2020-06-10
内なるキリストというアイデンティティ
「キリストとの一体性が、私をあなたの子として確立します。それは、時間の及ばぬところで、あなたの法則以外のすべての法則からまったく自由なあなたの子です。」(W-pⅡ.354:1.1)
「私には、私の内なるキリスト以外の自己はありません。」(W-pⅡ.354:1.2)
概念をヴィジュアル化するってむずかしい
週末、テキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のシェアの会があった。2019年5月JTTAシェアの会起案、6月初旬進め方を話し合ってちょうど一年。かたちのレベルで変化があった(詳しくは書かない)。これまでの行い方を見直す時期に来ているようだった。
もちろんこの世で変化は必然。とくに自主的な会には変化はつきものだ。これまで一年これまでのようなかたちで分かち合えたこと、私にとっては宝物だ!
どういうかたちになるかはまだわからないが、方法は変わっても続けていけたらいいな、と願う。
さて、昨日は、3ヶ月ぶりの色えんぴつ画講座があった。
なんと、私が色えんぴつに触ったのも3ヶ月ぶり。自粛生活中、一度も絵を描くことに意識が向かなかった。
色えんぴつ画講座の先生は尊敬していて講座も楽しいが、私には「絵を描きたい」という内なる要求は乏しいみたい。
今回は「自由画」の予定だから、何かしら当日描くイメージの素材だけでも持っていかなきゃ、と日曜ネットでフリー画像を検索し出しだ。
描きたいイメージは、暗闇の中の女性とろうそく。光と影。
炎はよすが。
女性は天と地をつなぐ者。受容性と赦しのシンボル。
イメージで言えば(全然歴史的なこともキリスト教も知らないくせに口に出すのも憚られるが)『神の使者』でイエスの妻と書かれていた「マグダラのマリア」のイメージだった。
私は、写真や現物があってそれを見て描くことはしたことがあるけど、イメージだけから絵を描くってどうしていいかわからない。
描きたい抽象的な概念はあるものの、それを視覚イメージにまでできなかった。
フリー画像から「どうもちがうな」と思いつつも近いものをいくつかプリントアウトして持っていった。
先生は、「見えるものがなきゃ描けないってことはないはず。子供の頃は見ないでもっと自由に描いていたはずだよ。」とおっしゃった。
また「一回で描こうとしないこと。いろんな構図を考え、どのパターンがしっくりくるのか。女性の向きはどういうふうにしたいのか?ろうそくの本数は?女性が持っているの?それともテーブルか何かに置いてあるの?女性の目線は?目が合うの?合わないの?」等いろいろ質問してくださり、「まずは何度もラフスケッチを描いて、自分がしっくり来る構図を見つけること」とアドバイスをくださった。
そんなに情熱が注げるかなぁ。。。
講座、コロナの影響でまだ再開できていないクラスもあるそうだ。人数が多いクラスだと大きな教室を用意しないといけないがその手配ができず、また喫茶店を利用したクラスもあるが、そこも密になるので開催できないのだとか。
YouTubeで描き方を教える動画も作ってみたり(YouTuberデビューだ)、Zoomを利用したオンライン講座も試みられたという。
変化はいろんなところで起こっている。変化、ちょっぴり切なく感じる。