ACIMワークブック第Ⅱ部‐9.再臨とは何か

2019-11-13

再臨とは何か

キリスト教に疎い私は、「再臨」という言葉にもなじみがなかった。

一般的な意味を見てみると『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「再臨とは、キリスト教神学の用語。復活し、天に昇ったとされるイエス・キリストが世界の終わりの日に、キリスト教徒を天へ導き入れるため、また、世界を義をもってさばくために、再び地上に降りてくることである」とある。

ACIMの見方では、テキストに「キリストの最初の降臨とは、単に創造の別名にすぎない。キリストとは神の子のことだからである」に続き、「キリストの再臨とは、自我の支配の終焉と心の癒し以上のものを意味してはいない。私は最初の降臨において、あなたが創造されたのと同じように創造され、再臨において、私に加わるようにとあなたに呼びかけた」とある。(T-4.IV.10.1-3)

また本節には「再臨とは、すべての心がキリストの手にゆだねられ、真の創造と神の意志の名において、霊に戻される時のことである」(W-pⅡ.9-3:2)とある。

短く言うと、キリストの再臨=「自我の支配の終わり」で、「単なる間違いの訂正、正気の回復」(W-pⅡ.9-1:1)。

口語的にいうと、ものの見方が完全にエゴのそれから聖霊のそれに替わるその時か。

再臨の説明には「再臨は聖霊が教えるレッスンを完了させ、最後の審判に道を開ける。そこですべての学びが最後にひとつの学びに集約されて終了し、それ自体を延長されて、神にまで達する」(W-pⅡ.9-3:1)

また、

再臨は、時間の中にありながらも、時間の影響が及ばない唯一の出来事である。すでに死んでいった者、これからくる者、今ここにいる者の誰もが、自分で作り出したものから等しく解放されるからである」(W-pⅡ.9-4:1-2)

この平等さの中で、キリストが一なるアイデンティティーとして取り戻され、このアイデンティティーの中で、神の子たちは自分たち全員がひとつであることを認識する。そして父なる神がご自身の一なる被造物であり唯一の喜びであるわが子の上に微笑む」(W-pⅡ.9-4:3)等とある。

重要箇所を書き出そうと思うが、重要な箇所だらけだ。

各々が“再臨プロジェクト”の主メンバー

最後の段落は次の言葉から始まる。

再臨の時がまもなくくるよう祈りなさい。

しかし、それだけでよしとしてはならない。再臨はあなたの目と耳と手と足を必要としている。

あなたの声を必要としている。

そして何よりも、あなたの意欲を必要としている」(W-pⅡ.9-5:1-4)

ひやぁ、クギをさされている。この再臨プロジェクトには自分も参加している。

てか私が見ている世界は私の見方そのものに掛かっている。ゲンジツって実はすごいバーチャルゲームの中にいるもんだなぁ。。

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