『Journey through the Text of ACIM』(18)-3章 心の構造

2020-01-17

最初の分離のあと意識が生まれた

3-1「心の構造」はACIMの考え方の前提となるすべての始まりの分離とそこから生じた心の構造について述べられている(ように思う)。

ここは、テキスト3章Ⅳ.2-1から3-6までの長い引用から始まる。

意識は知覚レベルのものであり、分離の後に心に生じた最初の分裂であった。(中略)意識は、自我の領域と見なすのが正しい。

自我とは、ありのままの自分としてではなく、自分が望む通りの存在として自分自身を知覚しようという、間違った心による試みである。(中略)

自我とは、分離後の自己における疑問を抱く側面で在り、それは創造されたものではなく、作り出されたものである。

この辺りは、イエスがACIMの中で「心の構造」について話す数少ない箇所の一つだという。

ここで用いられている「意識」という語は、私たちが一般的に用いている意味とは異なる。テキストでも書かれているとおり「分離の後に心に生じた最初の分裂」をさし、「分裂した、あるいは分離した(かのように見える)心」と同じものと見なされる。いわゆる「キリスト意識」と言われるものとはまったく別のものである。

そしてエゴ(自我)とは前述のとおり「自分が望む通りの存在として自分自身を知覚しようという、間違った心による試み」で、「分離後の自己における疑問を抱く側面」であり、エゴの領域における心は、ありのままの自己からずれているので深いレベルで確信が持てず混乱しているのだという。

非二元性とは

非二元性についてワプニック先生は「完全な一体性の状態であり、一なるもののみあります」と定義づけされ、「これは赦しと聖なる関係と理解するうえで特に重要な概念です」と説明されている。

また「完全に統一された非二元的な愛は、主体と客体の間で生じるものではなく、ただ一体性(the Oneness)であり神の確かさ(Certainty of God)です」とも。

「聖なる関係」とは、天国(一なるもの)の一体性の反映であり、「赦し」とは、天国の愛を反映する。赦しは幻想ではあるものの、エゴの法則を取り消すはたらきをする。

私たちが、だれかを負かして勝とうと思えば、結果的にはみんな負けるという。それは、エゴの原理に準拠することで「分離という誤りが現実にされてしまうから」。

私たちは神からの分離を成功させたことで、「神に勝って」ここにいると思っている。もちろんこれは大いなる愚かな誤解だ。

本当のことを言えば…、「神と呼ばれる存在もキリストと呼ばれる存在もいません」とワプニック先生は踏み込まれている。

「そうした言葉は他方を意識することですから」。

こうした言葉による表現は、二元性の世界にいると思っている私たちに理解しやすくするための便宜的なものなのだという。

私はこのあたりに、この二元性の世界にいながら(個々別々の肉体を持っているように思いながら)、非二元性の世界をつかもうとするジレンマというか難しさを感じた。

同じ幻想であっても、正しい心の部分からの考えは幻想を終わらせる

私たちが心について話そうとすれば、ここにいる私たちにとっては、すでに分離後のものを話すことになる。つまり、(第2の分裂以後の)「心の正しい部分(聖霊)」と「間違った部分(エゴ)」についてだ。

どちらも幻想だが、間違った部分からもたらされる考えはさらに幻想の深みにはまり込ませるが、正しい心の部分からもたらされる考え―赦し―は、その幻想を終わらせるものとなる。

私たちは起こってないことを起こったと信じたがゆえにここにいる(と思っている)。しかし、今ここで、エゴか聖霊かの選択で→聖霊を選べば→正しい心の状態が間違った心の状態を正す→それによって元の一なる心の方向へ向かえる。

これが「心の構造」だという。

この世にいる私たちは常に何かを「意識」している

また再び、二元性の世界で真実を学ぶ難しさについて。

この世にある私たちが使う道具である「言葉」というものは、それ自体が主体と客体の概念を含んでいる。

つねに私たちは何かを意識している。

「例えば、この人、私たちが自分自身と呼ぶ肉体、持っている考え、あるいは、奇跡講座を勉強している、と意識しています」と例を挙げられている。

不確かさを隠すための反動形成&他者の誤りを証明したくなる衝動

さらに節の初めに戻って、エゴの世界の不確かさについて。エゴは「ありのまま」ではなく「分離後の自己における疑問を抱く側面」なので、そもそも疑念を基盤としている。だから心から確信するということができないでいる。

そこで防衛のための用いることの一つが「反動形成」とフロイトが呼んだもの。

反動形成…「抑圧されて無意識になっている欲求が,意識や行動に現れないよう,それと正反対の意識・行動に置き換えられる機制をいう。 防衛機制の一種で,たとえば,攻撃性が抑圧されている場合には極端に親切になったりする。 大げさなこと,強迫性などを特徴とする。」(コトバンクより)

また、防衛は他者を否定するという手段をとることもある。「大多数の人たちは、常に自分は正しく他者は間違っていると証明することで内在する不確かさを隠そうとしています。」とワプニック先生。

しかしそれでも元の不確かさは消えないので、さらなる防御が必要になるという。

最後は「キリストとしてのアイデンティティーを思い出すことだけが、混乱を消し去り、確かさを回復させます。奇跡を選ぶ心の力は、このような回復の手段となります」との言葉で、この節は締めくくられている。

感想ー観念の世界でぐるぐる

「心の構造」の節は根幹の部分だけど、説明が難しく感じた。分離した結果リアルに見えているこの世にいながら、非二元性が真実と学ぶのに抵抗があるためか。あるいはいろいろ出てくる抽象的な言葉による概念とその関係性がつかみきれないためか。

こうしてワプニック先生の解説で概念の世界をぐるぐるしていると、赦しとは遠いところにいるのかもなぁ、と思ったりする。いつか書いていた「畳の上で水泳を学ぶ」ということをやっている気がした。

ブログとは便利なもので検索してみたら、「畳の上で水泳」は2016年8月25日に書いていた↓(他の日もあるかも)。

「これまで私がACIMについてやってきたことは、畳の上で水泳教本を片手に足をバタバタさせてみたり、顔をあげて息継ぎの練習をしてみたり…、といったことかもしれない。

そろそろ水着に着替えて、水に入らなきゃ(おそいけど)

もっと人と積極的に関わり、その中でACIM的に見る、話す、それが必要かなと思う。」

ありゃりや、今もたいして変わっていない。進歩ないなぁ(~_~;)、、、いやシェアをしようとしているのだから、半歩前進か。

手ごろなイラストがないかな~とネット検索していたら、「畳の上の水練」ということわざがあることを知った。

いろいろ知るなぁ。

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