2019-08-28
苦痛、苦しみ、悲嘆、損失…は無意味である
「今日私は、神から幸福なことだけが訪れると期待して、喜びとともに目覚める。私はそうしたものだけが訪れるよう求め、自分が招いた想念がその招きに応じて訪れるということを自覚する。
そうして私は、自分の聖性を受け入れたその瞬間から、喜ばしきものだけを求めるようになるだろう。
狂気が去って、そのかわりに聖性を受け入れるなら、私にとって苦痛は何の役にも立たず、苦しみはどんな目的も達成せず、悲嘆や損失には何の効用もないからである。」(W-pⅡ.285.1:1-4)
一節をまるごと写した。
何となく昔から「苦痛や苦しみは意味がある」と刷り込まれてきた気がする。
そういうものに耐えるからこそその分また幸せが与えられるんだよ、みたいな話を聞いてきた。
そもそも日本には根幹的国民信仰「頑張る」があるし。
「頑張る」「頑張って!」は、方向を間違えたり度が過ぎると「苦痛や苦しみ」と変わらなくなる。それが愛や豊かさからじゃなくて「不安」や「足りない」が源になっているときはとくに…。
そして私は、今、考え方のプログラムを更新中だ。
ってか、もう10年前くらいからまったく頑張れなくなっているから、頑張るや頑張らないの話じゃないんだけど。それでも、「頑張れない私」に劣等感や罪悪感を持っている。
この主題概念は「苦痛は何の役にも立たず、苦しみはどんな目的も達成せず、悲嘆や損失には何の効用もない」と言ってくれる。
これは慰めになるなぁ。
夏の終わりに思うこと
帰省と色えんぴつ画展という私にとっての8月の大イベントが終わり、夏は過ぎた…と感じる。
とくに何も夏らしいことしなかったなぁ…
でも、とっても暑くて外にいくのも大変…と思ってなるたけ日中外出しないようにしていたから、ここにきて夏らしいことがなかった、と残念がるのもヘンなこと。
そうだ…。「苦痛」や「苦しみ」「悲嘆」「損失」は、二元性の世界ではそれなりに意味があるのかもしれない。その反対に「安楽」「楽しみ」「歓喜」「利益」があるのだと思えるから。
苦痛や苦しみ、悲嘆が意味をなさなくなるのはそれはエゴではなく聖霊を導き手として選んだ世界でのストーリーなんだ。
私はこの世にいながら、ただ頑張れないヘタレなだけか?!
聖霊が導く世界に行きたい。
そのためにはちゃんと聖霊の声を聞き分けて、それに従いたい。
なんかテレビのバラエティなどで、回答者に答えが聞えないよう大音量のヘッドフォンを付けされているような場面を思い出した。私、大音量のヘッドフォンで聖霊の声を聞き分ける邪魔をしているかも?
来るべき秋には心しずかに、聞くべき声を聞き分けたいなぁ。。。
時おり、ふいに「あなたはよくやっているよ」と感じることがある。
まさかね…