2019-11-25
「知覚は鏡であって、事実ではない。私が見るものは、私の心の状態が外に映し出されたものである。」(W-pⅡ.304:1.3-4)
「私はキリストの目を通して世界を見ることにより、世界を祝福したい。そして、自分の一切の罪が赦されたという確かなしるしを見るつもりだ。」(W-pⅡ.304:1.5-6)
「私が赦すことができますように、それによって、世界のために救済を受け取ることができますように。」(W-pⅡ.304:2.2-3)
このレッスンは、「知覚は鏡」「私が見るものは、私の心の状態が外に映し出されたもの」といった文言で、この世が投影だと端的に表している。
この世は「結果」の世界だ。だから、結果の世界だけで因果をいじくっても変わらない。大元のところを変えなければ、別のかたちをとって投影されるだけ。
この世はこの世なりの確固とした因果があるように見えるから、なかなか信じられないけど。
この世を司っている法則として私たちが信じていることは、私たちを動かす基本設計としてあらかじめインストールされている。そして、さらに教育によってさらに「この世のしくみ」や「この世を生きるツール」を入れていく。
今、私たちはACIMテキスト、ワークブック等々で、私たちを動かす真の原理原則を上書きしているようなものだ。それは実のところは、「赦す」という、間違った設計を取り消すという作業だ。毎日少しずつ。
何度も繰り返さなければならないのは、すでに入っている原理原則がかなり広範に強固に私たちを縛っていて、放っておくと元に戻ってしまうからだ。何せそれはほとんどが自分ではわからない無意識にあるのだから。
私はまだ両方の原理をどう兼ね合わせるのかよくわからない。この世で身体をもって生きている以上、この世での原理原則はまったく無視ー、というわけにはいかないだろうし。
そういうことを考えてしまうこと自体、エゴの支配下にあるのか…。
机上の勉強だけが先行し実践がおぼつかなくて、自分のなかでも乖離あるかな。
そもそも「自習」「独学」で大間違いしているかも?という疑念は常にある。
まー、要するに「実験」だな。
試行錯誤を生きてる…
私の知覚は、葉っぱが色づいたと感じて、この世に映し出しているところ。