2020-04-22
鍵は私の手の中にあり、、
「父よ、私自身が作り出した地獄から私を救ってくださるあなたの計画に感謝します。その地獄は実在していません。」(W-pⅡ.342:1.1-2)
「あなたはその非実在性を証明する手段を与えてくださいました。その鍵は私の手の中にあり、私は夢の終わりが向こうに控えている扉の前までやってきました。私は天国の門の前に立ち、中に入りわが家に戻るべきかどうか迷っています。
今日、再び逡巡することがありませんように。」(W-pⅡ.342:1.3-6)
「すべてのものを赦せますように。」(W-pⅡ.342:1.7)
「兄弟よ、今、私を赦してほしい。」(W-pⅡ.342:2.1)
ACIMワークブック終わりが見えてきた
春の花がかわいらしく咲いている。
1週間に2個くらいのペースでやってきたACIMワークブック2巡目。これくらいのペースが私には合うみたい。
始めたのは、、、2016年5月だった。5月中には終わりそうにないから4年以上かかっちゃうな。まあ、別にどれだけかかってもいいけど。
考えてみれば、1巡目を終えたときワークブックじゃなくてテキストのほうをやろうと思わなかったのが不思議だ。
たぶん、テキストはむずかしくて手が出せないと思っていたんだろう。
今回ワークブックが終わったら、テキストをじっくり勉強したい。
ポーズとしての自己否定はやめよう
さて、今朝ワークをしたときに感じたのは、「ポーズとしての自己否定はやめよう」ということだった。
私は、とくに今回の「私」を通した人生に大事で必要だと今思っているのは、①感謝、②自己表現、③自己肯定感を高める、だ(逆に言うと、これらが欠けていると思っている)。
①感謝、②自己表現、はまだやるべき行動がわかりやすいが、③自己肯定感を高める、はいったい何をしたらいいのか具体的に何をしたらよいかわかりづらかった。
心に浮かんだ「ポーズとしての自己否定」という表現はおもしろいと思った。
自己否定はポーズだったのか…
「いえいえ、私なんてヘタレ人間ですから」「社会の役に立ちませんし」「いや~、自信ないけど」
少し心を探ってみたら、それは自分は「無害」だと人に伝えるための、私なりの「ファイティングポーズ」だった。
私は自己表現ができないと思っていたけど、自分は「無害」だと盛大にアピールし、しかもそれは「戦闘」モードだったとは。。
日頃からとても疲れやすいけど、そりゃ、普段から戦闘モードなら緊張しっぱなしで疲れるよな~
なぜ無害だとアピールしなければならないか。
それは人から攻撃されたくないからだ。
心理学的に生い立ちからいうと、母がとっても怖かったから、ということになるんだろう。
しかし今や私はACIMの学習者だ。
これが投影だということは知っている。
ならば、その攻撃性とはだれのものか。
ピンポン!ー「私」自身だ。
自分の攻撃性に対しそれが潜在領域から現れるのを恐れ、自分の無害性をアピールしていたのでは?
自作自演極まれり。
「無害ポーズ」が道の邪魔をしている
今朝感じたのは、私のその「無害ポーズ」が私の道(コース)を邪魔しているということ。
豊かさ、智恵、祝福、美しさ…にアクセスできるはずなのに、そのポーズで邪魔している。しかも、自分で邪魔しているくせに、それらが得られないと文句を言っている…ようなのだ。
「自己肯定感を高める」方法は、「ポーズとしての自己否定をやめること」だという方策が示された気がした。
ポーズだったのか。
なんでもやり過ぎはよくない。
ポーズとはすなわち「仮面(ペルソナ)」だ。
仮面をつけているつもりが、ずっとつけすぎてそれが自分の顔と勘違いしちゃっている。
だいたい、自分はどこか尊大だと知っているではないか。
ポーズとは、辞書の意味のひとつに「見せかけの態度」とある。
見せかけるにしても、自分自身を本当の意味では騙し切れない。
バカなことにエネルギーを使っているものだ。
直すのには時間がかかるかもしれないけれど、「無害ポーズ」というファイティングポーズを解こうと思う、少~しずつゆ~っくり (^-^;