2019-08-19
ACIMワーク284-私は、痛みをもたらすすべての想念を変えることを選択できる。
「正しく知覚されるとき、損失は損失でなくなる。苦痛はありえない。原因のある悲嘆などまったく存在しない。どのような種類の苦痛も夢にすぎない。」(W-pⅡ.284.1:1-4)
「これは真理である。最初は、ただ口にされるだけだが、その後何度も繰り返され、次にかなりためらいながらも部分的に真実として受け入れられる。
それから徐々に真剣に考慮されるようになり、最後には真理として受け入れられる。」(W-pⅡ.284.1:5-6)
「私は、痛みをもたらすすべての想念を変えることを選択できる。
そして今日、これらの言葉を超えて進み、ためらいをすべて通り越し、言葉の奥にある真理の完全な受容にまで到達したい。」(W-pⅡ.284.1:7-8)
「痛みをもつすべての想念を変えなければならない」のではなくて、「変えることを選択できる」というのがいいなぁ、と思う。
そう、これはゆだねられた選択。エゴが見せる世界か、聖霊が導く世界か、どちらを選択するかというお題なのだ。
どっちを選択してもいい。
だけど、もし平穏でハッピーで光につながる道を選びたいなら、後者だ。
それがわかるようになるために、テキストとワークブックがある。
エゴの催眠術にかかってヘンになってしまっている知覚の修正の実践を教えているのがワークブックで、その理屈を徹底的に説明しているのがテキストだ。
私は、「かなりためらいながらも部分的に真実として受け入れ」ているようなところかなぁ?
帰省中ワークをしたのは一度だけ、母とのじかんに感謝
きのう深夜、とやまから東京の自宅に戻ってきた。
帰省するときすでにぎっくり腰&夏バテ、帰省中は早朝から活動し出す母のリズムでますますよれよれになってしまったけれど、母とゆっくりした時間を過ごせてよかった。
5泊6日の帰省中ワークをしたのは、母が「日曜美術館」を見ながら速記に夢中になっていたとき一度だけ。
去年は、実家でもワークを、とこだわるもワーク中に横やりを入れてくる母にいらついていた(2018年8月17日「実家でもエゴトラップにまんまと引っ掛かる」参照)。
今年ははなから止めた。お墓参りと、おしゃべり好きな母の話相手が目的なのだから、それでOKなのだ。
以前に比べたら、私のACIMに対する熱も減じている気がする。それもよしと思っている。
ACIMも私にとって生きる道具のひとつ。最強の道具で、かつ使うまでには時間と経験、熟練が必要という―。
前は一日中絶えることがない母のおしゃべりにもイライラしてしまっていたが、今回はそれもあまり感じなかった。
前は「またヘンなこと言って…」と発言を否定したくなったけど、今回は「お母さんはそーか」と思い、「へ~」「そ~なんだ」「いろいろだね」「そりゃしんどいよね」「でも、よかったじゃない?」と、テキトーに流していた。
母は私に意見を求めているわけじゃないので、相づちに勢いづいてさらに次のことを話す。それで満足しているのだった。
とりあえず和やかな時間が過ごせたのでOK。
私の家や母に対するエゴの想念は「罪悪感」や「執着」を初めとしてまだまだ埋蔵量がすごい…と感じた今回の帰省。
「玉ねぎの皮を剥くように」少しずつ手放していけたら…。
母がいろいろ身体の不具合はあるものの元気でいてくれたことに感謝。今年もお盆帰省できたことに感謝。