようになってしまった。それでこのワークの対象となった。

ワークをしてみて気づいたのは、妹が母に怒りをぶつけている姿は、

強大な母に怒り憎しみを抱いていた過去の自分を呼び起こしていたのだということに気づいた。

幼かった私は怖ろしいと思っていた母に反発しながらもただ感情を閉ざすばかりで怒りを表現することができなかった。次女の妹はそれができる。

だから大人になった今、まだ反抗心をむき出しにしている妹に、何を甘えているんだ、老いた母に…と思う反面うらやましくもあったのだ。

そして、母を攻撃する妹の姿は、もう一つ、妹や妹に代表される年下の者から非難され攻撃される自分というイメージを呼び起こしていた。母にぶつけるその怒りは私に対してもあるだろう、と。

だから、大人になった妹は葛藤を呼び起こす存在であり、だからどこかしらキンチョーがあるのだと思い当たった。

つまり、私は妹に表現されなかった自分を見ていた。親を責める子と子から責められる親の両方を見ていた。

彼女は私だ。

ワークをしてその正体がわかった。

このイメージはとりもなおさず、「親なる神との分離」のイメージではないのか。自分が親から離れたのを、親がダメだからだと責める「結果」をこの世に作っていたのではないか。

イメージは、まだ手放せていない感情のしこりというだけであって、本当のことではないから、そこにしがみついてその感情を育ててリアルにしてさらに大きくしてしまうのは望まないことだ。

それで手放すようにした。

このイメージは私にとっては深いものだと思うから、何度も赦すことが必要かもしれない。

アファメーション

私が出会うすべての人は、私。その私を赦して慈しむことを思いだそう。

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