2020-08-05
(5章5節 赦しを選ぶ決断 ② の続き)
ACIMは行動ではなく心の中のこと
ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の5章5節「赦しを選ぶ決断」のざっくりまとめ、前回からの続き。
初めに前提として4章でも扱った「救済は共同事業である」(T-4.Ⅵ.8:2)ついて注記があった。
「共同事業」といっても、他の人と一緒に何かをしなければならない、あるいはずっと一緒にいなければならないという意味ではない。「心の中で誰かを排除してしまわないこと」を指していると。繰り返されているが、ACIMは行動についてではなく心の中のことについて言及している。
「赦し」という語を用いず「赦し」を記述している箇所を列挙
5節の終わりには、「赦し」という言葉は使っていないものの内容的に「赦し」について記述されているテキスト箇所がいくつも紹介されている。
「この奇跡が起こるためには、兄弟が彼自身の中や、あなたの中の聖霊に気づいている必要はない。あなたがそうであったように、彼は神を代弁する呼びかけから解離しているかもしれない。この解離は、あなたが彼の中にある神を代弁する呼びかけに気づき、それが存在していることを認めるようになるにつれて、あなたと兄弟の両方の中で癒される。」(T-5. III.2:8-10)
たとえ他者が内にある聖霊に気づいていなくても構わない。自分が相手の中に聖霊を認めさえすればいい。それで癒されるという。
他者を神の子の一部と認めることをしないならば、実際には自分自身を神の子から排除していることになる。一人を排除するということは、神の子の全体性を否定することだ。
この世で私たちが他者に見るものは、自分自身に他ならない。そして私たちは実際にはひとつ。
引用文はすべてここが大元になっていて、これを様々な角度から表現している気がした。
その中でも私が気になったのは以下の文。
「あなたの兄弟を見るのに、まったく正反対の二つの見方がある。それらはどちらもあなたの心の中にあるはずである。なぜなら、そのように知覚する主体は、あなた自身だからである。それらはまた、彼の心の中にもあるはずである。
なぜなら、あなたは彼を知覚しているからである。彼の心の中に居る聖霊を通して彼を見なさい。そうすれば、あなたは自分の心の中に聖霊を認識する。あなたは自分が兄弟の中に認めるものを自分自身の中に認め、自分が分かち合うものを、強化する。」(T-5.Ⅲ.3)
この引用についてワプニック先生は、「私たちが相手をどう見るかは実は相手とは何の関係もなく、自分自身をどう見るかとだけ関わっているのです。ですから、もし私たちが本当に真剣にイエスの手を取り、神を思い出して神の愛を体験して家に帰ることを望んでいるのならば、怒りを正当化することはできません。」と説明なさっている。
ここでイエスは私たちの最も根源的な動機である利己心に訴えているのだという。
つまり、怒っても構わないが、それは自分自身を天国から除外していることに他ならず、損だよ!と言っているのだ。
ワプニック先生はさらに、私たちが外に見る人間関係はイエスが投影を教える手段なのだと学び、そこから自分の心と自我の関係を癒すべし、と指摘なさっている。
「聖霊の声が聞こえる」と言ってくる人には用心!?
「あなたにその声が聞こえるようになるためには、その前にそれが強化されなければならない。あなたの心の中でそれがこのように弱々しい間は、あなた自身の中にそれを聞くことは不可能である。」(T-5.Ⅲ.4:3-4)
ここでワプニック先生は「聖霊の声が聞こえると言ってくる人には用心が必要です。」と言及なさっている。それは、ほとんどの場合は「自身の特別性」を伝えているからだという。
聖霊は私たちの違いに意味を持たせない。「その点においても真摯であろうとすることがコースの学びの推進力だと改めて理解できます。」とおっしゃっている。
一方が負けなら、誰もが負け
「もしあなたが自分自身の中だけに聖霊を探すという間違いを犯すなら、あなた自身の想念があなたを怖がらせるだろう。なぜなら、あなたは自我の視点を取り入れることにより自我を導き手にして、自我にとっては未知の国へ旅立つことになるからである。これは必ず恐れを生み出す。」(T-5.Ⅲ.4:6-7)
自分の赦しや愛から他者を排除することはできない。そして心に対立思考が残っているかぎり、天国へは行けない。
言い換えるならば「一方が負けなら、誰もが負けなのです。」とワプニック先生。面白いのは、付け加えて「ACIMが言っているのは行動ではなく思考や態度について」と再び確認しつつ、「理論上不可能というわけではありませんが、行動面で戦争をしつつ心穏やかでいることは極めて困難です。」とおっしゃっていた点(いや、どうしたって無理だろ、と心の中でツッコみを入れてしまった)。
また、聖書の「山上の垂訓」の「誰かがあなたの頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」について、ワプニック先生は「イエスが再解釈すればこの言葉は“癒しの縮図”となります。神の子は傷つくことができないので、兄弟たちは私たちを傷つけてはいないことを表わすもので、私たちが二度打たれた後やられたことが許せるという意味ではありません。」と説明なさっていた。ここもくすっとした。
「あなたも、もし兄弟の誰かを見捨てるなら、あなた自身と神を見捨てることになる。」(T-5.Ⅳ.6:6)
怒りや裁きを脇に置くことは実際には難しい。それが多くの人の支持を得ている時にはとくに。
ワプニック先生は、他者への非難は、その人が何をしたかには関係なく私たちの投影から来ている。つまり、私たちが癒されていないことだと繰り返し述べておられる。
そしてその解決法はイエスに助けを求めること、罪悪感の投影をイエスの元へ持っていくことだと説明なさり、次節「イエス」につなげられている。
ちょこっと感想
実際にはもっとたくさん様々な引用が紹介されていた。
いくら言葉を尽くしてあっても、沁みついた思考回路を変えるのは時間がかかる。
この世が、誰かを出し抜けばうまくいくようなしくみになっていないとわかっただけでも癒される。
目前の人=自分。
誰かを赦しからのけ者にしているなら、除外しているのは実は自分自身。
怒りや批判は損!
すぐ忘れてしまうから、無駄かもしれないけど覚えていられるよう短いフレーズ用意しておこうっと。
理屈はわかっているつもりでも、自分が怒っているときや批判しているときは正当化してしまっていて自分がそうしているとは気づかない点がなんとも…やっかい。
やっぱり失敗を繰り返しながら実践を重ねることか。。。