ACIMワーク262-今日、私がどんな違いも知覚しませんように。

2019-05-23

未だ個性信仰から抜け出せず

これまで受けてきた“教育”では、「個性」というものを大事にして活かすべきだと教えられてきた。

一人ひとりは様々な点で違っていて、違った個性をいかに活かして社会で自己実現していくかー。

それが生きることだと思っていたからACIMで一なる神の子があるだけだと教えてもらった今も、「どんな違いも知覚しませんように」という文言に少し抵抗を感じてしまう。身につけた「個性信仰」から抜け出せていないみたいだ。

手の線から個性を見ていた過去の私

私は人とのコミュニケーションは不得手なほうだけど、人の個性というのが大好きで、そういう意味では人間好きだった。

10年前手相学校で手相を勉強し、生命線、知能線、感情線、運命線、神秘十字線…いろんな線がいろんな太さや、長さ、かたちがあって、それぞれ個性を表すというのがおもしろいと思った。手のひら

実際に手相のしごとの現場では、お客さまはだいたい10分くらいすると「実は…」とご自分の秘めた思いを話された。

それは、仕事、恋愛、親子のこと、人間関係、結婚、不倫、離婚、健康…、ほんとうにいろんな話があった。

なんで初対面の私にそんな濃い話を…と思うけれど、初対面で完璧に秘密が守られるからいろんな心の荷を解かれたのだ。

私は、人生っていろいろだな~、ほんといろんな人がいていろんな生き方があるな~と感じ入っていた。

それが水面下でこの世を動かしているのは、たったひとつの要因だったなんてー!それがさまざまに形を変えて見えていただけだなんてー。

私たちはともに源である神の一部でひとつに結ばれている

肉体は個という幻想に真実味を与え、自己が他者より重要で特別だという感覚を強化する。

ACIMでそう教わってから、手の線の違いをうんぬんかんぬん判断(鑑定)するのは、それをリアルにするもので良くないと遠ざけていたけれど、数日前久しぶりに昔のテキストを見たら、懐かしく面白かった。かなり忘れてしまっているのにもびっくりした。

幻想のゲームを遊ぶつもりでなら、手相だって封印しなくていいのかもしれない。

それともあえて、そういうものには近づかないほうが賢明なのか。

ひとつであり続けるものの中に、なぜたくさんの形態を知覚する必要があるでしょう。」(W-pⅡ.262.1:4)

私が彼を、彼の父にとっても私自身にとっても、見知らぬ者であるかのように眺めることがありませんように。」(W-pⅡ.262.1:7)

彼は私の一部であり、私は彼の一部であり、私たちはともに源であるあなたの一部だからです。」(W-pⅡ.262.1:8)

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