2020-09-08
『Journey through the Text of ACIM』-わが“旅”のようす
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、“私の旅”は、6章「The Lessons of Love(愛のレッスン)」に入った。
6章といえば、去年ゲイリー・レナードさんのワークショップで出会ってその後のお茶で「今読んでいるテキスト解説本、一緒に読まない?」と誘ってくれた仲間が、その当時読んでいたところ。やっとその時点に追いついたか、とちょっぴり感慨深い。その仲間は今は16章だか17章に入っているが、、、
最近気づいたのは、私は英語の、特にワプニック先生の長文が「読めない、わからない」と思っていたけれど、それ以前に近眼と老眼がどちらも進んで文字がすごく見づらかった、ということだ。遠近両用コンタクトや2つのメガネを使っていたけど、ノートに合わせればパソコン画面が見づらく、パソコン画面に合わせればノートが見づらく、と…英語以前に文字が見えないことがやる気を削いでいたのだと気づいた。
DeepL翻訳という翻訳サイトは、へんな訳を出してきたり勝手に端折ったり、当初思ったよりは「優秀」ではなかったが、拡大したDeepL翻訳に読みたい英語を入れると和訳と英語が並んで大きく表示される。文字が見えないストレスが軽減され、“旅”が快適になった。
6章の概要
さて、6章は節立てでいうと以下の構成だ。
6-0 Introduction (序論)
6-1 God – Creation (Extension) – Atonement(神 – 創造(延長) –贖罪)
6-2 The Ego’s Fear of the Atonement(贖罪に対する自我の恐れ)
6-3 The Ego’s Strategy: The Mindless Body(自我の戦略:マインドレスな肉体)
6-4 Forgiveness and Jesus(赦しとイエス)
6-5 Teaching and Learning(教えることと学ぶこと)
6-6 “The Lessons of the Holy Spirit”(“聖霊のレッスン”)
今回は6-3まで見た。
6-0 Introduction(序論)へ
さて、6-0序論の内容へ
4章では、正式に自我の説明があり私たちを肉体だと思わせる自我の戦略についても説明があった。5章では、罪悪感について話を進めながら自我のシステムについて展開した。6章ではさらに、ひとたび罪悪感を持てば必然的に投影され怒りや攻撃となるが、それはなぜか、どのようにしてどうなるのかについて話を発展させるのだという。
また、5章で正式に紹介された聖霊についても、最終節で「聖霊のレッスン」としてじっくりフォーカスする。
序論で注記されているのは、「形態は内容を離れない」という点。これは「想念はその源を離れない」に通じ、JTTAのプレリュード(前奏)のところでも触れられているが、「ACIMの考えというシンフォニー表現がいかなる形態をとろうとそれは内容そのものを映す」という(自分で書いていてよくわかっていない)。
そのことは「学習過程の中心である聖霊のレッスンについて論じる際に、特につまびらかになります。」とあるから、またその時にクリアにしよう。
おそらく(ACIMテキストの各所で)いろんな形態で表現されているけど、言いたい内容はある本質的な要素に集約されるよ、ということかな。
自我の戦略や恐れというのは、前にも何度か出てきたと思うけれど、今回も繰り返すんだ…さらに掘り下げて…?
その前に、まず6-1では「神 – 創造(延長) –贖罪」について見ていくことになる。
なんか、ずっとぼんやりしていて(いつもか)、ここまで書くだけでもえらい時間がかかってしまったよ。ともかくブログ書けてよかった。