91~110

レッスン95-私は創造主と一体の一なる自己である。

2017-04-01

春めいたと思ったのは一時で、一転4月に入ったというのに底冷えする寒さだ。昨日はレッスン98をやったけど、レッスン93から続いている「起きている間一時間のうちの最初の5分をワークに捧げる」というのがなかなかハードで、耐えきれない。今日はワークはお休みにしよう…。したい。

1時間に5分なのだけど、内容を振り返ったりしていると7~10分位かかる。そうなると残り50分位ずつの刻みでしか物事ができなくなって、それが寝るまで続くのがしんどい。ひとりで何やってるんだろう、という気にもなってくる。そしてできないことに罪悪感ももつ。これもエゴのなせる技なのか。

レッスン95:私は創造主と一体の一なる自己である。

レッスン95には、起きている毎時間、最初の5分をワークに充てることについて2つの利点が書かれている。

①5分以上の長いワークでは集中力が続かないから。

②何度も頻繁にくりかえさないと、つい忘れてしまうから。

エゴの誘惑に対して自動的に正しい対応を身につけるためには、とくに毎時最初の5分という強い枠組みが有効なのだと書かれている。いわば武道の「型」のようなものだろうか。

でも、外出時とかはきちんとできないし、家にいる時も、何十分後かに控えているワークが気になりおちおち他のことに集中できず、それがストレスになる。他のやるべきことがあるし「ちゃんと」できないだろうから、今日はいいことにして明日にしよう、と思ってしまうけど、レッスン95はそうした思いに対しても言及している。

おそらくもはや要求されたことに応えられなかったという理由で、その日の練習は失敗したと見なしたい誘惑にかれるだろう。だがこれも、ただその正体を認識することが必要なだけである。

すなわち、それは自分の誤りが正されることに対する拒否反応であり、再び練習に取り組みたくはないという気持ちである。

まさにそのとおり、おっしゃるとおりだ。

そして、そういう自分の弱さに寛容になることにも触れられている。

それは「単に間違いを犯しただけである。

これには訂正が必要であり、必要なのはそれだけである。」とも。

さらに「間違いが存続するままにしておくことは、最初の間違いに基づいてそれを補強し、さらなる間違いを犯すことである。

これはACIM以外についても通るすごい正論だ。

…ということで、今日のワークは以下の言葉から始まる。

私は創造主と一体の一なる自己である。創造主とも、被造物のあらゆる側面ともひとつである自己、無限なる平安と力がみなぎる一なる自己である。

そしてこの「私は一なる自己である」という感じを感じ取ろうとする。

ワークをして

この毎時間5分という枠組みのワーク、私はどうも日中よりも夕方から晩の方が落ち着いてできるようだ。

感じたのは、最近はしばしばそう感じているのだけど、ACIMの教えを、ここではないどこかの理想郷や空絵ごとのようなイメージではなく、本当にこれこそが現実なのだとリアルに感じてみよう、ということだった。

意外とこれまでそうはしていないのだ。

この諸々(問題や理不尽さが)ある現実社会や人生からの精神的なよすがみたいなものだった。

精神的な頼みであって、それだけが在る、との実感が薄かった気がする。

まったくなかったわけではないにせよ、「私のこころ」には玉ねぎのように幾層も層があって、それが剥けるたびに実感に近づくというしくみなのかもしれない。

ただ神だけがある。

そして私は神と一なる自己である。

それをこれからの人生時間、現実として感じてみよう、と思う。一時だけでも感じ、その一時を少しずつ何回もにしていきたい。

レッスン94-私は神が創造したままの私である。

2017-03-30

春めいて

ようやく春らしくぽかぽかとした陽気になってきた。街を歩く人の服装も、スプリングコートになってきた。

3月までのプロジェクトが終わり、少し気持ちに余裕がある。子どもの頃から入学や進級が4月だったから、50代半ばの今でも4月には何か一新され仕切り直す雰囲気がある。また、今ここから、いいはじまりにしたい。

昨日、ふと思ったのは、ワークの際英語の原文で読んで進めたいと思っているのも、もしかしたらエゴから来るこだわりなのかな、と。

素晴らしい日本語訳があるのにもかかわらず原文の“読解”に時間がかかり、まるで英語の勉強のようになっていて、日本語だけならば一日で済むものを数日かかったりしている。それがACIMそのものから意識をそらすことになっているかもしれない。

かといって、そのやり方を変えられるかといえば、変えにくいけど。そういえば「目的の手段化」というのは、ズボラなくせに完璧主義なところがある私が陥りがちな“症状”ではある。

レッスン94:私は神が創造したままの私である。

レッスン91からは、真の自己の本質を思い出させるワークが続いているように思うけど、レッスン94のテーマは「私は神が創造したままの私である。」だ。

真の光は強さそのものであり、強さとは無罪性である、とも書かれている。もしこの事実を受け入れるなら、私たちは強いはずであり、光が自らの内にあるはずなのだ。

また朝起きてから夜の就寝まで1時間ごとに初めの5分をワークに用いる。

自分が作り上げた自己像を手放し、

私は神が創造したままの私である。

私は永遠に神の子である。」と唱え、自分の中の神の子に到達しようとする。

ワークをして

I am as God created me. 私は神が創造したままの私である。

この言葉は強くシンプルで、好きだ。

5分のワークは初め、時間の圧迫(落ち着かない気忙しい感じ)を感じたが、午後には少し落ち着いてきた。

そして、ACIMを、ここではないどこかの精神的な理想のものがたり、ではなく、

これこそが事実・現実として捉えなおそう、と考えた。

ずっとずっと昔、故郷の畳の部屋に赤ん坊として寝かされ、まどろんでいた頃、

まだ神が近かった。神とつながっていた感じがする。

今や…その記憶ははてしなく遠い…。けど、

実はそれこそが現実に近く、

一度も神から離れてはいない。

私は、今ここに神が創造したままの私である。

そう、感じたいと思う。

レッスン93-光と喜びと平安が私の中に宿っている。

2017-03-29

レッスン93をやったのは先週21日。ワークをした日とそれをダイアリーに書く日のライムラグを縮めたいと思っているけど、まだ縮まらず、ダイアリーブログがなんとなく億劫になっている。ワークはしたいけど、ブログにするのがむずかしい。

改めて、ワークのダイアリーに何を書いたらいいのかわからないことや、

さらにレッスン91からは文章が長く理解しきれていない、というのと、

こんなこと(中途半端にダイアリーを書くこと)して何になる、という気持ちがある。

でも、ブログがなければワーク自体緩く続けることもできていない気がするし、多少なりとも復習になっているのでは?とも思っている。

レッスン93:光と喜びと平安が私の中に宿っている。

レッスン91からのワークは、くりかえし私たちに闇ではなく光に目を向けるよう方向づけしている。

ワークは冒頭、「あなたは自分の中に悪と闇と罪が住みついていると思っている。もし誰かがあなたの真の姿を見たなら、毒蛇を見たときのように飛びのき後ずさりするだろうと思っている。」から始まる。

ここには私たちの深い自己嫌悪が書かれている。これは私のように意識の上でもそう思っている人と、意識はしていなくても無意識でそう思っている人とに分かれるだろう。

ただ、この自己嫌悪には根拠がない。「虚無に基づく信念」だけど、虚無が作り上げた世界にずっと生きている(と思っている私たち)には、まるで信じがたい。

私たちは神から自分から分離したと思い込んでいる。そして、そのことについて神にあまりに大きな罪の意識と恐怖を感じている。

でも、ACIMはくりかえし、それは誤解だ、と教えてくれる。

自ら離れたと思っている今ここの私は、エゴでありそれこそが虚像。真の自己は一度も神から離れたことがなく今も神の平安とともにある。

それをレッスン93では「あなたが為したと思っているすべての悪は一度も為されたことはないと保証されて、なぜあなたは大喜びしないのだろうか。」と言っている。「あなたの罪がすべて無であることも、あなたが創造されたままに清らかで神聖であることも、光と喜びと平安があなたの中に宿っていることも、たしかに保証されている。」と太鼓判が押されている。

でも、この考えが、虚無の世界になじんで闇の法則で生きている私たちには、ぴんと来ない。

レッスン93では、

光と喜びと平安が私の中に宿っている。

私の無罪性は神により保証されている。」と唱え、神と一なる自己を体験することに主眼が置かれている。

そして、私たちの強固な思い込みに正しい考えを刷り込むべく、起きている間はずっと1時間うち最初の5分をこの練習に使うこと、としている。

ワークをして

毎時最初の5分を使うというのは、なかなか慌ただしい。気づくと時間が過ぎていることもままあり。私はまだフリーランスだから家での作業中はやりやすいけど、勤務している人とかはいったいどうやっているのだろう。こうしたワークができる環境というのは限られているのでは…?

最初のうちは5分とても長く感じられ、何度も目を開けてしまう。落ち着かない。

でも回を重ねるごとにだんだん、やりやすくなってきた。

夕方5時のワークでは「私は幸せになってもいい」と感じた。

未だに心の奥のどこかで、「私は悪い子、悪い人間で、だから幸せである資格がない」という刷り込みがあるのだ。その自己否定は大人になってから気づいて、変えてきたつもりだけど、まだ、ある。

そこで、「私の無罪性は神により保証されている。

そして、「光と喜びと平安が私の中に宿っている。

この本当は正しい事実を、新しい暗示のごとく、何度もくりかえす。

エゴが怯えて身構えてしまわないよう、リラックスしながら、気を抜きながらくりかえした。

晩7時のワークでは、

「罪ある自分が少しましな世界を望むんじゃないんだ、そもそも原罪はないんだ」と感じた。

だから、ずっとHappy&Peacefulでいていい。問題を温存せず、手放していいんだ。

これはぐるっと一周して、元いたところに戻る…みたいだけど、

結局「自分を愛する」ということだ。そしてリアルには他者と自己の区別はない。

だからシンプルに「愛する」こと。

いいことをしたから、許される、認められる、

悪いことをしたから、不十分だから、認められない、罰せられる、というのではなくて、

そもそも無辜(むこ)であり、愛されていい。幸せであってもいい。

夜9時のワークでは、「幸せであってもいい」じゃなくて、

「いや、幸せでなきゃいけないんだ」と思った。

だからこそ、いつも上機嫌であること!

エゴは罪悪感と怖れから必要のないものを創り出している。それは実は起っていない過ちのためだ。

それを取りなすこと。それが祈りの本質なのかもしれない。

レッスン92-奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

2017-03-28

レッスン92:奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

最初にこのワークは前のレッスン91「奇跡は光の中で見える。」の延長だと書かれている。

今、私たちは肉体の目でこの世の様々なものやことを見ていると思っているが、ACIMの中でイエスは実は真に見てはいないのだと言っている。また脳で様々なことを考えていると思っているが、実は真には考えていないのだと言う。

肉体の目…真に見ることはできない。

肉体の脳…真に考えることはできない。

肉体の目では闇しか見えない。それはエゴの弱さに拠って立っているから。エゴの闇の世界が見えているのだ。

神の強さの光があってこそ、私たちは真に見ることができ、考えることができるのだという。

光=強さ…自己     …愛し赦す

闇=弱さ…エゴ(偽自己)…裁き咎める

そうであれば、私たちに必要なのは光と強さである。

レッスン92は肉体の目を閉じ、真の自己に出会えるよう聖霊に導きを求める。この20分の練習を2回。

ワークをして

以前は朝晩短い瞑想していたこともあったけど、20分目を閉じて心を鎮めるということが久しぶりだった。

睡眠以外では、ネットやスマホ、テレビなどの音や情報、刺激にさらされ続けている。

そして、たいして忙しくなくても、何かやるべきことに煽られているような感じが常にある。

煽られ感というのはエゴからのものだろう。何にもなくても、アワアワしてしまう(要はビビリ)。

こういう時間のリズムは、故郷に帰省した際には別ものになる。自分の生活圏じゃないためか、時間がゆったり感じられ一日が長く感じられる。1時間という時間の体感がまったく変わって長くなる。「あれ、まだこの時間か」と思うことがしばしば。それがとっても不思議。

「忙しい」は「心を亡くす」と書くとはよく言うけど、実際心を亡くしているのかもしれない。現代人が忙しくするのは、真に見て感じることをしないで済むようにするためかもしれない。

改めて、心を鎮める、というのも、私に必要なことだなと思った。

レッスン91-奇跡は光の中で見える。

2017-03-25

レッスン91からはまた1つの学習の固まりが始まる。

私の今のワーク学習の仕方は、ACIMの学習サイトで英語を聴いて、

大畑学さんのA Course In Miracles Workbook 精読で短いパラグラフごとに英単語や解説を見て

『奇跡講座 ワークブック編で日本語訳を見て、、、と、まるで高校時代の英文読解みたいになっている。

和訳で通しで読んだ方が意味は理解しやすいけど、原文はどうなっているんだろう、と気になるし、2つの日本語訳を見比べると訳し方のちがいもあったりしておもしろい。

そうやっていると、文章読むこと自体にけっこうな時間がかかる。レッスン91からのワークは長文が多く手ごわい。また抽象度が高く、日本語で読んでもよくわからない部分もある。

ちなみに、一回目のワークはいつやってたんだろ、と気になってメモ帳を見たら、2014年の6月だった。6月にレッスン91から113まで仕事と並行しながらけっこう毎日まじめにやってた。少し若い自分が。

レッスン91:奇跡は光の中で見える。

レッスン91は「奇跡には心眼(ヴィジョン)が伴う」というACIMの中心概念から始まる。

奇跡は常にある。それが見えるにはヴィジョンが要る。

光の中では奇跡が見える。

闇の中では奇跡が見えない。

だから光は決定的に重要だけど、私たちの信仰心は今、光ではなく闇に向けられている。それを聖霊(=内なる強さ)のサポートを得て逆転させる必要がある。

レッスン91はその強さを自分の内に感じるワークだ。

どうやってかというと、自分への次の問いかけによって。

「奇跡は光の中で見える。

肉体の目はこの光を知覚しない。

しかし私は肉体ではない。私は何なのだろう?」

この問いに対する答えを心の内に探すことが、自分の強さに気づく方法だという。そして、内なる強さを体験し、神とのつながりの信頼感にくつろぐ。

ワークをして

私の場合は、この「私は何者か」との問いかけに対して、

「神の子」という答えが浮かんだ。

一方で、ACIMの教えどおりの「神の子」を実行することは、命綱なしで高い崖から飛び込むような怖さがある。

ACIMを学べば、安全ネットがあってやさしく受け止められるのだと知っているはずなのに。怖い。。コワイ。こわい。

私は自分の弱さに立つのか。

強さに立つのか。

「私は肉体ではない。」と言う時、それを否定したい気持ちがあった。

今、体のある症状に悩んでいるから、「体ではない」とはやりすごしにくいのだ。困ってはいるけど慣れてもいて医者にも行かず放置している。

その症状は、私の無意識の罪悪感や恐怖の象徴として私がゲンジツ化しているものだ。

だけど、ちゃんとこの世で“手当て”した方がいいかもしれない、とワーク中思った。放置していることが“温存”となっているのかもしれない。

 

私は奇跡が見たいし、ヴィジョンを得たい。

奇跡は真実の顕在化であり、そこにすでにある真実がヴィジョンによって見えてくるのだという。

私は紙の上で学んでこそいるけど、奇跡もヴィジョンも体感できていない。まだまだよくわかってないんだなと改めて思う。

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