『Journey through the Text of ACIM』(74)-8章3節 肉体:攻撃/病気か、癒しか①

2021-04-10

「8-3 肉体:攻撃/病気か、癒しか」へ

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。8章3節へ。

ここは、『奇跡講座』テキスト8章7節「コミュニケーションの手段としての肉体」と8節「手段または目的としての肉体」の解説にあたり、本章の節の中では最もページ数が割かれている。

少しずつ刻んでいこうと思う。

さて最初の引用文は以下のもの。

攻撃は常に物理的なものである。どのような形のものであれ攻撃があなたの心に入り込むとき、あなたは自分を肉体と同一視している。これが、自我による肉体の解釈だからである。…自分自身を肉体と同一視するとき、あなたはいつでも重苦しさを体験する。(後略)」(T-8.Ⅶ.1:1-2,6-8)

自分のことでも他者のことでも肉体として捉えることは、キリストとしての本性を否定していることだ。だから私たちは重苦しさを感じる。

ワプニック先生は、しかしーここで自我の教師に助けを求めるなら一時的に希望は戻ってくる、とおっしゃっている。…が、それは肉体との同一化を強めて罪悪感を隠す方法だ。だが(お察しのとおり)それによってさらに真の解決である贖罪からは遠ざかってしまう。

肉体自体には意義はない、目的が肉体に意義を与える

聖霊は肉体をコミュニケーションの手段としか解釈しないということを、思い出しなさい。神と神から分離した神の子らの間の親交の絆である聖霊は、あなたが作り出したものすべてを、絆としての聖霊自身の役割に照らして解釈する。自我は肉体を通して分離する。聖霊は肉体を通して他者に到達する。…(中略)…肉体はそれ自体には何の価値もない。」(T-8.Ⅶ.2)

あなたが肉体を攻撃に用いるなら、肉体はあなたにとって有害となる。もしあなたが、自分を肉体だと信じている人々の心に到達するためだけに肉体を用い、彼らが肉体ではないということを肉体を通して教えるなら、あなたは自分の中にある心の力を理解するだろう。(後略)」(T-8.Ⅶ.3)

自我は、分離したかのように見えるものに攻撃をしたり分離したかのように見えるものから攻撃を受けたりすることで、分離を強化する目的で肉体を作り上げた。

一方聖霊は、同じ肉体を、投影を反転させて意識を心へと戻すために用いる。

つまり肉体それ自体には何の価値も意義もない。

「目的が肉体に意義を与えるのです。」とワプニック先生。

この世で私たちが見ているものは影であり、聖霊に助けを求めることで影の元となっている罪悪感を取り消すことができる。

ここで注記されているのは、問題なのは攻撃しているかのように見える肉体のほうではなく、自我を選んだ心(決断の主体)のほうだということだ。つきつめていうと問題は選択なのだ。

すでになされている選択と、その投影

コミュニケーションは分離を終わらせる。攻撃はそれを促進する。肉体は何のために使われるかによって、美しくもなれば醜くもなり、平和にもなれば残忍にもなり、役立つこともあれば有害ともなる。そして他者の肉体の中に、あなたは自分が自分の肉体を何のために使うことにしたのかを見るだろう。(後略)」(T-8.Ⅶ.4)

私たちは、他者の肉体の中に自分が決めた肉体の用途を見る。

ここでのポイントは、私たちは無自覚ながらすでに選択してしまっているということだ。

私たちは、自我を選び肉体と自分を同一視している。ただしイエスの視点を用いて肉体を捉えた場合にだけ心に近づくことができる。

投影が知覚を作る。

すなわち私たちがこの世で見るものは初めに心の中で見たものの結果なのだ。

特別な憎しみや愛の対象は、自らの心にあるものを投影しており自己嫌悪に由来する。

分裂したひとつの心を共有しているという事実

(前略)あなたは彼を攻撃したのだが、その前にあなた自身を攻撃したはずである。」(T-8.Ⅶ.5:3-4)

救済が一体性を思い出すなかにあると認識することが癒しをもたらす。それは言い換えれば、ばらばらに見えているそれぞれの人はすべて聖なる存在だと認めることだ。

私たちは、同じ分裂した一つの心を共有してつながっている。

「もう一度言いますが、投影が知覚を作るのですから、私たちが他者に見ることを選んだものは、罪であれ無垢性であれ、私たちが自らの中に見たものの結果なのです。」(ワプニック先生)

「神の子の心は、真理においても幻想においてもひとつだと常に覚えていなければなりません。」(同)

つまり、イエスの聖性は私たち全員が共有しているものだという。

ちょこっと感想

すこし間が空いたからか、ACIMテキストの中味に心の焦点を合わせるのが難しくなっていた。

字面は追えるのだけど、何が書いてあるのか理解に時間がかかる。

自分なりにワプニック先生の解説を読んではいるものの、実際にはよくわかっていない。

肉体に価値や意義がない、って言われても…。それをこの世でそのままには受け取れない。

もちろんそういうレベルのことを言っているのではないんだろうけど…。

ACIMの理論は、実践しないなら無用の長物だ。

ではささやかでも実践するとして、自分がいる学習のハシゴの下段=地に近いレベルで実践する場合、兄弟を物理的な肉体として見ない…ためには具体的にどうしたらいいんだろう。

50代も後半になれば、友達との共通の話題は、健康や病気のことも多い。

病名が付いているわけではないが口を開けば不調を訴える友達もいる。

彼女は私が自分を肉体と捉えている投影なんだろう。

私は決してACIMの考えを口には出したりはせず「そうだよね~、具合が悪いの辛いよね、健康いちばんだよね。」と同調する。

それはやっぱり自分を肉体として見ている、分離を強化している、ってことなのかな。

 常に理論を勉強していないと実践もむずかしいのかな。あ゛~、ちょっぴりワプニック先生本から離れていたらますますコースが難しくなってる (>_<)

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

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