2020-10-08
教師としての聖霊
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、6章5節のざっくりまとめ。
5節は主に2つのテーマについて述べられているように思う。
ひとつは教師としての聖霊、もうひとつは、私たちは教える内容を学ぶということについて。
まず教師としての聖霊から。
「子供たちを目覚めさせるには、彼らを怖がらせない優しい声で、ただ夜は過ぎ去って光が訪れたと思い出させる以上に、親切なやり方があるだろうか。」(T-6.V.2:1)
「それゆえに、聖霊は決して命令しない。命令することは、対等でない状態を想定することであるが、聖霊はそのようなものは存在しないことを実証する。」(T-6.IV.11:1-2)
自我の思考は、そもそも我々は神とは違うという考えを発端としておりそれをこの世に投影することから他者との違いにフォーカスするが、聖霊の贖罪の原理はその違いを取り消すもので、同質性、対等性を見る。
「聖霊は子供たちを怖がらせないので、決して誤りを並べ立てない。そして叡智に欠ける者たちは、子供と同じである。」(T-6.V.4:1)
ただ、聖霊から見れば私たちは道理を知らない子どものようなもので、この世が夢だとは理解していない。聖霊は、私たちの夢からの目覚めを手伝う。
「その優しく賢明な教師は、これが夢だということだけでなく、私たちがその夢見者であることを教えようとしています。」とワプニック先生。
そして、夢の中で起こっていることが問題なのではなく夢を見ていること自体が問題だという。
「子供たちは空想と実相を明らかに混同しており、その相違を認識していないからこそ、怖がっている。聖霊は夢と夢の間に区別はつけない。ただ光を照らしてそれらを消し去るだけである。」(T-6.V.4:3-5)
この世で何が起こっているように見えても、夢は夢。
聖霊は、実相と空想、自我の見方と聖霊の見方の違いを教えてくれる。そしてこの違いを理解することが夢から覚めることだ。
「聖霊にとっては、奇跡に難しさの序列はない。このことは、今ではあなたにとって充分に聞きなれたものとなっているが、まだ信じられるものとなってはいない。」(T-6.V-A.4:1-2)
「イエスは『奇跡に難しさの序列はない』という(奇跡の第一)原理がコースを学ぶにあたって極めて重要だと、私たちに疑う余地がないほどはっきり示しています。」とワプニック先生。
続けて「その真理を受け入れれば人生ははるかに幸福なものになるのですが、私たちは違いがあると思い込んでいるため、幻想に内在する同質性の原理に従って生きることは非常に難しいのです。」と述べられている。
また、「自我の生命線である違いがあるという知覚を手放したくないので、赦すことは本当に難しいことです。」とも。
教師の役割はモチベーションを高めることで、イエスは、イエスあるいは聖霊に従えば、結果的に気分が良くなる(自分に利益がある)と教えることによって私たちを動機づけしているという。
私たちは教えるとおりに学ぶ
さて、もう一つの私たちは教える内容を学ぶというテーマについて。
「すでに述べた通り、『人は自ら教える通りに学ぶ』のである。自らが迫害されたかのように応答するなら、あなたは迫害を教えている。」(T-6.I.6:1-2)
他者に教えていることは自分自身にも教えている。
誰かのせいで不幸なのだと思えば、私たちは他者に責任を委ねざるを得ない脆弱な存在だという信念とその源の分離の信念を強化する。
「あなたは、自分が本来のあなたでないと信じることを、自分自身に教えてきた。あなたには自分が学んでいないことを教えることはできない。そしてあなたが教えることは、あなたがそれを分かち合うので、あなた自身の中で強められる。あなたが教えるレッスンの一つひとつを、あなた自身が学んでいる。」(T-6.III.1:8-10)
ワプニック先生は「怒りの想念を持つたび、たとえそれを表に出さずとも私たちは自我の怒りが正しい判断なのだと周りの人に教えています。」と述べておられる。そして同じ選択を周りにも強めている。
一方、怒りではなく平和、また不平不満ではなく赦しを選ぶなら、周りの人にも聖霊を選ぶ機会があると教えることになるという。
「だからこそ、あなたは一つのレッスンだけを教えなければならないのである。あなた自身が葛藤から自由になろうとするのなら、あなたは聖霊のみから学び、聖霊によってのみ教えなければならない。」(T-6.III.2:1-2)
「『あなたは教える通りに学ぶ』のである。それが真実ならば-そしてそれはまさしく真実であるが-あなたの教えることが、あなた自身に教えているのだということを、忘れずにいなさい。」(T-6. III.2:7-8)
この部分の解説には、「イエスは外面的な事柄を通してではなく、内なる贖罪の真実を受け入れることを通して教えています。」とある。
私たちの行動は常に、愛か幻想か、あるいは赦しと愛を延長するのか、罪悪感と恐怖を投影するのか、心の中の選択を反映している。
「あなたが教えることのすべてを、あなたは学んでいる。愛だけを教えなさい。そして、愛はあなたのものであり、あなたが愛であることを学びなさい。」(T-6.III.4:8-9)
「私たちの教え方は体現することを通じてであり、自我あるいは聖霊を体現します。」とワプニック先生。
自我を選び分離、特別性、憎しみ、攻撃を体現するのか。あるいは、聖霊を選んで、平和、愛、真のつながりを体現するのか。
私たちは教えることを学び、自分が体現することが、自分は何者なのかという心の決断を強めることになると、結ばれている。
ちょこっと感想
訳するのが難しく間違っているところもありそう(これはいつも、だけど)。
私はACIMの理論を学び、なるほどと思うが、その通りには生きられていない。
この世は夢…とはいうものの、やっぱりここでのイベントに大きく心が揺れてしまう。
「聖霊にとっては、奇跡に難しさの序列はない。このことは、今ではあなたにとって充分に聞きなれたものとなっているが、まだ信じられるものとなってはいない。」(T-6.V-A.4:1-2)とのイエスの言葉どおりだ。信じ切れていないところもあるし、自分の解釈が合っているのか自信が持てないから、実践に至らないところもある。
それでも、ある部分ではACIMをまったく知らなかった頃に比べたら、少しだけど自我の思い込みを手放してきたような気がする。一方別の部分では、理屈がうまくなった分自我的に巧妙になり“抑圧名人”になっているところもあるかも(抑圧名人…炊飯ジャーの名前みたいだ)。
「赦すことは本当に難しいことです。」というワプニックさんの言葉…、間違いない、と思った。