2019-11-22
翻訳教室、最終回
昨日は全3回の翻訳教室の最終回だった。
受講者4名(1名お休み)。前回同様、課題の小説の訳をひとりずつ見て丁寧に直して、コメントしてくださった。
英語の意味が捉えられること、描写している場面を正しく把握すること、これを忠実に表す日本語を当てはめることなどなど、どれをとっても難しかった。翻訳には唯一の正解があるわけではないが、どれだけ原書のもつニュアンスを丁寧につかんで表現できるか。もちろん時代背景や地域性も考慮しなくてはならない。
たったA42枚の訳文なのに形容詞、丁寧語のニュアンス、登場人物同士の関係性などなど、直されまくる。前回はそれが若干ショックだったけど、今回は「あ、そこもですか」「え、それも~?」と直されることがだんだん快感になってきた。
私のような、趣味でやっているとさえ言えない通りすがりの者に対して、手を抜くことなく(もしかしたらすごい加減してくださっていたのか?)丁寧に指導してくださることに、先生の誠実なお人柄を感じた。
『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』を訳しちゃているとき、ワプニック先生の口語の長文が訳しづらいと思っていたが、JTTAは話しされているのはワプニック先生一人で登場人物のキャラクターや関係性を考慮する必要はなく、しかもノンフィクションというか「真実」の話なので、あるいは小説なんかよりはシンプルで訳しやすいのかもしれない、と感じた。もちろん、ACIMの考え方の意味をしっかり把握して、というのが要でそこが難しいけど。
教室が終わった後、先生が「打ち上げ」に誘ってくださった。
元々は大学卒業後、外資系企業で働いておられたが、そこで産業翻訳に携わる機会があってそこから翻訳に興味を持ち、一念発起してアメリカの大学に留学なさったのだとか。
翻訳は常に締め切りとの戦いで超ハードなのだとか。
体が資本。気づけば座りっぱなしになってしまうので、どんなに時間がなくても体をヨガやウォーキングなど体を動かす時間を設けているとおっしゃっていた。
また、常に新しいことを吸収しつづけることが大事だともおっしゃり、語り口からは翻訳への真摯さと自負が感じられた。
プロフェッショナルだな。輝いている。
色えんぴつ画の先生の個展
昨日は、翻訳教室の前に、色えんぴつ画の先生の個展に行った。昭和2年築のレトロおしゃれな画廊だ。
色えんぴつ画の林亮太先生は、元々は一般企業で販促の仕事をなさっていたが、そのうちMacで自らデザインするようになりイラストレーター、グラフィックデザイナーとして活動。
その後、2009年ごろから「紙に描きたい」という思いが強くなりラフスケッチに使っていた色えんぴつで絵を描き始めたという。
今では20もの教室や大学で指導。最近は、赤、黄色、青+黒という色えんぴつ4色での表現の可能性を追求しておられる。
いつも生徒の「いいところ」を見つけて、その特徴を伸ばすように教えてくださる。
林先生も、やっぱりプロフェッショナルだな~と思う。
プロフェッショナルへの憧れは「特別性」に対するエゴのうずきか
私はこの世での自分の専門領域(ドメイン)を持って、こつこつその道を究めている人に惹かれるし、憧れている。
かといって、今すごくやりたいことがあるわけではないし、
自分は何かのプロじゃないからつまらないと思っているわけでもないのだけど。
この憧れは、「この世の特別性」に対するエゴのうずきみたいなものなのかな。
ACIMの学習者ならば、「赦しの実践のプロフェッショナル」に…という最重要なお題があるけど。。。そういうのとはまた別に、この世でテーマを持って重ねていくって、なんかいいな。
うずきだとしたら、やりたいことが実はあるのに、抑圧しているからなのかな~
単にエゴの見方から、刺激を受けているのか。
『神の使者』(あるいはゲイリーの他の本だったか)で、ハワイに住むことに憧れているゲイリーに、パーサが「住めばいいじゃない。誰だってどこかに住むんだから」みたいなことを言っていた件があったのを、ふと思い出した。
憧れOK。この世で何かしてもいいししなくてもいいし。何か具体的なことが思いついたら、その時にやればいいだけのことだな。
別にACIMを学習すると決めたら、この世のこと全部捨てなきゃならないわけじゃないし。
あ゛長々と何書いてるんだろ。
翻訳の先生も、色えんぴつ画の先生も、素晴らしい。。いい先生に出会えてうれしい。