2020-09-11
「『私たちはいったい何者?』なんて自問するな」by自我
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。6章2節、贖罪に対する自我の恐れについて。
冒頭、次のテキスト引用文が挙げられている。
「なぜなら贖罪はこの世界で唯一の普遍的な必要だからである。あなた自身をこのように知覚することだけが、あなたがこの世界で幸福を見つけられる唯一の方法である。なぜならそれはあなたがこの世界の中には居ないということの確認であり、この世界はまさしく不幸な場所だからである。」(T-6.II.5:5-7)
私たちはここにいない…ならば、もちろん肉体でもない。
…となれば、私たちはいったい何者なんだろう?
この質問こそ自我の恐怖心を刺激するという。自我が決して私たちに自問してほしくない質問なのだ。
なぜなら私たちの意識が心に向き、自分のアイデンティティを心として認識することにつながるから。
そうなれば、心の選択力にも目が向き、自我を選んでいる選択を見直すことにつながる。そして自我を選ぶことを止めてしまったら…
自我は消えざるを得ない。
自我はそれを恐れている。
「となれば、贖罪を完全に自覚するということは、分離は一度も起こらなかったと認識することに他ならない。自我はこれに打ち克つことはできない。なぜならそれは、自我は一度も生じたことがないというあからさまな声明だからである。」(T-6.II.10:7-8)
これを何としても避けたい。
だからこそ、私たちが自分の心に目を向けさせないようにする。
これが自我の「マインドレス化戦略(ego’s strategy of mindlessness)」だ。
「mindlessness」はJTTAにおいてよく出てくる単語で辞書で見ると「思慮のないこと、愚かさ、不注意」などとあるが、心の真のはたらきが意識化されておらず生かせてない状態をさしている。いろいろ迷った結果、「マインドレス」とそのまま書いている。
自我が抱える葛藤と弱み
「聖霊は答えであって質問ではないということを、思い出しなさい。自我は常に先に語る。自我は気まぐれで、自らの作り主をよく思ってはいない。」(T-6.IV.1:1-3)
自我は、私たちが正気に戻ったら自我を選ばないだろうと知っており、そのことをとても恐れている。「こうして神の子は自我の“敵”となり、同時に自我はその敵の力に自らの存在を負っているのです。」(ワプニック先生)
つまり自我は生きるか消滅するかを、私たちの「決断の主体」に握られているのだ。ここに自我の葛藤と弱みがある。
もちろん、このことは私たちには知られたくない。
だからこその「マインドレス化」だ。
言い換えれば、マインドレス化とは、決断の主体の力に気づかせないこと。
なぜ自我が決断の主体を強烈に意識するのかといえば、聖霊でもイエスでもなく決断の主体(私たちの心)だけが贖罪(聖霊)か分離(自我)かを選べるから、だと説明されている。
「自我の最も意匠を凝らした活動の数々も、その問いを覆い隠してしまう以上のことはしてこなかった。なぜなら、あなたはその答えをもっており、自我はあなたを恐れているからである。」(T-6.IV.2:9)
「自我はあなたを恐れている」とは繰り返し出てくる重要なテーマだ。
ここを理解することが、「なぜ私たちが忠実にコースを実践していると確信している時でさえ、教えとは真逆のことをしていまうのか、その理解を助けます。」とワプニック先生は説明なさっている。
夢という解けないパズルー私は夢の人物か、あるいは夢見者か
「あなたの夢は自我の象徴を数多く含んでおり、それらがあなたを混乱させてきた。だが、それはひとえに、あなたが眠っていて何も知らなかったからである。」(T-6.IV.6:3-4)
私たちは眠っていて夢を見ている。それがこの世界だ。
「つまり、私たちは宇宙のパズルを解くカギを見つけようとして世界のあらゆる面で混乱していますが、その幻想性が理解しえないものだとわかっていないため、決して成功することがないのです。」とワプニック先生。
この世は解けないパズルなのだ。
この世の目的に整合性があるとすれば、それは自我のマインドレス化という目的においてだけなのだという。
答えがないところで答えを探させる、それがマインドレス化の戦法でもある。
「目覚めたとき、あなたは自分の周りと自分自身の中に真理を見る。そして、あなたにとって夢は実在性をもたなくなるので、もはやあなたは夢を信じなくなる。」(T-6.IV.6:7)
自我は罪悪感を通して、私たちを心に近づくことがないようにと縛る。それでも、心の目が開かれれば、夢は消える。
だた、「自分が夢の人物であって夢見者ではないと信じるかぎりは、自分もまた(夢と一緒に)消え去ると信じています。」(ワプニック先生)
イエスが嫌われたわけ
イエスはテキストで自分がなぜ嫌われたのかにも言及している。
「私が攻撃していないのは明らかだったにもかかわらず、多くの者たちが、私が彼らを攻撃していると考えた。狂った学習者は奇妙なレッスンを学ぶものである。」(T-6.V-B.1:5-6)
ここでの「奇妙なレッスン」とは、愛は危険だというものと、真実のメッセージを伝える人を恐れることは正当だというものだ。
「贖罪の原理を表明したがために、世界はイエスを恐れました。もし分離が幻想だというのが真実ならば、私たちは存在しないということになってしまいます。」とワプニック先生。
私たちは存在しないーこれが分離した(と思っている)私たちには途方もない脅威となる。ゆえに攻撃と知覚されその「正当防衛」は正当化される。
ACIMはイエスとともに、贖罪のシンボルだ。
だからこそ、だから自我と同一化している個々の私たちにとってACIM自体が大きな脅威となりうる。
相反するメッセージを受け取る学習者の葛藤
「ここでも自我の判断は、いつものごとく、自我というものの本質によりあらかじめ決まっている。それでも、思考する者の心の変化に伴い、根本的変化は依然として起こる。」(T-6.V-B.4:3-4)
「それまでの間、学ぶ者は、次第に明確になっていく聖霊の声を聞かずにはいられなくなる。ということは、しばらくの聞は彼は相反するメッセージを受け取り、その両方を受け入れるということである。」(T-6.V-B.4:5-6)
真の変化は心の中で起こる。
だから自我は自らを守るために私たちをマインドレスにしようとする。心があると知らなければ、それを変えようがないから。
したがって自我は意識を肉体や外部状況に向けさせ、真に変化が起こる心にアクセスさせないようにする。
しかし、それでも上記のテキスト引用文にあるように、学習が進むにつれて聖霊の声を聞かずにはいられなくなる。
そして、相反する両方のメッセージを受け入れる。
これが葛藤となる。
この内なる葛藤は外に投影されることになる。
例えば、人間関係、国家間、イデオロギーの対立といったように。またあるいは国家の指導者が作る善と悪の構図といったかたちで。
これもまた物事の本質に向かわせない仕組まれた策略のかたちなのだ。
聖霊を選ばないかぎり投影は終わらない
「二つの相反する思考体系の聞の葛藤から抜け出す道は、明らかに、一方を選び、他方を放棄することである。」(T-6.V-B.5:1)
「もしあなたが自分の思考体系と同一化しておりーそしてそれは避けられないことだがーさらに、もし互いに完全に食い違う二つの思考体系を受け入れているなら、心の平安は不可能である。」(T-6.V-B.5:2)
この世は内なる葛藤を映し出している夢のスクリーンにすぎないのだから、たとえ目前の問題を解決したところで、世界に変化はないように作られている。
心を変えて聖霊を選び取らないかぎり、恒久的な心の平和は訪れない。
聖霊の声を聞きながら自我の声にも耳を傾けているなら、葛藤を学んでいることになる。
行動レベルで何かを変えようと訴える霊性や宗教は、葛藤を教えることを免れない。
ACIMにおけるイエスの目的は、自我の思考システムと自身の思考システムを対比して見せることだ。
「後の方でイエスが言いますが、『神の愛に支えられていながら、奇跡か殺害かの選択を難しく思う者がいるだろうか (T-23.Ⅳ.9:98) 』ということです。」とワプニック先生は説明なさっている。
ちょこっと感想
またまた長文に。。(頑張ってざっくりまとめたつもりだったけど)
聖霊の声を聞きつつ自我の声にも耳を傾けるというこの葛藤状態こそ、自分がいまいるところだと思った。
「私たちが聖霊の声を聞こうとすればするほど自我は怯えることになります。」ともワプニック先生はおっしゃっていた。私たちが聖霊の声を求めるほど自我の防御態勢もいっそう強固になり、せめぎあいも強まるということか。
意識できてちゃんと対処できる部分をくぐりぬけて、いろんな投影が勃発する。渦中にいるときは気づかないが後で投影だったと気づくことになる。むしろこの世はほぼほぼ投影だ。
…葛藤状態は長引きそうだ。
それでも、「聖霊を選び取らないかぎり、恒久的な心の平和は訪れない」という解説は理解できる。それならば、長続きする本物の平和を目指したい。。。