2019-06-04
5月半ばにやっていたワーク。
ワークの中でとくに自分に響くものがあるが、私の場合はこれもその一つだ。
「私は本当に世界を誤解してきた。なぜなら、私は自分の罪を世界に押しつけたうえで、その罪が私を見つめ返すのを見ていたからである。」(W-pⅡ.265.1:1)
そのとおり…。
「私は恐れていたものが自分の心の中だけにあると思わず、世界の中にあると思っていたが、何という思い違いをしていたことだろう。」(W-pⅡ.265.1:3)
ほんとうに。
私は、子どもの頃からとりあえずは世の中や社会というものに合わせなきゃと表面を作ってきたけれど、それは“攻撃”を恐れていたため。いつも防衛的だった。(40歳を過ぎたあたりからはエネルギー尽きて、社会的な顔も作れなくなってしまった)
しかし、その恐れていた対象が実は、己の心の中だけにあるものだったとは…!
なんという誤解。
こういうのをコペルニクス的転回というんだろうな。
なんということだ、
恐がる必要はなかったとは!
それでも正しい認識ができるのは、客観的に他の人や自分の過去の例を見ているときだけ。
今もビビりだし、のら猫が警戒して毛を逆立てるように、気づくと身体に力が入って固まっている。
「今日、私は、被造物が放つ優しい天井の光に包まれた世界を見る。その中に恐れはない。」(W-pⅡ.265.1:4,5)
自分が見る世界をこういうふうにしたい。
本来はこっちがほんとうなんだから。
「世界の上に輝く天国の光が、私の罪のように見えるもので陰らないようにしよう。」(W-pⅡ.265.1:6)
私にはここが大事、と思う。
私の「罪のように見えるもの」で陰らせない。
罪は、そのように見えるものに過ぎない。
私は 無辜 だ。
私たちは無辜だ。
いま、この言葉を文字どおり、感じよう。