『Journey through the Text of ACIM』(13)-2章 世界と肉体

2019-11-08

自我の第二の防衛線「世界と肉体」

前節では、自我の防衛線について、その第一は「罪、罪悪感、恐怖」、その第二は「肉体」だという記述があった。本節はその第二の防衛線「世界と肉体」がテーマだ。

自我(エゴ)が最も恐れているのは、私たちが「mindful」になる(正気の心に立ち返る)こと。そうなったら自らの存在が危ぶまれる。そうならないように、エゴは私たちを「mindlessness」の状態に閉じ込めておきたいのだ。

そこで、私たちの関心を心からそらすため外に向けさせる戦略をとる。外というのが、「個々の肉体」であり「世界」だ。そこで関心をそらさぬよう“猫じゃらし”(この表現はJTTAになく勝手に使った)の役目をするのが、自我の第一の防衛線の「罪、罪悪感、恐怖」トリオだ。

自我の視点からの肉体と病気

自我は肉体を素晴らしいものだと崇拝しながら、肉体という場で罪悪感を使って巧みに私たちを操る。そもそも私たちは「神の一部を引っ剥がして離れた」というありえない勘違いから深~い罪悪感を背負っており、それがあまりにきついから、本当の現実から目をそむけ自我の話に乗っかったのだった。

つまり自分には意識下で何らかの「罪滅ぼし」が必要だと思い込んでいる。そこで自我は肉体を舞台にした罪滅ぼしとして「病気」をつくる。

自我の理屈はこういうことだ。

「神は私たちが神に背いた罪に対して罰を求めている。ならば、私たちが自らの手で罪の贖いを行うことで神の憤りを封じよう」

私たちは病気になることで、自分の罪を贖い神の復讐心をかわすことができると思う。しかし、実際には、心から意識をそらすという自我の思うツボにまんまと嵌っているだけなのだ。

真の病気とは

病気、言い換えれば『正しくない心の状態』は、レベルの混同の結果である。なぜならレベルを混同すると、一つのレベルの間違いが別のレベルにも悪影響をおよぼせると、必ず信じてしまうからである。」(T-2.Ⅳ.2:2)

ここでいう「一つのレベルの間違い」とは勘違いから生じた罪悪感で、その心のありようこそが「真の病気」なのだ。私たちは心で犯した罪を肉体で贖いうると考えているが、本当の意味では肉体は存在しないしそのような影響関係はない。

肉体そのものが分離という夢の延長であり、罪悪感を内在している。

「病気である」ということは、罪悪感を反映した心の決定なので、これを真の意味で癒すのは、私たちはそんな罪は犯していない、だから無辜(罪はない)だと考えを改めること。言い換えれば、それが真の意味での「贖罪」なのだ。

私たちは奇跡のことを、レベルの混同を訂正する手段だと述べてきた。それは、間違いの訂正はすべて、間違いが起こるレベルでなされなければならないからである。心のみが誤りを犯すことができる。」(T-2.Ⅳ.2:3-4)

本当のレベルで誤りを正すには、外見上の誤りをどう見るか―それを空想上のものにするか、リアルにするか、あるいは自分は罰を受けるにふさわしいと考えるのか、奇跡による訂正が必要だと考えるのか―にかかっている。

魔術とは

肉体の病は魔術への信念を表している」(T-2.Ⅳ.2:7)

肉体的な病気は、心のなかにある罪悪感を肉体に移して解決しようとする自我の試みだ。

本当は「罪悪感を真に受けている心こそが病気」で、罪悪感を肉体に投影して肉体の病気を生じさせている。

ワークブックの重要なレッスン、レッスン136には、「病気は真理に抵抗する防衛である」とある。自我は第二の防衛線として肉体をつくり、さらにそこに病気という問題をでっちあげ、問題の本質を見えなくさせている。

魔術とは、私たちが本質的な問題の在りかではなくこの世のレベルで問題解決を図ろうとする試みだ。

私たちは体の具合が悪いとき、症状や辛さが緩和することだけを望むが、心のありようを変えようとは思いもよらない。が、本当に治癒を図るべきは、罪悪感をリアルにしてしまっている心のほうなのだ。

肉体の中庸性

肉体自体は中庸なもので「単に心が命じることを行うだけ」。したがって肉体が正しい心に仕えることができれば、神の子としてのアイデンティティーに目覚めるための道具として用いられうる。

学習者が陥りやすい間違いとして、肉体は幻想なのだからと肉体自体を否定してしまうことがある。これは過度な禁欲生活につながりやすい。

こうした傾向に対してイエスは「心をもたないものを否定することによって心を保護する必要はない」(T-2.Ⅳ.3:12)と言っている。

この世での肉体的存在を否定することは「無価値な形の否定」(T-2.Ⅳ.3:11)で、私たちを助けるものではない、と。

魔術の利用

また私たちACIM学習者が陥りやすい間違いは、肉体が幻想で病気の原因ではないのなら、この世レベルの解決策を講じて肉体を助けることも罪ではないのか、あるいは、助ける必要はないのではないかと考えてしまうことだ。

ワプニック先生が挙げておられる病気の人に対する誤った態度はこんな感じ。

「あなたが苦しくて緊急治療室に連れて行ってほしいのはわかるけど、これが真理に対する防衛だって知らないの?」

「ひどい頭痛で何にも集中できないのはわかるけど、瞑想して赦しを実践してみたら?痛みは心の中にあるんだから、頭痛薬を飲んだり医者に診てもらったりしないで。それは誤りをリアルにしてしまうよ」

私たちがこの世で肉体を助けるために用いるものは、魔術だ。ただ、魔術は排除すべきかというとそうではないという。

テキストには「時として、病が心を強力に掌握しているために、人が一時的に贖罪に接近できなくなっていることがある。この場合には、心身にとって妥協的な方法をとり、外界の何かに一時的に癒しの信念を付与することが賢明であるかもしれない」(T-2.Ⅳ.4:5)、「もしあなたが、心を使って癒すことを恐れているなら、それを試みるべきではない。(中略)このような状況下では、一時的に物理的な癒しの手段に頼るほうがあなたにとって安全である」(T-2.Ⅴ.2:2-5)とある。

魔術を使うことは構わない。罪悪感と恐れで弱った者が恐れを抱かずに受け入れられる方法をとればいい。ただ魔術は抜本的な解決策ではない、真の癒しの恩恵に近づくという目的を忘れないことが肝要だという。

ACIMを武器にして人を攻撃したくなる誘惑

イエスは「あなたと同じくらい正気を失っている同胞に優しく親切にしなさい。」と言っている。これは、ACIMで同胞を攻撃しないということだが、ACIM学習者にとっては大きな誘惑だ。学習者はこの形而上的な教えを人に対するやさしさを学ぶためではなく、時として武器として使ってしまう。それは、無意識に恐れがあり怯えているから。

怯えているのはみんな同じなのだ。この世に生まれた人で罪悪感と恐怖の論理に支配されていない人はいない(そうでなければ、そもそも生まれていない)。

一方、正しい心の状態にあって、奇跡より魔術、真の愛より特別の愛、平和より紛争を選ぶ者もいない。

魔術を用いる際の留意点

魔術を用いる際の“問題”は、それが効くということだ。これはみんなが経験済みのこと。

この世にあるほとんどのものは魔術で、使いようによって自我にも聖霊にもどちらにも仕える両刃の剣だ。

イエスは、魔術に心奪われて、魔術は私たちが穏やかに心に戻る補助的役割なのだということを忘れないように、と警告している。

この世での魔術での痛み、辛さの回復は一時的なもの。この世と肉体というシステム自体に欠陥がある。そこを忘れて魔術にはまり込んでは本末転倒になる。

痛みや辛さを転換点に道を求める

苦痛に対する許容度は、高くなることはあっても限界のないものではない。いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道があるはずだと認識し始める。この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる」(T-2.Ⅲ.3:5-7)

私たちが「もっと良い道」を本当に探そうという気になるのは辛さの閾値に達したとき。だからこそ、ACIMは人生がうまくいっているように見えている人のためのものではないという。そうではなく、世の中の魔術をあれやこれや探しやりつくし、そうして絶望に打ちひしがれお手上げ状態になって「ほかの先生は?他のシステムはないのか?」と叫ぶ。それがイエスに助けを求める声になる。

この転換点におけるカギは、人間関係を初め私たちが経験するすべてにおいて、間違っているのは、自分の心の決定であり、他の誰かや何かではないということだ。この考えは、ACIMの赦しの真髄ともいえる中心テーマだ。

 

この節は長くてかなり端折った。内容を全部消化してはまとめきれなかった気が…。

本当は「感想文」のはずだから、あらすじと自分が感じたことを書きたいところだけど、あらすじだけで終わってしまった。そうそう、病の人にACIM学習者がしちゃいそうな態度、おもしろかった。ACIMを武器に人を攻撃したくなる誘惑もわかる~。

今月は、かなり時間かけて先月の「倍」の量読んだ。自分としては頑張った。ふぅ。もちろん机上だけではなくて赦しを実践しなくては。

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