2019-08-04
聖霊とは…、私たちを真理へと導く存在だ。。
いわば幻想と真理の橋渡し役。
私たちの一部でありながら分離という私たちの見方によって独立した存在のように感じる存在だ。
聖霊は、私たちが忘れてしまった神を、ただ神ありと知る。神の恩寵をそのまま受ける。
聖霊は、自我がでっちあげた夢の終わりへと私たちを導く。
聖霊を導き手とする学びは、それをさらに越えて永遠の真理へと向かう。
夢が終わるとどうなるか。
恐れと罪の意識を帯びているものから、恐れと罪が取り除かれ、すべては本来の愛を帯びたものへと変わる。
神は神のままである。
そこには罪がありようない。
なのに神の延長である私たちは、自分の中に罪があると信じ込み、それが怖ろしく罪深いがために同胞に罪を被せ、同胞を糾弾するばかりだ。
いま自分の意識だけでそこから抜け出すことは、もはや望み薄だ。
ただ導き手は在る。聖霊はとりなし方を知っている。
聖霊の導きに心を澄まし、私たちがでっちあげたその方法を逆さまにして、堅固にしてしまった幻想から力を取り除き、ただの幻に戻すのだ。
罪も恐れも必要ない。
本来ないものだ。
見えているとすれば、勘違い=幻想であり、見えた…と思ったその時が誤解に気づける時だ。
神はただ愛であり、愛が時もなく延長されている。
だから、身をゆだねるだけでいい。
夢から覚めると決めれば、そこにはただ愛から愛への呼びかけがある。
今ここに在ると堅く思っている私たちがなすことは、夢をさらに拗らせることではなく、心を澄まし聖霊から差し出されている糸を手繰るだけた。