2020-11-04
また、贖罪の原理~?
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章2節、贖罪の原理について。ここは解説本で1pしかない短い節だ。
「また、贖罪の原理~?」と思ったが、節の冒頭に「ここでは、贖罪の原理に関するたくさんの記述のうちいくつかを紹介します。私たちのシンフォニーにおいてこのテーマが何度もくりかえされているのを思い出すことは、常に有益です。」とあった。
なるほど。各章で贖罪の原理に関した記述を抜き出すのだとしたら「贖罪の原理」という節がいろんな章で出てくるのはむしろ当然か…と納得した。
いずれもテキスト7章から、IX.3:7、IX.5:1、IX.6:5–7:1、X.2:1-5、VI.11:10-11の5箇所の引用がありそれぞれについて解説があった。そこから以下の箇所を取り上げた。
聖書の「原罪」への反論
「神の意志にそむくことは、正気を失った者だけに意味のあることである。真実を言えば、それは不可能である。あなたの自己充溢性は、神の自己充溢性と同じく限界がない。それは神の自己充溢性と同様に、完璧な平安の中で、永久に延長していく。それがもつ輝きはあまりにも強烈なので、無上の喜びの中で、それは創造する。そしてそれがもつ全一性からは、全一なるものしか生まれない。
あなたは、一度たりとも自分のアイデンティティーや、それを全一性と平安の中に維持している延長を失ったことはないということに、自信をもちなさい。」(T-7.IX. 6:5–7:1)
これは、聖書の「原罪」の概念に直接反論し、贖罪の原理を反映したものだという。
すなわちイエスが「私たちは神の一体性に抗って罪を犯すなどということは不可能なのであって、罪は一度も起こっていない」と太鼓判を押してくれているのだ。
しかしワプニック先生、「私たちは、自分が分離していると信じることが狂っているとは言われたくありません。私たちは真のアイデンティティ、キリストとしてではなく、分離した自己として存在していたいと望んでいるのです。」と私たちの現状について述べられている。
真理は意欲とは無関係
「実在していないものを自分の心の中に受け入れることも、実在しているものを拒否することも、どちらもあなたに可能だということは、言うまでもない。だが、神がご自身の心を通してあなたの心に与えた機能は、あなたがそれを拒否することはあっても、阻止することはできない。それはあなたの本性からの論理的帰結である。論理的帰結を見る能力は、それを見ようとする意欲にかかっているが、真理は、あなたの意欲とは何の関係もない。真理は神の意志である。」(T-7.X.2:1-5)
ここでのポイントは、神から与えられた機能を、私たちが拒否することはできても阻止することはできないという点。
神から与えられた機能とは「創造すること」だという。
幻想は「創造する」という私たちの自然な状態を攻撃できない。
「分離の夢のなかで私たちが真理を否定することはあっても、真理を捻じ曲げる力はありません。真理は神の意志であり、他のいかなるものでもありません。」(ワプニック先生)
前振り
「無意味なものを意味あるものにすることはできない。このようなことは、ただ狂った試みとなるだけである。」(VI.11:10-11)
これは後に続く「自我の戦略」への前振りなのだという。
神から分離してしまったという思い込みから、眠りに入り今や夢のものごとはひどい状況に陥っている。
自我は私たちが「別の教師がいるに違いない」という考えに至り、選択し直すことを恐れている。
それが次節「7-3.贖罪に対する自我の恐れ」の内容、さらに次いでそうはさせまじという「7-4.自我の戦略」へと続く。
ちょこっと感想
「分離は一度も起こっていない」…かなり馴染んできたが、まだどこかのお話のなかのこととしか捉えられていない。
やっぱり、肉体もこの世もないと言われてもー。
それはそれ、これはこれ。
どこか分けて、奇跡講座を対象として捉えてしまっている。
いつもわからなくなったら『神の使者』を読み直して、なぜ自分がこれに惹かれてやりたいと思ったのか思い出していたのだけど、ここ何ヶ月も読み返せていない。何となくよくわからないまま進んでいる。
前より若干進歩しているのは、テキストの該当する章を並行して読みながらまとめているところ。
でも、不注意で引っかけてテキスト破いてしまった。
これが「こんなもん、いるかい!」という自我の抵抗ではありませんように。