『Journey through the Text of ACIM』(41)-5章4節 罪悪

2020-07-11

罪悪が「罪あり」の思い込みに私たちを沈める

ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の5章4節「罪悪」のざっくりまとめ。本節はテキスト5章「Ⅴ.自我による罪悪の使用」の解説部分。

ここのテーマは、罪を犯した(sin)という信念を守るために罪悪(guilt)がどう自我に利用されているのか、だという。

自我が分離の象徴であるなら、それはまた罪悪の象徴でもある。」(T-5. V.2:8)

それは、神に対する攻撃を象徴するものである。」(T-5. V.2:10)

これは自我以外のものにとっては無意味な概念であるが、それを信じる自我の信念の力を過小評価しではならない。これが、すべての罪悪感を実際に生じさせている信念である。」(T-5. V.2:11-12)

ここで言っているのは、罪悪は自我の信念(神から分離して神を攻撃した、お前にはその罪がある)を強めるということだ。

罪がある…から罪悪の念を感じているはずだが(もちろん実際には罪を犯していない)、逆に罪悪の方もまた「罪がある」という思い込みを強める役割を果たしているのだという。

そしてそれこそが自我の思考システム温存のしくみなのだ。

「確かにやった。でも、手を出したのはあっちが先」

自我は妄想的体系を代表しており、その体系を代弁して語る。自我の声に耳を傾けるということが意味しているのは、あなたが神を攻撃することが可能だと信じ、神の一部があなたによって裂き取られていると信じているということである。」(T-5. V.3:9-10)

「それに続くのは外からの報復に対する恐れである。なぜなら、その罪悪感はあまりに熾烈なものであるため、すべての罪悪感を実際に生じ投影されずにはいないからである。」(T-5. V.3:11)

このテキスト引用文のところではワプニック先生は、例えば他国を攻撃する国はどこも「あっちが先にやった」と主張するという。

そして私たちはみんなこの思考が沁みついているとも。それゆえ、一なる神の子としての私たち皆が「先にやった」とは思い当たらない(もちろん実際に「やった」わけではない)。

そして「神から分離した罪深い自分」をさらに断片化したうえで、別の断片(他者)に罪を投影しているとは気づかないのだと解説されている。

ここの説明、なるほど、と思う。

自我と一体化している私たちの傲慢さ

私は以前、病は魔術の一形態だと述べた。だが、魔術的な解決法の一形態だと言うほうが適切かもしれない。自我は、自分で自分を処罰することによって、神による処罰を軽減できると信じている。しかし、ここにおいてさえ、自我は倣慢である。それは、処罰する意図を神の属性とし、それから、この意図を奪って自分自身の特権とする。」(T-5. V.5:4-8)

「傲慢さは最初に私たちが神を怒り狂った復讐者の役に据え、その後、神を介在させず『自分で自分を罰するから』と宣言して、神からその役を奪うことにあります。」とワプニック先生。

このあたりのテキストの展開もおもしろい。

ワプニック先生は、その後私たちの神に対する特別な憎悪は特別な愛へとすり替えられ、あくまで傲慢な私たちは、神に対する防御として自分で罰を選んでおきながらその苦しみを、神に和らげてほしいと求めるのだと続けられる。

しかし、この計画はうまくいかない。

神から「罰する」という役を奪ったプロセスが、神から力を奪って誤創造したという最初の“横領事件”を思い出してしまうからだ。

そしてその罪悪感は循環し続ける。その結果苦しみは宿命となる。

罪悪感が継続している唯一の理由

分離したままでいようとする継続的な決断のみが、罪悪感が継続していることの唯一の理由である。このことはすでに述べたが、この決断の破壊的な結果については強調しなかった。心が下すいかなる決断も、行為と経験の両万に影響を与える。」(T-5. V.8:1-3)

罪悪感を保持し続けることは苦しみを肉体的経験に反映させるだけで、何の解決にもつながらないどころか、「罪あり」とする自我の思考を強めるだけだと説明されている。

この悪循環を断つには、決断を変えるしかない。それが次節(5章5節)の「赦しを選ぶ決断」へとつながる。

ちょこっと感想

私たちは最初自我を選んだだけだったのに、一体化してしまった後は自我主導のメカニズムの中でそれを積極的に維持する役割を担わされているのだと感じた。自我あっぱれ。

ワプニック先生から種明かしを解説してもらって、なるほど、と思うけど、ゲンジツではいろいろ絡み合っているから、なかなか“足抜け”できない。。。

今朝歩いている時、ふと思った。

この世は壮大なゲームみたいなもんで(もちろん自我が張った煙幕の中の)、ACIMはゲームのマニュアル本みたいなもんだな、と。

とにかく主人公のキャラクターになっている自分はトコトコ歩いてて何か心ざわつくイベントに出会ったら「赦し」で対処する。

そして“経験値”を挙げてもっと大きなことにも対処できるようになって。埋蔵している内なる罪悪感がなくなれば、出会うイベントも変わってくるだろう。

最後の最後には(あるかのように見える)輪廻が立ち切れて…

うわ~、マニュアル本は読んでても経験値低そうだ、私。イベントが起こらないように最初の画面ののどかなところをただぐるぐる歩いてるみたい…で、ステージも上がらない!?

“『Journey through the Text of ACIM』(41)-5章4節 罪悪” への2件のフィードバック

  1. 今野雄太 より:

    はじめまして
    今年から奇跡講座の学習を進めている今野と申します。

    検索窓に奇跡講座といれたら、「奇跡講座ダイアリー」と予測変換がでてきてたどり着きました^^

    まだ学習初期の自分にとってこちらのサイトは学習継続のモチベーションや新しい気づきにつながってます。

    ありがとうございます!
    すでに終わっている旅ですが、そのことを思い出せるよう日々前進していきます。

  2. tamasonia より:

    今野雄太さま

    ブログ見つけていただいて、ありがとうございます!
    今年から奇跡講座の学習を進められているのですね。
    あまりまだ一般的な考え方ではないからこそ、同じ学習している仲間に親しみを感じます。
    実践むずかしく、奇跡講座に近づいたり離れたりしつつやってます。
    私もコメントいただきモチベーションアップにつながりました。ありがとうございます(^-^)

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