2020-02-29
もとはこちら
「これが救済の核心である。
すなわち、私が見ているものは、私の心の中のプロセスを反映しており、そのプロセスは、自分が何を欲しているかについての私の考えとともに始まる。
そこを起点として、心は自分が願い、価値ありと判断し、探し出そうとするものの心象を作り上げる。
次にそうした心象は外に投影され、眺められ、実在するものとして尊重され、自分のものとして守られる。」(W-pⅡ.325:1.1-3)
「狂った願望からは狂った世界が生じる。裁きからは、咎められた世界が訪れる。そして赦しの想念からは、優しい世界が出現する。」(W-pⅡ.325:1.4-6)
「あなたからの想念の反映だけを、私が見ることができますように。それらだけが真理を確立するからです。」(W-pⅡ.325:2.2)
ワークブックで学んだつもりでも実践(練習)が肝要
レッスン325、「私が見ていると思うものは、すべて想念を反映している。」は、赦しではないが赦しにいたる前提としてとても重要な考えだと思う。
「ゲンジツの世界でどんなことが起こっていようとそれは自分の想念の反映で、実際には自分自身が見せているのだ、外の何かが悪いわけじゃない、一見そうだと見えたとしてもちがう。見えているものに頓着しすぎるべからず」と思い出すことが、自我から聖霊の視点への移行に不可欠だと思う。
だから、このレッスンはすとんと腑に落ちる。
ただ実生活でこれがいつも実践できるわけではない。
やっぱりその過程は、幼い頃に練習した自転車乗りや水泳みたいなものかな~と思う。いくら自転車の乗り方の理論を何かで勉強したとしても(勉強する人はいないと思うけど)誰かに支えてもらいながらふらつきながら何度も練習して初めて乗れるようになる。
すいすい乗れるようになり風を感じながら走ると気持ちいい。乗れなかった時のことは忘れ乗れないことのほうが不思議になる。
そういう過程の時間が(それも自転車乗りとは異なりものすごい幻想時間が)、、、いるんだろうな~と思う。
私は「畳の上で水泳の練習」の傾向があり、このままいくと畳の上でバタフライまでも習得するつもりかも。。。
この世はロールプレイゲームをしているようなもので、ゲーム内でゲームを進める主人公の視点からゲームをしている本人へと視点を移すことが大事なのかな?と思ってきた。
それはそれで間違ってはいないと思うが、実践プロセスを経ないで急に“この世ゲーム”の中から飛び出すことなど、できるはずもない(人によってはできると思うが)。
だからこれからは少しゲームを進める中の自分を鍛えようかと思っている。もちろんそれで自我視点を強化してしまってはさらにプロセスが長くなってしまうから、そこは注意しなきゃいけないけど。。。