2020-11-07
ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章3節、「贖罪に対する自我の恐れ」の続き。長々書いてしまったけどこれでようやく7章前半最後。
投影のお話は続いていた。
投影の想念もまたその源を離れない
「だからこそ、投影する者たちは、自らの安全を守るために警戒しているのである。彼らは自分が投影したものが戻ってきて彼らを傷つけることを恐れている。自分が投影したものを自分自身の心から抹消したと信じつつも、同時に、それらがこっそりと舞い戻ってこようとしているとも信じている。」(T-7.VIII.3:9-11)
私たちが他者の中に見る、罪、欺瞞、殺人などのイメージは、自分が内に隠し持っている自己嫌悪のイメージだという。
ただ愛と同様に罪悪感もまた「想念はその源を離れない」(T-26.Ⅶ.4:7)のだから、投影によって罪悪感が自分から消えてなくなるわけではない。自分では元の罪悪感から解放されていないことに気づかないまま、必要に迫られ投影しづつけることになる。
国家も宗教も人種間も、その他のグループ、個人でも争いでやっていることは同じ。実態は、投影という手段を通じて攻撃し、その上で相手から攻撃されることを恐れ防衛する。否応なく攻撃と反撃をもらったりあげたりすることになる。
誰かが気づいて断ち切らないかぎりエンドレスで続く「質の悪いゲーム(the vicious game)」(ワプニック先生)なのだ。
イエスにさえも投影してしまう
「自分自身が裏切ることができると信じているので、彼はあらゆるものが彼を裏切ることができるとも信じている。だが、これは単に、彼が誤った導きに従うことを選択しているからである。恐れを抱かずにその導きに従うことができないので、彼は恐れを導きに関連づけ、いかなる導きに従うことをも拒む。」(T-7.X.5:11-13)
私たちは、自分が神を裏切ったという意識下の罪の観念からみんなが裏切り者のように見えてしまい、あてにならないと感じる。その思いをイエスにまで投影して信頼しきれない。だから「自我の特別性だけをガイドとして一人旅をしている」のだという。
「それなら足元の石につまづいて転んだ時、石のせいにし続けるのも不思議ではありません。」(ワプニック先生)
投影がぐるぐる回るメカニズム
「投影されたものは彼らの心を離れていないので、彼らはこのことを認識せずにすむように、絶えず忙しく何かに携わっている。」(T-7.VIII.3:12)
私たちが投影しなければならないのは、投影の根っこにある神を裏切ってしまったという大それた秘罪を何としても否認しなければならないからだ。
だから投影によって減ってない罪悪感がまた意識に上がってきそうになると、否認⇒再投影⇒「攻撃されちゃう」恐れ⇒自己防衛⇒罪悪感浮上⇒否認⇒再投影…とぐるぐる回る。そしてエスカレートしていく。
そうして投影は私たちが真実に気づかないよう忙しくさせ“回し車”を回し続けるのだ。投影は自我にとっては、強力な武器なのだ。
投影で自我への信念は保たれる
「断片化するということは細かく粉砕するということだが、心は攻撃することも、攻撃されることもあり得ない。それがあり得るとする信念は、自我が常に犯す誤りであり、自我が投影を使用するときに常にその根底にある信念である。自我は心とは何かを理解していない。したがって、あなたが何であるかを理解していない。だが、自我の生存はあなたの心に依存している。なぜなら、自我とはあなたの信念だからである。」(T-7.VIII.4:3-6)
「上記の最後の行、『自我の生存はあなたの心に依存している。…』は、自我の源というこのテーマの最も印象的な表現を供しています。自我は唯一自我を信じている心の決断の主体にのみ依存しており、自我自体の内には何も存在を持ちません。自我は信念に過ぎないので、イエスは次のように強調しています。」(ワプニック先生)
本当に恐れているのは自我の方
「自我を恐れてはならない。それはあなたの心に依存している。そして、あなたは、それを信じることによってそれを作り出したのだから、それを信じるのをやめることによって、それを一掃できる。」(T-7.VIII.5:1-2)
私たちは、自我が自分の信念だということを忘れ、恐れている。
しかし、本当に恐れているのは自我の方だという。決断の主体が聖霊を選べば、自分の生存根拠が一掃されてしまうから。
でも、投影がうまく機能していれば、自我の信念が保たれる。これが自我の投影を使う目的だ。
自我のうそから目覚める
「このコース の全目的が、自我とは信じられないものであり、永遠に信じられないものだとあなたに教えることにある。信じられないものを信じることによって自我を作り出したあなたは、ひとりではこの判断を下せない。」(T-7.VIII.7:1-2)
「聖霊に従いなさい。そうすれば、あなたは自我を手放すことになる。しかし、あなたは何も犠牲にしない。それどころか、あなたは一切を得ることになる。あなたがこれを信じていたなら、葛藤はないはずである。」(T-7.X.3:8-11)
自我への支持を取り消せば投影の必要はなくなる。
聖霊に耳を傾け私たちが正気を取り戻し、自我への信念を引き上げてしまうことこそ自我の恐れの本丸だ。
聖霊に従えば、自我のうそが見えてくる。
「自我は私たちが実はすべてを無と交換したことを決して気づかせません。また神への恐れは、解決する必要などない、存在しない葛藤から生じており自我を選ばないことだけで済むということも気づかせません。」(ワプニック先生)
ちょこっと感想
投影のメカニズムについて詳しく説明があったので、理屈はわかりやすかった。
しかし、書きながら居心地はよくない。
まさに自分が無意識にやってきたこと、今もやっていることを暴いているから。
幼い頃から母親が暴君のようで怖く辛かった、と思ってきたし人にも言ってきた。若い頃カウンセリングも受けてあたかも被害者かのように話を聴いてもらったりもした。
それはまさに投影で、自分の秘めた攻撃性や支配欲を母に投影して見ていたのだと改めて指摘されているわけだから。
この世で目にするものは投影…
こうなってくると自分の知覚がまったく当てにならないものになる。
だけど、見ているものすべて自分と思えばわかりやすい。
この世は、聖霊を導き手としながら、投影を引き戻していくゲームとも言える。投影を引き戻せばその分自ずと自らの罪悪感、攻撃性、恐怖は消え、リアルな“ひとつの自分“の一部だったと思い出せるのだ。