ACIMワークブック307-葛藤する願望は、私の意志ではない。

2019-12-07

神の意志だけが私の意志

父よ、あなたの意志だけが私の意志です。ほかに私がもつべき意志はありません。他の意志には意味がなく、私の苦痛の原因となるだけなので、私が他の意志を作り出そうとしませんように。」(W-pⅡ.307:1.1-3)

あなたの意志だけが私に幸福をもたらすことができ、あなたの意志だけが実在しています。あなたが与えてくださるものだけを持ちたいと望むなら、私はあなたの意志を自分に受け入れて、平安の中に入っていかなければなりません。

その平安のなかでは、葛藤は不可能であり、あなたの子は実存と意志においてあなたとひとつです。また、そこには、私があなたの創造されたままの私であり続けるという神聖な真理に矛盾するものは一つもありません。」(W-pⅡ.306:1.4-5)

この祈りとともに、私たちは、葛藤が侵入できない状態へと静かに入っていく。私たちは、自分たちの意志は神の意志と同じだという認識のもとに、神聖な私たちの意志を神の意志に合一させるからである。」(W-pⅡ.306:2)

なんか一文が長い。W-pⅡ.306:1.5なんか3つの文で構成されている。

神の意志だけが自分の意志…

これは私は理解が不十分なのだけど、イエスの芸術的表現と受け取るべきだろうか。あるいは、日常の細々した意志まで含めてそのまま受け取るべきだろうか。

どのメニューを選ぶとか、旅行に行くべきか否か、とか。

日々、些細なことから大きなことまで葛藤だらけだ。生きるって葛藤することだよね。。。

神意はその細か~いところまで担当しているのか。

いやいやそこは掘り下げることじゃないな。

意志というのは、心のもち方、意識の向け方のことかな。

心の中の意思決定をするところを、聖霊の導きにゆだね、エゴのそれとは距離を置くというー。

神意という本来の大いなる流れをそのまま受け入れられるぐらい「正気に慣れる」ためのワークかな。

そんなんいつまで経ったって無理だ、と思う。

神意にゆだねられるようになると、楽なんだろうか。。

「神意を商る」

いま「神意」と書いてて、むかしビジネス的なことを志していたときどこかで「神意をはか」という言葉が商いの語源だと聞いて、素敵だな、と思ったことを思い出した。

商業(ビジネス)とは、神の意志を「商って」みんながhappyになろうとするのか、と。

私も昔はピュアだったのか、あるいはその頃から合理化して見ていたのか。今改めて世の中を見渡すと、神意と商いって関係ない気がする。

調べてみたら(ネットって便利だ)「(商の)漢字ができたといわれるのが、商(B.C.1384年~B.C.1023年)の時代」。「『商』の字は、神意をはかることを原意とする。『私のほしい物』と『あなたのほしい物』の当事者が抱くそれぞれの価値が、文字と度量衡と貨幣により表明することが可能となった。商業の道具が、商の時代にそろう」(『環境会計の理論』吉田寛著)という文言がでてきた。

『商』の文字が神意をはかることを原意とする、というところには、代償を伴う有償行為を示したことから、商人や商業に使われることになった旨の注釈がある。

「神意を商る」の意味はわかったようでわからない。それより「商」の漢字ができたのが紀元前1000年以上…、そんなに古くに漢字が?とそっちのほうに驚いた。中国恐るべし。いや、ニンゲンと「おカネ」とのつながりや「交換」という概念なのかな、驚くほうは。

そういえば…、朝の散歩で今日は交通量が少なくて空気が澄んでいる、と思い、「我々ジンルイそのうち空気も(水みたいに)売り出すぞ」と思った、それをふと思い出した。

よくわからないけれど「贖う」という言葉も、おカネを表す貝へんだし、神さまとおカネって意外とニンゲン意識のなかでつながり深いんだな~

とっても寒いので、パソコンを打つ手がかじかみます。

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