2020-02-19
ACIMは「自学自習の書」ーだけど、壮大なプロジェクトのようでもある
ACIMは学びたい者とイエスあるいは聖霊とのあいだだけで行われる自学自習の教えだ。
その個人プロジェクトにおける中身は、神の子の断片のように見えている学習者それぞれの立場から赦しを実践し、「神からの分離」という発端となる誤りの幻想性を受け入れて訂正することだと思う。
しかし、何十億もの人が共に暮らしている(と思っている)この世レベルの視点から見たら、ACIMは国籍年齢性別を問わず自発的に参加できる「地球レベルの壮大なプロジェクト」のようにも見える。
参加費はACIMテキスト、ワークブック、マニュアルの購入費。それをやったからといって誰かから報酬がもらえるわけではないから(実際には真の幸せが約束されているけれど)、資本主義からはほとんどフリーだ。
何かインスピレーションを感じた人が、例の本を手に取る、感じるところあってワークを始める。そして、知らない間に壮大なACIMプロジェクトに参加している…
そんなイメージだ(もちろん投影です)。
おそらく学習する人、関心をもつ人の数がど~んと増えることはないだろう。でも徐々でも増えていくだろうから、これからずっと続いてくプロジェクトだ。
むかし、『それがぼくには楽しかったから』という本を読んだ。「Linux」というコンピュータのOSを作り出し、インターネット上に無料でソースコードを公開したリーナス・トーバルズという人が著者で、「Linux」誕生、成長の経緯を書いていた。
うろ覚えなのだけど、無料で公開したものが様々な人の手によってどんどん成長していく過程の期待感や、リーナスはもちろん加わる人たちも仕事上の義務や責任というよりインスピレーションや喜びに導かれていった点が、私から見える「ACIMプロジェクト」とちょっと重なって、それで思い出した。
いろんな担当
断片となった私たちには「個性」があるように見えるし、それぞれ「経験」や「強み」みたいなものもあるから、このACIMプロジェクトで担当する(気づけば担っている)部分も異なる。
教えの本質を深める役、
広くこの教えの裾野を広げる役、
原書を他言語に翻訳して伝える、
学びの姿勢を他の方に示して先導する、
YouTubeなどで関心を集める、
より多くの学習者の橋渡しをする、
出会う人に愛と赦しの姿勢を見せたり、
その生き方と重ねて問題提起したり気づきを促したり、、、
などなど。
私が担当したいのは…
プロジェクトの様々な役割のなかで、私が担当したいのは何かー
というと、
1.『奇跡講座』をわかりやすくして伝えること、と
2.抽象的な『奇跡講座』の世界を日常生活とつなぐこと、だ。
いつか書いたことあるよな~、たしか、とブログの検索窓から「わかりやすく」で検索してみたら、見つかった。
2017年10月2日、ワークブック、レッスン151のブログに書いていた。
今も思いは変わっていない。
もちろん、私が介入すると「私」のフィルターがどうしてもかかってしまうから「事実」ではなく「意見」になってしまうけれど、、、
難しい表現をなるたけ平たい言葉でわかりやすくとっつきやすく、と、
教えの理論を日常生活レベルにする、
というのを担当したい。
できているかといえば、ブログを始めた当初は「赦し」の実体験みたいなのを赤裸々に書きたいと思っていたが、なかなか…
(渦中にいるときは、感情的になりすぎていて書けないし、しばらく経ってからでも自分をなかなか客観視できないうえ相手もいるし、と思った以上に書けない)
でも、まあ、学ぶことと書くことを細々でも続けられたらいいな。
目にした方に「こんなビビりでエゴ丸だしでも、まだやっとるわい」と思ってもらえたら本望だな~と思っている。
PS.こういうことをあえて書くのは「分離」を前提とした見方だから、よくないのかな?(・・)