2020-05-27
自分を“罪深い”者とするか否か
「神聖なあなたの子でなくて誰が私の兄弟でしょうか。そしてもし私が兄弟を罪深き者と見るなら、私は自分自身を、神の子ではなく罪人だと宣言していることになります。」(W-pⅡ.351:1.1-2)
「私は兄弟を罪なき者として、神聖なあなたの子として見ることもできます。そしてこの選択をすれば、私には自分の無罪性が見えます。」(W-pⅡ.351:1.4-5)
「ですから、父よ、御声を通して私のために選んでください。聖霊だけが、御名のもとに正しく審判するからです。」(W-pⅡ.351:1.6)
繰り返し伝えられている“朗報”
レッスン351の主題概念はACIMのエッセンスのなかのエッセンスを表わしていると思う。
こんなに短くまとめられることなのに、他者を裁くということがなかなかやめられない。
自分の内なる罪悪感があまりにも深いので、決してそれを見たくないから。
それとは認めず、外にいる嫌なひとや嫌なできごとに被せてしまう。
極端なはなし、自分や自分の家族(特別な愛で結ばれたひとたち)でなければ、“罪”を被せるのは誰だっていいのかもしれない。
怖いから決して見ることができない。
根が深い。
でも、朗報が…!
そ・れ・は・・・
勘違い、
ってこと ♪
創造主である神を裏切って自分から離れちゃったと思い込んだから、罪深かった。
でも、そんなこと、してないよ!
思い込み。
大丈夫、いまも神さまとひとつだよ。
誰も殺しにやってきやしないんだよ。
生贄を差し出す必要なんてないんだよ。
…
ってそういうことなんだろうな~
でも、目の前に「嫌なことをするひと」が登場した瞬間、学んだことは一瞬ぶっとび、ACIMが言っていることが信じられなくなる。
これを繰り返している。
さらに巧妙になったことに、赦しの機会から逃げ回っているような?
皮を剥かなければ、大きな玉ねぎはいつまで経っても大きいまんまだ。
ひ~っ。進退窮まらず。