2021-04-17
病気とは心が自我を選んでいること
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の学習備忘録としてのざっくりまとめ。8章3節の続き。
前回は、肉体に対する自我の目的-攻撃性-について触れられていた。
そもそも自我にとっては、心の力が究極の脅威だ。私たちが心の選択力を回復して聖霊を選び直せば自我は消えてしまうから。
自我はそうはさせまいと肉体を作り肉体に意識を向けさせることで心を無力化する。これが「自我のマインドレス化戦略」だった。
今回はそこから、病気(健康)へと話が進む。
ワプニック先生は、ACIMにおける「病気」を次のように説明なさっている。
病気とは、心が自我を選んでいることを示す。
健康とは、その修正として心が聖霊を選ぶ選択を示す。
病気も健康も肉体には関係ない。肉体は、二元性の世界でこの二者間の選択の投影を経験する。
肉体の病気は、自分自身への攻撃であり、怒りは他者への攻撃である。
自我にとっての肉体の病気の意義
「(前略)自我は、病気に多大な思い入れを持っている。もしあなたが病気であれば、『あなたは傷つき得ないものではない』という自我の確固たる信念に、あなたが反対することなどできるはずもない。これは自我の観点からすれば魅力的な議論である。なぜなら、それは病気の根底に横たわるあからさまな攻撃を覆い隠してくれるからである。(後略)」(T-8.Ⅷ.3)
自我にとって肉体の病気には、大きな二つの意義がある。
ひとつは、肉体の不調によって意識を心ではなく肉体に向かわせることができる。そうなれば「自我を選ばない」という選択の見直しもできない。ゆえに肉体は自我にとって武器となる。
もう一つは、病気の肉体が「私たちが傷つかざる神の子であるはずがない」と実証するからだ。
肉体の病気が意味をなす前提
「肉体にはそれ自体で何の機能もないということは、依然として真実である。肉体は目的ではないからである。(中略)その唯一の狙いはあらゆるものの機能を見えなくすることにある。病気の肉体というものは意味をなさない。それが意味をなし得ない理由は、肉体とは、病気のためにあるものではないからである。
病気が意味をなすのは、肉体についての自我の解釈の土台となる二つの基本的な前提が真実である場合のみである。その前提とは、肉体は攻撃のためにあるということと、あなたは肉体だということである。これらの前提がなければ、病気は思いつくことさえできないものである。」(T-8.Ⅷ.5)
「ここに自我の戦略の中心テーマが簡潔にまとめられています。」とワプニック先生。
それは、神の子の意識を肉体にだけ向けることで私たちをマインドレスにし続けるということだ。
病気の肉体が意味をなす前提として二つが挙げられている。
①肉体は攻撃のためにある。
②私たちは肉体である。
この前提はいずれも自我の考えに基づくもので、聖霊の視点に立てば意味をなさない。
自我にとって肉体は投影対象としてのみ存在し、「脆弱な肉体」という私たちの自我視点のアイデンティティを強化する機能を果たす。
“脆弱な肉体”となった私たちは自我に頼る
「病気とは、あなたが傷つくことが可能だということを実証する一つの方法である。それは、あなたの脆弱さや傷つきやすさを証し、あなたが外的な導きに頼ることを極度に必要としていることを証言するものである。自我はこのことを、あなたが自我の導きを必要としていることの最高の論拠として用いる。」(T-8.Ⅷ.6:1-3)
病気の肉体により、私たちが傷つきやすい脆弱な存在となれば、私たちには外、つまり自我に助けを求める。これも自我が私たちを陥れるやり方なのだという。
そこで自我が差し出す手立てが、特別性だ。
「言うまでもなく、自我の特別性は救いの手を差し出し、私たちは空腹、喉の渇き、厳しい自然、よくある不快感、孤独といった恐怖や不安から自分を守るべく依存欲求を満たすために他者をどう操るかを、早いうちから学びます。」(ワプニック先生)
自我の手立ては、一時的な効果はあっても長続きはしない。
どれを試しても最終的にはうまくいかない。
しかし、この結論に到達しないよう自我は未然に防御する。
それが「否認」だ。私たちは自分がした決断を忘れてしまっている。
そのため自我に助けを求め続け、それによって不安感、罪悪感、不幸は減るどころか増してしまうという悪循環に陥っているのだという。
「他に導き手がいない私たちは自我に頼り、自我は、もっと特別性を!もっと投影を!もっと攻撃対象となる肉体を!もっと、もっと…とアドバイスしますが、何も変わりません。」(同)
聖霊はたった一つの誤りにフォーカスする
「聖霊は、同じ状況を完全に自覚しながらも、それをわざわざ分析するようなことは、一切しない。データ自体が無意味なら、それらを分析することに意味はない。」(T-8.Ⅷ.6:5-6)
この一文は、奇跡の第一原理「奇跡に難しさの序列はない」を表しているという。
あらゆる問題は同じ。心の中で行われた誤った選択だ。
聖霊は具体的なレベルで私たちを助けるのではなく、その誤りという一つの内容を思い出させるためにあらゆる形態を用いる。
この世での問題の原因を徹底的に調べる必要などない、唯一間違っているのは自我を導き手とした選択であり、正すべきもそこなのだという。
肉体の病気は本当の病気の投影
「あなたは自我の混乱を受け入れてしまったので、自分がどのように感じているのかがわからなくなっている。それゆえあなたは、自分がどう感じているかを学習手段が自分に教えることができると信じている。」(T-8.Ⅷ.7:3)
私たちは肉体的にも心理的にも感情を絶対視しているが、感情は自分を何と同一視しているかに由来する。
自我とひとつになっているなら罪悪感から辛さにつながる。真の喜びは聖霊を導き手とした贖罪によってもたらされる。
「無数の表現形態がありますが、あらゆる感情のたった一つの源は、神の子の決断の主体である心なのです。」
「病気とは、あなたが、答えを知らない教師に執拗に導きを求めていることを示す、もう一つの実例にすぎない。」(T-8.Ⅷ.7:4)
肉体の病気は、本当の病気(自我の導きが私たちを救うという考え)の投影に過ぎない。
肉体の症状と罪悪感という二段構えの“病気”により、正しい心も決断の主体も埋もれてしまっているのだという。
ちょこっと感想
『奇跡講座』では「病気」が、この世で一般的に使う意味とはまったく異なる意味合いで使われているから、ややこしい。
まったく肉体の病気と関係ないのかといえばそうでもなく「病気」という表記で「肉体の病気」を指しているところもあるようだ。
ワプニック先生の解説を自分なりにはまじめに読んだつもりだけど、いまいち理解できていない。
肉体的な自己は心で行った(自我か聖霊かの)選択をこの世で病気ないし健康として経験する、というくだりがあった(と思う)が、それはこの世で病気になったら心が自我と一体化していることを表すのですよ、ということなんだろうか。
3月の中旬に軽いギックリ腰になったが、未だに治らず慢性化してしまった。
これは、心が自我を選んでいる―自分を攻撃していて、アイデンティティを肉体という脆弱なものとしている―ということになるのかな。
痛みをどうにかするには、筋膜リリースや整骨院に行くということは一過性の対策に過ぎないから、自我を排して聖霊の声を聞くよう心すべき、なのかな。
それとも時間をかけて読んだが、内容をまったく理解できていないのか。。。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)