2019-12-18
永遠なる無垢性
「私の中に、永遠なる無垢性がある。それが永遠にそこにあることが神の意志だからである。」(W-pⅡ.309:1.1)
「内側を見るとは、私の意志を、神が創造したままのものとして、ありのままに見出すことである。
私は、真実ではない別の意志を自分が作り出し、それを実在されたと思っているからこそ、内側を見ることを恐れている。
しかしそのようなものは何の結果ももたらしてはいない。」(W-pⅡ.309:1.4-6)
「私の中には神の聖性が存在する。私の中には神の記憶が存在する。」(W-pⅡ.309:1.7)
永遠なる無垢性…きれいな言葉だな。
神の記憶…もなつかしくも清らかなところに飛べる言葉だ。
Joueney本、旅のひと休み
何とか前回分の『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の自分なりのまとめが終えられて、ふーっとひと息。
これはおぼつかない英語とおぼつかないACIM理解で今の私が背伸びしてできる“精いっぱい”で、ばっかみたいに幻想の時間がかかっている。もちろん解釈上の誤解とかもあるだろう。
は~、何やってんだか、
って感じだけど、それでも終えられると多少の爽快感あり。
自分ひとりでやっていたら、そもそも読もうと思わないし(だいたいその存在を知らなかった)し、ブログにまとめることもなかった。
シェアする会に参加したい、そのためにはその意志を示したい、という多少の“外圧”?からやっていて、それでも気づけばライフワークのようになっている。なんか不思議な感覚。
この活動を支えるためには、別のところでキャッシュフローを得なきゃ(これはこのゲンジツのはなし)。
まあ、カツカツになるまで様子見よう。
ひみつの実験なのだ、これ。
このブログには、肉体姿の私を知っている身近な友人、家族、仲間などに言っていないことがたくさん書いてあって、それが私の“罪悪感”になっていることに気づいた。言うべきことや表現すべきことを出さず、ブログでだけちょびっと発散させているのだ、いま。
後ろめたい気がしている。
この気持ちも手放していこうと思う。
感謝と自己表現、これが私の場合、進歩のカギらしい。
ちょびっと気を抜いてから、再びJTTAの3章に入りたい。年末年始でばたばたしてヘタすると着手が来年になってしまいそう。少しずつでもやらなきゃ、、。