2019-12-13
ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の第二章「分離と贖罪」の6節「心の力:原因と結果」の後半のざ~っくりまとめ。
この世のお願いごとは、「原因と結果」の法則への介入依頼
イエスからヘレンに言ったという箇所から。
「あなたは依然として恐れについて不平を言うかもしれないが、それでもあなたは今も自分自身を恐れさせることを続けている。すでに指摘したように、あなたは私に恐れから解放してほしいと求めることはできない。私には恐れが存在しないとわかっているが、あなたにはわかっていない。(Ⅶ.1:1-3)」
イエスは自分がヘレンの恐怖心を取り除かなかったからといって責めるな、あなたこそ恐怖を作り出した張本人だ、と告げている。
ここに「原因と結果」の法則がある。恐れの想念が恐れを生む事態を作っているのだ。
「もし、私があなたの想念とその結果との間に介入するなら、存在する法則の中でも最も根本的な、『原因と結果』の基本法則に干渉することになる。もし私があなた自身の思考の力を軽んじるなら、私はあなたを助けることにはならない。そうすることは、このコースの目的と真っ向から対立する。(Ⅶ.1:4-6)」
奇跡講座(ACIM)の第一の目的は、(源となる)心がもつ力を尊重するよう教えることです、とワプニック先生。
私たちがイエスに「空き駐車スペースを確保しといてほしい」「がんを治してください」「世界平和をもたらしてください」などこの世のことをお願いすることは、どんなに些細なことであっても、心がもつ力を蔑ろにして「原因と結果」の法則に介入してほしいと要求していることなのだという。
そして、「そういうことに執着していると、ずっと(ACIMの)はしごの下の段にいることになります。」と。そうではなく「イエスは、はしごのてっぺんである実相世界まで来てさらにそれを越えて天国まで達してほしいと望んでいます。」とおっしゃっている。
またここでテキストの後ろのほう記述、「これは原因についてのコースであり、結果についてのコースではない。(T-21.Ⅶ.7:8)」を挙げ「これは、私たちの行動(結果)を考えるコースではなく、どのように考えるか(原因)についてのコースなのです。」と補足されている。
「それよりも、あなたが自分の想念を充分に注意深く護っていないと、あなたに思い出させるほうが、ずっと役に立つ。この時点では、あなたにそれができるようになるためには奇跡が必要だと感じるかもしれない。(Ⅶ.1:7-8)」
この文言のなかの「奇跡」は言葉遊びで、この世での一般的な奇跡と、ACIMでいうところの奇跡が掛かっているんだとか。
外的な奇跡はもちろん「ありえない、すごい」と驚くほうの奇跡だけど、ACIMでの奇跡は、有罪性を選んだ心の決定こそが間違っているのだから、これをやり直し、幻想から実相へと目覚めること、真実を受け入れることを指す(この文は自分理解)。
この見方を変えるには訓練が必要で、その訓練がACIMなのだ。
学習への抵抗-ワークは難しい、自分のあり方を変えろと迫るから
たしかにワークブックは難しいです、とワプニック先生。
というのは、エゴの見方から解放されることには大きな恐れがあり、その恐怖感に圧倒されてしまうから。「それがイエスが私たちに忍耐強く教える理由であり、このコースが生涯を通じたワークになる理由です。」
だからこそ私たちは、学習には抵抗が伴うものだと理解しておく必要があるともいう。私たちは意識では「よしACIMを勉強するぞ」と意気込みながら、意識下ではどこかしら「ACIMなんて学びたくな~い」と思っているのだ。
これは当然のこと。
ACIMのメッセージを受け入れれば、それはすなわち心のあり方を変えることに直面する。そうしたらこれまでなじんできた「私」が激しく脅かされる。この特別な自己を守りたいという感情がエゴと一体化した私たちに起こる。
自分を変えずに済ます方法、それが投影だ。
投影すれば、自分のあり方を変えることなく、変えるべき「問題」が外に知覚されるから。
(うん、これは便利だ。つい使っちゃいそうだ。てか使ってる。私がこのJTTAの電子書籍が見られなくなったのも、投影のなせる技かな。たしかに問題は「外」にあった。私は勉強したいと思っているのに開けないんだから困った、勉強できない。。うん、使い勝手はいい。)
ただ、問題を外に見てそれを“解決”するだけでは、真の原因は温存されたまま。
だから、そうではなく真の解決策としてイエスに助けを求めることが必要なのだという。
前回も触れたが、イエスは私たちが助けを求めて初めて私たちを助けることができる。
心が選択する力を過小評価しない
「奇跡を行うには、誤った創造を避けるために、想念のもつ力についての充分な理解が伴わなければならない。…奇跡を行う者は、奇跡が起こるための必要条件である真の因果律に、純粋な敬意を抱かなければならない。(Ⅶ.2:2-4)」
「真の因果律とは、心が原因で肉体が結果であるということで、このがコース理解の前提条件」だとワプニック先生は強調なさっている。
心がエゴの思考システムを選ぶか、聖霊のそれを選ぶか、そこには選択する心の力(自由)がある。
この選ぶ力を過小に評価しないことが重要だ。エゴを選ぶ力を否定することは奇跡を選びうる力をも否定することだ。
私たちが心がもつ力を過小評価したがるのは、実のところ自らの想念を恐れているからでもある。
それは、まず「神から離れたこと=分離」を実際のことだと信じた力だ。そこで罪悪感を持った。そして、これを神に投影し、神を「復讐神」と誤解している。
マニュアルには「怒った父親が罪を犯したわが子を追いかける。殺すか、殺されるか、選択できるのはこれだけだからである。…(M-17.7:10-11)」という一節がある。
すべての防御は防ぎたいことを逆に強めるの法則
テキストには究極の因果律(天国の法則)について「実際は、『原因』とは正しく神に属する言葉であり、神の『結果』が神の子である。(Ⅶ.3:11)」と記述がある。
一方エゴのうわべの因果律は、原因:世界、結果:神の子というものだ。
この世で感じる問題の真の原因は、心の意思決定者が分離の想念と一体化してしまったこと。それで、エゴvs神、恐怖vs愛、という実際にはないバトルがあるかのように見えてしまう。
私たちが罪悪感を取り除こうとして行う最も不適切な対応が、恐れるということだという。分離に対する「正当な処罰」の代わりにこの世で恐怖を感じるというメカニズムに拠っているため、恐れることは分離という誤まった信念を修正するはたらきではなく強化してしまうことにつながる。
感じた恐れを巧みにコント―ルしようという試みもまた無益だという。「そうした試みは、恐れの制御に熟達しなければならないという思い込みそのものにより、恐れの力を肯定している(Ⅶ.4:3)」から。「真の解決は、愛による熟達のみに基づく(Ⅶ.4:4)」から。「しかしながら、当面は、葛藤の感覚は避けられない。(Ⅶ.4:5)」
葛藤があるということは、「神との分離」をゲンジツ化しているということで本来はない、エゴvs神、恐怖vs愛といった実際にはないバトルをリアルにしているということだ。これに巻き込まれエゴの解決策を追い求めることは悪循環だし失敗する。
ここでも前述された原則「すべての防御は、それが防ごうとしているまさにそのことを強化する」という原理にあてはまる。
防御ではなく、愛を選ぶことが道理なのだ。
ACIM学習者は“葛藤の道”を通過する
「あなたが信じることは、あなたにとっては真実である。この意味においては分離は起こったのであり、それを否定することは、否定の不適切な使用にすぎない。しかし、誤りに焦点を当てることはさらなる誤り以外の何ものでもない。(Ⅶ.5:5-6)」
この世と個々の肉体を信じている私たちが、これを単に否定することは「否定の不適切な利用」で、そうした防衛では誤りは解消できない。贖罪を受け入れることこそが解決だという。
しかしイエスはこの霊的な旅の道すがらACIM学習者は「にっちもさっちもいかない葛藤の道(the Scylla and Charybdis of the spiritual path)」を通過しなればならないとも指摘している。
この世の経験レベルでは、ここで見える分離した存在を否定してしまわないこと。これはただエゴに溺れてしまうこともまた違う。
分離した結果生じたかのように見えている幻想世界に生きながらこれを取り消していくことだが、これが難しい例えとしてワプニック先生は、ロスコ―の美しい湖上にあったカンファレンス&リトリートセンターでのご自身の発言を紹介している。
「私は時おり学習者たちに、ゴールはエゴの湖水に飛び込み向こう岸にまで泳ぎ切ることだと言っていました。しかし、ひとたびそこに入ったらエゴの生活に浸りさらに惹かれて探索したくなる。当初の目的を忘れてしまうほどエゴの誘惑というものはとても大きなものです。」
エゴの思考システムを理解しなければならないが、それは修正しなければならないと気づく、その目的のため。それ以上の目的はない。
「この世界は本来幻想ですが、それでもイエスによって私たちが究極的に世界はないことを学ぶ教室として使うことができます。この認識が『実相世界の達成』です。」とワプニック先生。
きょうはこれでおしまいにしよ。なんか力尽きた。自分の感想まで書ききれず。
もっと上手にまとめたい気持ちはあるけど。。。つらつらと書かれていることを端折りながら書いてるだけ。
わかったような、JTTAを読むと逆にわからなくなるような。ようわからん。
「にっちもさっちもいかない道を通る」というのはわかる。まさにそこにいるような気がするから。