ACIMワーク280-私が神の子に制限を課すことなどできるだろうか。

2019-08-02

ACIMワーク280-私が神の子に制限を課すことなどできるだろうか。

神により無限のものとして創造されたものは、自由である。私が神の子に幽閉状態を作り出せても、それはただ幻想の中だけのことであり、真理においてではない。」(W-pⅡ.280.1:1-2)

神ご自身が神の子を無限とし、自由においても愛においても神ご自身と同じものとなることを意志しているというのに、私が神の子に制限を課すことなどできるだろうか。」(W-pⅡ.280.1:6)

今日、私があなたの子を讃えることができますように。あなたの子を讃えることによってのみ、私はあなたへの道を見出すからです。

父よ、あなたに愛され、あなたに無限のものとして創造されたあなたの子に、私はどんな制限を課すこともしません。」(W-pⅡ.280.2:1-2)

「自己表現」という言葉のうさんくささ

最近、あ~、私の今ここからのお題は「自己表現」なのだな~と、“この世ゲーム”攻略の重要なカギを手にしたかのように思っていたけど、ふと思うに「自己表現」って言葉ちょっと気持ち悪いねぇ。。。

なんでわざわざ「自己」ってついている(つけてる)んだろう。

そして「表現」がテーマってことは今表現されていない=不自由ってことだよねぇ。

「自己表現」うんぬん…には、アイデンティティへのこだわりが隠れているのかな?

そこには「あなたは何者?」と聞いてもらい、それに強烈に答えたがっているエゴがいるような気がするねぇ。。

それが悪いとかいいとかいうことじゃないけれど。

私、いまここに生きてるの!見て!

という強い思いがあるのかもしれない。

他者の存在あってこその自己表現

だいたいこの世で自己表現するには、他者が必要だ。

いくら自己満足って言ってもね…

このブログだって、「世界はない」って大それた真実を一人で抱えきれなくて「王様の耳はロバの耳~」と森で叫ぶがごとくインターネットという暗闇に穴を掘って葬っているような感覚だったけど、初めてコメントいただいた時、え?見てくれているの!?と歓喜、共感してくれるひとがいることがすごくうれしかった。

実際には、幻想だっていってる世界に自分の旗を立てたかったんだねぇ。

しかし「奇跡講座ダイアリー」というのも不遜なタイトルだ。。。

せめて「タマソニアの奇跡講座ダイアリー」にすべきだねぇ。長すぎるか。

ひきこもって自分が傷つかないポジションを確保しつつ、負け犬の遠吠えみたく、闇に旗立ててるみたいだぁ~

その旗はお気に入りのマゼンタ色…。はぁ。

ひとりが楽…ていうのは、やっぱりひとが恐いからだね。

傷つくのが恐いから「世界は幻想だ」なんて嘯いて、大事じゃないものみたいに言って、頭でっかちを加速させているんだ…

そのでっかちになったアタマは加齢で縮んで極小になっている気がするけど!

「幻想だと知った世界との絡み方がわからない」のは本音だけど、わからないって言ったって、毎日ご飯は食べられている。幻想だからご飯をどう食べていいかわからない、とは言わない。。

まあ、ご自由にやってみて。

だよね~

大事なのは…

…とここまで書いて、私にとって大事なのは、やっぱりこの世の今ここにいる同胞(=出会ったひとたち)だって思った。

そうじゃないと何も見ることができないから。

ユングはあるとき「無意識とは何ですか」と聞かれ、「私にとってのあなたです。」というような答えをしたとか(うろ覚え、文献確認できず。勘違いだったらすみません)。

それは文字通りの意味だったんだな、と今思う。

出会ってくれた方、これから出会ってくれる方…感謝しかない…のだ。あくまでも自己チューな見方だけど。

今ここの見方しかできないからよしとする。

で…。このブログだって見ている方がいるから存在している、と言えるんだな~とぐるっと回ってきて、そこに至った。。。ありがたい。

 

ブログを見つけてくださって、ありがとう。

読んでくださって、、ありがとう。

おかげさまで在るのだな~

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